その後、発声練習はヒートアップしていった。桃弥が「好きな食べ物への思いを叫ぶんだ!」などと元気よく言うので、「チョコレートケーキ! この世で一番頬が落ちる!」「最近食べてないから食べたい!」などと夕日に向かって叫んでいた。傍からみると食欲が湧き過ぎて頭がおかしくなった女子高生だ。
「ママ~、あの人なにしてるの?」
「しっ。見ちゃ駄目!」
 ……ほら。河川敷に遊びに来ていた親子にも変な目で見られている。
 母親は、子供の手を引っ張って行って更に私から距離を取り、ボール遊びを再開した。
「……。桃弥、ちょっと休んでも良いですか」
「うん、よく頑張ったね」
 私達はその場に座り込んだ。
 強烈な光を放つ太陽を眺めつつ、息を整える。
「……これで、狩南さんを前にしても、怖じけずに何か言えそうです」
 おっ、と桃弥は明るい声を上げ、拳を突き出してきた。私も笑顔で拳を出し、合わせる。
 今までは、やられっぱなしでも良い、と思っていた。私なんだから、仕方ないと。当たり前のように、諦めていた。
 けど、隣に桃弥がいるだけで。
変わろうとする勇気を持てるんだ。
二人で、暫くの間ぼーっと遠くの方を見ていた。さっきの親子が、ずっと仲睦まじく遊んでいる。……いいな。桃弥も、同じく見ているんだろうな、と思った。
すると、その親子に、一人の男が近づいていった。ひと目で鳶職と分かる格好をしている。その男に、パパ! と子供が駆け寄って行った。仕事場から直接やって来たのだろうか。母親もだけど、随分と若いなぁ。
子供を抱き締め、愛しそうに頭を撫でている。
 ……もし、と幾度となく考えてきたことを、また考える。
私もあんな風に遊べたのかな、お父さんと、普通に……お母さんが生きていたら……。
「あっ……」
 隣から、何やら苦しそうな声が聞こえる。
 見ると――桃弥の体から、黒いモノが出ていた。
「桃弥……!?」
 それは、煙でも、蒸気でもない。
完全にこの世のものではない、一瞬で背筋が凍るほどの恐ろしいものだった。
「どうしたのですか、桃弥……!」
 黒いモノに触れると何故か酷い悪寒がして、すぐに手を引っ込めてしまった。
 桃弥がどんどんと包まれていく。
「いや……っ」
何、これ……。
一体何が起こっているの!?
「……しまった」桃弥が、低い声で呟いた。「あいつを……見かけないように、この街はふらつかないようにしてたのに……」
 桃弥の視線の先には、さっきやって来ていた男がいた。
「あれ……俺のことを、ずっと苛めてた奴なんだ」
 ドクン、と心臓が脈打った。
「……もう、何とも思ってないと、思ってたのに……くそ……っ」
「もしかして、悪霊になろうとしているのですか?」
 震える声で聞いた。
 桃弥は、小さく首を横に振る。
 黒いモノは、桃弥の顔半分を飲み込んでいく。
「いや、いやです、桃弥……! 私が、私がもっと早く成長して、絶対に上手くいってみせますから……! だから、だから成仏しましょうよ、桃弥……!」
 桃弥は一筋の涙を流した。
 そして顔を歪める。
「ごめん。もう、駄目かもしんない……俺、すげぇ弱いや……。胡桃は、ちゃんと前を向いて……頑張ってるのに……! あぁ、嫌だ……」
 ゆっくりと、目を伏せた。
「……っ、胡桃…………。たす、けて」
 私は、すっと立ち上がった。
 涙でぐちゃぐちゃになった顔を腕で拭きながら、男のもとへ猛ダッシュする。
 おかしい。
 こんな世界、腐ってしまえ。
「あのっ!!」
 子供を高く抱き上げる男に、大きな声で呼びかける。
「桃弥のこと苛めてた人ですよね!!」
 男の顔が、一瞬で真顔になった。
「は?」
「仙二桃弥のことを、苛めてた人ですよね!!!」
 男は数秒黙り、あぁ、と意味深に笑った。それから、子供を母親に預け、私に歩み寄ってくる。
「何なの、お前」
 腕を組んで睨まれるも、私は一歩も下がらなかった。
「聞いてるのはこっちです!!!」
「知らねーよ。そんな奴」
 タックルしてやった。もう、何も考えてなかった。
 当然、力で敵う筈もなく、私は簡単に地面に倒される。
 悔しい。
 こんなの、おかしい。
「何すんだ、いきなり」
 男は、私を見下ろして余裕の笑みを浮かべていた。
 奥歯を噛みしめる。
「桃弥は、今も苦しんでいます!! ずっと、ずっと貴方のせいで……!! 」
立ち上がり、強く睨みつけた。
「一発殴らせてください!! 桃弥の代わりに、私が……!!」
 その時、母親が叫んだ。
「やめて!!」
 私も男も、ぴたりと動きを止める。
「もう喧嘩はしないって約束したでしょう? 貴方」それから、私に向かって言う。「何のことだか分かりませんが、これ以上夫に何かするなら警察呼びますよ。高校生だからって容赦しません」
子供が泣いていた。
 私は、そこでようやく冷静になり、立ち尽くす。
「胡桃!」
 振り返ると、すぐそこに桃弥がいた。
 黒いモノは、もうすっかり消えている。
「……大丈夫になった。もう、大丈夫だから」
赤く目を腫らして、微笑んでいた。
私は、親子に深く頭を下げると、その場から走り去る。
しばらく川に沿って、ただただ歩き続けた。日は落ちようとしている。けど、何だかまだ家には帰りたくなかった。
そのうち足が止まった。
すぐ近くにあった土手に腰を下ろす。
「……ごめんなさい。勝手なことを、してしまいました」
 桃弥は、静かに「そんなことない」と言った。
それから、ふっ、と勢いよく吹き出す。
「俺のことであいつに立ち向かっていく人、初めて見たよ」
 ……初めて?
 私は、深く溜息を吐いて、呟く。
「この世界は間違っています」
 そうだね、と桃弥は言った。
「けど、俺の世界は、今ちょっと正しくなったよ。胡桃のお陰で」
 満面の笑みをこちらに向ける。
 心臓の音が、うるさかった。
桃弥はそっと私の肩におでこをつける。
「ありがとう」
涙混じりの声で言って、鼻を啜った。
「生きてるときに、出逢いたかったなぁ……なんて」
 思わず顔を逸らす。頬に手を当ててみると、やけに熱かった。
 想像する。
 桃弥が生きていて、私と、どこか街中で会っていたら。
 きっと、ただすれ違っていただけだろう。
 私は唇を引き結び、ゆっくりと口角を上げて言う。
「こういう形だから仲良くなれたんですよ」
数秒間空いた後。桃弥は、「それもそうだね」と、小さく呟いた。

家に着いた頃には、すっかり暗くなっていた。また、お父さんより遅く帰って来てしまった。静かにドアを開けると、廊下にお父さんが居たからつい動きを止めてしまう。お父さんは、トイレのドアを閉めていた。丁度出てきたところだったようだ。
私は黙って背を向け、いつものようにそうっと玄関のドアを閉める。
お父さんは、話しかけてこなかった。
 振り返ると、お父さんがリビングに入っていくのが見えた。ほっと胸を撫で下ろし、自室に行こうと階段に足をかける。けど、一旦止まった。
 リビングの方からは、テレビの音がする。
 数十秒迷った末、ごくり、と唾を飲み込んだ。
それから、深く息を吸う。
「たっ、ただいま!!」
 発声練習した後で、思ったよりも大きな声が出た。
 急いで階段を駆け上がると、ベッドにダイブする。
 枕に顔を埋め、うぅ、と自分でもよく分からない呻き声を出した。
「偉い」
 顔を上げると、桃弥が微笑んで、私の頭を撫でていた。
「……お父さんは、さっき、どんな顔をしていましたか?」
 聞くと、桃弥は眉を下げる。
「またこんな遅い時間に帰ってきて……って言いたそうな顔してたよ」
「……そう、ですか」
 窓の外を見る。
 綺麗な満月が、私達に惜しみなく光を注いでいた。
「いつか……いや、近いうちに、ちゃんと、今のお父さんの気持ちを……聞きますね」
最後の方は、声にならないくらい小さくなってしまった。
桃弥は、無理はしないようにね、と言った。
 相変わらず優しいな、と思う。