次の日。学校に行くと、机のなかに入っていた教科書が全部濡れていた。
手に持つと何だか臭い匂いが漂ってくる。
 吐き気が込み上げてきて、腕で口を押さえる。もしかして、トイレに……?
「わっ、どうしたのぉ、それ~」
 華井さんが深刻そうな顔で、濡れた教科書と私を交互に見る。
「えっと、これは……」
 脳内で一度シミュレーションする。笑顔で、何でもない風に、こう言うのだ。多分、狩南さんの仕業です。昨日は、シャーペンを全部ゴミ箱に捨てられただけだったんですけど、まさかこんなすぐに酷くなるとは、あはは……駄目だ。華井さんは絶対に笑ってくれない。
「か、鞄のなかに、お茶を零しちゃったんです……」
 適当に嘘を吐いた。全然、口角は上手く上がってくれなかった。
「えぇ~、大変! 私もやっちゃったことあるんだけどぉ、ほんっと萎えるよねぇ。はい、私のハンカチ使って~」
 華井さんがポケットから出してくれたのは、花柄の皺一つない綺麗なハンカチだった。
「いやいや、大丈夫です! 汚しちゃったら、悪いので……」
「気にしないでよぉ。あっ、ハンカチ一つで足りる~? けっこう濡れちゃってる感じぃ?」
 華井さんが、机の横に掛けてある私の鞄を覗き込もうとする。
 まずい。嘘がバレちゃう。
 私は咄嗟に腹から声を出した。
「だ、大丈夫です!」
 発声練習のお陰で、上手くいった。
 華井さんは、ぴたりと動きを止め、「そ、そう~?」と困惑の表情を浮かべた。そこで運良くチャイムが鳴る。
席に着き、濡れた教科書を開く。
誰にも気付かれないよう、大きな溜息を吐いた。
早急に何とかしなければいけない。

「あ、あのっ、狩南さん」
昼休み。女子トイレで、鏡の前で談笑している狩南さんに話しかける。狩南さんの他にも何人かいて、一斉にこちらを振り返ったからすぐに俯いてしまった。
「何?」
狩南さんは鋭い声で返答する。強く睨みつけられているのが分かる。胃がキリキリと締め付けられ、案の定、上手く息が吸えなくなってしまう。
けど、負けたらダメだ、と自分に言い聞かせ続けた。
「あ、の……やめてくれませんか」
「はぁ?」
私の弱々しい声は、狩南さんのよく通る声に掻き消されてしまう。
「何が?」
 手が震えてきた。ダメだ……このままじゃ、今までと何にも変わらない。
昨日、あんなに練習したのに。
「胡桃……」
 桃弥の心配そうな声が聞こえる。
 私は、胸の前でぎゅっと両手を握り締め、俯きながら、けど、腹から声を出すことを意識して言う。
「わ、私は、分かっていますから! その……見た人が、いるんです。狩南さんが、私のシャーペンを全部ゴミ箱に」
「あーなんか勘違いしてるわ、燦美野さん」
狩南さんは遮った。
それから、私の右肩に手を置く。
「ちょっと話そっか。二人で」
全身が、凍っていくようだった。

 狩南さんについていくと、屋上前の階段に辿り着いた。二人とも無言で、扉に巻き付けられている鎖の下をくぐっていく。
屋上には、今日も誰もいなかった。
少し歩いたところで、私達は向き合う。
「やめてよねー、皆の前でいじめの犯人に仕立て上げるの」
狩南さんは、どこか楽しそうに言った。
全く意味が分からなかったから黙っていると、「なんか言いなよ、燦美野」と狩南さんが一段と声を低くして言う。やっぱり怯んでしまう。けど、何とか息を吐き出す。
「か、狩南さんが、私に嫌がらせをしているんじゃないんですか?」
「そうだけどさ。皆には内緒でやってるから、言いふらされると困るんだわ」
本当に、何も理解出来なかった。
「み、皆に、堂々と胸張って言えないことを、しないでください」
ぷっ、あははは、と狩南さんは笑い出した。
何が面白いのだろう。
「あんたってけっこう言うんだね。意外だわ。華井には、私に苛められてること隠してたのに」
鋭い視線のせいで、どうしても顔を上げられなかった。けど、桃弥が私の両肩に手を置いてくれて、それでけっこう落ち着くことが出来た。
「華井さんには……心配を掛けたくないので」
ふうん、と狩南さんは平坦な声で言った。それから、でも、と声を高くする。
「華井はあんたみたいな地味な奴嫌いだよ」
 どうしてそんなことを言うの?
腹が立って仕方なかった。
「私は、華井さんの言うことしか信じません」
狩南さんは何も言わなかった。
 数秒ほど、間が空いた。
 私は唾を飲み込み、ぐっと腹に力を入れて一息に言う。
「と、とにかく、私を苛めるのはもうやめてください! 先生にだって、こ、これ以上酷くなるなら警察にだって、言ってやりますから!」
はぁ、はぁ、と息切れした。
嘲るように、狩南さんは吹いた。
「警察って……そこまで酷いことしてないんですけどー」それから、大きな溜息を吐く。「まぁいいや。一つだけ私の言うことを聞いてくれたら、やめてあげてもいいよ」
思わず顔を上げる。
「な、なんですか?」
「華井に、ウザイから話しかけないで、って言って」
 被せ気味に言われる。
「どう? 簡単でしょ?」
 体が固まってしまった。
「なんで……ですか」口をついて出る。「なんで、狩南さんは、そんなことを望むんですか?」
こんな人の気持ちを知りたいなんて、どうかしてる、と思った。
「わ、私と華井さんの仲を引き裂いたところで狩南さんに何の得が」
「ウザイのよ」
狩南さんは、短く言った。
 けど、先程までの強い口調ではなかった。
「あんたや華井なんて、独りの方がお似合いでしょ? それに……華井がちょっとでも傷ついた顔を見れたら面白いなって、それだけよ。分かった?」
「……分かりません」
 頭を抱えたくなる。
「私達のことを、狩南さんに勝手に決められたくないです。あ、あと、華井さんは、悪いことしてないじゃないですか。たまたま、西田くんは華井さんのことが好きだっただけで」
「たまたまじゃない」
 重く、沈んだ声で遮られる。
 狩南さんは、また、大きな溜息を吐いた。
「……私が好きになる人みんな、華井のこと好きになる……中学のときから、ずっと」
 私が黙っていると、狩南さんは、どこか遠くを見て続ける。
「高校ではそうならないように、華井は中学のとき人の男を奪ってたとかテキトーに嘘の噂流したら、まぁ女子はみんな離れてったわ。実際ぶりっこだし、誰も疑わなっかった。でも、男子は……ちょっと可愛ければそれで良いのね。結局何も変わんなかったわ」
 西田くんに振られ、酷く俯いていた狩南さんの姿が脳裏に浮かぶ。
 全く、同情する気にはなれなかった。
「お、おかしいです、そんなの……。悔しいなら、自分が努力をすれば良いだけじゃ――」
ガシッと髪を掴まれた。
血が出るんじゃないかってくらい、痛かった。
「うるさいのよ、あんた。さっきからなに貞子の癖に偉そうにしてんの?」
 狩南さんは少し涙声になっていた。
 言い返す気に、なれなかった。そんな私の髪を離すと、狩南さんは私の肩を強く押す。よろけたけど、転びはしなかった。反射的に前髪を整えてしまう。
 確かに、こんな前髪の人に言われてもなぁ、と冷静に思った。
「とにかく、よろしくね? それで今回は丸く収まるんだから」
 狩南さんはいつもの調子で言うと、私の横を通り過ぎて扉の方に向かう。
 話は終わったようだ。
 ……これで、丸く収まる……。
「嫌です」
 凛と声を張っていた。
 狩南さんは足を止め、こちらを振り返る。
「私は、華井さんと、ずっと友達でいたいです。だから……それ以外の言うことなら聞きます」
 狩南さんは、大きく笑った。
手を叩く、耳障りな音が屋上に響き渡る。
「ほんっと滑稽ね、あんた。華井はあんたのこと引き立て役にしか思ってないよ?」
 頭に血が上った。
 両拳を握りしめ、真っ直ぐに叫ぶ。
「華井さんの何を知っているんですか!? か、狩南さんには、華井さんの魅力は絶対に分かりません!」
 暫く間が空いた。
 けど、狩南さんは相変わらず馬鹿にしたように言う。
「ここまでくると惨めだわ」
 あぁ、もう。何を話しても分かり合えない。そう思った。
「あんたこそ人ってもんを分かってないわ。結局みんな表面的なところしか見てないし、ちょっとしたきっかけで離れていくもんなんだから」
 それから、あ、そーだ、と狩南さんは薄笑いして言う。
「試しに私が言ってあげようか? 華井に、燦美野があんたのことウザイって言ってたよ、って。あんたの信じてる友情なんてすぐ壊れるよ?」
「……私達のこと、な、舐めないでください」
 また、大きく笑われた。
「じゃあ、明日までに言っといてあげる。華井の反応が楽しみねー」
 狩南さんはそう言って、勢いよく扉を閉めた。
もう、二度と話したくない。顔も見たくない、と強く思った。

放課後。華井さんに笑顔で「また明日ね~」と言われ、心底ほっとしている自分がいた。舐めないでください、なんて言ったけど……やっぱりどこか不安に思っていたのだ。
 良かった。華井さんは、私のことを信じてくれたんだ。狩南さんは、まだ私を苛めるのをやめないのかな。
 玄関で、どんよりとした曇り空を見上げる。今にも灰色の固まりが落ちてきそうだった。手のひらを出すと、ぽつぽつと雨が当たったので折りたたみ傘を広げた。明日の朝、これ以上降っていると嫌だな。余計に登校する気が削がれてしまう。
特にどこに寄ろうか決めずに歩いていると、桃弥がボソッと言う。
「あいつに似てるよ、狩南さん」
聞いたことのある、暗いトーンだった。
「桃弥のことを、苛めていた人にですか?」
 うん、と桃弥は小さく頷いた。それから、目を伏せて言った。
「自分で今を変えていく力がないから、人の足を引っ張ることしか出来ないんだ」
 傘に雨の当たる音が大きくなるのを聞きながら、本当にそうですね、と返した。
 そうして桃弥は、私に高校のときのことを話し始めてくれた。あいつはきっと、俺が自分より良い高校に行って楽しそうにしてるのが気に入らなかったんだ、と。
 夏休みが明けてすぐのことだった。桃弥は、急にクラスの皆から避けられるようになったらしい。ずっと、仲良くしていたのに。いつの間にか、桃弥についての黒い噂が流れていた。どれもこれも、身に覚えのないものだった。出所を探ると、桃弥の中学のときの友達と言う人からだった。それも、見るからに不良の。不良の友達がいた覚えはなかったけど、桃弥はすぐに思い当たった。あいつだ、と。どこでどう吹き込んだのかは分からないけど、そんな嘘吐いてまで嫌がらせしてくるのはあいつしかいない。
「苛めてくる奴も、それに流される周りも変わらない。高校にいってもそうだった。この世界のひと皆そうなんだって絶望したよ。だから不登校になって――死んだ」消え入りそうな声で言う。「……俺は、一人だけでも、俺のことを信じてくれたら良かったんだ」
 胸が苦しくてしょうがなかった。でも、唇を噛みしめるだけで、何も言えない。
 桃弥は無表情で続ける。
「理想的な世の中であってくれとまでは言わない。せめて学校は、いや――俺のクラスは、俺の周りだけは、正しくあって欲しかった」
 言葉を詰まらせていると、桃弥がすぐに明るく笑った。ごめんね、急に暗い話して、と。私は、全力で首を横に振った。
「それが未練だとしたら……華井さんは、本当の友達なので、大丈夫です。明日も同じように笑ってくれると思います。だから、その様子が見れたら」
 成仏出来るかも知れないです。
 そう言おうとして、口が止まった。
 胸の奥がズキッと痛む。
あぁ、そうか。気付いてしまった。私は――
「胡桃?」
 桃弥が、心配そうな顔で覗き込んできた。私は不器用に笑みを浮かべる。
「な、何でもありません。明日も、頑張りますね」
 複雑な感情を全部、無理やり心の奥底にしまう。とても自己中で、抱いてはいけないものだと思ったから。
 私は、桃弥の幸せを願っている。
ただそれだけだから。
そうでないと、いけないから。