「加奈、ちょっと待って」

 廊下で声をかけられて、加奈は振り返る。そこへ、由美が手を上げて近づいてきた。

「本、ありがとう。助かったよ」

 由美が分厚いハードカバーの本を差し出した。彼女は同じゼミで、レポートで使う参考資料として貸していたものだ。

「レポート、大丈夫だった?」

「お陰様でどうにか。本のお礼になにか奢るよ。これから時間ある?」

「うーん……今日はやめておく」

 渋った返事をすると、由美が心配そうに顔を覗き込んできた。

「まだ具合悪い? 怪我したところ、痛む?」

「少しね。でも、そのせいじゃなくて、ちょっと疲れてるだけ」

「……そっか。わかった。無理しないでね。じゃあ、また明日ね」

 しつこく誘うことなく、由美は「バイバイ」と手を振って去って行く。このところ加奈にいろいろあったせいで、かなり気遣ってくれていた。

 校舎の外は体の芯まで冷えそうな気温で、吐く息が白く凍る。

 年が明けてから、もう半月にもなる。今年の正月は入院していて帰省できなかったが、加奈の地元は雪が積もっているだろう。

 真冬の空に、幾重もの雲が流れていた。その隙間をぬって見えるごくわずかな空の色が、少しだけ心を温めてくれるような気がする。

 昨日、初めて恋人の家を訪ねた。

 恋人といっても、数ヶ月前に別れている。そして、彼――浩文はもうこの世にはいないけれど。

 ずいぶん一方的な別れ話の後、とても悲しかったし、腹も立った。けれど、ずっとなにかが引っかかっていて、先月の初め頃に思い切って手紙を書いてみたのだ。

 返事をくれたのは彼ではなく、浩文の母親だった。

 そこには、彼が病気で亡くなったことが書かれていた。

 あんなに気になったのは、虫の知らせというやつだろうか。

 加奈は、占いやおまじないといったスピリチュアル的なことはあまり信じない。でも、少し前に、不思議なことがあったのだ。

 一月ほど前、加奈は殺されそうになった。大袈裟に聞こえるが、本当にアパート近くで待ち伏せされて命を狙われたのだ。

 犯人の男は、以前、加奈がバイト先でつかまえた万引き犯だった。男は他にも窃盗事件を繰り返していたらしく、しばらく服役していたらしい。そのことで加奈を逆恨みして、復讐しに来たというわけだ。

 加奈はナイフで刺されたが、幸い傷は浅く命に別状はなかった。

 通報が早かったことも幸いしたらしい。

 自力で助けを求める気力はなかったが、ちょうど同時刻にその一帯の街灯がすべて砕け散るという事故があった。その音で様子を見に出てきた近所の人たちに発見され、救助してもらえたのだ。

 傷は浅かったとはいえ、12月の夜にいつまでも外で倒れていたら、低体温の危険もあっただろう。早く発見されて良かったと、医師も言っていた。

 街灯が壊れた原因は、調査では電圧の異常ということになったらしい。

 通りに立つすべての街灯が、だ。そんな偶然があるものだろうか。

 不思議なことはそれだけではなかった。

 加奈を刺した犯人はすぐにつかまったのだが、現場に凶器のナイフが落ちていたことが決め手だったという。

 犯人の証言によると、『急に空気中で変な音が鳴って、火花が散って、怖くなって逃げた』とのことだった。警察は、犯人の幻覚と片付けたらしいが、加奈はそうは思っていない。

 刺されてから、手術を終えて目覚めるまでのことは、よく覚えてはいないけれど。そのあいだ、ずっと夢を見ていた気がする。

 夢の中で、加奈は亡くなった浩文と遊園地にいた。

 晴れた日に、ふたりで観覧車に乗って、いろんな話をして。つきあっていたときと同じ気持ちで、楽しい時間を過ごしていた。

 どんなことを話したのかは、残念ながらほとんど忘れてしまった。

 それでも、夢の中で見たもの、聞いた音、感触のすべてが、妙にリアルに蘇る。

 楽しい夢だったはずなのに、目覚めたとき加奈は泣いていた。

 なんの涙なのかはわからない。胸に深く突き刺さるような悲しみと、穏やかな喜びが、心の中で混ざり合っていた。

 事件の夜に起こったすべての不思議な出来事は、浩文が起こしたものだと加奈は思う。そのおかげで、事件に対する恐怖は薄れた。

 犯人に刺される直前も、誰かに呼ばれた気がした。あれも、浩文が危険を知らせてくれたのではないだろうか。

 幽霊は信じていなかったけれど、彼の幽霊なら会いたい。幽霊に助けられるなんて、そんな物語みたいなことがあればいい。

 彼に救われたこの命を、大事にしたいと思えるから。

 浩文の家を訪ねて、彼の仏壇に手を合わせた。遺影の彼は違う人のようで、今もまだ、彼が亡くなったことには実感がわかない。

 浩文は家族に加奈のことをあまり詳しく話していなかったようだけれど、彼の母親は会えて嬉しいと言ってくれた。

 彼女が見せてくれたものがある。

 それは、浩文のスマホの中に残された一枚の写真だった。

 浩文は、メールもアドレスもすべて綺麗さっぱり自分で処分していたらしい。軟弱そうな外見に反して、そういうところは癪に障るほど潔い。

 だけど、どういう思いからなのか、その一枚だけがフォルダの中に入っていたという。

 去年の秋にふたりで行った遊園地の写真だ。

 曇り空を背景にしたツーショット。

 浩文は写真があまり好きではなかったから、ふたりで撮った写真はものすごく少ない。

 そのときも、気乗りしない浩文の腕をむりやり引き寄せて、記念だからと加奈が強引に撮った。そのせいで、彼の表情はぎこちない。

 すぐ消すと言ったくせに、残していたのか。

 そういう天の邪鬼なところもあったな。

 思い出して少し笑って、少し涙ぐんだ。

 空気がひんやりしたかと思うと、ちらちらと雪が舞っていた。冷たくてやわらかい感触が頬をかすめて落ちていく。

 今夜は雪になるらしいから、明日の朝には積もっているかもしれない。

 雪景色は故郷で見慣れている。だけど、浩文と一緒に見た去年の雪は、いつもよりもっとずっと、綺麗だった。

「綺麗だね」と加奈が言ったら、彼は「寒い」と不満そうにぼやいていた。それから、付け足したように「綺麗だけど」と笑った。

 今年も一緒に見られたら良かった。

 もっとたくさんの景色を、ふたりで見たかった。そんな小さな喜びを、分かち合いたかった。

 空を仰げば、羽毛を思わせる無数の雪が地上に降りそそぐ。祈りのように、祝福のように。それは、地上を白く浄化していく。

 伝えたいのは『さよなら』じゃなくて。どれだけ彼を大切に思っていたかということ。今も、思っているということ。

 守ってくれて、ありがとう。

 好きになってくれて、ありがとう。

 私と出会ってくれて……



「ありがとう、ヒロくん」



 どうか、この声が届きますように。

 今もどこかで、あなたが幸せでありますように――