万引き犯に襲われた後、加奈は救急車で病院へ搬送された。
幸い、傷は浅く、命に別状はない。緊急手術が無事に終わり、僕は病室で眠り続ける加奈のそばにずっとついていた。
彼女の寝顔を見守るうちに、いつのまにか僕はここにいた。
ほんの一時でも加奈が死に近づいたせいなのか、彼女が強く死を意識したせいなのか。眠る彼女の意識内に引きずられ、シンクロしたらしい。以前、アンジェの記憶を見たときと似たような状況なのだろう。
目覚めたときに、加奈がこの夢を覚えているかはわからない。
たいていの人が、起きたときには夢を忘れているように、彼女も忘れてしまうかもしれない。
けれど、今この瞬間、加奈は僕の夢を見ている。
晴れた日に遊園地に行こう。
果たせなかったあの約束を、果たしたかった未来の夢を。
どこにでもある平凡な、そしてかけがえのない幸せな加奈の日常。
今、その中に、僕は確かに存在していた。
僕たちの乗る観覧車が、もうすぐてっぺんに到達する。はるか下に広がるカラフルな遊園地の景色が、少しずつ透明になっていた。
夢の世界が消えていく。
それは、もうすぐ加奈がこの夢から目覚めることを示している。
「加奈」
加奈の手を握ると、彼女もそれを握り返した。
「うん」
「僕は、死んだんだ」
「うん、知ってる。ヒロくんのお母さんが教えてくれた」
「黙っていてごめん」
「許さない。嫌われたのかと思って、振られたときはかなりショックだったんだからね」
「許さなくていいよ。一生許してくれなくていい」
「……嘘だよ。もう許してる」
加奈が涙声で言って、くしゃくしゃの顔で笑った。
握った手指を絡め合わせて、僕たちはどちらからともなく互いの額をくっつけた。
加奈の吐息。体温。匂い。彼女が生きている証が伝わってくる。
「本当のこと、言ってくれたらよかったのに。私、ヒロくんの気持ちをちゃんと知りたかった」
「怖かったんだ。病気を君に知られることも、君を残して死ぬことも。僕は、加奈の負担になりたくなかった」
「負担じゃないよ。私じゃ頼りないかもしれないけど、ヒロくんのこと受け止めたかった」
「君は頼りなくなんてないよ。いつだって、僕より強い。これはただ単に、僕のつまらないプライドの問題だ」
思ったことが素直に口にできるのは、これが夢だからなのか。僕が幽霊だからなのか。
生きているときは、思うようにできないことばかりだな。
きっと僕に限らず、人間というのは面倒くさいものなんだ。
「本当は、君ともっと一緒にいたかった。もっとたくさん話をして、一緒にいろいろなものを見たり、聞いたりして、ずっと一緒に年を取りたかった。時々、喧嘩もしたりするかもしれない。だけど最後には、君と笑いあって『楽しかった』って、人生を振り返りたかった」
気がつくと、僕の頬にも涙がつたっていた。
加奈の前で泣いたのは初めてだ。人前で泣いたことも、生涯でそう多くはない。でも今は、恥ずかしいとは思わない。
「初めてヒロくんの本音を聞けた気がする。私には、泣き言も文句も言ってくれなかったから。お化け屋敷も入れないくせに、かっこつけたがるところ、ヒロくんらしいけど」
そうだよ。僕はお化け屋敷にも入れないし、死んだ鳩にも近づきたくない臆病者だ。でも、君の前では少しでもかっこつけたかった。
そんなこと、君には最初からすべてお見通しだったのにな。
たぶん、君への気持ちを隠していたあのときからずっと。そんな僕を見かねて、君は映画に誘ってくれたんだろう?
加奈が顔を上げて、僕をまっすぐに見つめた。
涙の滲んだ瞳が、太陽の光に反射する。雨上がりの虹みたいだ。
「ヒロくんは、私といて楽しかった? 幸せだった?」
「当然だろ。楽しかった。すごく幸せだった」
「それなら良かった」
「加奈に出会った二十年と、加奈に出会わない八十年なら、迷わず前者を選ぶくらいに」
「本当に、愛が重すぎるよ」
加奈が泣きながら笑った。
嘘じゃないよ。本当に、もう一度人生を選べるとしても、僕は長生きするより君と出会いたい。
絡めた互いの指先が、消えかけていた。
最後の欠片を繋ぎ止めるように、僕は加奈の体を抱きしめる。
加奈の細い腕が僕の背中に回されると、やわらかな羽毛で包まれたように、僕の心は穏やかになった。
もう、お別れの時間なんだね。
僕はいくよ。叶えられなかったすべての夢を抱えて。
今は、それすらも愛しい人生の欠片に思える。
「加奈、好きだよ」
ずっと言いたくて、言えなかった言葉。
本当は口にするのはこんなにも簡単で、そのやさしい響きは僕の心も包んでくれた。
僕の肩に顔をうずめたまま、加奈が小さく頷く。
「うん……私も」
「君が幸せになるよう、祈ってる」
「私はいつだって幸せ。でも、ヒロくんが祈ってくれたら、もっと幸せになれるかな」
加奈が顔を上げて、僕の頬に手を当てる。涙で光る彼女の瞳に、僕が映って揺らいでいる。
「ねぇ、ヒロくん、これは『さよなら』じゃないんだよ。これからもずっと、あなたは私の中にいるの」
「うん、ありがとう」
「私は、絶対にあなたを忘れない」
少しずつ、加奈の姿が薄くなっていく。
彼女の声も、どこか遠くから響いてくるかのようだ。
「だから、いつかどこかの異世界で、また会おうね」
最後に聞こえたのは、夢物語みたいな子供っぽい約束だった。
だけど、君が言うと信じたくなる。
君が描く小説の主人公みたいに、僕は異世界でも平凡な男で。勇者にも魔王にもなれないだろう。
だけど、そこに君がいれば、ただそれだけで幸せなんだ。
淡く消えていく夢の中で、加奈が微笑む。
最後に見たのは、僕がよく知っている、春の日のように明るい彼女の笑顔だった。
加奈、この広い世界の中で、君に出会えて良かった。
僕は君が、大好きだったよ。
幸い、傷は浅く、命に別状はない。緊急手術が無事に終わり、僕は病室で眠り続ける加奈のそばにずっとついていた。
彼女の寝顔を見守るうちに、いつのまにか僕はここにいた。
ほんの一時でも加奈が死に近づいたせいなのか、彼女が強く死を意識したせいなのか。眠る彼女の意識内に引きずられ、シンクロしたらしい。以前、アンジェの記憶を見たときと似たような状況なのだろう。
目覚めたときに、加奈がこの夢を覚えているかはわからない。
たいていの人が、起きたときには夢を忘れているように、彼女も忘れてしまうかもしれない。
けれど、今この瞬間、加奈は僕の夢を見ている。
晴れた日に遊園地に行こう。
果たせなかったあの約束を、果たしたかった未来の夢を。
どこにでもある平凡な、そしてかけがえのない幸せな加奈の日常。
今、その中に、僕は確かに存在していた。
僕たちの乗る観覧車が、もうすぐてっぺんに到達する。はるか下に広がるカラフルな遊園地の景色が、少しずつ透明になっていた。
夢の世界が消えていく。
それは、もうすぐ加奈がこの夢から目覚めることを示している。
「加奈」
加奈の手を握ると、彼女もそれを握り返した。
「うん」
「僕は、死んだんだ」
「うん、知ってる。ヒロくんのお母さんが教えてくれた」
「黙っていてごめん」
「許さない。嫌われたのかと思って、振られたときはかなりショックだったんだからね」
「許さなくていいよ。一生許してくれなくていい」
「……嘘だよ。もう許してる」
加奈が涙声で言って、くしゃくしゃの顔で笑った。
握った手指を絡め合わせて、僕たちはどちらからともなく互いの額をくっつけた。
加奈の吐息。体温。匂い。彼女が生きている証が伝わってくる。
「本当のこと、言ってくれたらよかったのに。私、ヒロくんの気持ちをちゃんと知りたかった」
「怖かったんだ。病気を君に知られることも、君を残して死ぬことも。僕は、加奈の負担になりたくなかった」
「負担じゃないよ。私じゃ頼りないかもしれないけど、ヒロくんのこと受け止めたかった」
「君は頼りなくなんてないよ。いつだって、僕より強い。これはただ単に、僕のつまらないプライドの問題だ」
思ったことが素直に口にできるのは、これが夢だからなのか。僕が幽霊だからなのか。
生きているときは、思うようにできないことばかりだな。
きっと僕に限らず、人間というのは面倒くさいものなんだ。
「本当は、君ともっと一緒にいたかった。もっとたくさん話をして、一緒にいろいろなものを見たり、聞いたりして、ずっと一緒に年を取りたかった。時々、喧嘩もしたりするかもしれない。だけど最後には、君と笑いあって『楽しかった』って、人生を振り返りたかった」
気がつくと、僕の頬にも涙がつたっていた。
加奈の前で泣いたのは初めてだ。人前で泣いたことも、生涯でそう多くはない。でも今は、恥ずかしいとは思わない。
「初めてヒロくんの本音を聞けた気がする。私には、泣き言も文句も言ってくれなかったから。お化け屋敷も入れないくせに、かっこつけたがるところ、ヒロくんらしいけど」
そうだよ。僕はお化け屋敷にも入れないし、死んだ鳩にも近づきたくない臆病者だ。でも、君の前では少しでもかっこつけたかった。
そんなこと、君には最初からすべてお見通しだったのにな。
たぶん、君への気持ちを隠していたあのときからずっと。そんな僕を見かねて、君は映画に誘ってくれたんだろう?
加奈が顔を上げて、僕をまっすぐに見つめた。
涙の滲んだ瞳が、太陽の光に反射する。雨上がりの虹みたいだ。
「ヒロくんは、私といて楽しかった? 幸せだった?」
「当然だろ。楽しかった。すごく幸せだった」
「それなら良かった」
「加奈に出会った二十年と、加奈に出会わない八十年なら、迷わず前者を選ぶくらいに」
「本当に、愛が重すぎるよ」
加奈が泣きながら笑った。
嘘じゃないよ。本当に、もう一度人生を選べるとしても、僕は長生きするより君と出会いたい。
絡めた互いの指先が、消えかけていた。
最後の欠片を繋ぎ止めるように、僕は加奈の体を抱きしめる。
加奈の細い腕が僕の背中に回されると、やわらかな羽毛で包まれたように、僕の心は穏やかになった。
もう、お別れの時間なんだね。
僕はいくよ。叶えられなかったすべての夢を抱えて。
今は、それすらも愛しい人生の欠片に思える。
「加奈、好きだよ」
ずっと言いたくて、言えなかった言葉。
本当は口にするのはこんなにも簡単で、そのやさしい響きは僕の心も包んでくれた。
僕の肩に顔をうずめたまま、加奈が小さく頷く。
「うん……私も」
「君が幸せになるよう、祈ってる」
「私はいつだって幸せ。でも、ヒロくんが祈ってくれたら、もっと幸せになれるかな」
加奈が顔を上げて、僕の頬に手を当てる。涙で光る彼女の瞳に、僕が映って揺らいでいる。
「ねぇ、ヒロくん、これは『さよなら』じゃないんだよ。これからもずっと、あなたは私の中にいるの」
「うん、ありがとう」
「私は、絶対にあなたを忘れない」
少しずつ、加奈の姿が薄くなっていく。
彼女の声も、どこか遠くから響いてくるかのようだ。
「だから、いつかどこかの異世界で、また会おうね」
最後に聞こえたのは、夢物語みたいな子供っぽい約束だった。
だけど、君が言うと信じたくなる。
君が描く小説の主人公みたいに、僕は異世界でも平凡な男で。勇者にも魔王にもなれないだろう。
だけど、そこに君がいれば、ただそれだけで幸せなんだ。
淡く消えていく夢の中で、加奈が微笑む。
最後に見たのは、僕がよく知っている、春の日のように明るい彼女の笑顔だった。
加奈、この広い世界の中で、君に出会えて良かった。
僕は君が、大好きだったよ。