家には既に明かりがついていた。初めてだ、お父さんより遅く帰ってきたのは。逸る心臓をゆっくりと深呼吸して落ち着かせつつ、ドアノブに手をかける。出来るだけ音を出さないようにそうっと回したけど、ガチャリと鳴ってしまった。
 急いで靴を脱ぎ捨て、自室に行こうと階段に足をかけると、リビングからお父さんが出て来た。
「おかえり」
 ビクッと肩を上げてしまう。震えた声で、「た、ただいま」と返した。
「遅かったな」
「……ごめんなさい」
私は早口に言うと、バタバタと階段を駆け上がっていった。
自室のドアを閉め、そのままへたり込む。
何なんだろう、本当に。お父さんの考えていることが、分からない。
「私のこと嫌いな癖に……」
小さく呟くと、桃弥が隣に座った。
「さっきの人が胡桃のお父さん?」
はい、と短く答えると、桃弥は何故か唸った。そして、どこか遠くを見つめるようにして言う。
「別に、普通の人に見えるけどなぁ」
普通の人……。
「お父さんは、この世で私だけが嫌いだと思います」
「……そう、なんだ」
桃弥はそれ以上何も言わなかった。
しばらくの間、二人で座っていた。月明かりだけの部屋で、静かな時間が流れる。一度、遠くから車のクラクション音が聞こえてきた。
やがて桃弥が口を開く。
「胡桃は、お父さんとちゃんと話したことあるの?」
思わず桃弥の顔を見る。けど、暗がりで、どんな表情をしているのかまでは分からなかった。
「どうして話さないといけないんですか? 私を憎んでいる人と、何を話すんですか?」
聞くと、桃弥は顔を背けて俯いてしまう。
さっきから何が言いたいんだろう?
私は立ち上がり、ベッドに鞄を放り投げた。それから部屋の明かりをつけ、衣装ケースから中学のときの体操服を取り出す。部屋着だ。これ以上床に座っていると、制服のスカートが皺になってしまう。
「……あの、今から着替えるので、あっち向いてて貰ってもいいですか?」
言うと、桃弥は慌ててドアの向こうにすり抜けていった。けど、半径二メートル以上は離れられないせいで見えない壁に押されてすっ転び、下半身だけが部屋に残った。軽くホラーだ。
「うつ伏せになってるから大丈夫。絶対見えないよ」
「あっち向くだけで良かったんですけど……」
桃弥はそのまま動こうとしなかった。私は気にせず制服を脱ぎ始める。
シャツのボタンを外していると、桃弥が静かに言う。
「さっき、心配しているように見えたよ。お父さん」
……心配? まさか。
「嘘つかないでください」
「本当だよ。胡桃が謝ったときも、悲しそうな顔してた」
手が止まる。夜の冷たい空気が肌を撫でていく。
「そんな訳ないじゃないですか」
「じゃあ、ちゃんと自分の目で見て確かめてみたら?」
唇を噛み締め、シャツを脱いで桃弥に向かって投げつける。
「いい加減にしてください。何なんですか!? さっきから……」
「ご、ごめんっ! 怒らせるつもりじゃ――」
桃弥が起き上がっていた。
上半身が下着だけになっている私を見て、とんでもなく高い叫び声を上げ、その場でダンゴムシみたいに丸まってしまった。
何度も謝られる。
そこまで大袈裟なリアクションをされた私は逆に冷静になっていた。
とりあえず着替え終わり、部屋の中央、ベッド横で向かい合って座る。
「いきなり怒ってすみません」
「いや、俺もなんか、ごめんなさい」
まだ顔を赤らめている桃弥だった。
私は、出来るだけ柔らかい口調になるように意識し、桃弥に聞く。
「何が言いたかったのですか?」
桃弥は私の顔を見ようとしなかった。親に説教されている子供みたいにずっと下を向いている。
「胡桃は、その……何か誤解していることもあるんじゃないかな、って」
「……誤解とは、なんですか?」
「ほら、あの、幼い頃の記憶だから、もしかしたら――」
途中で口を噤む桃弥。
私は、微かに手を震わせていた。
「じゃあ、どうして私は今、人の目を見るのが怖くなってるんですか? あれは、あのお父さんの目は、ただの悪夢だったって言うんですか? 何も、なにも知らない癖に」
そこで言葉を切る。
こんなこと、桃弥に言っても仕方ない。
涙が零れそうになって、ぐっと堪えた。
「そう、だよね。ごめんね。辛いこと思い出させて」
桃弥は苦しそうな声で言う。それから、数秒ほど空いたのち、また口を開いた。
「俺、幽霊になって一年目に、未練解消出来たと思ってたって言ったよね」
私は静かに頷いた。
「本当に、頑張って、色んな話をしたんだ。母さんとか、もう会いたくないって思った友達とかと……。そしたら、思いの行き違いだったり、ただの勘違いだったりが沢山あったよ」
何も言わず、桃弥の話に耳を傾ける。
「幽霊になって現れるとさ、みんな泣きながら謝ってくるんだ。呪われると思ったのかな。本当はこんなつもりじゃなかったの、あのとき本当はこう思ってたんだ、とか。それで、俺も一気に本音をぶつけて、スッキリして……」
桃弥は、一度唇を結ぶと、こちらを真っ直ぐに見る。
それから薄く微笑んだ。
「なんで、生きてるときに出来なかったんだろう、って思った」
私は、黙って俯いてしまった。そんな私に、桃弥は優しく言う。
「人と向き合うのって、なかなか出来ないよね。……でも、胡桃は後悔のないようにしてね」
俺の分まで。
そう、聞こえた気がした。

お父さんが自室のドアを閉める音を聞いてから、お風呂に向かう。夕飯はラーメンとタピオカミルクティーで十分だった。ちなみに、いつもはスーパーの弁当か即席麺で済ましている。毎朝、机の上に千円が置いてあって、それで買っているのだ。お父さんにもっとお小遣いが欲しいかと聞かれこともあったけど、何だか怖くて断っていた。千円でも貰いすぎだと思っているから。
シャワーを浴びるだけなら良いけど、浴槽に浸かるとドアの向こうにいる桃弥がすり抜けてきてしまうとみて、念の為に浸からないことにした。体を拭いている間も、服を着ている間も、桃弥はずっと床で丸まっていた。
髪を乾かしてから、数学の勉強をする。
さっきのお詫びに、と桃弥は教えてくれた。どうやら理系だったらしい。なんとなく文系だと思っていたから意外だ。桃弥の説明は、凄く分かり易かった。今まで何時間考えても理解出来なかった難問が、なんと二時間ほどで全て理解出来たのだ。これからは先生に当てられても安心だ、と私はほっこりしてベッドに入る。
桃弥も隣で横になっていた。その後ろの窓から見える月は、もうすぐ完全な丸になりそうだった。雲がなくて、明日はよく晴れそうだ。
ふと気が付く。
朝が来るのが、楽しみになっている自分に。
「……桃弥。今日は、色々とありがとうございました」
すぐ近くに、桃弥の顔があった。
いつかこの距離でも、目を合わせられるようになるだろうか。
「こちらこそ、本当にありがとう。ここ数年、ずっと退屈だったからさ。凄く楽しい一日だったよ」
私の顔を見て、満面の笑みになる桃弥。バッと思わず背中を向けてしまう。逸る心臓の音が聞こえていませんように。
しばらくの間、目を瞑る。けど、あんまり眠気がこなくて、私はそのままの態勢で桃弥に話しかける。
「幽霊って、眠るんですか?」
「いや、全く眠くならないよ」
即答だった。ずっと起きていたらしい。
「ただでさえ孤独なのに、ずうっと色んなことを考えてしまうんだ。……もう、慣れたけど。本当に早く成仏したいよ」
切実そうな声で、余計に胸が締め付けられる。
「あぁ、早く消えたいなぁ」
まるで何かに恋焦がれるような、魂からの呟きだった。
だから私は、迷いなく決意を固める。
「明日からも本気で頑張ります。それから、夜も出来るだけ起きるようにします」
「いや、早く寝ていいよ。俺のことは気にしないで」
どこまで優しい人なんだろう、と心底思う。
消えたい、って思うのは、生きている私でも分かるのに。死んでからも願い続ける辛さは、察するに余りある。
私は……こんなにも、足踏みして、後ろを向いてばかりなのに。
どうしてだろう?
しばらくして、静かに桃弥の方に向き直ると、ゆっくりと口を開いた。
「少しだけ、私の話を聞いてくれませんか」
うん、いいよ。とだけ桃弥は言った。
何だか無性に、自分のことを語りたくなってしまう。
桃弥が生きていても、同じような気持ちになったのかな。
「私は、凄く自己中だと思います。だって、お母さんが私を庇って事故に遭ったって聞いても、その瞬間のことは思い出せないのに、その後、病院でお父さんに睨まれたのは、ちゃんと覚えているから……。それは、ぜんぶ罪悪感からなんじゃないか、って思うんです。私のせいでお母さんが亡くなった瞬間のことは気持ちが耐えられなくなるから忘れて……でも、お父さんに責められたのを覚えていることで、なんとなく罪滅ぼしした気になっている……ぜんぶ、ぜんぶ自分の為に……。なのに、お父さんに、ちゃんと、傍に居て欲しかったって……」
いつの間にか眠りに落ちていて、どこまで話したのか、翌朝は覚えていなかった。
ただ、目が覚めて一番に飛び込んで来た桃弥の、赤く目を腫らして微笑む顔が、授業中も頭から離れなかった。
 先生の話はそっちのけで、窓から雲一つない青空を見上げて思う。
 もし、私が今死んでしまったら……確実に未練の内容はお父さんに関することになるだろう。どうすれば解消出来るのかは分からないけど、何か話をしてみないことには始まらないのだと思う。
 桃弥の言葉を思い出す。
――なんで、生きてるときに出来なかったんだろう、って思った。
――人と向き合うのって、なかなか出来ないよね。……でも、胡桃は後悔のないようにしてね。
 ぎゅっとシャーペンを握り締めると、次のお昼休みに桃弥に相談したいことを書き出した。
 いつかお父さんと話をする練習……というのもあるけれど、気になっていたのに午前中は何も出来なかった、という反省も込めて。
『華井さんに、どうして私と友達になってくれたのかを聞いてみたいです』
 教室が弁当の匂いで充満するなか、そう書いたノートを桃弥に見せる。相変わらず窓縁に腰掛けていた。ちなみに華井さんはトイレに行っているのか今は席に居ない。
 華井さんとは今朝も挨拶を交わし、休み時間にも他愛ない話をする仲になったものの……どうしても狩南さんの言葉が心に引っかかていた。
 ――何あれ。完全に引き立て役じゃん。
 華井さんが私に友達だと言って抱きついたのを見て、放たれた言葉。
 気にしなくていい、華井さんのことをそんな風に見るのは最低だ、と自分に言い聞かせてみるも、既に刺さった棘は抜けなくて。放っておくと悪化しそうだし、自分ではどうにも出来ないなら華井さんに何とかして貰うしかない、と思う。
「聞いてみようよ。俺も気になるし」
 桃弥はにこっと笑って言う。
 私は、一度ノートに書く手を止め、また動かした。
『普通に聞いても可笑しくないでしょうか』
「気にしすぎだって!」
 即ツッコまれた。
『分かっています。でも、なんというかこう、人と深い話をしたことがなくて……不安です』
 書くと、桃弥は唸る。それから、妙に真剣な顔をして聞いてきた。
「胡桃は、華井さんの言うことを信じる?」
 どうしてそんなことを聞くんだろう? と思いつつ、迷わずにシャーペンを走らせる。
『はい。友達ですから』
 桃弥は満面の笑みになった。ずっと欲しかった玩具を買って貰った子供のようだった。
「なら、大丈夫だよ。何も心配ない」
 すっと心が軽くなる。
 この笑顔で、私はいつも勇気が出る。
 華井さんが教室に入ってきた。両手を花柄のハンカチで拭いてポケットにしまい、席に着く。私は机の上でぎゅっと拳を握り締め、思い切って口を開いた。
「あ、あのっ」
「ん? なぁに? くるみん」
 ぱっと振り返った華井さんの顔を見て、一度唾を飲み込んだ。そして、勢いのままお誘いする。
「一緒に食べませんか? その……外で」
 教室だと、また、前みたいに一気に視線が集まってくることがあるかも知れないから。出来るだけ、落ち着いて二人で話せるところに行きたかった。
いいよぉ、と華井さんはすぐに笑顔を咲かせてくれた。
ほっと息をつき、肩の力が抜ける。いつの間にか大きく鳴っていた心臓も静まっていった。
二人で昼食を持ち、廊下に出る。
 私から言い出したものの……校庭のベンチくらいしか思いつかないなぁ、と玄関に向かって歩いていると、華井さんが「あっ、そうだ~!」と両手を叩く。
思わず華井さんの顔を見ると、パチッと綺麗なウインクをされた。
「くるみんに良いこと教えてあげるぅ」

華井さんについていくと、屋上の扉の前まで来た。でも、当然閉まっているし、頑丈に鎖まで巻き付けられている。
すると華井さんは何だか含み笑いをし、両扉の片方のドアノブに手を掛ける。
「これぇ、実は開いてるんだよ~」
言った通り、ガチャッと開く。鎖が付いているので半分くらいしか開けられないけど、十分に人が通れる程だった。
誰が開けたんだろうねぇ? と華井さんは鎖の下をくぐって行く。
私もそれに倣い、扉の向こうへと一歩を踏み出した。

ぶわっ、と風が吹いてきて髪が後ろに流れていく。私はなんとか前髪だけ乱れさせないように手で押さえつつ、空を見上げる。
どこまでも澄み切った青が広がっていた。遠くの方にある分厚い雲は太陽の光を受け、より一層白く輝いている。
教室の窓から見るよりも、ずっと気持ちが良い。
「今日はよく晴れてるねぇ~」
華井さんはスキップをしてフェンスまで行く。私も小走りでついて行った。
眼下の街並みは、光を受けてビビットに染まっている。
それを背に、二人でフェンスにもたれかかって座る。桃弥は、私たちの正面に三角座りして楽しそうに頬を上げていた。
「最近あの先輩に教えて貰ったんだ~。ほら、昨日タピオカ店に並んでたときにいた人ぉ」
「あぁ、そうなんですね」
 華井さんが弁当箱を開けると、それはもう色とりどりな具が並んでいた。そのなかから
ひょいとタコさんウインナーを口に入れる。じっと見つめてしまっていたからか、華井さんが租借しながらこちらを向いた。
「くるみん、それだけぇ? なんかダイエットでもしてるのぉ?」
私はコンビニで買ったおにぎり一つを手に、少し焦る。
「えっと、まぁ、そんな感じです」
 家庭の事情とは言いにくいので適当に濁してしまった。華井さんは、「え~でも無理しちゃいけないんだよぉ」と卵焼きをひとつ差し出してくれる。でも、断ってしまった。人生初のあ~んを体験出来たかもしれないのに。
 おにぎり一つも入らないんじゃないかというくらい緊張していたけど、そのうち、私は口を開く。
「あの、実は……華井さんに聞いてみたいことがあって」
「んん? 何なにぃ?」
顔を寄せてくる華井さんの方を向いたまま、私は長い前髪に隠れた目をぎゅうっと瞑る。
「わ、私と……その、どうして友達になりたいと思ってくれたんですか?」
 すると、一瞬間が空き、や~なにその可愛い質問~! と華井さんに抱きつかれた。相変わらず良い匂いがする。
 華井さんは数秒ほど顎に手を当てて唸る。
 それから、
「めちゃくちゃ真面目な話をするとぉ、私のこと嫌ってるぽくなかったからってのもあるんだけどぉ~。私的にはぁ、貫いてる感じがするところが好きなんだよねぇ」
 と言った。
貫いてる感じがする……?
 疑問に思っていると、華井さんは人さし指を私に向けた。
「その前髪とか!」
 ドキッと心臓が跳ねる。
「なんか事情があると思うんだけど~。ほら、くるみんって霊感あるっぽいしぃ、見え過ぎると嫌だから、とか。でも、誰に何と言われようと気にしない! って感じが出てて良いなぁって思ってたんだ~」
胃が重くなっていく。
私は、そんな理由じゃない……もっと、後ろ向きな事情がある。
貫いてるんじゃなくて、諦めているだけなのに。
そんな私を置いて、華井さんは笑顔で話し続ける。
「私もなんか~、色々言われるけど、全然気にしないようにしてるんだ~。ほら、しゃべり方変とか言われてもぉ、それって変えられないじゃん? だから私は、私のこと好きでいてくれる人とだけ一緒に居よ~! ってこのままのスタイルを貫いてるのぉ。だって皆に好かれようと自分を変えるのって面倒くさいじゃん?」
 やっぱり、私とは違う人間だな、と思う。
どこまでも前向きで、眩しい。
……私は……。
また、自然と俯いていっていた。でも、無理やり顔を上げる。
「あの、華井さん。私は……私は、幽霊なんかより、見えると嫌なものがあります」
華井さんは、口を噤んでこちらを見ていた。
一筋の汗が背中を伝っていく。
「人の目が、怖いんです」
声が震える。
息が上手く吸えなかった。
それでも、華井さんの顔を見て、言いたいことを言う。
「私は……幼い頃、その、色々とあって、いつの間にか、人の目が見れなくなっていました。だからこうして、前髪を長くすることで、壁を作っているんです。……それでも、多くの視線を感じたら……辛くなったりします」
初めて、桃弥以外の人に、生きている人に、弱音を吐いた。
「私は、何もかも諦めている人間です」
 そこで、俯いてしまう。
 これで嫌われても、仕方ないな。
みぞおち辺りが、ずしりと重くなった。途端に、吐き気がする。胃の中は空っぽなのに、排水溝が詰まったような音を立てていた。
 すると、ふ~ん、と華井さんのやけに軽い声がする。
「そっかぁ。それは確かに、辛いねぇ」
 思わず華井さんを見る。
 何だか眉を下げて笑っていた。
「私もまぁ、諦めてるっちゃ諦めてるけどねぇ。さっきぃ、貫いてるとかカッコよく言っちゃったけど~、ただの開き直りだよねぇ」
あはは、と明るい声を上げる。
「私達ってぇ、なんか凄い似てる~?」
もう、目頭が限界だった。
涙が零れ落ち、みっともなく口が歪んでしまう。
「えぇ~! ごめんね、私と似てるなんて嫌だよねぇ」
 華井さんは慌てて私の腕を掴むけど、私は全力で首を横に振った。
 それから、しっかりと目を見て笑う。
「嬉しい、です。私、やっぱり華井さんが好きです」
 華井さんが優しく目を細める。よく上がった睫毛が一瞬きらりと光ったような気がした。けど、よく見えないから、それが何なのかは分からない。
 いつか、いや、近いうちに、長い前髪を切ってしまいたい。
 そう、強く思った。

前に座る桃弥は、「よかったね、胡桃」と鼻を啜っていた。私は、華井さんに不審がられない程度に小さく頷いておく。
 桃弥の言うとおり、気にしすぎだった。
 どう思っているのか聞いてみて、言いたかったことを打ち明けて。
 それだけで良かったんだ。
 ――お父さんとも、私は、逃げずに向き合えるだろうか。
 そうすることが正解なのかは分らない。
 けど……。
 ――心配しているように見えたよ。お父さん。
――胡桃が謝ったときも、悲しそうな顔してた。
 桃弥は、嘘を吐かないから。
今のお父さんの気持ちを知りたい。そう思うのは、間違っていない筈だ。
「……あっ」
突然、桃弥が驚きの声を上げた。
見ると、桃弥の体がより透けてきていた。桃弥の後ろにある数メートル先の扉が、割とはっきり見えるくらい。
「未練が、確実に解消されていっているんだ」
 自分の体をまじまじと見て、小さく呟く桃弥。
 それから、満面の笑みを向けてくる。これ以上ない喜びと希望に満ち溢れているようだった。
「もうすぐ成仏出来るのかも! ありがとう、胡桃」
ズキッ。と胸の奥が鋭く痛む。
 ……あれ? なんでだろう。
 今、嬉しい、筈なのにな。