ビルの壁をキャンバスにした巨大な絵画に描かれているのは、あらゆる動物と植物、人間、空と海。

 大胆で、緻密で、リアルで、幻想的で。

 この世界の生きとし生けるもの、その幸福だけを集めて描かれた、極彩色の理想郷。

 地上におけるすべての命、あらゆる事象は繋がっている。たぶん、魂だけとなった幽霊でさえも。

 愛とか平和とか、世界中でありふれた、聞き飽きたメッセージが、その絵には溢れていた。

 描いたのは幽霊なのだ。

 だから、どれだけ綺麗事でもかまわない。

 最後に抱えていくのは、愛しく美しいものだけでいいのだから。

 僕が壁画の前に立ったとき、バンさんの姿は既になかった。

 出会ってからルーブルへ行くまで、彼がそこから離れたことは一度もなかったから、ついに消えたのだと思った。

 その絵が完成形なのか、もっと描き足りない部分があったのかはわからないけれど。芸術に完全はないと言っていた彼のことだから、きっと、消えるその瞬間も絵筆を握っていたに違いなかった。

 残念なことに、その絵は死者にしか見えない。

 生者たちは今も変わらず、壁画の前を素通りしていく。

 これが見えていないなんて本当にもったいない。もしもどこかのコンクールに出展したら、僕なら大賞をつける。オークションなら、史上最高額間違いなしだ。

 そんな話、バンさんは笑って聞き流すだろうけど。

 母親に手を引かれて歩いてきた小さな男の子が、急に壁画の前で足を止めた。目を真ん丸にして、小さな体をそらせるように壁を見上げる。

 彼には見えていないはずなのに、その瞳は焦がれるように、バンさんの絵を見つめていた。

 動かなくなった男の子を、母親が不思議そうに見下ろした。

「どうしたの、たぁくん。もうすぐパパが帰ってくるから急いで帰らなきゃ」

「ぞうさん」

 男の子はあどけない口調で言って、壁画を指さす。そこには、彼には見えないはずの象の絵が確かに描かれていた。

「ぞうさん? どこ?」

「おうまさん」

 今度は、馬の絵を指さす。

 母親はじっとビルの壁に目を凝らすが、困惑したように眉を寄せている。

 彼にはバンさんの絵が見えているのだ。

 幼い子供は大人には見えないものが見えると、怪談めいた話を聞くけれど、あれは案外事実なのかもしれない。生まれたばかりの魂は、魂だけになった死者とも、どこか通じるものがあるのだろうか。

「たぁくんは想像力が豊かだね。将来は画家さんかな」

 子供の作り話だと思ったのか、母親はあやすように男の子を抱き上げて歩いていった。

 将来は画家さん、か。

 成長した彼が今のことを覚えていたらいいな。

 あるいは覚えていなくても、無意識の記憶の底には確かにバンさんの絵があって、それがきっと彼を幸せな気持ちにするのだ。

 それこそが、バンさんが望んだことなのだろうと思う。

 幽霊にもできることってあるんだな。やっぱり、バンさんはすごいよ。霊界の偉大な路上アーティストだ。

 しばらくすると、壁画は端のほうから消えていった。

 砂が風で飛ばされるように、絵の具が粉になってゆっくり流されていく。

 やがて、もともとのなにもない無機質な壁になった。

 最初から壁画などなかったみたいに、真っ白な壁。けれど、あの鮮やかな絵の残像は、僕の魂が続く限り消えることはない。