私の朝は、遅い。母親譲りの低血圧と、父親譲りの夜更かし好きという悪条件が重なって、とにかく朝は苦手だった。
 それに、毎日変わり映えのない退屈な日々を送っていた身には、昨日一日で、何年分にも匹敵する大イベントがいくつも起きた。興奮して目は冴え渡り、やっと眠りについたのは空が白み始める頃だったのだ。次に目が覚めたとき、時刻は正午をとっくに過ぎていても、それは仕方がないというものである。
 そう、自分の中で割り切って、今日の予定を考えることにした。
「まずはカレッジに報告に行くべき、よね。昨日あんな形で出て行ったのだから、教授たちも気にしているだろうし」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、シャツに袖を通す。カレッジに行こうが行くまいが関係なく、私が身に付けているのは常に制服だった。これさえ着ておけば、どこに行っても誰からもお咎めを受けることはない。それだけ、統一試験をパスした者、ブレインたちは優遇されている。
「あまり目立つのも嫌だから、三限の授業中に終わらせてしまおう。その後は、また昨日の部屋ね」
 着替えを済ませ、長く伸びた髪を二つに分けて左右で括り、白衣を羽織って部屋を出る。
 どうか誰にも会いませんように。
 そう祈りながら、カレッジへと繋がる移動通路に乗った。
 時刻は午後二時を過ぎたところで、こんな時間に登下校する生徒は見当たらない。裏口から入ると、そのまま講義のない教授たちが過ごす部屋へと進む。
「失礼します」
 自動扉は特有の音を立てて開くため、私がいくら小さな声で挨拶をしようが、中の教授たちには来訪者が来たことが知られてしまう。私を見た八学年の主任教授が、慌ててこちらに駆け寄った。
「ミス・ハヤセ! 昨日はあの後どうなったのか、皆で心配していたところだったんだよ」
 中を見回してみると、半分ほどの教授が私の方を見ていて、残りの半分は素知らぬ顔をして机に向かっていた。
「ご心配をお掛けしました。ドクター・ジルと両親で、先に話し合っていたらしく。私はこのまま第九居住区に留まり、彼の研究所の配属になります」
 私が事の顛末を説明すると、主任教授の顔が少し引き攣ったように見えた。
「ドクター・ハヤセ夫妻と、彼が……」
「どうかしましたか?」
 何かを考えるかのように、彼は難しい顔で呟く。主任教授と私の両親の交流は、ほとんどないと記憶している。彼の専門は医学。特に高度生殖補助医療について、教職の傍ら研究を進めているブレインである。植物学の研究所に勤める両親とは、何の関わりもない。
「あ、いや、何でもないよ。君もご両親も納得しているのならば、我々は何も言えないからね」
「そう、ですか……」
 改めて部屋の中をぐるりと見渡すと、もう誰も、私たちの方を見てはいなかった。
「では、私はこれで。卒業式には出席するつもりなので、よろしくお願いします」
 まだ卒業式は数ヶ月先だが、私はもうここに来る必要はない。それ以前に、卒業式の頃にはもう既に、この地球には誰もいないかもしれない。
 一応、挨拶としてそう言い残し、私はカレッジを後にした。


 この世界の主食は、健康に生きていく上で必要な栄養素が全てバランス良く詰まった、ブロック型のビスケットだった。私はこれが幼い頃からあまり好きではなく、食べるという行為そのものを好まなくなってしまっていた。
 西暦時代の物語の中には、あらゆる食べ物がたくさん出てくるが、それほど興味を惹かれるものもない。今日まではそう思っていた。
「マユ。紹介しよう。九区にいる数少ない僕直属の研究員、ハオとシェンだよ。二人は双子の兄妹なんだ」
 カレッジで報告を済ませた後、私は植物学の研究所だった場所へと向かう。現在はジルをトップとしたノアという組織が、おそらくは秘密裏に使用している建物だ。
 昨日案内してもらったとっておきの部屋に入ると、デスクにはジルがいて、温かく出迎えてくれる。そしてちょうど時刻は午後三時を回ったところだったため、お茶の時間にしようと提案されたのだった。
「うわぁ! これは確か、アフタヌーンティーというもの、よね?」
 頭に詰まった知識の中から、目の前の光景と一致するものを引っ張り出す。三段になったケーキスタンド、色とりどりのジャムに、紅茶のポット。これは昔、イギリスの貴族の間で流行した間食のスタイルだ。
「本来の形式ですと、下段はサンドイッチなどの軽い食事。中段は温料理で、上段がスイーツなのですが。今日はおやつどきということで、全てスイーツを準備させていただきました」
 シェンと呼ばれた女性が丁寧に説明してくれる。黒髪で、私より少し年上、二十代半ばぐらいに見える彼女の隣には、ハオと呼ばれた同じぐらいの年齢の男性がいる。
「兄のハオが調理器具や食料の研究を、妹のシェンが調理方法を研究しているんだ。この世界の食事はあまりにも酷すぎるからね」
 食べること自体好まなくなってしまった私でも、目の前のケーキスタンドから漂う香ばしくて甘い香りに食欲が湧いてくる。
「ハオ、シェン。彼女が、昨日からノアのメンバーとなった、マユだよ」
「マユです。マユ・ハヤセ。まだカレッジの八学年だけど、単位も卒業論文も終わっているから、ここに顔を出すことも多いと思います」
 改めて私が簡単な自己紹介をすると、ハオと呼ばれた兄の方が目を丸くして問いかけてくる。
「ハヤセ、ということは?」
「ああ、ミナトとハルナの娘だよ。一目見ただけでこれをアフタヌーンティーだと即座に答えられるような子だ。まさに、あの二人の子だろう?」
 ジルの言葉に、ハオもシェンも深く頷く。二人とも、両親を知っているらしい。
「私たちは第八居住区出身で、中華系の血を引いております。同じ東アジア圏ですと、見た目では日系と区別がつきませんよね」
「ミナト・ハヤセとハルナ・ハヤセ。彼らは八区でもよく知られている、とても優秀な人材だ。そしてミナトからは、会うたびに娘の自慢話を聞かされていた」
 父は、そういう人だった。一人娘の私に多くのことを教えてくれた、私の良き理解者であると同時に、そんな私が大好きで、誇りで。一言で言えば、親バカである。
「故に、さぞ優秀なのだろうと、会える日を期待していたのだが」
 優しく丁寧な口調のシェンとは真逆で、ハオの口調は冷たさを感じる。トーヤの高慢な雰囲気とはまた違った、こちらの緊張を煽るような話し方だ。
「マユ。これは何だ?」
「ケーキスタンド、ですよね? 乗っているのは、下段がスコーンと、多分クランペット。中段は、パウンドケーキとタルト、かな? 上段は、マカロンとクッキー……この茶色いのはショコラ? もちろん全て実際に見るのは初めてだから、この程度しかわからないわ」
 食にそもそも魅力を感じない私にとって、それはとても難しい質問だった。しかし、ハオは私の答えに驚くほど感心したようで、
「俺は、ケーキスタンドという単語が出てくるだけでも、ミナトの自慢は嘘ではないと思えたのだが。まさかそれぞれの菓子の名まで出てくるとは。……ジル。これは大物を捕まえたな」
「いやー、僕もびっくりしたね。一体あの二人はどんな教育をしたんだろうか。彼女、カレッジの八学年と言っても飛び級しているから、まだ年は十七なんだよ?」
 ジルの補足に、ハオとシェンの二人は更に感嘆していた。良かった。どうやら私の知識は、ジルだけではなく他のメンバーにも認められるものだったらしい。
「試すような真似をして悪かった、マユ。我々も改めて、君を歓迎したいと思う。さぁ、妹の作った菓子はこの世界の何よりも美味いから、是非食してくれ」
「ふふ。そうですね、お茶が冷めないうちに頂きましょう。トーヤさんに紅茶の入れ方を教えたのも、私なんですよ」
 筆頭のジルではなく、彼らに促されるようにして、お茶会は始まった。
 紅茶を一口飲んだだけで、昨日のものとは全くの別物だとわかる。菓子と共に味わうために、香りは良いが後味がさっぱりとしていた。トーヤが入れてくれたものは、後味に苦味が残っていた気がする。
「マユは、お菓子を食べた経験なんて、ないよね?」
「栄養ブロックとゼリー以外、口にした記憶はないわね。だから実は、食べることは苦手なの」
 そう答える私を、心底哀れなものを見るかのような二人の視線が痛かった。
「あの栄養ブロックがあまり好みでないのなら、上段の方にあるものを召し上がってみてはいかがかしら。下段のスコーンなどは含水率が低く、ブロックと食感が似ているところもありますから」
 シェンに促され、一番最初から気になっていた、丸くて鮮やかな桃色のマカロンを手に取った。一口齧ると、口の中に華やかな薔薇の香りが広がる。外側はサクサクとしているが、中はフワフワの食感で、真ん中に挟まっているのは甘い薔薇のジャムだった。あっという間に口の中で溶けて無くなってしまう。
「何これ……美味しい……」
「薔薇の香りが素晴らしいでしょう? 紅茶と交互に頂くと、両方の香りが一層際立ちますわ」
 口の中の余韻が残っているうちに、慌てて紅茶を一口啜る。甘みと苦味が絡み合って、最後はすっきりと口の中がリセットされた。
 こんなに美味しいものがこの世界にあったなんて。知識では知っていても、味は経験しないとわからないものだ。食べることが苦手と言っておきながら、私はまた一口頬張った。
「菓子には様々な花や果実が使われている。これらは皆、ハルナから分けて貰ったものだ。この世界からは既に絶滅している植物を再現し、培養して育てる。彼女の技術は本当に素晴らしい」
 この薔薇は、母が育てたものだったのか。タルトに乗っている果物も、どのようにして調達したのかと考えていたが、彼らが両親と繋がっているならば答えは簡単だ。
「ママが咲かせた花は、綺麗で良い香りがする、っていう認識しかなかったけど。まさかこうして調理され、美味しく食べられる日が来るなんて」
 嬉しくて、美味しくて、手が止まらない。ハオもシェンも、これはどうだ、次はこちらを、と、どんどん勧めてくるものだから、私はそこにあった菓子をほぼ全種類平らげることになる。
「残念なことに、お菓子は美味しいんだけど、栄養価がとんでもなく偏っているんだよねぇ」
 満腹になったお腹をさすりながら、もう明日の夜ぐらいまでは何も食べなくていいや、と思っていたところに、ジルが容赦ない言葉を投げた。彼は一つも手を付けず、私が夢中になって食べているのを見ていただけだ。
「そんな意地の悪いことを言わずとも。彼女はまだ若くて痩せ型ですから、今日一日ぐらいは構わないでしょう」
「しかし、本当に今日だけだな。いくら若くとも、菓子のみ摂取していれば、身体に不調が出るのは時間の問題だ。明日からはいつもの味気ないアレを食すしかない。この星にいる限りは」
 やっと、食べるという行為に楽しみを見出せそうになったのだが、そう上手くはいかないらしい。そもそもこの材料自体、この世界の中から調達するのは用意ではないだろうから、仕方のないことだ。
「今日は君の歓迎会、といったところかな。九区にいる僕直属の研究員は、本当に少なくてね。そして皆が各々忙しくしているから、なかなか一同に顔合わせということができそうにない」
「それは仕方がないことよ。今日こんなに豪華なティーセットを用意してもらえただけで、感動したわ」
 昨日はトーヤのバイオリン、今日はハオとシェンのアフタヌーンティー。
 この世界で失われてしまい、知識でしか知ることのできなかった物を、直接感じることができた。本当に貴重な体験ができていることに、感謝しなければならない。
「私たちも、材料の調達などで、ほとんどここに居ることはないと思うの。今日、偶然会うことができてよかったわ」
「本当に、君のような膨大な知識の持ち主と出会えて感動している。これからも宜しく頼む」
 昨日はこの建物に、トーヤしかいなかった。本当に今日彼らに会えたのは、ラッキーだったらしい。
「今日は本当にありがとう。また、美味しいマカロンが食べられる日を楽しみにしているわ」
 自分の持っている知識を。皆に無駄だと、馬鹿らしいと言われてきた知識を、何人もの人に認められてゆくのが嬉しい。
 私も、この研究所の、ノアのメンバーなのだと改めて実感して、その日の夜も、なかなか寝付けなかった。