「ルル……」
猫の名を呼びながら、アンジェがそっと手を伸ばす。
その指先は、猫に触れることなく擦り抜けた。けれど、猫はまるでアンジェの手に頬をこすりつけるように、気持ちよさそうに目を細めている。
「あたしはもう、ルルに触れないんだね」
アンジェは顔を伏せて、肩を震わせた。
「ごめんね。もっとたくさん、撫でてあげれば良かった。もっと、抱っこしてあげれば良かった」
嗚咽が混じったアンジェの声。
聞いている僕まで苦しくなるほどの悲しみが押し寄せる。
僕に背を向けている彼女の顔は見えない。だけど、彼女が大粒の涙をこぼしていることがわかる。
「どうしてかな。あたしには、この世界に大切なものなんてなにもないと思ってた。ルルはずっと傍にいてくれたのに。あのふわふわした温もりは、いつも手の届くところにあったのに、どうして忘れていたんだろう」
失って初めてわかることがある。
残された者も、残していく者も、同じ悲しみを共有している。
アンジェは今、本当の意味で自分の死を実感したのだ。
やわらかくて温かな記憶。
当たり前だったはずの幸せを、自分から手放してしまったことを。
「ルル、ルル」
どこからか声が聞こえてきて、アンジェのお姉さんが公園に入ってきた。
彼女にもこの場所に思い当たることがあったのか。お姉さんは迷わずにこちらへ来ると、ルルを見て大きな安堵の溜め息をもらした。
「無事みたいね。良かった」
アンジェの目の前で猫を抱き上げると、慈しむようにその頭を撫でた。
「ここに来れば、あの子が捜しに来てくれると思ったの? そうだったらいいのにね。……だけどもう、あの子はいないんだよ」
猫にやさしく言い聞かせるお姉さんの目には、涙がにじんでいる。
あの子というのはアンジェのことだろう。妹を思い出しているのだ。
お姉さんの気持ちも、アンジェの気持ちも理解しているように、猫は拒むことなくおとなしく抱かれていた。
「もうあんまり危ないことしないでよね。あんたのことは絶対に守るって、約束したんだから」
抱き上げた猫を愛おしむように、お姉さんは猫の頭に頬を寄せる。
くしゅん。
お姉さんがくしゃみをした。
猫を驚かさないためにか、細心の注意を払うように顔を背けながら。
「お姉ちゃん、猫アレルギーなの」
アンジェがぽつりと言った。
「ルルのこと、苦手なんだと思ってた。でも、あたしがルルを連れて帰ったとき、最初はママもパパも飼うことを反対したのに、お姉ちゃんだけは反対しなかったんだ。わかりやすく賛成してくれたわけでもないけど。『絶対にあんたが世話しなさいよ。私はしないからね』って。でも、あれは、お姉ちゃんなりに味方してくれてたんだよね」
「いいお姉さんだね」
「あんまり、仲良くなかったんだけどね。優等生すぎて、あたしとは正反対だった。……でも、もっとちゃんと話せば、仲良くなれたのかな」
懐かしむような目で、アンジェはお姉さんを見つめた。
仲良くなかったと言いながらも、彼女はお姉さんを慕っていたんだろう。もっと話したいことがたくさんあった。その瞳はそう語っているようだった。
「ルルはいたの?」
そこへ、四十代くらいの男女が駆け足で近づいてきた。男性のほうは会社帰りなのかスーツ姿で、女性は品のある美人だ。ふたりの姿を見て、アンジェがはっと息を呑む。
おそらく、彼らはアンジェの両親だった。
「良かった。見つかって」
「怪我はないか?」
お姉さんの傍へ行くと、母親だろう女性のほうは少し涙ぐんだ。みんなで家出した猫の心配をして、探し回っていたんだろう。
アンジェが可愛がっていた猫だから、彼女の分まで大切にしたい。そんな思いが伝わってくる。
寄り添う三人と一匹を、アンジェは少し離れた場所から見つめていた。
彼女が両親の姿を目にしたのは、亡くなってから初めてのことだ。
「ママ、パパ……」
アンジェの瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「あたし、みんなにたくさん心配かけて、たくさん悲しませちゃった。ごめんなさい。ごめんなさい……」
両手で顔を覆い、アンジェはしゃくりあげる。
それから、子供のように顔をぐしゃぐしゃに歪めて大声で泣き続けた。小さな肩にそっと手を掛ける。僕には、こんなことしかできない。
どんなに大声で泣きわめいてもいいよ。幽霊なんだから、近所迷惑なんて関係ない。
それでも、彼女の嗚咽は家族には届かない。
そのことがもどかしかった。
ニャア
ふいに、ルルがまた鳴いた。
金色の瞳は、まっすぐにアンジェに向けられている。
それにつられるようにして、三人がそろってこちらを向いた。
ほんの数秒、アンジェと家族の視線がぶつかる。家族にはなにも見えていないはずだし、なにか感じるものがあったわけではないのかもしれない。
けれど、その数秒のあいだ、確かにアンジェと家族は見つめあっていた。
「ルルは大丈夫だよ。大丈夫だから、心配しないで」
両親に向けて発したであろうお姉さんの言葉が、アンジェに向けられていたように聞こえたのは、僕の気のせいか。
僕には、ルルがアンジェと家族を引き会わせたのだと思えた。
アンジェが家の外にいることをルルは知っていて、わざと脱走したんじゃないかと。
確かめようもないことだけれど。
それから、三人は猫の無事を喜びあい、静かに公園を出ていった。
アンジェと僕は、黙ってそんな彼らを見送る。
ニャアン
まるで別れを惜しむように、ルルが鳴いた。
お姉さんに抱かれたルルは、姿が見えなくなるまで、ずっとアンジェを見つめていた。
猫の名を呼びながら、アンジェがそっと手を伸ばす。
その指先は、猫に触れることなく擦り抜けた。けれど、猫はまるでアンジェの手に頬をこすりつけるように、気持ちよさそうに目を細めている。
「あたしはもう、ルルに触れないんだね」
アンジェは顔を伏せて、肩を震わせた。
「ごめんね。もっとたくさん、撫でてあげれば良かった。もっと、抱っこしてあげれば良かった」
嗚咽が混じったアンジェの声。
聞いている僕まで苦しくなるほどの悲しみが押し寄せる。
僕に背を向けている彼女の顔は見えない。だけど、彼女が大粒の涙をこぼしていることがわかる。
「どうしてかな。あたしには、この世界に大切なものなんてなにもないと思ってた。ルルはずっと傍にいてくれたのに。あのふわふわした温もりは、いつも手の届くところにあったのに、どうして忘れていたんだろう」
失って初めてわかることがある。
残された者も、残していく者も、同じ悲しみを共有している。
アンジェは今、本当の意味で自分の死を実感したのだ。
やわらかくて温かな記憶。
当たり前だったはずの幸せを、自分から手放してしまったことを。
「ルル、ルル」
どこからか声が聞こえてきて、アンジェのお姉さんが公園に入ってきた。
彼女にもこの場所に思い当たることがあったのか。お姉さんは迷わずにこちらへ来ると、ルルを見て大きな安堵の溜め息をもらした。
「無事みたいね。良かった」
アンジェの目の前で猫を抱き上げると、慈しむようにその頭を撫でた。
「ここに来れば、あの子が捜しに来てくれると思ったの? そうだったらいいのにね。……だけどもう、あの子はいないんだよ」
猫にやさしく言い聞かせるお姉さんの目には、涙がにじんでいる。
あの子というのはアンジェのことだろう。妹を思い出しているのだ。
お姉さんの気持ちも、アンジェの気持ちも理解しているように、猫は拒むことなくおとなしく抱かれていた。
「もうあんまり危ないことしないでよね。あんたのことは絶対に守るって、約束したんだから」
抱き上げた猫を愛おしむように、お姉さんは猫の頭に頬を寄せる。
くしゅん。
お姉さんがくしゃみをした。
猫を驚かさないためにか、細心の注意を払うように顔を背けながら。
「お姉ちゃん、猫アレルギーなの」
アンジェがぽつりと言った。
「ルルのこと、苦手なんだと思ってた。でも、あたしがルルを連れて帰ったとき、最初はママもパパも飼うことを反対したのに、お姉ちゃんだけは反対しなかったんだ。わかりやすく賛成してくれたわけでもないけど。『絶対にあんたが世話しなさいよ。私はしないからね』って。でも、あれは、お姉ちゃんなりに味方してくれてたんだよね」
「いいお姉さんだね」
「あんまり、仲良くなかったんだけどね。優等生すぎて、あたしとは正反対だった。……でも、もっとちゃんと話せば、仲良くなれたのかな」
懐かしむような目で、アンジェはお姉さんを見つめた。
仲良くなかったと言いながらも、彼女はお姉さんを慕っていたんだろう。もっと話したいことがたくさんあった。その瞳はそう語っているようだった。
「ルルはいたの?」
そこへ、四十代くらいの男女が駆け足で近づいてきた。男性のほうは会社帰りなのかスーツ姿で、女性は品のある美人だ。ふたりの姿を見て、アンジェがはっと息を呑む。
おそらく、彼らはアンジェの両親だった。
「良かった。見つかって」
「怪我はないか?」
お姉さんの傍へ行くと、母親だろう女性のほうは少し涙ぐんだ。みんなで家出した猫の心配をして、探し回っていたんだろう。
アンジェが可愛がっていた猫だから、彼女の分まで大切にしたい。そんな思いが伝わってくる。
寄り添う三人と一匹を、アンジェは少し離れた場所から見つめていた。
彼女が両親の姿を目にしたのは、亡くなってから初めてのことだ。
「ママ、パパ……」
アンジェの瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「あたし、みんなにたくさん心配かけて、たくさん悲しませちゃった。ごめんなさい。ごめんなさい……」
両手で顔を覆い、アンジェはしゃくりあげる。
それから、子供のように顔をぐしゃぐしゃに歪めて大声で泣き続けた。小さな肩にそっと手を掛ける。僕には、こんなことしかできない。
どんなに大声で泣きわめいてもいいよ。幽霊なんだから、近所迷惑なんて関係ない。
それでも、彼女の嗚咽は家族には届かない。
そのことがもどかしかった。
ニャア
ふいに、ルルがまた鳴いた。
金色の瞳は、まっすぐにアンジェに向けられている。
それにつられるようにして、三人がそろってこちらを向いた。
ほんの数秒、アンジェと家族の視線がぶつかる。家族にはなにも見えていないはずだし、なにか感じるものがあったわけではないのかもしれない。
けれど、その数秒のあいだ、確かにアンジェと家族は見つめあっていた。
「ルルは大丈夫だよ。大丈夫だから、心配しないで」
両親に向けて発したであろうお姉さんの言葉が、アンジェに向けられていたように聞こえたのは、僕の気のせいか。
僕には、ルルがアンジェと家族を引き会わせたのだと思えた。
アンジェが家の外にいることをルルは知っていて、わざと脱走したんじゃないかと。
確かめようもないことだけれど。
それから、三人は猫の無事を喜びあい、静かに公園を出ていった。
アンジェと僕は、黙ってそんな彼らを見送る。
ニャアン
まるで別れを惜しむように、ルルが鳴いた。
お姉さんに抱かれたルルは、姿が見えなくなるまで、ずっとアンジェを見つめていた。