朝一番の新幹線で東京を出て、眠気が完全に解けぬまま、名古屋で在来線の特急に乗り換えた。紀州の山間を抜け、紀伊長島に近づいている。もうすぐ海が見える。

 同志は、僕の隣の窓側の席で、これから訪れる「人生最期の楽しみ方」に備え、気持ちの赴くままに眠りについていた。その寝顔は何の憂いもない無邪気な幼子のようにも見えた。ただ、どこか哀し気な雰囲気を漂わせていたのも事実だ。

 同志は、多くを語らない人だった。
 初めて言葉を交わしてから何度季節の移り変わりを経験したのだろう・・・人への接し方、価値観。全てにおいて、一年365日、24時間、毎分毎秒、何一つ変わりない。精密機械のごとく日常を過ごしているような人だった。
 同志との意思疎通には言葉は必要ない。昔の日本人の古き良き男の姿ように「示せ。語るな」の精神を心身の奥深くまで染み渡らせていた。以前、彼女は一度だけ、「多分、父親の遺伝子を受け継いでる。職業軍人だったから・・・」とポツリと語ったことがあった。

 同志とは同じ勤務先で研修や社員旅行等で遭遇し、顔だけは知っていた。同じプロジェクトの担当で一緒になった折、飲みに誘われた。会話を交わしたのはほぼ初めての私に対し、唐突に、「女を避けてるよね。女と仲良くなりたいのに!」と真っ直ぐ僕の瞳を見つめ、微動だにせず、視線を逸らさせようとはしない、心の深淵から放出される、人を納得させる魂が彼女にはあった。
 仕事の会話をしながら、「この人何者? どういう人生をこれまで歩んで来たんだろう」という思いが、ごく自然に湧き上がっていた。

 紀伊長嶋の駅を過ぎるとトンネルを抜けるたびに、海岸線を走る列車は、左手に太平洋の大海原を仰ぎみながら、乗客の人生に色合いを与える。
 窓外の海景色を挟み、僕は、同志の安らいだ寝顔を見つめた。先刻の無邪気な幼子のような表情とは様変わりし、瞑想している高名な僧侶のように、真剣に深刻な、瞼と口元が見て取れた。
 同志は到着がまもなくであると自覚している、僕はそう悟った。

「人生の終着駅への停車場が・・・」

 同志が目覚めた。すぐに車窓には海岸線が展開していると認識し、僕を見て、ただ黙って笑みを湛えた。
 車内販売で購入した、ホットコーヒーを彼女に差し出した。

 「ありがとう」

 その一言だけで充分だ。僕は、コーヒーを手渡す時、彼女の指に触れる際、意識と熱を込めた。これがいつもの二人の意思伝達のキャッチボールだ。
 同志は、右手で受け取ったコーヒーを左手に持ち替え、右の手で、グーの形を作り、僕にグータッチを要求した。僕は、いつも通り、かまし一発目は、頭突きを喰らわすかのように、頭頂部を差し出し、軽くコツンと、同志のグーの手に触れた。

 いつもなら、ここで、平手で僕の頭を叩くのだが、今日は知り合って初めて、少し間を置き、彼女の小さな手で、僕の頭髪を、言葉を発することなく、ただ何度も、櫛を入れて丹念に優しく梳かすかのように、微かに触れる位の手触りで僕の髪を撫でてくれた。
 彼女がその掌で僕の頭髪を撫でてくれたのは、最初で最後だった・・・。

 互いに見つめ合い、彼女は頬少し膨らませ、「いよいよだね」と言うと、小さく息を吐き、コーヒーを口に含んだ。窓外では天気雨が降り注ぎ、窓枠から滴る水滴が、窓ガラスの表面を斜めに摺り降りていた。

 紀伊勝浦で電車を降りた。この地に降り立ったのは、彼女のたっての希望だ。僕はもう四回目になる。彼女は入院していた時、見舞いにきた僕に病室で静かに、「一番札所に連れてって」と絞り出すように呟いた。
 
 「西国三十三ヶ所一番札所/那智山青岸渡寺」

 そこが彼女が指定した、人生最期の終着駅。
 その場所は、口下手な僕が何度となく、彼女との会話で唯一、流暢に彼女に説明でき、案内できる場所であり、初めて彼女に誘われて飲みに行った時も、僕の発する声の力が篭もり、彼女が大きく頷き相槌を打ってくれた、会話のテーマとして忘れる事のない特別な場所だった。

 ただ、その場所を訪問する事を彼女が希望した時、僕は、まず、参拝口から本堂まで延々と続く参道の階段を思い浮かべた。
 「彼女は登りきることが出来るだろうか? 本堂に辿り着けないのでは?」

 その時すでに、もう、片方の脚が不自由だった。
 彼女は私の表情から私の感情を瞬時に読み取り、先を越して、この難問を解決に導いた。

 「途中に爽快なラムネが軒先に冷やされてるお店で一休み、それから、土産物に併設された定食屋さんで夏限定の美味しい特製冷やし中華を食べてお昼休み。それからゆっくり登り辿り着いた見晴台で振り向けば、左手に那智の滝、眼下には棚田が拡がり、右奥には熊野灘・・・」

 僕はその瞬間涙ぐんだ・・・

 「一日がかりで山門から本堂まで旅すれば、出来る。八十歳のお婆さんでも参拝の夢は叶う。三十三ヶ所の旅は、ここから始まる・・・でしょ?」

 僕が常日頃から自慢げに話していた青岸渡寺の参拝コースの説明を一字一句諳んじながら、それを引用し、彼女の今の境遇に即した意味合いで、彼女は話を作り上げた。何一つ心配する要素もなく、ただ聞き手は同調の頷きの首振りを縦に一回、下ろすだけ。僕は彼女に寄り添う役を仰せつかった事に、神妙な気持ちと感謝を感じずにはいられなかった。

 僕は女性と付き合った事がない。女性とはこれまで無縁だ。同志を除いては。
 同志と関わりを持つようになり、ささやかに生き抜くことの道標を探り当てられるようになった。
 同志は九歳年上の女性だ。既婚者でご主人はどこかの大学の教授だ。会ったことが一度だけある。温和で穏やかな方だ。間違いなくそうだ。印象などではない。同志と同じで、人として魂が大地に根付いている。感じたことがない夫婦像だった。  
 でもこれが本物なのかもしれない。第一印象で僕の心の中にスルスルと入ってきて、溶け込んできた。圧倒される前に溶かされた。世の中色んな人がいる。

 「新しいお友達の方ですか。家内を宜しく」

 ご主人の第一声だ。最初で最後に聞いた声だった。表情は全く記憶に形をとどめていないが、声だけは耳奥に定住し続けている。
 今では、同志とご主人はやはり一心同体の方達だったと思う。唯一生き続けている僕の心の奥底に居続け、僕は自らの思考の中で、お二人が遭遇しては距離を置く時間を自然に作り出していることに寄り添い、日々過ごしている。
  
 同志と行動を共にするきっかけは、「私と暫く遊ぼう……」だった。
 「硬さを解き解したい。二十代最後を迎えた時、その後の人生息が続かないよ、キミ」
 それが最初にまともに投げ掛けられた言葉だった。

 「女を避けてるよね。女と仲良くなりたいのに」

 いつもだったら、相手を無視して立ち去るのが常だった。だが同志にはすべて見透かされている気がした。
 「女に申し訳ないと思ってる」

  僕は息を呑んだ。

 「女に慄いてる」

 白い歯を見せながらそう呟いた。そう呟きながら鋭い眼光に射抜かれた私は、身動ぎ出来なかった。寸分の狂いもなく的を得ていたからだ。
 彼女に見据えられている目前で、小学低学年時に起きたと思われる封印していた出来事が走馬灯のように蘇っていた。肩の力は抜けていなかった。でも心の枷はとぎほぐされたんだと思う。初めて声を掛けられた他人の目の前で汗ではない滴が、滴り続けた。身長148センチの彼女が僕を引き寄せ、幼子を愛すように背中を摩ってくれた。

 きっとこの人には打ち明けるだろうと直感した。

 彼女からは、何一つ打ち明けられていない。
 でも残り僅かな灯の行く末を過ごし始めている中で、魂が寄り添い導かれた。

 「そろそろ一度、実家に帰りなよ。私は、人生の最後までやりたいように生きるからさ!」

 その言葉を聞いて、僕は同行を決意した。その後、同志と共に時間を共有することはない、という事も自覚して・・・

 紀伊勝浦駅についてすぐ、彼女はトイレに行くと言って姿を消した。
 耐え難い長い沈黙の時間を迎えた。
 具合が悪くなり出してから僕の過ぎる弱い優しさが彼女を苦しめているかいつも不安だった。
 その都度、彼女と再会を果たす度にわだかまりを消化できない自分がいた。
 彼女の眼を窺うと全てを感じとっている表情に支配されているのがアリアリと分かった。
 でも、彼女は何も言わなかった。

 同志と行動を共にしてきて、本来言葉を発するのが簡易な時に、言葉を発したことは皆無だ。
 コミュニケーションを封印することで意思を伝える方法があることを心と体に浸み込ませる。
 それが、彼女が僕に投げかけ続けた事だ。
 そう僕は解釈している。

 那智山青岸渡寺行きのバスは行った。
 次のバスを待つことになった。
 雨が降ってきた。
 彼女は戻り、待合所のベンチに腰掛けた。

 「暫く此処で、こうして居たい」

 彼女の醸し出す雰囲気が僕に囁いていた。もう手慣れたものだ。
 周囲の人が行き交う中で、僕たちの心は会話を少し楽しんでいた。
 そういう時は、いつも僕にとって心地よい時間だ。
 雨足が増し、雷鳴が轟始めた。
 彼女はゆっくり目を瞑った。

 僕は前回の札所巡りの完遂した御朱印帳を捲っていた。

 同志を恋愛の範疇として括れるか?
 そう何度も自問した。
 彼女は、ただ笑っていた。

 「誰かに理解されたいの?」

 その時は言葉を発した。
 彼女が言葉を発する時、世間の照準に向き合うことを受け入れる。
 ただそれは一時的な時間だ。性的関係もロマンチックな出来事も同志には別次元の祭事だ。
 同志とは心の奥底でいつも結合していた。
 家族や親族とも心がピタリと重なりあったことは無い。

 同志に初めて声を掛けられ、『昔から神社やお寺が好きなんです』と伝えた。
 『今度行く時、ついて行ってもいい?』と真顔で言われた。笑顔はなかった。
 一瞬、躊躇われたが、心が受け入れた。多分、安心して未来が見えていたから。

 青岸渡寺行きのバスが来た。
 同志は立ち上がる際、少しよろけた。バスに乗る際、僕は手を差し伸べた。
 同志は荷物を僕に渡し、手ぶらでバスに乗り込んだ。自分の体には僕の手を触れさせなかった。
 すぐに同志の意志を悟った。

 那智山青岸渡寺は、標高966mの那智山の山腹500mの所に位置する。
 西国三十三ヶ所の中で最も高い位置にある寺だ。約500段の石段が続き、石段の両脇に土産物店が並ぶ参道を上っていく。
 長さ約100mの石段が途切れることなく続き、一気に駆け上がるには強靭な足腰と相当な持久力が要求される。
 大抵の人間は息が切れる。

「同志は上りきることが出来るのか?」
同志が今回は同行すると意思を述べた時、「ああ、今回が最初で最後だな。これで終わるんだな」と思った。

 一瞬一瞬の時を刻む事。
 一日一日、一分一秒を大切に。
 人は歳を一つ重ねるごとに、こんな単純で当たり前に出来そうなことを一つ一つ、心の外に置き去りにしていく。

 同志と共に、参道を上り始めた。
 僕は同志を置き去りにする寸前の、適度な間隔を保った。そう悟られないように・・・

 これまで同志と精神的拠り所を共有し過ごした期間、同志は西国三十三ヶ所や四国八十八ヶ所を巡礼する旅を私が知らせるたびに自然と同行した。
 ただ、一緒に参拝した訳でもない。当然、同志は納経帳すら持っていないので『御朱印』を一つも手にしていなかった。今回の『青岸渡寺』を訪問するまでは・・・
 同志は病の状況にあった。
 ただ、本来我慢強い人であるし、人前で弱音を吐かない女性だ。
 周囲は殆ど、同志が病の身にあるとは気づいていなかった。

 初めて同志が私に同行したのは、四国八十八ヶ所の札所巡りを初めて完遂し、二度目の巡礼を私が決意した時だ。

 四国八十八ヶ所は、徳島から始まる。

 1県当たり、4分の1にあたる二十二ヶ所を訪問しなければならない。
 目標を3日間で十か所と定め、徳島に2泊宿を取った。

 同志は、「徳島といえば、『阿波踊り』。阿波踊りを吸収して東京に帰る! だから付いていく。数日でも一緒に居る事で、キミの心を私はいくらか解き解せると思う・・・」
 
 「寺を一つまわり、御朱印を一つ賜るごとに」
 
 と、僕に言い含めるように言葉を投げ掛けた。
 
 同志が言った最後のフレーズが気に入った。

 同志は滞在中、徳島市内を一望できる『眉山』という山の麓のロープウェイ乗り場がある複合ビル『阿波踊り会館』で、『阿波踊りの歴史』を学び、地元の生の『阿波踊り』公演を見学し、飛び入り参加で、『阿波踊り』を習得したと自負していた。
 (本人から聞いた話なので事実かは定かではないけれど)

 百段ほど登った時点で同志の気配が遠のいた。

 真夏の季節に空に近付く様に伸びる延々と続く石段を登っていくのはなかなかキツい。
 海と山に囲まれたこの付近一帯は天候が変わりやすい。先刻雷が鳴っていたが、我々が石段を登り始めると同時に真夏の強い陽射しが顔を出し、肌に直接照りつけさらに体力を奪う。
 小柄だが少し丸みを帯びた体型の同志は、先刻に降り注いだ雨量に勝るとも劣らぬ程に汗を滴れせていたが、ただ黙々と一段一段、石段を自分の足で確かめるように踏みしめながら進んだいた。
 
 僕は、軒先で桶に入れた水の中に浮かぶ色とりどりの瓶を見つめていた。
 同志の視線を感じた。
 同志が真っ直ぐに僕めがけて投げ込んでくる視線に、その場で微動だにすることが出来ず、僕の思考と時の流れは一時的に停止した。
 
 その場で、同志を待った。

 待っている間、同志の体を後ろから押してくれるかのような重たく強い風が戦いで、水の中に浮かぶ瓶が水中で揺れ出し、「カラン、コロン」と音を響かせた。

 同志が私の真横に辿り着いていた。
 同志は、ゆっくりと左右に首を振りながら、無言で僕を追い抜いた。

 参道の途中で喉の渇きと発汗の補填をするのに頃合いのよい場所に居を構える店の前で、ラムネを飲み干した時の爽快さを想像しながら、僕は同志の後に続いた。

 同志の後ろ姿を見つめながら、僕は自分の生い立ちを振り返った。

 同志が指摘したように、女性を抱きたいと心の奥で渇望しながら、実体の女性との距離感が測れず、毎回の如く、女性を拒絶していた。
 それはひとえに、幼少期の体験からくるコンプレックス。いや厳密に言うと、女性と相対した時に胸奥に込み上げてくる自分自身に対する嫌悪感。そう表現するのが正解だと、普段は紐を解いて開くことのない心と頭の奥深くに潜む潜在意識が答えを認識に変えた・・・同志が僕の前に現れてから・・・

 気が付くと僕は亀を置いてきぼりにする兎のように同志を追い越していた。
 同志の顔を覗くと、いつも定番のごとく、苦笑しながら首を左右に振っていた。
 同志が目で参道の先を見据え、鼻先で指し示すように合図した。

 僕は参道の階段を一段飛ばしで軽快に駆け上がった。
 そして、同志が指し示した場所に辿り着くと、僕は後ろを振り返った。

 同志は休息を取っていた。
 腰に手を当てて、立ったままで・・・唇を少し噛み締めながら・・・

 僕は、脇にある土産物店の品物に目を留めた。目は品物に向けられていたが何を見ていたか記憶にない。
 心が同志を見ていたからだ。

 同志に意識を集中しながら、同志に見えないように店の奥に入った。

 西国三十三ヶ所や四国八十八ヶ所を巡行する際に、『同行二人』という言い伝えの言葉がある。
 店の奥でタイミングを計った。
 同志と離れていた距離、登る為に要する階段の段数、同志の体力と奮い立たせているメンタルの強度。
 意識の全てを集中させた。土産物店に近づきつつあると感覚が知らせてくれた。

 店前で歩調が同時にピタリと合い、再会した。

 同志は、「今回は有難う」と一言、口にした。

 同志は普段あまり笑顔を見せない。
 しかし、その時は白い歯を意識して見せてくれたと、感触めいたものがあった。
 柔和な全てを悟った穏やかな笑顔だった。

 僕も笑顔を見せた。表面上は・・・
 でも心は深くえぐられた。

 同志が別れを告げる為の表現だったと心の奥深くに響いたからだ。

 ただただ無力だった。なす術も無く時間だけが過ぎていく。

 少し歩を合わせて石段を上った。というより同志が辛い素振りを一切見せずに頑張りをみせたと後になって思った。

 脇の定食屋の店先で風鈴が鳴った。
 心地よい風が吹いた。
 同志は目を細め、チリンチリンと鳴る風鈴を見つめ、目を瞑り音色に耳を傾けた。
 僕もその場で目を瞑った。
 同志の切なさを含んだ優しさが、僕の手を握る感覚を感じた瞬間、「頑張るんだよ」と囁く心の声を聴いた。
 目を瞑ったまま頬を滴が流れた。
 心が手に触れられた感覚は次第に薄れ、掌にそよぐ風が妙に冷ややかに感じられたのを今でも忘れることは出来ない。

 店員の『冷やし中華2つですね』の声に我に返った。

 定食屋の椅子に腰かけ、息をつく同志の姿が目に入った。
 背中を丸め、148センチの同志が幼稚園児のように小さく見えた。
 僕は夢遊病者のように意識の感覚が無く、ただ同志の向かいの席に着いた。

 無言でただ黙々と二人の男女が、冷やし中華を食していた。

 同志は、この冷やし中華を半分残した……。

 まるで、人生の半分をやり残したように…。

 500段ある石段の半分を登った処だ。
店の外に出て同志が歩き出した。登り詰めた石段の下方を眺めながら、同志が呟いた。

 『あっ、という間だったな・・・』

 そう言い残すと、一歩一歩片足ずつ、自分の足元を見つめながら石段を登り始めた。

 僕は、その場で立ち止まり、石段の上方を見上げた。
 まだ、200段近く、上に向かって続いていた。

 先に登り行く同志の後ろ姿を今でも忘れられない。

 背を丸め、顔を上げることなく、未知の世界へ足を踏み入れることが避けては通れないように・・・。

 同志の肉体は現世で再会する事は無い。
 更に、同志の魂も私の心の中に見当たらない。
 同志は全てを私の体内から引き揚げた。
 この物語を書き記す迄は、同志は私の人生から隠れていた。

 同志はご主人と別々に暮らしていた。世間に夫婦別姓が浸透し出した頃、姓を同姓から別の苗字に自ら変えたと耳にした。事実は分からない。
 私と同志の間で性的関係性が生じることは無かった。ただ、精神性は一心同体であったのは共通の承諾事項だった。約4年間共に過ごした。
 同志は私の身体の奥深く溶け込み、私の精神の極致に至るまで浸み込んだ。

 前を登る同志が参道の脇に身を移し、他の参拝客へ道を譲った。
 僕は急ぐ心を抑え、平常心を装いごくありふれたトーンで同志の傍に寄り添った。
  その時、知り合って初めて同志の弱音を耳にした。
 「声を上げて人に思いを伝えるのは最終手段」と俯きながら呟いた。

 「引き返す?」

 同志は大きく首を振った。

 「まだ半日あるよ」

 「そうだね。まだ半分チャンスはある」

 同志は、その場でへ垂れ込むように腰を落とした。

 僕は同じように腰を落とし横に並び寄り添うべきか、直立したまま同志の気配を眺めていた方がよいのか、同志の心を探りあぐねた。

 同志は目を細めながら、僕を見上げ、声を発した。

 「三十三番のお寺って、極楽を手に入れられるところ?」

 僕は何と答えていいか、言葉に詰まってしまった。

 「やっぱり、一番の寺に来て正解だ」
 と、同志は力なく微笑んだ。

 僕自身の心は沈黙を継続した。一番から始まり、二番から続く行程の行く末に三十三番があると同志に説明することに意味をなさないと・・・

 「何でも一番がいい・・・私の一番はここでいい」
 と、目を瞑りそよぐ風を感じ取りながら同志は言葉を絞り出した。

 「お供致しますよ。心行くまで・・・」

 同志と行動を共にするようになって一年以上経過した年末、大晦日から繰り出し
初詣に行こうと誘われた。
 僕は、十年以上、除夜の鐘を聞いていない。大晦日に誰かと共に過ごす事に畏怖の念があった。
 大晦日自体、その日を通り過ぎ飛ばして元旦を迎えたいと、年の瀬が押し迫った時、毎年のように思いを巡らせた。
 自分の中で封をして仕舞いこんでいるが、ピラミッドの中で腐敗せず残存している古代の埋葬者のように、脈々とそこに事実は存在している事を示された真実が私を支配していた。

 同志が苦悶の表情を浮かべ、その場で咳きこみ出した。
 僕はただ黙って同志のあるがままの姿を見ていた。同志は自分以外の他の者にありきたりの労りや労いを示される事を酷く嫌う。だから、同志が、自分の意識の中から湧き上がる新たな意思表示を待った。

 「鞄・・・薬・・・」

 私は同志の鞄を担いでいた。鞄の中を開け、同志が処方されていた飲み薬を手渡した。天然水入りのペットボトルと一緒に。

 薬を飲みながら、何度も喉奥に水分を含んだ。喉の渇きを潤すのに暫く時間を要した。ひと段落すると大きく肩を落として深呼吸する同志の姿が、私の瞳を支配した。

 「何度目だっけ?」

 「四回目です」

 「私は初出場」

 私は無言で小さく頷いた。

  冷たい空気を感じたとともに、パラパラと雨が降り出した。

 「試合再開まで、雨天中断」

 「ベンチで休んでて下さい」

 同志は残りの水を一気に口に含み飲み干した。

 雨がパラつく中、同志は物思いに耽っているようだった。
 僕には、目の前のこの人が自分の一部から欠落することなど想定していないし、あり得ないと今でも思っている。人生は無限で永遠であると少年のように無垢に信じ続けた。僕の視線を感じ、同志が目を見開いた。瞳の奥で、それは夢幻で遊離されうるものだと訴えかけてきた。僕は視線を逸らし目を伏せた。暫くずっと同志の視線を感じていたが、目を合わせる事は、その現実を受け入れてしまう事だと、心の奥が、駄々をこね、頑なに拒み続けた。同志が腰を上げ石段を踏み上がる足跡を微かに耳にした。雨は上がり、雲の切れ間から、陽射しが再び降り注ぎ始めた。
 僕は顔を上げた。
 先を行く同志の背中に陽の光が眩しく注ぎ、同志の姿を識別するのに少し時間がかかった。神様が同志の背に手を添えて、重かった足取りを幾ばくか軽やかにしてくれた。と、ふとそう感じずにはいられなかった。

 いつも時折感じていた。同志は何を拠り所にし、何を求め、何に心を留めているのだろう・・・
 精密機械のように寸分の狂いもなく日々を過ごしているように見受けられるが、着地点がいつも見えない。何処に向かっているのか。毎日がただ漠然と過ぎていけばいいという風でもない。でも掴みどころがなく実体が感じられない。言葉をむやみやたらに発する事を酷く嫌うので本心を探り当てなければならない。もどかしいとは思わないが、何か「大丈夫かな?」と思わせる・・・

 再び、先を登る同志が私を強く見ているのを感じた。
 山門が見えてきた。
 石碑に「西国第一番札所 那智山青岸渡寺」と刻まれている。
 同志は刻印された石碑の前で手を合わせ目を閉じた。
 周囲の何処かしこから、蝉の音が届いた。
 同志と共に命限られた蝉達が最後の力を振り絞って斉唱している鳴き声に同志の祈る姿が被り、ヒタヒタと終焉が迫りつつあると、私は胸の鼓動を覚え、足が震えているのを感じずにはいられなかった。

 山門を潜る前に、僕は同志を呼び止めた。そして、念の為、被写体に収まるか聞いた。
 予測通り、同志は小さく左右に首を振った。同志と共に過ごした中で、一枚も一緒に収まった被写体はない。同氏自身を投影した記念の画像も目に見えるものとしては皆無だった。
 その欲求は同志と私の間では互いに瞳の奥に、目に焼き付けた記憶として脈々と生き続けている。そうすべきと悟らせてくれたのは、言わずもがな目の前にいる同志だ。同志は規則的に呼吸を整えながら、順番にゆっくりと、自らの肉体で写真撮影を始めた。人間の思考と肉眼は最良の映写機である。というのが同志の持論だ。
 同志の姿や記憶は、今でも私の瞳の奥から呼び起される脳や精神の中に、ちゃんと居座り続けている。
 物に頼るな。ひいては人に頼るな。ということが同志の終始一貫した私に対するメッセージだったように思う。知り合った最初から、私に主体性が欠けている事を同志は見抜いていた。敢えてそう振る舞い、仕向けていた。という事が、いまでは痛いほどよくわかる。同志には感謝してもしきれない程沢山の教訓と贈り物を付与された。

 同志が一礼し山門を潜り抜けた。
 少し階段を上り、本堂が見えてくると、私の顔をみてニッコリ笑みを浮かべた。

 「デビュー~ デビュー~」
 と鼻歌混じりに軽快にステップを踏みながら石段を登り始めた。
 余命幾許もないと告げらているこの人に、何処にそんな心を軽くする気持ちの源泉が宿っているんだろう・・・僕は、一瞬呆気に取られてしまった。
 多分、僕の堅苦しいそうな表情を見て取ったのか、さらに石段を軽快に駆け上がり、ついに同志は、参道の一番下の参拝コースの起点から本堂に辿り着く石段を全て登りきってしまった。
 本堂前の広場に立ち、僕が近付くのを同志は終始笑みを湛えながら待ってくれていた。

 「参拝師範! お参りと那智の滝、師範の選択や如何に」
 と言いつつ、本堂を背にして、遠く左手に垣間見える『那智の滝』を同志は見ていた。
 僕が毎回、『青岸渡寺』を参拝する時の行程道順を諳んじてくれた。
 遠く太平洋からも眺めることが出来、落差133メートルの日本一の大滝は遠く数キロ先から眺めていても壮大で、水飛沫がここまで飛来してくる感覚にとらわれる。
 神々しい『那智の滝』を、ただじっと眺めているだけで、滝の神秘的な魅力に吸い込まれ、心が浄化されたような面持ちに浸っているのはいつも私だけなんだろうか? と疑問を呈していた。
 だから、いつか理解し合える人と、この地をずっと訪れたいと願っていた。

 同志はただ黙って、暫くの間、滝から放たれ齎される独特の空気感を肌で感じているようだった。
 同志が何か大切なもの、血となり肉となる、心の、人生の、拠り所となるものを得てくれればいい。と期待を込めて願い、その場で、心の中で祈り続けた。

 ひとしきり遠くから滝を見入った後、同志は本堂に向かう事を僕に表情で促した。僕は、同志の思うがままに身を任せ、共に本堂に向かった。
 蝋燭と線香を献納し、賽銭を投げ入れる。そして納札箱に札を納めた。僕は札に「同志が苦しむことがないように」と書き記した。
 
 同志が本堂の堂内にある鰐口を見上げ、目を大きく見開き、口をあんぐり開いたまま、『鐘をつきたい』と言った。豊臣秀吉が寄贈したという言い伝えがあり、日本一の大鰐口といわれていると僕が説明すると、

 「滝といい、さすが一番のお寺だね。日本一が幾つも揃ってる。やっぱり一番に来てよかった」
 と、小悪魔のような目つきで悪戯っぽく笑みを見せると同時に鰐口を撞いた。

 那智山全体に響き渡る重たい、腹の底に響く音色だった。僕自身の心に、何かが纏わりついて重苦しい気分になったが、同志は満足げに鰐口の前で手を合わせ、黙礼し、祈りを捧げた。

 祈りを捧げる同志を垣間見ながら、僕も目を瞑り祈った。
 祈っている間、これまでの同志と共に過ごした4年間の日々を想うと共に、何か現状を打開する手立てはないか考えていた。その時、耳元で同志の囁きが響いた。

 「難しくないよ」

 僕は目を開き、同志を見た。

 「まだまだ硬いね。だいぶくだけたけど。最初の頃より」

 「これからのことを考えていて」

 「悲劇の主人公はやめな」

 真顔だった・・・

 「大晦日、また来年から一人になる・・・」

 「次の人がまた出てくる。君が閉じなければ」

 僕は、暫く懇願するような眼で同志を見つめた。

 「御朱印、どこで?」

 本堂内の納経所へ、同志と僕は歩を進めた。
 同志は、僕が歩み出て、御朱印を賜る姿を少し後ろから見届け、僕が御朱印を受け取ると、何故か、「おめでとう」と告げた。
 見よう見まねで同志も御朱印を賜った。記帳して貰っている間、同志は疲れている素振りも見せず、背筋をピンと伸ばし、痛い方の脚で、床に根を張り、緊張した面持ちと厳粛な雰囲気を表出させていた。

 御朱印を人生初めて手にした同志は、生まれたばかりの、卵からかえった雛を包み込むような丁重な仕草で御朱印帳を手にし、記帳された一文字一文字を自らの肉眼に記憶させているように見えた。
 その後、僕と視線が交わった瞬間、同志は僕に歩み寄り、僕の両腕の隙間に自分の腕を滑り込ませ、僕の腰に手を回し、無言のまま、無限の抱擁を交わした。
 それは一時的なもので、その後の人生を僕が現世で歩む上では、夢幻であったかも知れない。でも同志とは魂が呼応し、時には揺さぶられ、時には共感させられると互いに融合し合えていたので、生身の肉体が失われたとしても、無限な抱擁であり続けると理解できた。

 本堂を後にする折、石段を降りながら、同志に納経の札に何を記したか尋ねてみた。同志はただ微笑を浮かべるだけで言葉は発しなかった。

 本堂からそのまま、『熊野那智大社』へ入る途中、同志の方から話し掛けてきた。
 「あとで、滝の麓まで行きたい」

 「参拝が終わって、どこかで一服して、その後行きましょう」
 そう、何気ない会話の一コマとして僕は同志に返答した。

 その返答の通りの筋書きが達せられることはなかった・・・

 同志には結局、直接言葉にして打ち明ける事はなかった。
 同志は言葉にしなくても、共に私と一時的に過ごす中で、幼少期の私に何が起きて、その後私が抱え込んでいた事柄も、おそらく見抜いていた。
 あえて言葉にする必要のないことは、口を開くことは不要だ。という同志の哲学を尊重し、私は自分の胸中に自分の問題を片づけた。同志に言葉にして助言を求めたところで、「散らかすなよ」と言われるのはわかりきっていたから。

 熊野那智大社の拝殿前に、長さ133センチのジャンボおみくじがある。那智の滝133メートルに引っかけての代物だ。同志の身長とさして代わり映えしないおみくじを引いている時の同志は滑稽だった。

 「どっちがおみくじかわからないね。一番の隣でこんな体験をするとは」
 と、発する同志に、僕は言った。

 「同志おみくじ」引くから、おみくじの結果出してよ」
 と、同志の体を、おみくじを振って占うように、上下左右に揺すった。

 同志が、何がいい? と尋ねた。
 
 僕は自分で同志おみくじと言っておきながら、少し答えるのに時間がかかった。

 「小吉」
 と、痺れを切らし同志がおみくじの結果を告げてきた。

 僕は何で? というような顔をしていたようだった。

 「少しだけ神様が助けてあげるけど、貴方には幸運を呼び込む前向きさが足りないから」
 と、ストレートに告げてきた。

 内心僕が秘めていた想いと大きくかけ離れていた。僕は同志の負荷を取り除きたかった。全ての不幸が僕に注ぐよう、「大凶」を思い描いていた。

 同志のおみくじ占いの結果は、今現在の等身大の僕であり、これから先、自分で切り開いていきなさい。というメッセージなんだとして、慎んで受け取った。

 朱色に彩られた拝殿にて同志と並び再び手を合わせた。

 目を瞑り、耳を澄ますと他の参拝客の話声が耳に入り、様々な人々が其々の出逢いの中で、共にする友人や伴侶を選択し、神様から与えられた生を生きている。神様が同志と私を引き合わせ関わり合いを持たせた意味と、私が同志にしてあげられることは? 同志にとって必要なものは何か? を考えていたが、頭に強制的にロックがかかってしまっているようで、何も思い浮かばなかった。

 込み上げてきたのは、胸奥からスルスルと、あの出来事だった。
 多分、余命幾許もない同志が、祈り続ける私の隣で強烈な意識で、過去と向き合わせ、逃げずに真っ直ぐ、自分と向き合う事を気付かせようと、最期の力を振り絞って分からせてくれたんだと心の中で呟いた。