「でぇ~、先輩ってなんか変なとこ抜けてるのぉ。基本的に何でも出来る人なんだけどね~。この前なんかぁ――」
授業開始十分前になり、二人で昼食を持って出口へ向かう。いつの間にか恋愛の話になり、私は何も話せなくて華井さんの話を聞くばかりだった。でも、ずっと頬を綻ばせている華井さんが可愛いからそれで良い、と思った。
扉を開けようとして、華井さんは動きを止めた。「どうかしたのですか?」
聞くと、華井さんは不安げな表情でこちらを見る。
「……なんか足音が聞こえるのぉ。ちょっと隠れた方がいいかもぉ、くるみん」
私の手を取り、扉のついている壁の奥に行き、日陰に入った。よく分からないまま身を潜めることになる。
「あのねぇ、たまになんか~怖い先輩がここ使ってるって聞い」
誰かが入ってきて、華井さんはパッと両手を口に当てた。それから、壁から少し顔を出すと、また動きを止める。
「……ん?」
華井さんは、ゆっくりと振り返って私に息を潜めて言う。
「あれ、狩南と西田くんだよねぇ?」
私も壁からそうっと覗いて見る。
……本当だ。
二人は屋上の真ん中で向き合って立っている。狩南さんは、何だかずっと俯いて大人しくしていた。初めて見る様子だった。
「絶対、告白しようとしてるじゃん~。超気まずいぃ」
眉を顰めて抱きついてくる華井さん。……た、確かにそんな雰囲気が漂っている。どうしよう、これは絶対に狩南さんは見られたくないよね……特に華井さんには。だって、この間ラーメン屋で見た様子だと、狩南さんが好きな西田くんは華井さんのことが好きで……あっ、胃が痛くなってきた。
でも、とりあえず今は身を潜め続けるしかない。あとは全力で何も見なかったことにしておこう。ごめんなさい、狩南さん。
西田くんは、頭を搔きながら「ごめん、遅れて。なかなか先生の話終わんなくて……」と弁解していた。どうやら成績のことで釘を刺されていたらしい。それで昼休み終了間際に来ることになったのか。
「で、話って何?」
西田くんが聞くと、狩南さんはピクッと肩を上げた。
それから、目を瞑って震えた声で言う。
「……ずっと前から、好きでした。付き合ってください」
や、やっぱり告白だった……。華井さんも私も息を呑む。
すると、西田くんは「ごめん」と短く言った。
「俺、今好きな人いるから」
迷いなく、真っすぐ狩南さんを見て言う。思ったよりもハッキリした物言いだった。狩南さんは、「……あ、そう、なんだ」と肩を落とし、余計に俯いてしまう。でも、しばらく沈黙が流れたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「それってさ……華井?」
一段と低くなった声に、背筋が凍りつく。
「うん」
西田くんが答えた途端、ガコッ、と足元に何か落ちる音がする。
あっ。と華井さんが両手で口を押さえる。弁当箱を落としてしまったのだ。
な、なんてタイミングで……! 私も華井さんも反射的に屈んで弁当箱を拾う。けど、やっぱり無駄な行動だったようで。
「……は?」
頭上から、狩南さんの針で刺すような声がする。
私と華井さんは、蹲ったまま動けなくなってしまった。天敵に見つかった小動物のような気分だった。逃げ場がない。……死んだふりとかした方が良いのかも知れない。
「なんで居んの?」
脇下からお腹まで冷たい汗が流れていく。ごめんなさい、とだけ小さく言い、顔を上げられなかった。そんな私の代わりに、華井さんはおずおずと狩南さんを見上げ、答えてくれる。
「ごめん……そのぉ、くるみんとお昼ご飯食べててぇ~、見る気はなかったのぉ」それから、数秒空けてまた口を開く。「あっ、でもその、私も好きな人いるからぁ~……先輩に」
重たい空気が流れる。
ずっと地面を凝視するしかなかった。
「だって。西田」
狩南さんが言うと、西田くんは「……分かった」と沈んだ声を出す。
そこでチャイムが鳴る。
一人の去っていく靴音が聞こえた。
「西田!」
「ごめん。一人にして」
静かに、屋上の扉が閉められた。
そのとき、私は、今まで生きてきて一番痛い視線を感じた。
放課後、私のシャーペンが全部ゴミ箱に捨てられていた。
ホームルームが終わり、華井さんと笑顔で手を振って別れたあとだった。用を足しに行ってから、桃弥にどこに寄って帰ろうか聞いてみようとノートを出し、筆箱を開けた時、すぐに異変に気付く。
なんか少ないな、と思った。私の筆箱のなかはいつもパンパンに詰まっている。何かあったときの為にとシャーペンが五本も入っているから。何かあったときはないんだけれども。そのシャーペンが、全部ないことに気付くのに、そう時間はか掛からなかった。
「……狩南さんがゴミ箱に捨ててるのを見たよ。さっき、胡桃がトイレに行ってる隙に」
いつの間にか隣に立っていた桃弥が、聞いたことないくらい低い声で言う。
教室の入り口付近にあるゴミ箱を見に行くと、私のシャーペンが三本あった。少し漁ってみるともう一本見つかり、お気に入りのお洒落なデザインのは底の方にあった。
やっぱり、と思う。
私は何にも、変わっていないな。
水道で、汚れて臭くなった手とシャーペンを洗う。こういうのは慣れている。中学のときは教科書が全部捨てられていたから、それに比べたらマシだ。全然、大したことない。
学校の水ってやたらと冷たいんだよな。
そう思っていると、桃弥が後ろから私の肩を両手で抱いた。
「……酷いよ。こんなの。俺が幽霊じゃなかったら止められたのに」
耳元で聞こえる、消え入りそうな声に。
頬が緩んでいった。
そうだった。
今はもう、一人じゃないんだ。
それだけで、生きている心地がする。
とりあえず今日は真っ直ぐ帰ろう、と玄関に向かう。どこかに寄っていく気分にはなれなかった。既に部活動が始まっていて、廊下も階段も人通りが少ない。
「華井さんに当たると嫉妬だって丸わかりだから、胡桃をターゲットにしてるんだよ。……許せない」
隣で歩く桃弥は、ずっと怒っていた。私は、俯いて苦笑する。
「でも、あのくらいの嫌がらせで狩南さんの気が済むなら、全然、耐えます。実際、狩南さんが見られたくないところを見てしまったのは事実ですし。悪いとは思っているので」
たまたま居合わせただけだけど……。
それに、何となく分かる。こういう場合、もう一度謝ったところで何も変わらないんだ。下手な行動をしたらむしろ悪化するに決まってる。黙って、相手の気が済むか飽きてくれるまで耐えるのが吉だ。
「胡桃。それは違うよ」
桃弥が強い口調で言う。
見ると、悲しそうな顔をしていた。
「もっと自分を大事にしてよ。お願い」
じっと見つめられ、私は目を逸らしてまう。思わず泣きそうになって、下唇を噛みしめ、こくんと小さく頷いておいた。
今更、どうしたら良いのか分らない。
そのことが、どうしようもなく悔しい。
ずっと、諦めて耐えることしかしてこなかったから。……それが、私に出来る精一杯のことだから。