黒っぽいジャケットを着た男が、両手をポケットに突っ込み、肩をすくめるようにして歩いてくる。フードを目深に被ったその下から、鋭い眼光が覗いた。
加奈の後ろ姿を睨みつけるようにして、男が近づいてくる。
ちょっと、様子が尋常じゃないな……。
男の行動を窺っていると、急に歩く速度が速くなり、ポケットの中から手を出した。
街灯の光がギラリと反射したのは、男の右手に握られた小型ナイフだ。
「加奈、逃げろ!」
僕が叫ぶと同時に、男が加奈との距離をつめた。
足音で気づいたのか、接触する寸前で加奈がくるりと後ろを向く。咄嗟に防御の姿勢を取るが、男は彼女に突進した。
「キャアッ!」
「加奈!」
男とぶつかった加奈が小さく悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
男の手はナイフを握ったまま、その刃先は赤く濡れている。加奈が着ている白いウールコートが赤く染まり、その染みがどんどん広がっていった。
「嘘だろ……?」
僕はうずくまる加奈の横に膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。
「加奈! 加奈っ!」
加奈の顔は苦痛に歪み、彼女の口からかすかなうめき声が漏れている。額に脂汗が浮かび、顔色がみるみる白くなっていた。
「お、おまえのせいで、俺は刑務所に入ることになったんだぞ! 会社はクビになるし、女には逃げられるし……ど、どうしてくれるんだよ!」
興奮状態で顔を引きつらせた男は、震える声でそう叫んだ。
そのセリフで僕の記憶の糸がたぐり寄せられる。
この男は、去年の夏に加奈が追いかけた万引き犯だ。その後の処分は知らなかったが、今の言い方では服役していたらしい。
こんなの、逆恨みじゃないか!
加奈はなにも悪くないのに、どうして彼女がこんな目に遭うんだ!
「嫌……助けて……っ」
加奈は歯を食いしばり、男から逃げようと道路の上を這いずっている。
それを見た男が、さらに追い打ちをかけるように、加奈に向かってナイフを振りかざした。
「やめろ!」
魂の底から湧き上がる衝動とともに、僕は叫んだ。
生きていたときにも、そこまでの大声を出したことはない。
全身全霊を込めた僕の声が響き渡ると同時に、
バチバチバチッ……
男の周囲でいくつもの火花が舞い散った。
まるで、小さな雷が発生したかのように。空気中で不可思議な放電現象が起きていた。
「な……なんだ、これ……っ」
男は怯えた様子で後退する。
バチィッ……バチバチ……
さらに彼を追い詰めるように火花が散り、感電でもしたみたいに男はナイフを落とした。キンッと、アスファルトの上で金属が弾ける。
「うわあぁぁっ!」
上ずった悲鳴を上げながら、男が走り去る。
謎の放電現象は男を追いかけるように続いていたが、その姿が暗闇の向こうに消えるとすぐにおさまった。
男が逃げたことで緊張が途切れたのか、加奈はその場に倒れたまま動かなくなった。コートは血まみれで、コンクリートの上にも血の跡ができている。
加奈は痛みを堪えるように顔を歪めて、肩で苦しげな息をする。自力で動けないくらいには、傷が深いということだ。
「加奈、大丈夫か!?」
顔色はますます悪くなっていた。
早く処置をしなければ、出血多量で死に至るかもしれない。
「そうだ、電話! 加奈、誰でもいいから電話できるか? いや、近所の家に聞こえるくらいの声で、助けを求めるほうが早い。加奈、がんばって叫ぶんだ! 悲鳴でも、なんでもいいから!」
加奈は目を開けない。閉じた瞼が震えていた。
「加奈……加奈!」
揺さぶり起こそうと手を伸ばしても、僕の手は加奈の体に触れることはできない。
どうして僕の手は加奈に届かない?
どうして僕の声は助けを呼ぶこともできないんだ?
彼女を助けるチート能力が得られるなら、悪霊となって永遠にこの世を彷徨うことになってもいい。
だから、頼むから目を開けてくれ!
「しっかりしろ、加奈!」
君はこんなふうに突然死んだりしてはいけない。
今死んだら、君の好きなマニアックな漫画だとか、君が書いた小説だとか、そういう大切な黒歴史を処分することだってできないんだからな。
君はそういうもの全部を抱えたまま、これから長い時間を生きるんだ。
大学を卒業して、就職して。
誰かと出会って、恋をして、結婚して、子供を産んで。
僕にはなかったあたりまえの未来を。
あたりまえの幸福を君は手に入れなきゃいけない。
いつか年を取って、お婆さんになったとき。
人生を追憶して、悪くなかったって笑えるその日まで。
「加奈、死ぬな! ……加奈っ!」
ガシャン……ッ
ひときわ大きな声で彼女の名前を叫んだとき、すぐ近くの街灯が破裂した。
カシャンッ……パリン……
それから、等間隔に立つ街灯がひとつずつ、大きな音を立てて、花火のように派手に散っていく。
僕と加奈を中心にして、不思議な振動があたり一帯に広がっていった。それが通りに立つすべての街灯を砕き、家々の窓ガラスを震わせる。
万引き犯を追い払った謎のラップ音や、この小さな爆発は僕が引き起こしたのだろうか。
幽霊の火事場の馬鹿力。チートな超能力。
あるいは、ただの偶然だったのかもしれないけれど。
異変に気づいたのか、いくつかの家から様子を見に出てくる人影があった。
「なんだ? 街灯が全部消えてるぞ」
「電球が粉々に割れてる。なにがあったの?」
そんな話し声がざわざわと聞こえてくる。
すぐに、その中のひとりが倒れている加奈に気づいて駆け寄ってきた。
「誰か倒れてる! 救急車呼んで!」
街灯の異常と、そこに加奈が倒れていたことで、近所はさらに騒がしくなる。その騒ぎを、僕は放心したように眺めていた。
やがて、静かな夜の街に、救急車のサイレンが近づいてきた。
加奈の後ろ姿を睨みつけるようにして、男が近づいてくる。
ちょっと、様子が尋常じゃないな……。
男の行動を窺っていると、急に歩く速度が速くなり、ポケットの中から手を出した。
街灯の光がギラリと反射したのは、男の右手に握られた小型ナイフだ。
「加奈、逃げろ!」
僕が叫ぶと同時に、男が加奈との距離をつめた。
足音で気づいたのか、接触する寸前で加奈がくるりと後ろを向く。咄嗟に防御の姿勢を取るが、男は彼女に突進した。
「キャアッ!」
「加奈!」
男とぶつかった加奈が小さく悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
男の手はナイフを握ったまま、その刃先は赤く濡れている。加奈が着ている白いウールコートが赤く染まり、その染みがどんどん広がっていった。
「嘘だろ……?」
僕はうずくまる加奈の横に膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。
「加奈! 加奈っ!」
加奈の顔は苦痛に歪み、彼女の口からかすかなうめき声が漏れている。額に脂汗が浮かび、顔色がみるみる白くなっていた。
「お、おまえのせいで、俺は刑務所に入ることになったんだぞ! 会社はクビになるし、女には逃げられるし……ど、どうしてくれるんだよ!」
興奮状態で顔を引きつらせた男は、震える声でそう叫んだ。
そのセリフで僕の記憶の糸がたぐり寄せられる。
この男は、去年の夏に加奈が追いかけた万引き犯だ。その後の処分は知らなかったが、今の言い方では服役していたらしい。
こんなの、逆恨みじゃないか!
加奈はなにも悪くないのに、どうして彼女がこんな目に遭うんだ!
「嫌……助けて……っ」
加奈は歯を食いしばり、男から逃げようと道路の上を這いずっている。
それを見た男が、さらに追い打ちをかけるように、加奈に向かってナイフを振りかざした。
「やめろ!」
魂の底から湧き上がる衝動とともに、僕は叫んだ。
生きていたときにも、そこまでの大声を出したことはない。
全身全霊を込めた僕の声が響き渡ると同時に、
バチバチバチッ……
男の周囲でいくつもの火花が舞い散った。
まるで、小さな雷が発生したかのように。空気中で不可思議な放電現象が起きていた。
「な……なんだ、これ……っ」
男は怯えた様子で後退する。
バチィッ……バチバチ……
さらに彼を追い詰めるように火花が散り、感電でもしたみたいに男はナイフを落とした。キンッと、アスファルトの上で金属が弾ける。
「うわあぁぁっ!」
上ずった悲鳴を上げながら、男が走り去る。
謎の放電現象は男を追いかけるように続いていたが、その姿が暗闇の向こうに消えるとすぐにおさまった。
男が逃げたことで緊張が途切れたのか、加奈はその場に倒れたまま動かなくなった。コートは血まみれで、コンクリートの上にも血の跡ができている。
加奈は痛みを堪えるように顔を歪めて、肩で苦しげな息をする。自力で動けないくらいには、傷が深いということだ。
「加奈、大丈夫か!?」
顔色はますます悪くなっていた。
早く処置をしなければ、出血多量で死に至るかもしれない。
「そうだ、電話! 加奈、誰でもいいから電話できるか? いや、近所の家に聞こえるくらいの声で、助けを求めるほうが早い。加奈、がんばって叫ぶんだ! 悲鳴でも、なんでもいいから!」
加奈は目を開けない。閉じた瞼が震えていた。
「加奈……加奈!」
揺さぶり起こそうと手を伸ばしても、僕の手は加奈の体に触れることはできない。
どうして僕の手は加奈に届かない?
どうして僕の声は助けを呼ぶこともできないんだ?
彼女を助けるチート能力が得られるなら、悪霊となって永遠にこの世を彷徨うことになってもいい。
だから、頼むから目を開けてくれ!
「しっかりしろ、加奈!」
君はこんなふうに突然死んだりしてはいけない。
今死んだら、君の好きなマニアックな漫画だとか、君が書いた小説だとか、そういう大切な黒歴史を処分することだってできないんだからな。
君はそういうもの全部を抱えたまま、これから長い時間を生きるんだ。
大学を卒業して、就職して。
誰かと出会って、恋をして、結婚して、子供を産んで。
僕にはなかったあたりまえの未来を。
あたりまえの幸福を君は手に入れなきゃいけない。
いつか年を取って、お婆さんになったとき。
人生を追憶して、悪くなかったって笑えるその日まで。
「加奈、死ぬな! ……加奈っ!」
ガシャン……ッ
ひときわ大きな声で彼女の名前を叫んだとき、すぐ近くの街灯が破裂した。
カシャンッ……パリン……
それから、等間隔に立つ街灯がひとつずつ、大きな音を立てて、花火のように派手に散っていく。
僕と加奈を中心にして、不思議な振動があたり一帯に広がっていった。それが通りに立つすべての街灯を砕き、家々の窓ガラスを震わせる。
万引き犯を追い払った謎のラップ音や、この小さな爆発は僕が引き起こしたのだろうか。
幽霊の火事場の馬鹿力。チートな超能力。
あるいは、ただの偶然だったのかもしれないけれど。
異変に気づいたのか、いくつかの家から様子を見に出てくる人影があった。
「なんだ? 街灯が全部消えてるぞ」
「電球が粉々に割れてる。なにがあったの?」
そんな話し声がざわざわと聞こえてくる。
すぐに、その中のひとりが倒れている加奈に気づいて駆け寄ってきた。
「誰か倒れてる! 救急車呼んで!」
街灯の異常と、そこに加奈が倒れていたことで、近所はさらに騒がしくなる。その騒ぎを、僕は放心したように眺めていた。
やがて、静かな夜の街に、救急車のサイレンが近づいてきた。