「嘘ついたのは、そんなに長くここに留まってると思われたくなかったからかな」
「長く留まるとなにか問題があるの?」
「どうかな。よくわかんないけど……あたしより後に幽霊になった人が、どんどんいなくなっていくの。みんな、抱えていた悩みや苦しみが消えて、すごく身軽になったみたいに消えていく。あたしだけが、いつまでも取り残される」
幽霊としてこの世界に長居するのは、たぶんあまりいいことではない。
強い心残りは、自身の魂さえ蝕んでいく。幽霊となった者たちは、誰に教えられなくても、その危うさを理解しているのかもしれない。
幽霊の一年というのが、長いのかそうでもないのかは微妙なところだ。けれど、アンジェは自分の未練が自分を不自由にしていることを感じている。
「アンジェ、君は……」
なにを思いつめているの?
どんな記憶が君を苦しめているの?
その言葉を飲み込んだ。
軽々しく尋ねていいものか迷う。できることなら助けになりたいが、自分すら救えない僕に、いったいなにができるだろうか。
「あたし、他の幽霊みたいに消えられないみたい」
自嘲するようにアンジェが笑う。
後ろ手を組んで、足元を見下ろす。長い睫毛がその瞳を隠した。
「でも、いいの。幽霊はなんにもしなくていいし、しがらみもないから気楽だし。年も取らないから、いつまでもこんな格好していられる。あたし、こうしてフラフラしてるの結構気に入ってるの」
アンジェがわざと軽口めかして言っていることがわかる。それは彼女の本心ではないのだと。
「だから、ずっと幽霊としてこの世界で生きていくの」
「生きていく、って……もう死んでるけど?」
笑い飛ばそうとして、ふとアンジェの気配に違和感を覚える。
なぜか、彼女の周囲だけ空気が冷たく、暗く淀んで感じられた。
「ねぇ、タローくんも、ずっとあたしと一緒にいてくれない?」
顔を上げて僕を見つめるアンジェの瞳は、黒かった。
いつものペールブルーのカラーコンタクトではない。それどころか、黒目と白目の堺もなく、眼球が真っ黒なのだ。ぽっかりと空いた眼孔に、どこまでも深い闇が続いている。
その異様さに僕はゾッとした。
アンジェの眼孔に飲み込まれそうな気がする。こんな恐怖を覚えたのは、死んでから初めて。いや、生きていたときだって感じたことはない。
アンジェが両手で僕の右手を握った。
冷たさなんて感じないはずなのに、ひんやりとした感触がそこから這い上がり、背筋がざわついた。
「アンジェ……」
「なんとくわかるんだ。タローくんはあたしと似てるって。ねぇ、ここでずっと、あたしと一緒にいようよ」
僕はアンジェの手を振り払うことができなかった。
逃げなければと頭の片隅で思うものの、金縛りにあったように動けない。
金縛りなんて一度もなったことがないのに、まさか幽霊になってから体験するとは思わなかった。
アンジェの長い髪が、まるで生き物のようにうねうねと動いた。
それは彼女の背後に闇となって広がり、膨張していく。闇はいつのまにか、アンジェだけでなく僕をも包んでいた。
周囲が夜のように真っ暗になる。
そこへ、どこからかかすかに声が聞こえてきた。
タスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテ……
誰か、助けて……
頭の中に直接響いてくる、ふり絞るようなアンジェの声。
それと同時に、どす黒い感情の波が押し寄せてくる。
悲哀と絶望、孤独、不安、無力感。
すべてが激しい痛みとなって、心も体もズタズタに引き裂かれる。魂すら押しつぶされそうな重苦しさに、息もできない。
そこへ、トドメを刺すかのように
『おまえ、気持ち悪いんだよ。死ねばいいのに』
ナイフのような言葉に、ないはずの心臓を貫かれた気がした。
僕は思わずアンジェの手を振り払い、彼女から離れた。
アンジェが、放心したように僕を見つめている。その瞳はもう黒くはなく、いつもの淡い青色に戻っていた。
今のは、幻覚なのか?
幽霊でも幻覚を見ることがあるのか、そうでないなら、あれは……。
「アンジェ……」
なんと声を掛けていいかわからず、僕もただ彼女を見つめる。
アンジェを突き飛ばしてしまった手に、言いようのない喪失感を覚えた。
その手をふたたび伸ばしかけたとき、
「ごめんね、タローくん」
大きく開かれたアンジェの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「待って、アンジェ!」
僕が呼びかける前に、その姿は忽然と目の前から消えた。
アンジェが消えた空間をぼんやりと見つめたまま、さっき闇の中で感じたイメージについて考える。
あれは、アンジェの生前の記憶だ。
実体を持たない幽霊は、言ってみればむき出しの魂。お互いの気配が感じ取れるのも、個々の境界が曖昧だからだ。
アンジェとは一緒にいる時間が長ったし、ともに移動するやり方も彼女に教わった。だけど、まさか心の中まで読めるなんて。
そうだったのか。アンジェ、君は……。
自ら死を選んだのか。
空から水滴が落ちてきた。
まばらに落ちていたそれは、やがて間断なく降り注ぐ。まっすぐに落ちてくる大きな雨粒は、さっき見たアンジェの涙のようだった。
幽霊も涙を流すんだな。
空を見上げてそんなことを思う。
コンクリートの屋上はすぐに水浸しになって、煙草を吸っていた男も慌てて屋内に逃げ込む。
雨の屋上にひとり取り残された僕は、濡れることもなく、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
「長く留まるとなにか問題があるの?」
「どうかな。よくわかんないけど……あたしより後に幽霊になった人が、どんどんいなくなっていくの。みんな、抱えていた悩みや苦しみが消えて、すごく身軽になったみたいに消えていく。あたしだけが、いつまでも取り残される」
幽霊としてこの世界に長居するのは、たぶんあまりいいことではない。
強い心残りは、自身の魂さえ蝕んでいく。幽霊となった者たちは、誰に教えられなくても、その危うさを理解しているのかもしれない。
幽霊の一年というのが、長いのかそうでもないのかは微妙なところだ。けれど、アンジェは自分の未練が自分を不自由にしていることを感じている。
「アンジェ、君は……」
なにを思いつめているの?
どんな記憶が君を苦しめているの?
その言葉を飲み込んだ。
軽々しく尋ねていいものか迷う。できることなら助けになりたいが、自分すら救えない僕に、いったいなにができるだろうか。
「あたし、他の幽霊みたいに消えられないみたい」
自嘲するようにアンジェが笑う。
後ろ手を組んで、足元を見下ろす。長い睫毛がその瞳を隠した。
「でも、いいの。幽霊はなんにもしなくていいし、しがらみもないから気楽だし。年も取らないから、いつまでもこんな格好していられる。あたし、こうしてフラフラしてるの結構気に入ってるの」
アンジェがわざと軽口めかして言っていることがわかる。それは彼女の本心ではないのだと。
「だから、ずっと幽霊としてこの世界で生きていくの」
「生きていく、って……もう死んでるけど?」
笑い飛ばそうとして、ふとアンジェの気配に違和感を覚える。
なぜか、彼女の周囲だけ空気が冷たく、暗く淀んで感じられた。
「ねぇ、タローくんも、ずっとあたしと一緒にいてくれない?」
顔を上げて僕を見つめるアンジェの瞳は、黒かった。
いつものペールブルーのカラーコンタクトではない。それどころか、黒目と白目の堺もなく、眼球が真っ黒なのだ。ぽっかりと空いた眼孔に、どこまでも深い闇が続いている。
その異様さに僕はゾッとした。
アンジェの眼孔に飲み込まれそうな気がする。こんな恐怖を覚えたのは、死んでから初めて。いや、生きていたときだって感じたことはない。
アンジェが両手で僕の右手を握った。
冷たさなんて感じないはずなのに、ひんやりとした感触がそこから這い上がり、背筋がざわついた。
「アンジェ……」
「なんとくわかるんだ。タローくんはあたしと似てるって。ねぇ、ここでずっと、あたしと一緒にいようよ」
僕はアンジェの手を振り払うことができなかった。
逃げなければと頭の片隅で思うものの、金縛りにあったように動けない。
金縛りなんて一度もなったことがないのに、まさか幽霊になってから体験するとは思わなかった。
アンジェの長い髪が、まるで生き物のようにうねうねと動いた。
それは彼女の背後に闇となって広がり、膨張していく。闇はいつのまにか、アンジェだけでなく僕をも包んでいた。
周囲が夜のように真っ暗になる。
そこへ、どこからかかすかに声が聞こえてきた。
タスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテ……
誰か、助けて……
頭の中に直接響いてくる、ふり絞るようなアンジェの声。
それと同時に、どす黒い感情の波が押し寄せてくる。
悲哀と絶望、孤独、不安、無力感。
すべてが激しい痛みとなって、心も体もズタズタに引き裂かれる。魂すら押しつぶされそうな重苦しさに、息もできない。
そこへ、トドメを刺すかのように
『おまえ、気持ち悪いんだよ。死ねばいいのに』
ナイフのような言葉に、ないはずの心臓を貫かれた気がした。
僕は思わずアンジェの手を振り払い、彼女から離れた。
アンジェが、放心したように僕を見つめている。その瞳はもう黒くはなく、いつもの淡い青色に戻っていた。
今のは、幻覚なのか?
幽霊でも幻覚を見ることがあるのか、そうでないなら、あれは……。
「アンジェ……」
なんと声を掛けていいかわからず、僕もただ彼女を見つめる。
アンジェを突き飛ばしてしまった手に、言いようのない喪失感を覚えた。
その手をふたたび伸ばしかけたとき、
「ごめんね、タローくん」
大きく開かれたアンジェの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「待って、アンジェ!」
僕が呼びかける前に、その姿は忽然と目の前から消えた。
アンジェが消えた空間をぼんやりと見つめたまま、さっき闇の中で感じたイメージについて考える。
あれは、アンジェの生前の記憶だ。
実体を持たない幽霊は、言ってみればむき出しの魂。お互いの気配が感じ取れるのも、個々の境界が曖昧だからだ。
アンジェとは一緒にいる時間が長ったし、ともに移動するやり方も彼女に教わった。だけど、まさか心の中まで読めるなんて。
そうだったのか。アンジェ、君は……。
自ら死を選んだのか。
空から水滴が落ちてきた。
まばらに落ちていたそれは、やがて間断なく降り注ぐ。まっすぐに落ちてくる大きな雨粒は、さっき見たアンジェの涙のようだった。
幽霊も涙を流すんだな。
空を見上げてそんなことを思う。
コンクリートの屋上はすぐに水浸しになって、煙草を吸っていた男も慌てて屋内に逃げ込む。
雨の屋上にひとり取り残された僕は、濡れることもなく、いつまでもその場に立ち尽くしていた。