それは、雨の遊園地。

 ジェットコースターは止まったまま。

 メリーゴーラウンドの馬は、心なしか元気がなくて。

 賑やかなはずの世界は、どこもどんよりと沈んで見えた。

 グレーの空の下、濡れた観覧車だけがゆっくりと回っている。

 日曜日なのに、天気のせいか園内は閑散として、家族連れの姿も少ない。

 まだ九月なのに、肌寒くすらあった、あの日。

 わずか一年前の加奈とのデート。僕には、もうずいぶん昔のように感じられる。

 雨のせいで、人気のアトラクションはほとんどが中止だった。使える施設は限られていて、せっかくの遊園地デートは台無しに思えた。

「お化け屋敷なら雨でも関係ないよね。入ってみない?」

 唐突に加奈がそう提案したときは、僕はかなり本気で焦った。

「僕は入りたくない」

「怖いの?」

「怖いよ。……ヘタレで悪かったな」

「大丈夫、怖くないよ。どうせ全部作り物だし、幽霊は生きてる人間が扮装してるんだよ。本物の幽霊じゃないんだよ」

「言われなくても知ってるよ。けど、わかっていても怖いものは怖い。加奈はなんで平気なの?」

「だって、幽霊信じてないもん」

 そういう問題でもないと思うけど。

 普通、女の子ってそういうの怖がるものだろ? などと言えば、女性差別だと怒られそうなので言わずにおいた。それに、彼女が僕より男前なのは、そのときに限ったことではない。

 ひとりでお化け屋敷に入ってもつまらないと加奈は言い、僕らは屋根のある屋外のカフェで、いつものように他愛のない話をしていた。

 小さな雨粒が作るベールの向こうで、遊園地は寂しげに見えた。

 僕には天気なんてどうでも良かったけど、加奈にとってはつまらないんじゃないかな。晴れていたら、きっともっと楽しめただろうに。

 そんなことを思っていたら、ふいに加奈が呟いた。

「私は、雨の日も結構好き」

 雨が落ちてくる曇り空を、彼女は笑顔で見上げていた。

「いつもと違う景色が見られるでしょ? それに、雨が上がった後は雨が降る前よりも景色が綺麗になるの。建物も道路も、なにもかもが洗われたみたいに」

「僕には、あまり違いはわからないけど」

 正直、僕は雨の日があまり好きではなかった。

 濡れるのも嫌だし、傘をさすのも面倒だ。些細な煩わしさと低い気圧は、気持ちを滅入らせる。

 加奈が観覧車に向けてスマホを構えた。

「ねえ、曇り空の下で見る遊園地も、なかなか乙なものじゃない? こういう空の下だと、原色のアトラクションがこれはこれで結構綺麗に見えるの」

 濃淡のあるグレーの空を背景にして、鮮やかなゴントラがゆっくりと回っている。言われてみればそれは、晴天の下で見るときとはまた違う趣があったけれど。

「私の故郷って農業が盛んな土地だから、雨の日も天気予報では『あいにくの雨』って言わないの。雨は『恵みの雨』でもあるから。雨が降らないと、野菜も果物もお米も育たない。それに、人間も」

 目からうろこが落ちた気分だった。

 20年も生きていて、僕はそんなことに思いを馳せたことなどなかった。

「そうか。世の中には、雨を歓迎する人もいるんだよな」

「どんなことにも、良いと思えることも悪いと思えることもある。物事はあるがままに受け止めるだけ、っていうのがお祖母ちゃんの人生哲学みたいなものだったの。私があんまり悩まない性格なのは、お祖母ちゃんの影響だと思う」

 悩んでばかりいる僕と、加奈は正反対だった。

 だから、僕は彼女に惹かれたのだろう。

 加奈の中にはいつも、彼女が大切にしている真珠色の万年筆のように、まっすぐに輝く光があった。

「良いことと悪いことって言えばね……」

 加奈がちらりと僕に視線を投げてから、ふたたびそらす。

「最初に、本を落として良かったってときどき思う。あのときは本当に焦ったけど、あれがなかったら、今こうしていなかったんだよね」

 僕と加奈との出会いの話だ。

 加奈にとっては最悪だったはずのあのアクシデントは、結果として最高の出会いに変わった。変えてくれたのは加奈だ。

「あれは確かにすごかったな。落とした本も大量だったし、内容がまたバラバラで、ちょっと変な人なのかと思った」

「私の第一印象ってそんなだったの?」

「あ、いや……変っていうか、個性的? いい意味で」

「それ、褒めてるの?」

「今は普通に可愛いと思ってるから」

「普通に……」

 加奈は気分を害したような笑いを堪えているような、奇妙な表情で口元を押さえた。

 雨はなかなか降りやまない。そろそろ帰ろうかと切り出しかけたとき、

「あ、雨が上がったみたい」

 それまで音を立てて降っていた雨足が弱まって、垂れこめていた雲が流れていく。雲の所々に隙間が生まれて、薄鼠色の雲の向こうに、澄んだ湖のような水色が覗いていた。

 そこへ、ちょうど太陽の光が射し込んできた。

 空気中の水滴がプリズムとなって、七色の光が空に浮かび上がる。観覧車の向こう側に、大きな虹がかかった。

 雲が鈍色のグラデーションを織りなす中、鮮やかな色彩がくっきりとしたアーチを作っている。遊園地の景色と相まって、それは幻想的で美しかった。

「見て、虹だよ!」

 加奈がはしゃいだ声を出した。

 幸運のおまじない的な意味があるからか、たいていの女子は虹を見ると喜ぶ。でも、加奈もそうだとは思わなかった。彼女は日頃から、若い女性が好きそうな占いや開運スポットといったものには否定的だったから。

「あんなにはっきりした虹は久しぶりに見たな。良いことがあるかもね」

「良いことはもう起きてるよ」

 加奈が思わせぶりに言う。意味がわからずポカンとしていると、

「私にとっては、虹は未来に幸運が訪れるシンボルじゃなくて。あの綺麗な虹を見ている今が幸運なの」

 彼女らしい、単純明快な理由を口にした。

 加奈が話す言葉は、いつも僕に大切なことを気づかせた。

 どんなことにも一生懸命でひたむきな彼女は、好きな本を読むことも、バイトをすることも、食事をすることも、空を見上げることも、すべてを等しく大切にしていた。

 加奈の人生は、そんな宝石みたいな一瞬の積み重ねでできている。

 けれど、本当は誰の人生もそうなのだ。

 人生は最良の日ばかりではないけれど、穏やかな毎日の中にも喜びは満ちている。どうなるかわからない明日の心配をするのではなく、目の前にある小さな幸運に気づけばいいだけなんだ。

 それまで、何度も見たことはあったのに、虹があんなにも美しいと思えたのは初めてだった。

 雨が、僕の心の中まで洗い流したみたいに。

 同じ景色はもう二度と見られないことを、そして、あの瞬間それを君と見られたことの素晴らしさを、僕は僕の細胞のすべてで感じていた。

 あれは、僕の人生で最後に見た虹だった。

 あのとき、僕は確かに世界で一番幸せだったんだ。

 加奈、たとえ君がもう僕の声を聞くことがなく、姿を見ることがなくても。

 今、とても君に会いたい。

              ***