呼びかけたのは見知らぬ若い女性で、僕をすり抜けるようにして窓際の女性へ近づいていく。
こちらに背を向けていた女性が、わずかに振り返った。
「ああ、由美。遅かったね」
半年ぶりに見る、加奈の姿だった。
髪が少し伸びたけれど、以前と変わらない。いや、綺麗になった。
以前はどちらかというと可愛い印象だったのが、半年会わないうちにずいぶん大人びて見えた。
友達なのか、親しげに名前を呼んだ女性が、加奈の向かいに腰を下ろした。僕も、加奈の顔が見える空席になんとなく腰を下ろす。
由美と呼ばれた女性は、オーダーを取りに来た店員にコーヒーを注文すると、加奈に向かって両手を合わせた。
「待たせてごめんね! バイト先で先輩につかまって、なんかいろいろグチ聞かされちゃってさ」
「いいよ、べつに。暇だったし」
笑顔で応じる加奈は、心なしか元気がないようにも見える。どこか具合でも悪いのだろうか。
僕の記憶の中の彼女は、いつも明るくて元気だったから。僕には、今の加奈がなんだか違う人にも見える。
「最近よく暇だって言うけど、加奈って彼氏いたよね?」
ハッとする。
それは僕のことなのか? それとも、僕と別れた後で、新しい彼氏ができたとか?
「いたけど、半年以上も前に別れたよ」
僕だ。
「別れた? なんで?」
「他に好きな子ができたって言われて、振られたの」
間違いなく僕のことだ。
加奈はこちらの存在には気づいていないのに、まともに顔を見ることができない。改めて、自分の浅はかな嘘を後悔した。
「はぁっ!? なんだそれ、最っ低! 加奈を振った? そいつ何様のつもり?」
由美ちゃんが激高してテーブルの上に身を乗り出した。
まったくだ。僕は最低、最悪だ。もっと罵ってくれていい。
「地獄に堕ちればいいのに!」
それは勘弁してほしいけど。
憤懣やるかたない友人を宥めるように、加奈は苦笑いしている。
「由美が怒ることないでしょ? ちょっと落ち着いてよ」
「だって、加奈みたいないい子が振られるなんて悔しいじゃない。そいつ、そんなにイケメンだったりモテたりしてたわけ?」
「うーん、見た目はすごく普通。磨けば光るタイプ?」
物は言い様だな。そしてなぜ疑問系なんだ? べつにいいけど。僕は生前も今もそんなに自惚れてはいない。
「頭は良かったよ。でもちょっと神経質っぽくて、ちょっと面倒くさそうなところがあったかな」
え――、そんなふうに思われてたのか?
これは結構ショックだ。神経質っぽくて面倒くさそうって、彼氏としても人間としても絶対にダメな部類だろう。アンジェにも似たようなことを言われたけど、僕はそんなに面倒くさいのだろうか。
落ち込む僕の存在など知るわけもなく、加奈は思い出したようにふふふと笑う。
「でも、やさしかったよ。ときどきちょっと意見がすれ違って喧嘩しそうになっても、すぐに折れてくれるの。少し頼りないところもあったけど、他人の気持ちを気遣える人だった」
記憶の中と同じ、加奈の温かな微笑みに、僕の心は痛んだ。
やさしいのは君だ。僕は、そんなふうに言ってもらえる人間じゃない。
老人に席を譲ることはすんなりとできないし、鳩の死骸も見て見ぬふりをする。
とても愚かで身勝手で。最後には僕のエゴで、君を傷つけた。
「最初にデートに誘ったのは私だったし、もしてかして、向こうはそんなに私のこと好きじゃないのかなと思ってた。やさしいし、いつも気遣ってくれるんだけど、それは表面だけのような気がすることがあって。結局、つきあっているあいだ、私はあの人のこと、なんにもわかってなかったのかもしれない」
加奈がテーブルに視線を落とし、スプーンでカップをかき混ぜる。
彼女の前に置かれているのは、懐かしいロイヤルミルクティー。カップにはほとんど口をつけていない。
加奈が僕をそんなふうに見ていたことを、初めて知った。
僕たちは喧嘩らしい喧嘩もしたことはなかったから、本音で話しているようでも、本当は互いに胸の内を言葉にしたことはなかったかもしれない。
病気のことは常に、抜けない棘のように僕の心の中にあった。
そのせいで、僕は加奈とつきあうことに、いつもなんとなく気後れしていたのだ。彼女は、そんな僕の心境をそれとなく察していたのだろう。
「私、結構言いたいことは言うほうなんだけど。どうしてなのか『別れたい』って言われたとき、あのときだけはなにも言えなかったんだ。すごく悲しそうな顔で言うから、責められなくなっちゃって。でも、時間が経ったらだんだん腹が立ってきてね。ちょっと勝手すぎない? 私のこと、そんなに嫌だったの? 相手の女ってどこの誰? とか、いろいろ考え出したら止まらなくなっちゃって。やっぱり一発くらい殴っても許されるような気がして」
「いいよ! 三発……ううん、五発くらい殴りなよ! 殴り込みに行くときは私も一緒に行くから!」
話が不穏な方向に進んでいる。
加奈には殴られても仕方がないことをしたけれど、この勢いだとそれが死因になっていたかもしれない。
「でもね、その怒りもあんまり長くは続かなくて。私、そんなに気持ちを引きずるタイプじゃないから。人はこんなふうに出会いと別れを繰り返して成長するのかなー、とか。妙に悟った気分になったりね」
「そっか。加奈がそう言うならそれもいい。よし、じゃあ一緒にコンパ行こう。新しい彼氏作ろう!」
由美ちゃんが力強く誘い、加奈は無言で微笑んだ。
やっぱり、加奈は加奈だった。強くて前向きで、僕なんかのことを引きずらずに生きていける。
良かった、と心から思った。
加奈が幸せならそれでいい。わずかに寂しさを覚えるけれど、これは僕が望んだ最良の結果だ。
加奈が元気でいることを確かめられたから、もう思い残すことはない。
そこへ店員がコーヒーを運んできた。それが合図のように、僕はその場を去ろうとする。
「ただ、あの人が今どうしてるか、すごく気になったの」
加奈のセリフで、立ち上がりかけたのを思いとどまった。
加奈はテーブルに頬杖をついて、感情が読めない虚ろな視線を窓の外に投げる。
「時間が経っちゃったけど、やっぱりもう一度直接会って話したいと思って。これって、未練なのかな。でも、連絡を取ろうとしたら以前の電話番号が解約されていたの。私を避けるためかとも考えたんだけど、なんかちょっとおかしいなと思って。実家の住所は知ってたけど、いきなり訪ねて行くのは勇気がいるでしょ。それで、最近になって手紙を書いて、ようやく消息がわかったの」
「そいつ、なにか言ってきたの? 新しい彼女がいた?」
「ううん」
加奈はゆっくりと首を横に振ると、
「死んじゃってた」
窓の外に目を向けたまま、ぽつりと言った。
こちらに背を向けていた女性が、わずかに振り返った。
「ああ、由美。遅かったね」
半年ぶりに見る、加奈の姿だった。
髪が少し伸びたけれど、以前と変わらない。いや、綺麗になった。
以前はどちらかというと可愛い印象だったのが、半年会わないうちにずいぶん大人びて見えた。
友達なのか、親しげに名前を呼んだ女性が、加奈の向かいに腰を下ろした。僕も、加奈の顔が見える空席になんとなく腰を下ろす。
由美と呼ばれた女性は、オーダーを取りに来た店員にコーヒーを注文すると、加奈に向かって両手を合わせた。
「待たせてごめんね! バイト先で先輩につかまって、なんかいろいろグチ聞かされちゃってさ」
「いいよ、べつに。暇だったし」
笑顔で応じる加奈は、心なしか元気がないようにも見える。どこか具合でも悪いのだろうか。
僕の記憶の中の彼女は、いつも明るくて元気だったから。僕には、今の加奈がなんだか違う人にも見える。
「最近よく暇だって言うけど、加奈って彼氏いたよね?」
ハッとする。
それは僕のことなのか? それとも、僕と別れた後で、新しい彼氏ができたとか?
「いたけど、半年以上も前に別れたよ」
僕だ。
「別れた? なんで?」
「他に好きな子ができたって言われて、振られたの」
間違いなく僕のことだ。
加奈はこちらの存在には気づいていないのに、まともに顔を見ることができない。改めて、自分の浅はかな嘘を後悔した。
「はぁっ!? なんだそれ、最っ低! 加奈を振った? そいつ何様のつもり?」
由美ちゃんが激高してテーブルの上に身を乗り出した。
まったくだ。僕は最低、最悪だ。もっと罵ってくれていい。
「地獄に堕ちればいいのに!」
それは勘弁してほしいけど。
憤懣やるかたない友人を宥めるように、加奈は苦笑いしている。
「由美が怒ることないでしょ? ちょっと落ち着いてよ」
「だって、加奈みたいないい子が振られるなんて悔しいじゃない。そいつ、そんなにイケメンだったりモテたりしてたわけ?」
「うーん、見た目はすごく普通。磨けば光るタイプ?」
物は言い様だな。そしてなぜ疑問系なんだ? べつにいいけど。僕は生前も今もそんなに自惚れてはいない。
「頭は良かったよ。でもちょっと神経質っぽくて、ちょっと面倒くさそうなところがあったかな」
え――、そんなふうに思われてたのか?
これは結構ショックだ。神経質っぽくて面倒くさそうって、彼氏としても人間としても絶対にダメな部類だろう。アンジェにも似たようなことを言われたけど、僕はそんなに面倒くさいのだろうか。
落ち込む僕の存在など知るわけもなく、加奈は思い出したようにふふふと笑う。
「でも、やさしかったよ。ときどきちょっと意見がすれ違って喧嘩しそうになっても、すぐに折れてくれるの。少し頼りないところもあったけど、他人の気持ちを気遣える人だった」
記憶の中と同じ、加奈の温かな微笑みに、僕の心は痛んだ。
やさしいのは君だ。僕は、そんなふうに言ってもらえる人間じゃない。
老人に席を譲ることはすんなりとできないし、鳩の死骸も見て見ぬふりをする。
とても愚かで身勝手で。最後には僕のエゴで、君を傷つけた。
「最初にデートに誘ったのは私だったし、もしてかして、向こうはそんなに私のこと好きじゃないのかなと思ってた。やさしいし、いつも気遣ってくれるんだけど、それは表面だけのような気がすることがあって。結局、つきあっているあいだ、私はあの人のこと、なんにもわかってなかったのかもしれない」
加奈がテーブルに視線を落とし、スプーンでカップをかき混ぜる。
彼女の前に置かれているのは、懐かしいロイヤルミルクティー。カップにはほとんど口をつけていない。
加奈が僕をそんなふうに見ていたことを、初めて知った。
僕たちは喧嘩らしい喧嘩もしたことはなかったから、本音で話しているようでも、本当は互いに胸の内を言葉にしたことはなかったかもしれない。
病気のことは常に、抜けない棘のように僕の心の中にあった。
そのせいで、僕は加奈とつきあうことに、いつもなんとなく気後れしていたのだ。彼女は、そんな僕の心境をそれとなく察していたのだろう。
「私、結構言いたいことは言うほうなんだけど。どうしてなのか『別れたい』って言われたとき、あのときだけはなにも言えなかったんだ。すごく悲しそうな顔で言うから、責められなくなっちゃって。でも、時間が経ったらだんだん腹が立ってきてね。ちょっと勝手すぎない? 私のこと、そんなに嫌だったの? 相手の女ってどこの誰? とか、いろいろ考え出したら止まらなくなっちゃって。やっぱり一発くらい殴っても許されるような気がして」
「いいよ! 三発……ううん、五発くらい殴りなよ! 殴り込みに行くときは私も一緒に行くから!」
話が不穏な方向に進んでいる。
加奈には殴られても仕方がないことをしたけれど、この勢いだとそれが死因になっていたかもしれない。
「でもね、その怒りもあんまり長くは続かなくて。私、そんなに気持ちを引きずるタイプじゃないから。人はこんなふうに出会いと別れを繰り返して成長するのかなー、とか。妙に悟った気分になったりね」
「そっか。加奈がそう言うならそれもいい。よし、じゃあ一緒にコンパ行こう。新しい彼氏作ろう!」
由美ちゃんが力強く誘い、加奈は無言で微笑んだ。
やっぱり、加奈は加奈だった。強くて前向きで、僕なんかのことを引きずらずに生きていける。
良かった、と心から思った。
加奈が幸せならそれでいい。わずかに寂しさを覚えるけれど、これは僕が望んだ最良の結果だ。
加奈が元気でいることを確かめられたから、もう思い残すことはない。
そこへ店員がコーヒーを運んできた。それが合図のように、僕はその場を去ろうとする。
「ただ、あの人が今どうしてるか、すごく気になったの」
加奈のセリフで、立ち上がりかけたのを思いとどまった。
加奈はテーブルに頬杖をついて、感情が読めない虚ろな視線を窓の外に投げる。
「時間が経っちゃったけど、やっぱりもう一度直接会って話したいと思って。これって、未練なのかな。でも、連絡を取ろうとしたら以前の電話番号が解約されていたの。私を避けるためかとも考えたんだけど、なんかちょっとおかしいなと思って。実家の住所は知ってたけど、いきなり訪ねて行くのは勇気がいるでしょ。それで、最近になって手紙を書いて、ようやく消息がわかったの」
「そいつ、なにか言ってきたの? 新しい彼女がいた?」
「ううん」
加奈はゆっくりと首を横に振ると、
「死んじゃってた」
窓の外に目を向けたまま、ぽつりと言った。