清々しい秋晴れの日曜日。
子供向けのイベントが開かれているらしく、デパートの屋上は家族連れで賑わっている。
アンジェはいつも通りの黒のゴスロリファッションと濃いメイクで、高いフェンスの向こうに広がる町並みを眺めている。この前と同じシチュエーションだけど、今の彼女に怨念めいたものは感じない。
「こうして高い場所に立つとね、死んだときの気持ちが蘇ってくるみたいで、怖かったんだ。だけど、あたしは、その思いを忘れちゃいけないと思ってた。それが、あたしへの罰だって」
淡い空色の瞳が僕に向けられる。
「でも、不思議なの。今は、そういう辛かったことをひとつも思い出せない。生きていたときの、楽しかったことや嬉しかったことばかりが頭に浮かんでくるの」
晴れやかな笑みを浮かべたアンジェには、もう危うさは微塵もない。
僕は彼女の隣に立って、ジオラマのように小さく広がる街を見渡した。
「それでいいんだよ。怖いことも、辛いことも、僕たちにはもう必要ない。最後には、君にとっての大切なこと、やさしかった記憶だけが残るんだ」
綺麗なものだけを抱いて、この世界に別れを告げればいい。
足枷のような錘を捨て去るために、僕らはこの世界に留まっているのだから。
「そうやって、すべての幽霊が救われるといいな。アンジェやバンさんみたいに」
「タローくんもね」
アンジェが、急に真顔になって僕を見上げた。
「ねぇ、タローくん、彼女さんに会いに行きなよ」
「今は僕の話はいいよ」
急に話をこちらに振られて、反応に困った僕ははぐらかそうとする。アンジェが眉を寄せた。
「良くないよ。タローくんだって、のんびりしてるとジェイソン先輩とか、フレディ先輩みたいになっちゃうよ」
「どっちも嫌だな」
あそこまで振り切れる自信はないが、笑えない冗談だ。
「タローくんがあたしの記憶を見たときね、あたしにもタローくんの記憶が少しだけ見えたの。彼女さんに会いたいのにその勇気がなくて、毎晩アパートの前に立ってるところが」
僕は愕然とした。
なんてことだ。アンジェが僕のあの醜態を知っていたとは。そうか。意識が繋がれば、僕だけが一方的に記憶を見るってことはないんだよな。
「いくら幽霊でも、あのストーカー行為はどうかなと思うけど。でも、あたしもタローくんのこと言えないしね」
「……いっそ殺してほしい」
頭を抱えてしゃがみこんだ僕の頭上で、『もう死んでるけどね』という、冷ややかなアンジェの声が聞こえた。
「あたし、この前家族に会って思ったんだ。たとえ向こうから見えなくても、声が聞こえなくても、会いに行って良かったって。あのとき、いろんな大切なことを思い出したの。それができたのはタローくんのおかげだよ。だから、おせっかいかもしれないけど、タローくんにもそうしてほしい。これはあたしの遺言だからね」
「遺言か。それは、厳粛に受け止めないとな」
素直に聞き入れるのは決まりが悪くて、冗談めかして答えた。でも、アンジェの思いやりはちゃんと伝わっている。
「ここから去るのは、ほんの少しだけ寂しいな」
アンジェがぽつりと本音をこぼす。
それは未練とか心残りというものではなくて、この世界に向けた彼女の愛着だ。この世界が彼女にとって、もう恐ろしい場所ではないという証拠だった。
「大丈夫だよ。ここから先は天国か極楽か知らないけど、たぶんいいところだから」
「たぶんって、いつも面倒くさいこと言うタローくんにしては、ずいぶん適当なこと言ってるね」
「だって、バンさんが先に行ってるし、僕もすぐに行く。そのうちルルも行くんだから。悪いところのはずがない」
「そっか。そうだよね。あはは……」
朗らかに笑ったアンジェの顔が、いつもとは違って見えた。
黒々としたメイクが消えているのだ。ペールブルーの瞳も、今は明るい茶色に変わっている。
初めて見る年相応の、あどけなくて可愛い、アンジェのすっぴん。自分でもわかっているのか、ばつが悪そうに彼女は目をそらす。
「あんまり見ないで。すっぴん見られるの恥ずかしい」
「なんで? 可愛いじゃないか。メイクしてる顔より僕は好きだな」
「ありがとう。でもごめんなさい」
アンジェが僕に向かってペコリと頭を下げる。
「君に振られるのはこれで二度目だ」
「二度あることは三度目もあるかもよ?」
ふたりで顔を見合わせ、声をたてて笑った。
白い雲がのどかに流れていくその下で、子供たちの賑やかな笑い声が響く。
生者も、死者である僕たちにとっても、平和な空間だった。
アンジェは晴れ晴れとした表情で、青く高い空を見上げる。
「あたし、今度はここから下へ降りるんじゃなくて、上へ飛ぶの」
「うん、それがいい」
「ありがとう、タローくん」
ふつりと通信が途切れたように、声の余韻が消える。
目の前にはもう、アンジェの姿はない。
見上げれば、アンジェのカラーコンタクトを思わせる淡い空を背景に、名前の知らない真っ白な鳥が群れを成して飛んでいく。
天使は空へと還ったのだ。
「僕のほうこそ、ありがとう」
誰もいなくなった空間に、僕は心からそう告げた。
子供向けのイベントが開かれているらしく、デパートの屋上は家族連れで賑わっている。
アンジェはいつも通りの黒のゴスロリファッションと濃いメイクで、高いフェンスの向こうに広がる町並みを眺めている。この前と同じシチュエーションだけど、今の彼女に怨念めいたものは感じない。
「こうして高い場所に立つとね、死んだときの気持ちが蘇ってくるみたいで、怖かったんだ。だけど、あたしは、その思いを忘れちゃいけないと思ってた。それが、あたしへの罰だって」
淡い空色の瞳が僕に向けられる。
「でも、不思議なの。今は、そういう辛かったことをひとつも思い出せない。生きていたときの、楽しかったことや嬉しかったことばかりが頭に浮かんでくるの」
晴れやかな笑みを浮かべたアンジェには、もう危うさは微塵もない。
僕は彼女の隣に立って、ジオラマのように小さく広がる街を見渡した。
「それでいいんだよ。怖いことも、辛いことも、僕たちにはもう必要ない。最後には、君にとっての大切なこと、やさしかった記憶だけが残るんだ」
綺麗なものだけを抱いて、この世界に別れを告げればいい。
足枷のような錘を捨て去るために、僕らはこの世界に留まっているのだから。
「そうやって、すべての幽霊が救われるといいな。アンジェやバンさんみたいに」
「タローくんもね」
アンジェが、急に真顔になって僕を見上げた。
「ねぇ、タローくん、彼女さんに会いに行きなよ」
「今は僕の話はいいよ」
急に話をこちらに振られて、反応に困った僕ははぐらかそうとする。アンジェが眉を寄せた。
「良くないよ。タローくんだって、のんびりしてるとジェイソン先輩とか、フレディ先輩みたいになっちゃうよ」
「どっちも嫌だな」
あそこまで振り切れる自信はないが、笑えない冗談だ。
「タローくんがあたしの記憶を見たときね、あたしにもタローくんの記憶が少しだけ見えたの。彼女さんに会いたいのにその勇気がなくて、毎晩アパートの前に立ってるところが」
僕は愕然とした。
なんてことだ。アンジェが僕のあの醜態を知っていたとは。そうか。意識が繋がれば、僕だけが一方的に記憶を見るってことはないんだよな。
「いくら幽霊でも、あのストーカー行為はどうかなと思うけど。でも、あたしもタローくんのこと言えないしね」
「……いっそ殺してほしい」
頭を抱えてしゃがみこんだ僕の頭上で、『もう死んでるけどね』という、冷ややかなアンジェの声が聞こえた。
「あたし、この前家族に会って思ったんだ。たとえ向こうから見えなくても、声が聞こえなくても、会いに行って良かったって。あのとき、いろんな大切なことを思い出したの。それができたのはタローくんのおかげだよ。だから、おせっかいかもしれないけど、タローくんにもそうしてほしい。これはあたしの遺言だからね」
「遺言か。それは、厳粛に受け止めないとな」
素直に聞き入れるのは決まりが悪くて、冗談めかして答えた。でも、アンジェの思いやりはちゃんと伝わっている。
「ここから去るのは、ほんの少しだけ寂しいな」
アンジェがぽつりと本音をこぼす。
それは未練とか心残りというものではなくて、この世界に向けた彼女の愛着だ。この世界が彼女にとって、もう恐ろしい場所ではないという証拠だった。
「大丈夫だよ。ここから先は天国か極楽か知らないけど、たぶんいいところだから」
「たぶんって、いつも面倒くさいこと言うタローくんにしては、ずいぶん適当なこと言ってるね」
「だって、バンさんが先に行ってるし、僕もすぐに行く。そのうちルルも行くんだから。悪いところのはずがない」
「そっか。そうだよね。あはは……」
朗らかに笑ったアンジェの顔が、いつもとは違って見えた。
黒々としたメイクが消えているのだ。ペールブルーの瞳も、今は明るい茶色に変わっている。
初めて見る年相応の、あどけなくて可愛い、アンジェのすっぴん。自分でもわかっているのか、ばつが悪そうに彼女は目をそらす。
「あんまり見ないで。すっぴん見られるの恥ずかしい」
「なんで? 可愛いじゃないか。メイクしてる顔より僕は好きだな」
「ありがとう。でもごめんなさい」
アンジェが僕に向かってペコリと頭を下げる。
「君に振られるのはこれで二度目だ」
「二度あることは三度目もあるかもよ?」
ふたりで顔を見合わせ、声をたてて笑った。
白い雲がのどかに流れていくその下で、子供たちの賑やかな笑い声が響く。
生者も、死者である僕たちにとっても、平和な空間だった。
アンジェは晴れ晴れとした表情で、青く高い空を見上げる。
「あたし、今度はここから下へ降りるんじゃなくて、上へ飛ぶの」
「うん、それがいい」
「ありがとう、タローくん」
ふつりと通信が途切れたように、声の余韻が消える。
目の前にはもう、アンジェの姿はない。
見上げれば、アンジェのカラーコンタクトを思わせる淡い空を背景に、名前の知らない真っ白な鳥が群れを成して飛んでいく。
天使は空へと還ったのだ。
「僕のほうこそ、ありがとう」
誰もいなくなった空間に、僕は心からそう告げた。