外はまだ明るい。背中側からは柔らかくて暖かい風が吹いていた。ちょうど過ごしやすい季節だけど、あと一月もすれば終わってしまう。
それまでに、私はどのくらい桃弥の未練を解消出来るのだろう。華井さんとは、前よりも仲が深まってきたと思うけど……。成仏するには、あと、何をすれば良いのかは分らない。
今のままで、良いのかどうかも。
「あの、桃弥」
掠れた声を出してしまった。
桃弥は、ん? と真面目な顔で覗き込んでくる。
「……狩南さんのことは、その、華井さんに言った方が良いのでしょうか。友達だったら……相談するのが普通ですか?」
正直にいうと、言いたくない。
私は全然耐えられるけど、華井さんはきっと、心配してくれるから。屋上で食べようって言ったからだ、と自分を責めるかも知れない。そんなのは嫌だ。
桃弥は、私の顔を見て暫く唸った。
「友達だから何でも言わなきゃいけない、なんて決まりはないよ。胡桃のしたいようにすれば良いと思う。ただ……華井さんは言って欲しいと思ってるんじゃないかな」
「……そう、ですか」
私はそのまま俯いてしまった。
心の奥にかかる霧が、どんどん濃くなっていく。
「私には、正解が分りません。いつも悩んで暗くなって、結局、間違った選択をしている気がします」
上手く生きることが出来ない。
深い溜息を吐くと、桃弥は凛とした声で言った。
「じゃあ、俺や華井さんとの今の関係も、間違っていると思う?」
顔を上げて見ると、自信のある笑みを浮かべている桃弥がいた。
思わず頬が上がる。
「そんなことない、です。少しずつ、正しい選択が出来てきているのは、桃弥のお陰です」
隣で、一歩前に踏み出す勇気をくれるから。
すると、「俺は何もしてないよ」と少し眉を下げた。
「全部、胡桃が行動した結果だよ。……それに、今までの胡桃も責めないで欲しい。間違ったことをしていたとしても、人の目を見るのが怖いっていう事情があったんだから。今は、変わろうとしているし」
「……。そう、なんですかね」
桃弥の優しさが沁みる。けど、納得はいかなかった。
どんな事情があろうと、上手く出来てこなかったのには変わりないから。
それに――。
「事情があったとしても、人を苛めるのは理解出来ません」
ストレス発散したいなら一人で壁にでも当たっててくれ、と思う。
「……俺も、そう思うよ」
桃弥が俯いて言った。
一瞬、誰が言ったのか分からないくらい、暗い声だった。
「幽霊になってから、何度、苛めてきた奴を呪おうと思ったか分らない」
驚いて少し固まる。
「桃弥も、苛められてたんですか……?」
「うん……けっこう、ずっとね」
桃弥の横顔は髪に隠れて見えず、私もそのうち俯いてしまった。続く道の先はどこまでもオレンジ色の光に染まっていて、私の影だけがすうっと伸びている。
初めて、桃弥は生きているときの話をしてくれた。
桃弥は小学五年生のとき、学年で一番可愛い女の子に告白されて、その子のことが好きだった同じクラスの不良に目をつけられたらしい。女の子と喋らないようにしても、ずっと苛めは続き、中学に上がっても止まらなかった。それで桃弥は、ずっと孤立しがちだった。
「男でも粘着質な奴はいるからね。高校はわざと地元から離れたところにして、やり直そうと思ったんだけど……結局、そいつのせいで上手くいかなかったなぁ」
いや、と桃弥はすぐに自嘲する。
「……俺がもっと……ちゃんと、してれば……」
それ以上、言葉は続かなかった。
胸の奥が絞られたように苦しくて、痛い。
「桃弥は絶対に悪くありません。高校で何があったのかは、知らないですけど……。絶対にそうです」
言うと、ふっ、と柔らかい表情を向けてくれた。
いつの間にか、最寄り駅が近づいてきていた。前からランドセルを背負った子達が無邪気に笑い合いながら走って来て、私達の横を通り過ぎ、光の方へ行く。
「人を呪うには、悪霊になるしかないんだ」
桃弥は静かに言う。
「悪霊……」
「本当に恐ろしい姿だよ。見る度、俺は絶対になりたくないって……呪わないって誓ってきた。噂によると、それでスッキリして成仏出来たとしても、人間には生まれ変われないらしいからね」
どうして、桃弥はそれで五年間も、苦しまないといけないんだろう? 桃弥を苛めた人は、今ものうのうと生きているのに。その人さえいなければ、桃弥は今も生きていたかも知れないのに。
理不尽だ。
全部、間違っている。
私の今のこの状況も。
やり切れない思いがふつふつと湧いてきて、何かを叫びたくなった。
両拳を握りしめ、ぴた、と足を止めると、桃弥を真っ直ぐに見る。
「私、今凄く発声練習がしたいです」
三拍遅れ、「……え?」と聞き返される。
「桃弥の代わりに、というか……私が、狩南さんに立ち向かってみたい、と思いました。今までは、苛めてくる人に何か言ったら悪化すると思って黙ってきましたけど……そういえば、何か言ったことって、一度もなかったな、と」
それに、とすぐに付け足す。
「余計に悪化してしまっても……華井さんは、きっと私の味方をしてくれます。それが証明できたら、確実に、本当の友達が欲しかったという桃弥の未練は解消出来ると思うんです」
我ながら良い案だ、と思う。
おぉ、と桃弥は明るい声を上げた。
「それで発声練習?」
「はい。狩南さんを前にして弱々しい声になっても、舐められるだけだと思うので」
桃弥は柔らかく笑い、そうだね、と言った。
涼しい風がひゅうっと前髪を上げる。私は特になおすこともなく、改めて決意を固める。
この笑顔を、誰にも何にも崩させたくない。私が、桃弥の未練を完全に解消して、少しでも早く成仏出来るように――……。
ズキッ、と胸が痛んだ。
まただ。
何なんだろう? 思わず首を傾げ、胸をさする。
桃弥の体が薄くなったときも、同じ感覚がした。
よく分からないモヤモヤが取れないままでいると、桃弥に「どうしたの?」と心配された。私は慌てて首を横に振り、無理に口角を上げる。それから、「発声練習するのに良い場所があるよ」と言う桃弥についていき、電車に飛び乗った。
着いたのは、学校と家の間にある河川敷だった。
「よしっ、胡桃!」
「は、はい!」
ビッ、と桃弥は真っ直ぐに指差し、紺色の空を見る。
もうすぐ沈みそうな眩ゆい光が、周囲だけを鮮烈なオレンジに染め上げていた。
「思う存分叫べ!」
何だかやけに楽しそうだった。こういうのがやりたかった、という顔をしている。
私は、ぐっと唾を飲み込み、「あ、あぁ~~……」と息を吐き出す。
だ、駄目だ……。確かに、大声を出すには適しているけど……。チラッ、と土手の道の方を確認してしまう。けっこう人が通って行くんだよなぁ……。
「もっと腹から声出して!」
「は、はいっ」
若干裏返った声で返事してしまい、また弱々しい声を出す。お腹に手を当ててみるも、全然動いていなかった。うーん、呼吸方法が悪いのかなぁ……。いや、というよりも……。
「あの夕日に向かって今の気持ちをぶつけるんだ!」
「あの……恥ずかしい、です……」
桃弥は真顔でこちらを見て、すっと腕を下ろす。
慌てて弁解するしかなかった。
「え、えっと……そういえば、人前で大声出したこととか、なかったかもなぁ~……と」
桃弥は眉を下げ、安心させるように微笑む。
「だから、これから出せるようにするんでしょ?」
そうですよね、と小さな声で返事するのが精一杯だった。自分が凄く情けないと心底思いながらも、地面と睨めっこしてしまう。それから、「思うんですけど、大声ってなんか、私には出せないんじゃないかと……こう、周囲の視線が全部こちらに向けられるんじゃないかって不安で……もう、喉が狭くなっちゃってるんじゃ」とぼやく。
ふと横を見ると、桃弥がいなかった。
あれ? と反対方向を見た。
次の瞬間――
「うわあっ!!!!」
桃弥が、私の腹から顔を出してきた。
「ぎゃあーーっ!!」
尋常じゃないくらい心臓が跳ね、尻もちをつく。
あははははっ、と桃弥はひとしきり笑ってから顔の前で手を合わせる。
「ごめん、ごめん。でも、凄い大きな声出たでしょ?」
「出ましたけど……」
くっふふ、と桃弥は口に腕を当てて笑い続けていた。余程、私のリアクションが面白かったらしい。……イタズラ好きなのだろうか。本当に子供だな。
「ま、まぁでも、身体的に出せない訳じゃない、って分かって安心しました」
「そりゃそうだよ」
桃弥は尻もちをついたままの私の前に腰を下ろし、無邪気に言う。
「胡桃は、ちょっと勇気を出せば何でも出来るんだから」
胸の奥が、すっと軽くなる。ネガティブな感情が全部吹き飛んで、本当に、何でも出来る気がしてくる。
……不思議だ。
桃弥は、特別な力を持っている。
「あっ」
思わず呆けた声を出してしまった。
ずっと、見れているのだ。
桃弥の目を。
私は、長い前髪を分けてみる。けど、すぐに逸らしてしまった。そのまま、慌てて前髪を整えていると、「胡桃、今、目を見れてた?」と桃弥が優しく問いかけてくれる。
こくん、と頷いた。
「大丈夫だよ」
あぁ、また、魔法の声がする。
「もう一回、こっちを見てみて」
ゆっくりと桃弥の方を向く。前髪を分け、一度ぎゅっと目を瞑ってから、ぱっと開いた。
桃弥は、くりっとした垂れ気味な目を細めて嬉しそうにしていた。
一、二、三……十秒が経つ。
全然、怖くない。大丈夫だ。そう思った。
けど……そのうち。
お父さんの、泣きながら睨んでくる目が、脳裏を支配する。
動悸がし、顔に両手を当てて俯いた。
涙がとめどなく溢れてくる。
「胡桃……っ」
嗚咽しながら、なんとか言葉を吐き出す。
「どうして、いつまでも、あの時のことを忘れられないんでしょうか……。お父さんの目と、他の人の目は、全然違うのに……分かってるのに……。人の目を、見ただけで思い出して……凄く失礼ですよね」
息を吸っても、楽にならない。
「私、は、一体どれだけの時間を、無駄にすれば気が済むんでしょうか……!」
急に吐き気が込み上げてきて、胸を押さえて咳き込んだ。
桃弥はそっと抱き締めてくれる。それから、耳元で囁いた。
「大丈夫。大丈夫だよ、胡桃。胡桃は、確実に前に進めているから。その証拠に、前よりもっと長い時間、目を合わせられるようになったじゃん。だから大丈夫。俺が保証する」
桃弥が、背中をさすってくれているのが分かった。
不思議と、確かに温度を感じる。
「今からもっとよくしていけるよ。胡桃には、その力がある。俺はそう思う」
鼻水をすすり、がんばりばず、と言った。
夕陽に照らされた桃弥の笑顔は、何よりも美しい、と思った。
それから、発声練習を再開する。
本当に、桃弥には、恩返ししてもし足りない。
それまでに、私はどのくらい桃弥の未練を解消出来るのだろう。華井さんとは、前よりも仲が深まってきたと思うけど……。成仏するには、あと、何をすれば良いのかは分らない。
今のままで、良いのかどうかも。
「あの、桃弥」
掠れた声を出してしまった。
桃弥は、ん? と真面目な顔で覗き込んでくる。
「……狩南さんのことは、その、華井さんに言った方が良いのでしょうか。友達だったら……相談するのが普通ですか?」
正直にいうと、言いたくない。
私は全然耐えられるけど、華井さんはきっと、心配してくれるから。屋上で食べようって言ったからだ、と自分を責めるかも知れない。そんなのは嫌だ。
桃弥は、私の顔を見て暫く唸った。
「友達だから何でも言わなきゃいけない、なんて決まりはないよ。胡桃のしたいようにすれば良いと思う。ただ……華井さんは言って欲しいと思ってるんじゃないかな」
「……そう、ですか」
私はそのまま俯いてしまった。
心の奥にかかる霧が、どんどん濃くなっていく。
「私には、正解が分りません。いつも悩んで暗くなって、結局、間違った選択をしている気がします」
上手く生きることが出来ない。
深い溜息を吐くと、桃弥は凛とした声で言った。
「じゃあ、俺や華井さんとの今の関係も、間違っていると思う?」
顔を上げて見ると、自信のある笑みを浮かべている桃弥がいた。
思わず頬が上がる。
「そんなことない、です。少しずつ、正しい選択が出来てきているのは、桃弥のお陰です」
隣で、一歩前に踏み出す勇気をくれるから。
すると、「俺は何もしてないよ」と少し眉を下げた。
「全部、胡桃が行動した結果だよ。……それに、今までの胡桃も責めないで欲しい。間違ったことをしていたとしても、人の目を見るのが怖いっていう事情があったんだから。今は、変わろうとしているし」
「……。そう、なんですかね」
桃弥の優しさが沁みる。けど、納得はいかなかった。
どんな事情があろうと、上手く出来てこなかったのには変わりないから。
それに――。
「事情があったとしても、人を苛めるのは理解出来ません」
ストレス発散したいなら一人で壁にでも当たっててくれ、と思う。
「……俺も、そう思うよ」
桃弥が俯いて言った。
一瞬、誰が言ったのか分からないくらい、暗い声だった。
「幽霊になってから、何度、苛めてきた奴を呪おうと思ったか分らない」
驚いて少し固まる。
「桃弥も、苛められてたんですか……?」
「うん……けっこう、ずっとね」
桃弥の横顔は髪に隠れて見えず、私もそのうち俯いてしまった。続く道の先はどこまでもオレンジ色の光に染まっていて、私の影だけがすうっと伸びている。
初めて、桃弥は生きているときの話をしてくれた。
桃弥は小学五年生のとき、学年で一番可愛い女の子に告白されて、その子のことが好きだった同じクラスの不良に目をつけられたらしい。女の子と喋らないようにしても、ずっと苛めは続き、中学に上がっても止まらなかった。それで桃弥は、ずっと孤立しがちだった。
「男でも粘着質な奴はいるからね。高校はわざと地元から離れたところにして、やり直そうと思ったんだけど……結局、そいつのせいで上手くいかなかったなぁ」
いや、と桃弥はすぐに自嘲する。
「……俺がもっと……ちゃんと、してれば……」
それ以上、言葉は続かなかった。
胸の奥が絞られたように苦しくて、痛い。
「桃弥は絶対に悪くありません。高校で何があったのかは、知らないですけど……。絶対にそうです」
言うと、ふっ、と柔らかい表情を向けてくれた。
いつの間にか、最寄り駅が近づいてきていた。前からランドセルを背負った子達が無邪気に笑い合いながら走って来て、私達の横を通り過ぎ、光の方へ行く。
「人を呪うには、悪霊になるしかないんだ」
桃弥は静かに言う。
「悪霊……」
「本当に恐ろしい姿だよ。見る度、俺は絶対になりたくないって……呪わないって誓ってきた。噂によると、それでスッキリして成仏出来たとしても、人間には生まれ変われないらしいからね」
どうして、桃弥はそれで五年間も、苦しまないといけないんだろう? 桃弥を苛めた人は、今ものうのうと生きているのに。その人さえいなければ、桃弥は今も生きていたかも知れないのに。
理不尽だ。
全部、間違っている。
私の今のこの状況も。
やり切れない思いがふつふつと湧いてきて、何かを叫びたくなった。
両拳を握りしめ、ぴた、と足を止めると、桃弥を真っ直ぐに見る。
「私、今凄く発声練習がしたいです」
三拍遅れ、「……え?」と聞き返される。
「桃弥の代わりに、というか……私が、狩南さんに立ち向かってみたい、と思いました。今までは、苛めてくる人に何か言ったら悪化すると思って黙ってきましたけど……そういえば、何か言ったことって、一度もなかったな、と」
それに、とすぐに付け足す。
「余計に悪化してしまっても……華井さんは、きっと私の味方をしてくれます。それが証明できたら、確実に、本当の友達が欲しかったという桃弥の未練は解消出来ると思うんです」
我ながら良い案だ、と思う。
おぉ、と桃弥は明るい声を上げた。
「それで発声練習?」
「はい。狩南さんを前にして弱々しい声になっても、舐められるだけだと思うので」
桃弥は柔らかく笑い、そうだね、と言った。
涼しい風がひゅうっと前髪を上げる。私は特になおすこともなく、改めて決意を固める。
この笑顔を、誰にも何にも崩させたくない。私が、桃弥の未練を完全に解消して、少しでも早く成仏出来るように――……。
ズキッ、と胸が痛んだ。
まただ。
何なんだろう? 思わず首を傾げ、胸をさする。
桃弥の体が薄くなったときも、同じ感覚がした。
よく分からないモヤモヤが取れないままでいると、桃弥に「どうしたの?」と心配された。私は慌てて首を横に振り、無理に口角を上げる。それから、「発声練習するのに良い場所があるよ」と言う桃弥についていき、電車に飛び乗った。
着いたのは、学校と家の間にある河川敷だった。
「よしっ、胡桃!」
「は、はい!」
ビッ、と桃弥は真っ直ぐに指差し、紺色の空を見る。
もうすぐ沈みそうな眩ゆい光が、周囲だけを鮮烈なオレンジに染め上げていた。
「思う存分叫べ!」
何だかやけに楽しそうだった。こういうのがやりたかった、という顔をしている。
私は、ぐっと唾を飲み込み、「あ、あぁ~~……」と息を吐き出す。
だ、駄目だ……。確かに、大声を出すには適しているけど……。チラッ、と土手の道の方を確認してしまう。けっこう人が通って行くんだよなぁ……。
「もっと腹から声出して!」
「は、はいっ」
若干裏返った声で返事してしまい、また弱々しい声を出す。お腹に手を当ててみるも、全然動いていなかった。うーん、呼吸方法が悪いのかなぁ……。いや、というよりも……。
「あの夕日に向かって今の気持ちをぶつけるんだ!」
「あの……恥ずかしい、です……」
桃弥は真顔でこちらを見て、すっと腕を下ろす。
慌てて弁解するしかなかった。
「え、えっと……そういえば、人前で大声出したこととか、なかったかもなぁ~……と」
桃弥は眉を下げ、安心させるように微笑む。
「だから、これから出せるようにするんでしょ?」
そうですよね、と小さな声で返事するのが精一杯だった。自分が凄く情けないと心底思いながらも、地面と睨めっこしてしまう。それから、「思うんですけど、大声ってなんか、私には出せないんじゃないかと……こう、周囲の視線が全部こちらに向けられるんじゃないかって不安で……もう、喉が狭くなっちゃってるんじゃ」とぼやく。
ふと横を見ると、桃弥がいなかった。
あれ? と反対方向を見た。
次の瞬間――
「うわあっ!!!!」
桃弥が、私の腹から顔を出してきた。
「ぎゃあーーっ!!」
尋常じゃないくらい心臓が跳ね、尻もちをつく。
あははははっ、と桃弥はひとしきり笑ってから顔の前で手を合わせる。
「ごめん、ごめん。でも、凄い大きな声出たでしょ?」
「出ましたけど……」
くっふふ、と桃弥は口に腕を当てて笑い続けていた。余程、私のリアクションが面白かったらしい。……イタズラ好きなのだろうか。本当に子供だな。
「ま、まぁでも、身体的に出せない訳じゃない、って分かって安心しました」
「そりゃそうだよ」
桃弥は尻もちをついたままの私の前に腰を下ろし、無邪気に言う。
「胡桃は、ちょっと勇気を出せば何でも出来るんだから」
胸の奥が、すっと軽くなる。ネガティブな感情が全部吹き飛んで、本当に、何でも出来る気がしてくる。
……不思議だ。
桃弥は、特別な力を持っている。
「あっ」
思わず呆けた声を出してしまった。
ずっと、見れているのだ。
桃弥の目を。
私は、長い前髪を分けてみる。けど、すぐに逸らしてしまった。そのまま、慌てて前髪を整えていると、「胡桃、今、目を見れてた?」と桃弥が優しく問いかけてくれる。
こくん、と頷いた。
「大丈夫だよ」
あぁ、また、魔法の声がする。
「もう一回、こっちを見てみて」
ゆっくりと桃弥の方を向く。前髪を分け、一度ぎゅっと目を瞑ってから、ぱっと開いた。
桃弥は、くりっとした垂れ気味な目を細めて嬉しそうにしていた。
一、二、三……十秒が経つ。
全然、怖くない。大丈夫だ。そう思った。
けど……そのうち。
お父さんの、泣きながら睨んでくる目が、脳裏を支配する。
動悸がし、顔に両手を当てて俯いた。
涙がとめどなく溢れてくる。
「胡桃……っ」
嗚咽しながら、なんとか言葉を吐き出す。
「どうして、いつまでも、あの時のことを忘れられないんでしょうか……。お父さんの目と、他の人の目は、全然違うのに……分かってるのに……。人の目を、見ただけで思い出して……凄く失礼ですよね」
息を吸っても、楽にならない。
「私、は、一体どれだけの時間を、無駄にすれば気が済むんでしょうか……!」
急に吐き気が込み上げてきて、胸を押さえて咳き込んだ。
桃弥はそっと抱き締めてくれる。それから、耳元で囁いた。
「大丈夫。大丈夫だよ、胡桃。胡桃は、確実に前に進めているから。その証拠に、前よりもっと長い時間、目を合わせられるようになったじゃん。だから大丈夫。俺が保証する」
桃弥が、背中をさすってくれているのが分かった。
不思議と、確かに温度を感じる。
「今からもっとよくしていけるよ。胡桃には、その力がある。俺はそう思う」
鼻水をすすり、がんばりばず、と言った。
夕陽に照らされた桃弥の笑顔は、何よりも美しい、と思った。
それから、発声練習を再開する。
本当に、桃弥には、恩返ししてもし足りない。