桃弥が言ったのと同時に、私は華井さんから離れ、「ちょっと、トイレに行ってきます!」と教室を出て行った。
隣に、桃弥がついてきていた。
私達は、急いで、屋上へと向かう。そこには、誰もいなかった。

「桃弥……っ、私、」
「落ち着いて、胡桃」
桃弥は柔らかく微笑んだ。
「ほら、見て」片方しか残っていない腕を広げる。「けっこう、消えるの遅いから」
半分くらい、けれどまだ確実に残っている桃弥の身体を見ながら、無理やり深呼吸をする。
「……凄く、可愛い目をしてるよね。胡桃は」
せっかく落ち着けた心臓が、一瞬でバクンッと跳ね上がった。
「あっ、いや、その……あ、ありがとう、ございます」
深く頭を下げる場面なのかは分からないけど、下げていた。桃弥は、明るく笑った。
真っすぐに桃弥の目を見つめる。桃弥こそ、凄く可愛い目をしている。なんてことは言えないけど。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「お父さんと、ちゃんと話をしました。それで、前髪を切ることが出来たんです」
おぉ、と桃弥は拍手しようとする。
けど、「あっ、半分消えてた」とからっとして言った。私は、イマイチ笑えなかった。
「やっぱり、何かすれ違っていただけだった?」
こくん、と私は頷く。
お父さんの、やけに眉間に皺が寄っている顔を思い出す。今朝も、朝食を食べているときも寄っていた。不味いとかではなく、癖らしい。
「……結局、私は表面的な部分しか見ていませんでした。狩南さんに、偉そうなこと言えませんね」
言うと、桃弥は静かに首を横に振り、柔らかな眼差しをこちらに向ける。
「これから、見ていければ良いんだよ。気が付いた時から、ちゃんと変わり始めてるんだから」
私は、目を瞑って俯く。涙が、一粒落ちていった。それから、桃弥の半分消えてしまった顔を見上げ、「そうですね」と、笑顔で言った。
お別れが、近づいてきている。
でも、何を話せば良いのか、よく分からなくなっていった。
最後に、伝えたいこと――言わなければ、いけないこと。
それは、桃弥への、祝福だと思った。
「桃弥。成仏出来そうで、良かったですね」
声が、震えてしまっていた。ちゃんと目を見て言ったけど、視界が滲んでしまって、桃弥の顔がよく見えない。
伝わっただろうか。押し込んでいる、気持ちはあるけれど……本当に、思っていることではあるから。自分の想いなんかより、桃弥の幸せの方が、ずっとずっと、大事だから。
「ありがとう、ございました。桃弥に出逢ってから、私の毎日は、輝き始めました。辛いことも、あったけれど……隣に、桃弥がいたから、前を向くことが出来ました。これからは、桃弥がいなくても、ちゃんと」
言葉が、出てこなくなってしまった。
涙と洟で汚れた顔を見られたくなくて、両手で顔を覆って俯いてしまう。
自信が、ない。
ちゃんとやれるって、言って、桃弥に安心して欲しいのに。
笑顔で、さよならを言いたいのに。
「胡桃……俺も、胡桃に出逢えて、本当に良かったよ。ありがとうって、何度言っても足りないよ。胡桃が隣でずっと頑張ってくれてるのを見れたから、また、この世界に生まれてきたいな、って思えたんだ」
腕で顔を強く拭い、桃弥を見る。
真っ赤に目を充血させ、涙をこれでもかと流していた。
「俺、昨日、真っ暗な教室でひとり、ずっと願っていたんだ。パラレルワールドでもいいから、生きて胡桃と仲良くなれますように、って。六歳差だから……俺が色んなところに連れて行って、胡桃の初めてを全部奪うんだって――……あっ」
桃弥が、慌てて右手をぶんぶんと振る。
「ち、違うんだよ。初めてっていうのはその……変な意味じゃなくて」
「変な意味で、良いですよ」
もう、限界だった。
最後に、これだけは、言わせて。
「私、桃弥のことが、」
「待って」
凛とした口調で、遮られた。
「そういうのは、男から言わせてよ」
桃弥は、ふわっと頬を緩める。
「好きだよ。大好き、胡桃」
何も、考えられなくなっていく。
嘘、だ。こんな奇跡――こんな、最後に……。
涙が溢れて、顔が歪む。けど、私は、桃弥から目を逸らさなかった。
「私も、大好きです。ずっと、一生、大好きです」
すると、桃弥が右手で顔を覆って俯いてしまった。
足が、もう、なくなっていた。
どんどん、桃弥が、この世界からいなくなっていく。
「あぁ、消えちゃう……なんでかな、消えたくないな。胡桃と、もっとずっと、一緒にいたいな」
嗚咽混じりに、苦しそうに呟く桃弥。
息が、しにくくなっていく。
時間を巻き戻せたら、どんなに良いだろう、と思った。桃弥が死ぬ前に戻って、私が助けにいけたら――。
あるいは、こんな形で出逢わなかったら――。
神は、なんて意地悪なんだ、と思った。
「桃弥っ……」
行かないで。
そう言おうとした時、桃弥は笑った。
息を漏らして、心底幸せそうに、笑った。
「俺、生きてるとき、ずっと消えたいって思ってたのに……死んでから、消えたくないって願うなんて思わなかった」
私の目を見て、真っすぐに言う。
「俺の人生全部、胡桃に出逢えたことで救われたよ。胡桃は、神様からの最高のプレゼントだね」
なんて、クサイか。そう言って桃弥はまた笑った。
あぁ、そうだ。
こんなの、消える訳ない。
桃弥と過ごした時間、貰った言葉、勇気――全部、私のなかに、残り続ける。
「私にも、沢山のプレゼントをありがとうございます。
桃弥は、私が生きている限り、絶対に消えません。
私のなかにいて、ずっと、勇気を与え続けてくれます。……そうですよね?」
聞くと、桃弥は、満面の笑みを見せる。
「うん。その通りだよ」
私は、やっと、笑顔になれた。
もう、桃弥はほとんど、顔しか残っていなかった。
「胡桃。俺の最後の言葉……聞いてくれる?」
「はい」
桃弥は、やけに真剣な表情をして近づいてくる。
「胡桃は、俺にこんなことを言わせた胡桃は、もの凄いです。だから――ちゃんと、いつかちゃんと、自分のことを認めてあげてください」
耳元で、囁くように言った。
「自分を否定するのはいいけど、それで生きた気にならないでください。
どうか勇気を持って、自分のことを好きになってください。それが、俺の、最大の願いです」
何も考えられなくなって、気づいたら、宙に手を伸ばしていた。
桃弥を抱きしめた。抱いて、必死に、「はい」と何度も誓った。
桃弥は、安心したように笑った。
ぐっと足先を伸ばして、唇を近づける。
「大好きだよ、胡桃」
「大好きです……っ、桃弥」
目を瞑った。
そっと、唇に、柔らかいものが当たった。
確かに、感じたんだ。
――でも。
目を開けると、そこには、誰も何もいなかった。
「……………」
私は、笑顔で言った。
「いってらっしゃい、桃弥」
そして、静かに屋上の扉を閉め、教室へと戻っていく。
地に足がついている感覚が、酷く心地よいと思いながら――。