休み時間。私は、仙二さんと筆談することにする。数学のノートを裏返し、最後のページに出来るだけ綺麗な文字を綴っていく。
『せんじももや、って漢字でどう書くのですか?』
すると、ぷっと吹き出す声がした。不思議に思って窓縁に座る仙二さんを見上げると、やけに頬を上げてノートを見つめていた。それから、私の方に視線を移す。
「真面目だね、胡桃ちゃんは」
『そう、ですか? 話しかけてくれるお方の名前は、しっかりと覚えておきたいので』
あははっ、そうなんだ! と仙二さんはお腹に両手を当てる。無邪気な子供のように笑っていた。そんなに面白いことでもないと思うのだけれど……。何だろう、数年ぶりに人と話すとそうなるのかな。
「えっとね。仙人の仙に、数字の二、桃に、弥生時代の弥だよ」
私は、言われた通りに丁寧に書き綴っていく。一文字ずつ、「うん、そうそう」と仙二さんは嬉しそうに相槌していた。この人はいつも口角が上がっていて羨ましいな。私の表情筋は、ずっと枯れているから。
「あ、敬語使わなくても良いよ。先輩とか全然気にしなくていいし」
『いや、これは癖なので。仙二さんが先輩であることは関係ないです』
「そうなの? じゃあ、せめて桃弥って呼んでよ」
よ、呼び捨て……。シャーペンの芯をなかなか紙につけられないでいると、「駄目?」と更に切なそうな声で聞かれ、ついに覚悟を決める。
『分かりました』
「やった!」
嬉しそうに足をブラブラとさせる桃弥に、不覚にもキュンと胸の奥に矢が刺さる。
心のなかで、桃弥、桃弥……と復唱する。うーん、まだ慣れるまでに時間がかかりそうだ。
「さて。何から話そうかな」桃弥は数秒間も唸ると、「とりあえず、胡桃ちゃんの質問に答えようか。何でも聞いて」と言った。
何でも、と言われて迷ったけど、やっぱり一番気になることを聞くことにする。
『桃弥は、どうして幽霊になったのですか?』
「交通事故に遭ったんだ。それで、あっけなく死んだ」
全くの他人事のように軽いトーンで言ってのける桃弥。何だか、ぎゅうっと心臓を雑巾しぼりされたみたいに苦しくなった。それは、今までに感じたことのない苦しさだった。
交通事故……私のお母さんと同じだ。
また、少し考えてから。ゆっくりと薄い文字を綴る。
『どうして五年も成仏出来ないでいるのですか? まだ未練が残っているのですか?』
何の返答もないので見上げると、桃弥から笑顔が消えていた。
あ、まずい。失敗した。
聞かれたくないことを聞いてしまったんだ。
そう思い、慌てて消しゴムを手に取った。すると、桃弥は唇の端を少し上げ、消えかかりそうな声で呟く。
「うん、そうらしいね」
……らしい?
どうしてだろう。笑っているのに、泣いているように見える。
桃弥は震えた声で続ける。
「もう、未練は解消できたと思ってたんだ。幽霊になって一年目に。でも、気付いたら五年経ってて――この教室から出られなくなってた」
言葉が出てこなくなって、思わず桃弥から顔を逸らした。
傷だらけの埃っぽい床を見つめる。
出られなくなったって、つまり……。
「まぁ、そうなったのは先週の木曜日くらいからだけどね。それまではまだ学校中を彷徨っていられたんだ。もっと、何処へでもいけてたんだけど……。段々、地縛霊に近づいていっているみたい」
地縛霊……やっぱり。
木曜日からということは、ちょうど私が二日連続で休んでいたときからだ。それで、今日気が付いたのか。
『この教室に未練があるのですか?』
「そうなるね。俺は生前この教室に通っていたんだ。でも、とある事があってすぐ不登校になっちゃって。テストだけは受けに行ってなんとか二年生に上がれたんだけど、やっぱり引きこもるようになって、その間に死んだから――……」
淡々と語っていた桃弥が、急に燃料が切れたロボットみたいに制止して、口を噤んで俯いてしまう。
けど、またすぐに柔らかい頬を上げ、言った。
「楽しい学校生活を送りたかったのかな。ここで」
あぁ、この人は。
本当に辛いときほど、無理して笑うんだ。
どうしようもなく、胸が痛んで。同時に、何故だか目が離せなくなっていた。
頭の片隅で、変だな、と思う。今、幽霊と話しているのに。周りにいるどの人達より、ちゃんと向き合っている。
誰かをどうにかしたいなんて思ったのは、初めてだった。
「……今、こうして地縛霊になる直前まで、全然気付かなかった。自分がそんな未練を抱えていたなんて。成仏出来ないくらい、心残りだったなんて」
ぐっとシャーペンを握ったまま動かせないでいると、桃弥は俯き、独り言のように語り始める。
「自分の抱えている、この世に縛りつけられるくらいの強い未練が何なのか、教えてくれる人はいないんだ。けど、全て解消しないと成仏出来ない、って先輩幽霊に教えて貰った。自分のことが見える人は、必ず未練に関する人だから、とも。本当にそうだった。親とか、友達とか、思い当たる人に会いに行ったら、みんな俺のことが見えて……。それで、その人達と話してスッキリしたけど、成仏出来なくて。この教室に縛られて……どうすれば良いんだろう? って途方に暮れてたんだ」
桃弥は、ゆっくりと顔を上げると、こちらを真っ直ぐに見つめる。
「そこで。今日、胡桃ちゃんに出会った」
柔らかい、春の陽だまりのような温かい眼差しで。夜をぼんやりと照らす月を見るような、穏やかな顔つきだった。
もっと見ていたい。そう、強く思った。けれど、やっぱり目を逸らしてしまう。そんな自分が更に嫌いになってしまう。
唇を噛み締めながらも、ようやく手を動かした。
『私は、桃弥の未練に関する人だということですか?』
「うん。もっと言うと、俺の未練を解消するのに相応しい人、かな」
どういうことか分からない。
そう聞こうとする前に、桃弥が言った。
「単刀直入に言うよ。胡桃ちゃん、俺の代わりにここで楽しい学校生活を送って」
頭のなかが「?」だらけになる。
『よく分かりません。それは、桃弥の未練を解消することに繋がるのですか?』
うん、と桃弥は深く頷く。
「さっき思いついたんだ。俺が、胡桃ちゃんにだけ見えるようになった理由。それはね、俺と似ているからなんだ。自分とよく似た人が、自分が出来なかったことをしてくれたら、それで満たされるんじゃないかなって」
全く、賛同する気になれなかった。
むしろ逆だと思う。
『桃弥は、私とは違う人間にしか見えません。それに、私だったら、そんなことをされたら余計に悔しいです』
迷いなく書くと、桃弥は眉を下げて微笑んだ。
「……でも、これ以外思いつかないよ」
何だか、桃弥も納得していないようだった。けど、と私は思う。一旦、桃弥の勘を信じよう。
『桃弥がそう言うなら、そうかも知れません。本当のことが私に分かる訳ではないし、これ以上疑いません。私は、』
一旦、手を止めた。
けど、すぐにまた力を込めて書き出す。
どうしてか分からないけど、さっきから、胸が高鳴ってしょうがなかった。
『桃弥が成仏できるように、協力したいです』
「ほんと?」
前髪越しに桃弥の顔を見つめ、こくん、と大きく頷く。
『私が桃弥の代わりとなって学校生活を楽しむことで、桃弥の未練を解消すれば良いのですよね?』
「その通りだよ」
ごくっと唾を飲み込んで、今、自分の書いた文字を見つめる。
そんなことが、出来るのだろうか。
人の目を見るのが怖くて、いつも怯えている私に?
楽しむどころか、普通さえ分からない、私に?
だけど、心の底から、ただ単純に思う。
――嬉しい。
そうだ。誰かに必要とされたのは、初めてだった。
変われるなら、変わりたい。
そんな当たり前の感情を、今、唐突に思い出す。
……いや、願望じゃ足りないんだ、きっと。
変わってみせるんだ。
桃弥の為にも、私の為にも。
『分かりました』
勢いよくページを捲り、でかでかと新たに文字を綴る。それをビッと破ると両手で胸の前に持ち、桃弥に見せた。
『今日から桃弥の代わりに未練を解消します』
決意表明だ。
……ほとんど、見切り発車の。
でも、隣に桃弥がいるなら、ほんの少しでも、今までよりは強くなれる。
そんな根拠のない確信があった。
桃弥は、ふっと柔らかく笑い、「ありがとう」と言った。珍しく頬が緩んだところで、ハッとして紙を下ろして見回した。けど、私を見ている人は誰ひとりいなかった。胸を撫で下ろすと、教室に無機質なチャイムが鳴り響く。桃弥は「じゃあ、またあとで」と笑顔で手を振り、私から離れていった。
『質問していいですか?』
また、休み時間になると私はノートで桃弥に聞く。一応、机の上に問題集を広げておいたから、傍から見るとずっと勉強しているみたいだろう。
「うん。何でもどうぞ」
桃弥は相変わらず窓ふちに両手をついて腰掛け、楽しそうにノートを見下ろしている。
『さっき、桃弥は私と似ていると言いましたが、どういうところがですか?』
うーん、と桃弥は唸った。
なかなか返答がないので見上げると、桃弥は眉を下げてこちらを窺い、「今から凄く失礼なこと言ってもいい?」と聞いてくる。
『全然、大丈夫です。気にしないでください』
「……実は、前から胡桃ちゃんのことは知っていたんだよね。その、前髪が長くて、仲間かと思っちゃったことがあるから」
ごめん! と桃弥が両手を合わせるので、私は静かに首を横に振っておく。
『貞子みたい、ってよく言われます』
「あぁ、そう、いや全然違うんだけれども。俺は数年前に学校から出られなくなっていたからさ、なんかそのとき嬉しくなっちゃって。時々、胡桃ちゃんのことを目で追うようになってたんだ」
え、そうだったんだ。
自然と頬が緩む。私も嬉しい、と思うのはどうしてだろう。
「それで、貞子だとか言われているのを耳にしたときの胡桃ちゃんは、いつも何も変わらなくて。傷つく様子も、髪をなおす様子もなくて。それが凄く印象的だった」
桃弥は、力なく微笑んで私を見る。
「あぁ、この子は、諦めることに慣れてるんだなって。そこが俺と似てると思ったんだよ」
諦めることに慣れてる。
さっきの数学の授業のときの桃弥を思い出した。
──ほんとに変わらないよね、人って。
──まぁ、俺もそうなんだけど。
桃弥も、そんな表情をしていた。
絶望なんて通り越したような。
「……本当失礼なことばっか言って、ごめん」
『全然、大丈夫です。桃弥の言う通りですから』
私は一度手を止め、また、文字を綴る。
『本当に、色んなことを諦めてきました』
人の目を見るのが怖い。
どうしたらなおるのか分からない。
それでも生きていくと決めたから。学校に、行かなくちゃいけないから。
人だらけの教室に、人だらけの電車に乗って行き、帰る。一週間に五回も。それだけのことをするのに、私は前髪を長くする必要があった。
普通でいることなんて、到底無理だった。
「俺も、小さい頃から何かと諦めがちだったよ。……母さんが、ずっと精神的に病んでてさ。自分のことで精一杯で、周りのことは放ったらかし。俺のことなんて、なにも見てくれなかった。だから、そんなもんかぁ、って思うようにしたら、欲が出てこなくなって。生きやすくなった」
あぁ、分かるなぁ。
諦めることは、楽だ。今の自分に、置かれた状況に、慣れてしまえるから。
なにも見てくれなかった、か。
――一緒だ。
そう思って、心が軽くなった。
『私も――』
それから、自分の過去について書いた。三歳の頃、お母さんが私を庇って交通事故で亡くなったらしいこと。それで、お父さんに泣きながら睨まれたような記憶があること。どうしてお前が……なんて声が勝手に聞こえてくること。いつの間にか、人の目を見るのが怖くなっていたこと。
全部、ノートに書き殴った。
誰かに聞いて欲しい。そう願ったのは、初めてだった。
「……そっか。そんな事があったんだ。だからそんなに前髪を長くしているんだね」
桃弥は静かに受け止めてくれた。汚い字で書かかれた、私の過去を、全部。
目頭が熱くなる。一度涙が零れたら、止まらなくなりそうで。ぐっ、と堪えた。
「うん。やっぱり止めよう」
桃弥が突き放すように言う。
――え?
止めるって、何を?
突然言われたことが分からなくて戸惑い、桃弥を見上げると、とても真剣な顔をしていた。
「自分のために、胡桃ちゃんが無理に変わることを強いたくない」
そう言って、俯く桃弥。
「胡桃ちゃんが俺と似ているって分かってるのに、俺に出来なかったことをして欲しいって……凄い自己中だ、ってことに今気付いた。地縛霊になる直前だから焦って、本当に自分のことしか考えてなかったんだ」
桃弥は窓縁からひょいっと降り、私の前で優しく微笑む。
「人の目を見るのが怖いなんて凄く辛いのに、俺に協力しようとしてくれてありがとう」
ぺこり、と頭を下げ、「俺のことはもう忘れて。しばらく見えるだろうけど、全然気にしなくていいから」と早口に言う。
待って。なんで?
そんなすぐに――。
「本当、変なこと頼んじゃってごめ」
「勝手に見切りつけないでください」
思わず口に出していた。
数人がこちらを見た気がする。けど、賑やかな教室ではそんなに目立たなかったようだ。
私は、また、ノートに書き殴る。
『ズルいです。人を本気にさせておいて、もういいって。私は、本当に変わろうと決意したんです。こんなに頑張ろうって思ったのは初めてなんです。なのに、まだ何もしていません。せっかく、』
――傍で見ていてくれる人が出来たのに。
同じだったんだよ、桃弥。
お父さんは、ずっと私のことを遠ざけて、私のことなんて見ようとしてくれなかった。私が何をしようとしまいと、興味ないんだ。
でも、桃弥は、ずっと見ていてくれてたんでしょう?
こうして出逢えたのは、きっと、偶然なんかじゃない。
最初で最後のチャンスを、神様が与えてくれたんだ。
『人は変われるんだってことを、私が証明してみせます。だから、責任持って最後まで見守っててください』
もう、何もかも諦めていたくない。
桃弥が成仏するのも、私が変わるのも。
いつの間にか、ノートが濡れていた。せきを切ったように涙が出てきて、ただただ俯いて、息を止めて声を抑えるしかなかった。
「胡桃ちゃん」
ふわり、と桃弥に抱きしめられる。やっぱり、何の感触もないけれど。というか、むしろ若干すり抜けているような気がするけれど。
胸の奥が、じんわりと温かい。
「訂正するよ。俺と似ているなんて、勘違いだった。凄く……強い人なんだね」
ふるふる、と私は首を横に振る。
『今、変わっただけです』
桃弥は、耳元で息を漏らして笑った。風を感じた、ような気がした。
「ありがとう、胡桃ちゃん。本当に出逢えて良かった」
私から離れると、桃弥はそっと拳を前に出す。
「一緒に頑張ろう」
私も拳を前に出し、控えめに突き合わせる。
やってみせる。人の目を見るのが怖いのを克服して、学校生活を楽しめるように。それで、桃弥が無事に成仏出来るように。
大丈夫。もう、一人じゃないから。
『せんじももや、って漢字でどう書くのですか?』
すると、ぷっと吹き出す声がした。不思議に思って窓縁に座る仙二さんを見上げると、やけに頬を上げてノートを見つめていた。それから、私の方に視線を移す。
「真面目だね、胡桃ちゃんは」
『そう、ですか? 話しかけてくれるお方の名前は、しっかりと覚えておきたいので』
あははっ、そうなんだ! と仙二さんはお腹に両手を当てる。無邪気な子供のように笑っていた。そんなに面白いことでもないと思うのだけれど……。何だろう、数年ぶりに人と話すとそうなるのかな。
「えっとね。仙人の仙に、数字の二、桃に、弥生時代の弥だよ」
私は、言われた通りに丁寧に書き綴っていく。一文字ずつ、「うん、そうそう」と仙二さんは嬉しそうに相槌していた。この人はいつも口角が上がっていて羨ましいな。私の表情筋は、ずっと枯れているから。
「あ、敬語使わなくても良いよ。先輩とか全然気にしなくていいし」
『いや、これは癖なので。仙二さんが先輩であることは関係ないです』
「そうなの? じゃあ、せめて桃弥って呼んでよ」
よ、呼び捨て……。シャーペンの芯をなかなか紙につけられないでいると、「駄目?」と更に切なそうな声で聞かれ、ついに覚悟を決める。
『分かりました』
「やった!」
嬉しそうに足をブラブラとさせる桃弥に、不覚にもキュンと胸の奥に矢が刺さる。
心のなかで、桃弥、桃弥……と復唱する。うーん、まだ慣れるまでに時間がかかりそうだ。
「さて。何から話そうかな」桃弥は数秒間も唸ると、「とりあえず、胡桃ちゃんの質問に答えようか。何でも聞いて」と言った。
何でも、と言われて迷ったけど、やっぱり一番気になることを聞くことにする。
『桃弥は、どうして幽霊になったのですか?』
「交通事故に遭ったんだ。それで、あっけなく死んだ」
全くの他人事のように軽いトーンで言ってのける桃弥。何だか、ぎゅうっと心臓を雑巾しぼりされたみたいに苦しくなった。それは、今までに感じたことのない苦しさだった。
交通事故……私のお母さんと同じだ。
また、少し考えてから。ゆっくりと薄い文字を綴る。
『どうして五年も成仏出来ないでいるのですか? まだ未練が残っているのですか?』
何の返答もないので見上げると、桃弥から笑顔が消えていた。
あ、まずい。失敗した。
聞かれたくないことを聞いてしまったんだ。
そう思い、慌てて消しゴムを手に取った。すると、桃弥は唇の端を少し上げ、消えかかりそうな声で呟く。
「うん、そうらしいね」
……らしい?
どうしてだろう。笑っているのに、泣いているように見える。
桃弥は震えた声で続ける。
「もう、未練は解消できたと思ってたんだ。幽霊になって一年目に。でも、気付いたら五年経ってて――この教室から出られなくなってた」
言葉が出てこなくなって、思わず桃弥から顔を逸らした。
傷だらけの埃っぽい床を見つめる。
出られなくなったって、つまり……。
「まぁ、そうなったのは先週の木曜日くらいからだけどね。それまではまだ学校中を彷徨っていられたんだ。もっと、何処へでもいけてたんだけど……。段々、地縛霊に近づいていっているみたい」
地縛霊……やっぱり。
木曜日からということは、ちょうど私が二日連続で休んでいたときからだ。それで、今日気が付いたのか。
『この教室に未練があるのですか?』
「そうなるね。俺は生前この教室に通っていたんだ。でも、とある事があってすぐ不登校になっちゃって。テストだけは受けに行ってなんとか二年生に上がれたんだけど、やっぱり引きこもるようになって、その間に死んだから――……」
淡々と語っていた桃弥が、急に燃料が切れたロボットみたいに制止して、口を噤んで俯いてしまう。
けど、またすぐに柔らかい頬を上げ、言った。
「楽しい学校生活を送りたかったのかな。ここで」
あぁ、この人は。
本当に辛いときほど、無理して笑うんだ。
どうしようもなく、胸が痛んで。同時に、何故だか目が離せなくなっていた。
頭の片隅で、変だな、と思う。今、幽霊と話しているのに。周りにいるどの人達より、ちゃんと向き合っている。
誰かをどうにかしたいなんて思ったのは、初めてだった。
「……今、こうして地縛霊になる直前まで、全然気付かなかった。自分がそんな未練を抱えていたなんて。成仏出来ないくらい、心残りだったなんて」
ぐっとシャーペンを握ったまま動かせないでいると、桃弥は俯き、独り言のように語り始める。
「自分の抱えている、この世に縛りつけられるくらいの強い未練が何なのか、教えてくれる人はいないんだ。けど、全て解消しないと成仏出来ない、って先輩幽霊に教えて貰った。自分のことが見える人は、必ず未練に関する人だから、とも。本当にそうだった。親とか、友達とか、思い当たる人に会いに行ったら、みんな俺のことが見えて……。それで、その人達と話してスッキリしたけど、成仏出来なくて。この教室に縛られて……どうすれば良いんだろう? って途方に暮れてたんだ」
桃弥は、ゆっくりと顔を上げると、こちらを真っ直ぐに見つめる。
「そこで。今日、胡桃ちゃんに出会った」
柔らかい、春の陽だまりのような温かい眼差しで。夜をぼんやりと照らす月を見るような、穏やかな顔つきだった。
もっと見ていたい。そう、強く思った。けれど、やっぱり目を逸らしてしまう。そんな自分が更に嫌いになってしまう。
唇を噛み締めながらも、ようやく手を動かした。
『私は、桃弥の未練に関する人だということですか?』
「うん。もっと言うと、俺の未練を解消するのに相応しい人、かな」
どういうことか分からない。
そう聞こうとする前に、桃弥が言った。
「単刀直入に言うよ。胡桃ちゃん、俺の代わりにここで楽しい学校生活を送って」
頭のなかが「?」だらけになる。
『よく分かりません。それは、桃弥の未練を解消することに繋がるのですか?』
うん、と桃弥は深く頷く。
「さっき思いついたんだ。俺が、胡桃ちゃんにだけ見えるようになった理由。それはね、俺と似ているからなんだ。自分とよく似た人が、自分が出来なかったことをしてくれたら、それで満たされるんじゃないかなって」
全く、賛同する気になれなかった。
むしろ逆だと思う。
『桃弥は、私とは違う人間にしか見えません。それに、私だったら、そんなことをされたら余計に悔しいです』
迷いなく書くと、桃弥は眉を下げて微笑んだ。
「……でも、これ以外思いつかないよ」
何だか、桃弥も納得していないようだった。けど、と私は思う。一旦、桃弥の勘を信じよう。
『桃弥がそう言うなら、そうかも知れません。本当のことが私に分かる訳ではないし、これ以上疑いません。私は、』
一旦、手を止めた。
けど、すぐにまた力を込めて書き出す。
どうしてか分からないけど、さっきから、胸が高鳴ってしょうがなかった。
『桃弥が成仏できるように、協力したいです』
「ほんと?」
前髪越しに桃弥の顔を見つめ、こくん、と大きく頷く。
『私が桃弥の代わりとなって学校生活を楽しむことで、桃弥の未練を解消すれば良いのですよね?』
「その通りだよ」
ごくっと唾を飲み込んで、今、自分の書いた文字を見つめる。
そんなことが、出来るのだろうか。
人の目を見るのが怖くて、いつも怯えている私に?
楽しむどころか、普通さえ分からない、私に?
だけど、心の底から、ただ単純に思う。
――嬉しい。
そうだ。誰かに必要とされたのは、初めてだった。
変われるなら、変わりたい。
そんな当たり前の感情を、今、唐突に思い出す。
……いや、願望じゃ足りないんだ、きっと。
変わってみせるんだ。
桃弥の為にも、私の為にも。
『分かりました』
勢いよくページを捲り、でかでかと新たに文字を綴る。それをビッと破ると両手で胸の前に持ち、桃弥に見せた。
『今日から桃弥の代わりに未練を解消します』
決意表明だ。
……ほとんど、見切り発車の。
でも、隣に桃弥がいるなら、ほんの少しでも、今までよりは強くなれる。
そんな根拠のない確信があった。
桃弥は、ふっと柔らかく笑い、「ありがとう」と言った。珍しく頬が緩んだところで、ハッとして紙を下ろして見回した。けど、私を見ている人は誰ひとりいなかった。胸を撫で下ろすと、教室に無機質なチャイムが鳴り響く。桃弥は「じゃあ、またあとで」と笑顔で手を振り、私から離れていった。
『質問していいですか?』
また、休み時間になると私はノートで桃弥に聞く。一応、机の上に問題集を広げておいたから、傍から見るとずっと勉強しているみたいだろう。
「うん。何でもどうぞ」
桃弥は相変わらず窓ふちに両手をついて腰掛け、楽しそうにノートを見下ろしている。
『さっき、桃弥は私と似ていると言いましたが、どういうところがですか?』
うーん、と桃弥は唸った。
なかなか返答がないので見上げると、桃弥は眉を下げてこちらを窺い、「今から凄く失礼なこと言ってもいい?」と聞いてくる。
『全然、大丈夫です。気にしないでください』
「……実は、前から胡桃ちゃんのことは知っていたんだよね。その、前髪が長くて、仲間かと思っちゃったことがあるから」
ごめん! と桃弥が両手を合わせるので、私は静かに首を横に振っておく。
『貞子みたい、ってよく言われます』
「あぁ、そう、いや全然違うんだけれども。俺は数年前に学校から出られなくなっていたからさ、なんかそのとき嬉しくなっちゃって。時々、胡桃ちゃんのことを目で追うようになってたんだ」
え、そうだったんだ。
自然と頬が緩む。私も嬉しい、と思うのはどうしてだろう。
「それで、貞子だとか言われているのを耳にしたときの胡桃ちゃんは、いつも何も変わらなくて。傷つく様子も、髪をなおす様子もなくて。それが凄く印象的だった」
桃弥は、力なく微笑んで私を見る。
「あぁ、この子は、諦めることに慣れてるんだなって。そこが俺と似てると思ったんだよ」
諦めることに慣れてる。
さっきの数学の授業のときの桃弥を思い出した。
──ほんとに変わらないよね、人って。
──まぁ、俺もそうなんだけど。
桃弥も、そんな表情をしていた。
絶望なんて通り越したような。
「……本当失礼なことばっか言って、ごめん」
『全然、大丈夫です。桃弥の言う通りですから』
私は一度手を止め、また、文字を綴る。
『本当に、色んなことを諦めてきました』
人の目を見るのが怖い。
どうしたらなおるのか分からない。
それでも生きていくと決めたから。学校に、行かなくちゃいけないから。
人だらけの教室に、人だらけの電車に乗って行き、帰る。一週間に五回も。それだけのことをするのに、私は前髪を長くする必要があった。
普通でいることなんて、到底無理だった。
「俺も、小さい頃から何かと諦めがちだったよ。……母さんが、ずっと精神的に病んでてさ。自分のことで精一杯で、周りのことは放ったらかし。俺のことなんて、なにも見てくれなかった。だから、そんなもんかぁ、って思うようにしたら、欲が出てこなくなって。生きやすくなった」
あぁ、分かるなぁ。
諦めることは、楽だ。今の自分に、置かれた状況に、慣れてしまえるから。
なにも見てくれなかった、か。
――一緒だ。
そう思って、心が軽くなった。
『私も――』
それから、自分の過去について書いた。三歳の頃、お母さんが私を庇って交通事故で亡くなったらしいこと。それで、お父さんに泣きながら睨まれたような記憶があること。どうしてお前が……なんて声が勝手に聞こえてくること。いつの間にか、人の目を見るのが怖くなっていたこと。
全部、ノートに書き殴った。
誰かに聞いて欲しい。そう願ったのは、初めてだった。
「……そっか。そんな事があったんだ。だからそんなに前髪を長くしているんだね」
桃弥は静かに受け止めてくれた。汚い字で書かかれた、私の過去を、全部。
目頭が熱くなる。一度涙が零れたら、止まらなくなりそうで。ぐっ、と堪えた。
「うん。やっぱり止めよう」
桃弥が突き放すように言う。
――え?
止めるって、何を?
突然言われたことが分からなくて戸惑い、桃弥を見上げると、とても真剣な顔をしていた。
「自分のために、胡桃ちゃんが無理に変わることを強いたくない」
そう言って、俯く桃弥。
「胡桃ちゃんが俺と似ているって分かってるのに、俺に出来なかったことをして欲しいって……凄い自己中だ、ってことに今気付いた。地縛霊になる直前だから焦って、本当に自分のことしか考えてなかったんだ」
桃弥は窓縁からひょいっと降り、私の前で優しく微笑む。
「人の目を見るのが怖いなんて凄く辛いのに、俺に協力しようとしてくれてありがとう」
ぺこり、と頭を下げ、「俺のことはもう忘れて。しばらく見えるだろうけど、全然気にしなくていいから」と早口に言う。
待って。なんで?
そんなすぐに――。
「本当、変なこと頼んじゃってごめ」
「勝手に見切りつけないでください」
思わず口に出していた。
数人がこちらを見た気がする。けど、賑やかな教室ではそんなに目立たなかったようだ。
私は、また、ノートに書き殴る。
『ズルいです。人を本気にさせておいて、もういいって。私は、本当に変わろうと決意したんです。こんなに頑張ろうって思ったのは初めてなんです。なのに、まだ何もしていません。せっかく、』
――傍で見ていてくれる人が出来たのに。
同じだったんだよ、桃弥。
お父さんは、ずっと私のことを遠ざけて、私のことなんて見ようとしてくれなかった。私が何をしようとしまいと、興味ないんだ。
でも、桃弥は、ずっと見ていてくれてたんでしょう?
こうして出逢えたのは、きっと、偶然なんかじゃない。
最初で最後のチャンスを、神様が与えてくれたんだ。
『人は変われるんだってことを、私が証明してみせます。だから、責任持って最後まで見守っててください』
もう、何もかも諦めていたくない。
桃弥が成仏するのも、私が変わるのも。
いつの間にか、ノートが濡れていた。せきを切ったように涙が出てきて、ただただ俯いて、息を止めて声を抑えるしかなかった。
「胡桃ちゃん」
ふわり、と桃弥に抱きしめられる。やっぱり、何の感触もないけれど。というか、むしろ若干すり抜けているような気がするけれど。
胸の奥が、じんわりと温かい。
「訂正するよ。俺と似ているなんて、勘違いだった。凄く……強い人なんだね」
ふるふる、と私は首を横に振る。
『今、変わっただけです』
桃弥は、耳元で息を漏らして笑った。風を感じた、ような気がした。
「ありがとう、胡桃ちゃん。本当に出逢えて良かった」
私から離れると、桃弥はそっと拳を前に出す。
「一緒に頑張ろう」
私も拳を前に出し、控えめに突き合わせる。
やってみせる。人の目を見るのが怖いのを克服して、学校生活を楽しめるように。それで、桃弥が無事に成仏出来るように。
大丈夫。もう、一人じゃないから。