【事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
――ニーチェ】

曇天が一瞬白く光り、数秒後に音が鳴った。風でガタガタと鳴る窓を見て、前髪にだけヘアスプレーをふる量を増やす。まだ着慣れない制服の袖に腕を通すと、スカートのポケットに手鏡とコームが入っているのを確認してから、一階に下りる。そうっと、足音が鳴らないように。階段の軋む音も最小限になるよう、気を付ける。朝ご飯はいらない。お父さんになんて会いたくないから。

けど、ドアノブに手をかけると、リビングの方から声がした。

「いってらっしゃい」

もう二度と帰って来るなよ。勝手に、そんな声が聞こえてきて、心臓にガラスの破片が飛び散ったような痛みが走る。

「はい、い、いってきます」

震えた声で返事をして、外に出た。
 お父さんが、どうして時々声を掛けてくるのか、よく分からない。

最近まで……私を遠ざけて別々に暮らしていたのに。

私は小学生の頃から、お母さんの妹さんにお世話になっていた。お母さんの実家で、二人で暮らしていたのだ。けど、妹さんは、私が高校に進学するタイミングで結婚し、遠く離れた大阪に行くことになった。それで、お父さんは私を受け入れるしかなくなってしまった。……大嫌いな、私を。

後ろから車の音が聞こえてきて、端に寄る。狭い道だから、車は私の横のスレスレを通っていく。水飛沫も上げずにゆっくりと走っていったけど、それでも冷や冷やしてしまう。

 お母さんが交通事故に遭って亡くなった時も、こんな日だったのかな、とぼんやり思う。私を庇ってくれた、とお母さんの妹さんから聞いた。けど、その瞬間の記憶はない。三歳の頃だったらしいから、単に幼すぎて覚えていないのかも知れないし、脳が都合よく処理しているのかも知れない。そのどちらのせいもあるのだろうとも思う。

 ただ……どうしてか、お父さんの目はよく覚えていた。病院で、お母さんが眠っているベッドの横で、泣きながら私を睨んでくる目を……。

この記憶は、本当は、やけにリアルなただの夢かも知れない。最初はそう思っていた。けど、お母さんは私を庇って交通事故に遭ったのだと聞いてから、確信したのだ。

そうか。あのお父さんの目は、私のことを責めていたんだ、と。

幼いながらにショックだった。

不意に、あのお父さんの目を思い出す度、どうしてお前が……と勝手に声まで聞こえてくるようになった。

目だけで、こんなに傷つくのだと知った。
それから私は――人の目が怖くて見れなくなった。

ずっと、今も。変わらないままでいる。
 
家を出てからまだ数分しか経っていないのに、百均で買った傘が小さいのか、スカートの膝から下はずぶ濡れになってしまった。あぁ、先週、数学の時間が大嫌いだからって二日連続で休まなければ良かったな。せっかく晴れていたから行けば良かった。そしたら、出席点を気にして、こんな日に満員電車に揺られに行くこともなかったのに。一歩踏み出す度、ローファーのなかに溜まっている水がぐじゅっと音を立てて気持ちが悪い。


向かい風に吹かれて傘が裏返りそうになるのを手で押さえつつ、なんとか学校に辿り着く。校舎の時計の針が授業開始十分前を指しているのを見て、私は急いでトイレに向かった。用を足す為ではなく、乱れた前髪をなおす為に。

既に、鏡の前は談笑する集団に占拠されていた。でも、問題ない。私は最初から個室に入るつもりだからだ。酷く丁寧に整えているところを誰かに見られるのは、やっぱり恥ずかしい。

迷わず一番奥の個室に入ろうとしたとき、カシャッと足元で何かが落ちる音がする。手鏡だ。一瞬、自分のものかと思ったけど違った。多分、この集団の誰かのものだ。大きな笑い声を上げていて誰も気付いていない。

手鏡を拾い上げると、キュッと唇を引き結び、大きく深呼吸をする。そして、一番近くにいる人の肩を叩いた。

「……これ、落としましたよ」

楽しそうな笑い声が一気に止み、みんな私を振り返る。視線が痛い。怖くて、思わず目を強く瞑り、俯いてしまった。人の目が見れなくても、いや、見れないからこそ、視線に敏感になってしまうのだ。少なければ、苦しくはならないのだけど……。

胃が強く締め付けられるなか、石になったように制止するしかなかった。早く、誰か何か言って欲しい。たった数秒間なのに、凄く長いように感じる。

そのうち、私が肩を叩いた人の隣にいる人が声を上げた。

「あっ! それ私のだー。ありがと」

ひょいっと私の手から鏡を取ると、何やらアイコンタクトをし合い、また笑いながら出ていった。ひとり胸を撫で下ろし、顔を上げた。途端、よく通る声が聞こえてくる。

「ビックリした。貞子かと思った」
「ねー、何あの前髪! 長過ぎでしょ」
「てか誰?」
「知らなーい」

特に傷つくことはない。やっぱり、と思うばかりだ。

一番奥の個室に入ると、下水臭が強くなった。素早く手鏡とコームを取り出すと、慣れた手付きでさっと長い前髪を整える。見え過ぎず、見えなさ過ぎず。出来るだけ怯えないで済むように、壁を作っていく。

廊下から、わっ、と誰かの弾けるような笑い声が聞こえ、ふと手が止まってしまう。

いつからだろう、と思う。

消えたい、なんて思うようになったのは。

意味もなく、ただ、いなくなってしまいたいと思う。

どうしてか、みんなは地に足がついていて、自分だけが宙に浮いている感覚になる。

幽霊にでもなったかのようだ。いや、私なんて、誰にも認識されていないようなもんだし。もうなっているか。なってしまった方が……楽かも知れない。
なんて、突然真剣に考え始める自分は、本当に馬鹿なんだろうな。分かっている。けど、願望は消えない。