子供の頃から、いつも世界の外側にいる気がしていた。

 僕は他の人とは違うのだと、人並みの幸せを望むことも、他の誰かと本当に親しくなることもないのだと思っていた。

 いつこの世を去ってもいいように。そのとき、未練なんかなにもないように。

 大切なものなんて作らずに、生きようと決めていた。

 そんな僕をこの世界に繋ぎ止めてくれたのが、加奈だった。

 加奈の言葉や、彼女の見る世界が、僕に生きる実感を与えてくれた。

 つまらない日常が、目に映るものすべてが、本当はどれほど美しくて尊いものであるか。

 色褪せて見えていた僕の人生にも価値があるのだと、加奈が教えてくれたのだ。

 喫茶店で加奈の姿を見たその夜も、僕は彼女のアパート前にいた。

 これはもう、幽霊である僕のアイデンティティであるらしい。来たくないと考えても、気がつくとここにいるのだ。

 喫茶店の後で加奈はバイトへ行き、まだ帰宅していなかった。あの書店のバイトは今も続けているようだ。

 閉店時間までのシフトだと、帰宅は午後10時くらいになる。

 アパートがあるのは住宅街だが、周囲には空き地や駐車場などもあって、人目につきにくい暗がりもあった。

 以前、夜は帰り道が暗いことを心配する僕に、加奈は『前後左右に常に意識を張り巡らせているから大丈夫』だと、武道の達人みたいな謎の自信を見せていた。

 確かに、彼女はそういう注意は怠らないだろうけれど、今の世の中、いつなにが起きるかわからない。僕がボディガードをできればいいが、生前も今もそんな力はないのだ。

 ふたたび加奈に会って、僕はどうするつもりなんだろう?

 僕が彼女に与えてしまった苦しみを、償う術はない。そして、その事実は僕の迷いもさらにこじらせていた。

「いっそこのまま、ハリウッドで映画化されるほどの幽霊のカリスマを目指すか。……なんてな」

 どうでもいい独り言が出てしまうのは、ほんの少しの寂しさを覚えるからか。

 幽霊はぼっちでもなんの支障もないが、やはりアンジェとバンさんの存在は僕にとって大きかった。

 別れが辛いくらいなら、最初から会わないほうがいい。以前の僕ならそう考えたかもしれないけれど、今はふたりに会えたことを感謝している。

 広い世界を見渡せば、未練を断ち切れずにいる幽霊は、僕の他にも数え切れないくらいいるだろう。

 誰もが、自分の人生に思いを馳せながら、この夜を過ごしている。不器用で愛しい死者たちが、いつかむくわれることを心から祈る。

 僕はこれからどうなるんだろう。

 加奈の傍で、彼女への想いが消えるのをただ待つのか。

 そんなことができるとは、とても思えないけれど。

 加奈の涙に胸が痛んだ。だけど、彼女が僕を忘れずにいてくれたことが嬉しかった。僕はそういう身勝手な人間なのだ。

 僕の人生において、加奈の存在はとても大きな部分を占めていた。でも、加奈にとってはそうじゃない。

 これからもずっと続いていく彼女の長い人生で、僕と過ごした時間なんてほんのわずかなものになる。いずれ、僕の名前さえ忘れてしまうかもしれない。

 加奈はこれからたくさんの人に出会って、たくさんの絆をつくっていく。

 恋愛、就職、結婚……僕にはできなかった様々な経験をして。

 僕にできるのは、加奈の幸せを願うことだけだ。

 どうか、彼女の人生がすばらしいものであるように。

 それはまぎれもなく、幽霊となった今の僕の心からの願いだった。

 夜が更けてきた。明かりのついた家々からは、住人たちがまだ起きている気配が伝わってくる。通りにはほとんど人影はなく、時折車が通りすぎるくらいだ。

 カツカツと響く靴音が近づいてきた。

 コートに身を包んだ加奈が、俯き加減でこちらへ歩いてくる。

「お帰り、加奈。お疲れ様」

 僕の声は、加奈の耳には届かない。

 家族と再会したときと同じ、荒んだ気持ちが蘇る。僕はもう、加奈と同じ場所に立ってはいないのだ。

 加奈に会いに行ったことは、間違いだったのかもしれない。

 僕はふらふらと地上を彷徨いながら、時間とともにこの気持ちが消えるのを、何年でも何十年でも待てば良かった。

 その果てに救いがあっても、なくても。僕はそれを受け入れなくてはならない。

 それが、僕の選んだ人生の結末だったのだから。

 加奈が僕の前を通り過ぎて、アパートの前へとさしかかる。そこへ、もうひとつ重く響く足音が近づいてきた。

 ふと、嫌な感覚に襲われて、僕はそちらに目を向けた。