とあるデパートの屋上にアンジェの姿はあった。

 グリーンの人工芝に、イベント用の小さなステージ。カラフルなパラソル付きのテーブルとイスが並ぶだけの休憩スペース。

 低く垂れこめた雲からは、時折小雨がぱらついている。

 平日でなんのイベントもないからか、ほとんど人の姿はない。中年の男性がひとり、パラソルの下で煙草を吸っているだけだった。

「アンジェ、こんなところでなにしてるの?」

 フェンス脇でぽつんとたたずむ背中に声をかけると、アンジェがゆっくりこちらに顔を向けた。

「タローくんこそ、なんでここにいるの? あたしのストーカーなの? 女子高生なら生死は問わないの?」

「言い方」

「だって、他にいくらでも行く場所あるじゃない? せっかく幽霊になったんだから、それを満喫しなきゃ。今なら、女子更衣室だって女風呂だって、警察に捕まることなく覗き放題なのに」

「女子高生が覗きをすすめるって、世も末だな」

 心底呆れて言ってやったら、アンジェは悪戯っぽく笑った。

 本当に、こうしていると普通の女の子なんだけどな。それこそ、僕の目には生者も死者も変わらなく見えるのに。

「ねぇ、タローくん、彼女いたんでしょ? どんな人?」

「可愛いよ。……言っとくけど、妄想じゃないからな」

「はいはい、可愛いのはわかったよ。あとは?」

「明るくて、やさしくて。けど、見た目に反して気が強いところがあるかな」

「タローくんは尻に敷かれていた、と」

「そういう言い方はやめてくれ」

 意地悪気に笑うアンジェをにらみつける。でも、実際にそういう部分もなきにしもあらずだったかな。

「タローくんの彼女にしては出来過ぎじゃない? やっぱり妄想なんじゃないの?」

「僕もそう思うけど事実だよ。本当に、僕にはもったいない彼女だった」

「そっか。愛されてるんだね、彼女さん」

 そんな気恥ずかしいセリフを真顔で言う。

 アンジェは急に静かになって、街の上空へと視線を向けた。

 今日の空には色がない。彼女の瞳は、晴れた青空に焦がれるような色を浮かべていた。

「その人、きっとタローくんが死んで泣いてるよね」

 アンジェがしんみりと呟いた。

 それは、僕の彼女を想像しているというよりは、彼女自身の大切な誰かに思いを馳せているようにも聞こえた。

 先日見たアンジェの家の様子を思い出す。

 あのたくさんの写真。家族は彼女を愛していないわけがない。

「彼女は……泣いてないと思うよ。僕には、彼女が泣くほどの価値はない」

 アンジェが不審そうな顔を上げた。

「なんでそんなこと言うの? 自分を卑下するみたいな言い方、好きじゃない」

 めずらしく、怒ったように言う。なぜか、悲しそうにも見える顔で。

「僕にもいろいろあるんだよ」

 本当に、僕には加奈に泣いてもらう資格はないんだ。僕のことで彼女が悲しむべきじゃない。

 僕のことなんか、早く忘れてくれてかまわない。

「死んでから、彼女さんに会いに行った?」

「行ってないよ。会うといっても、向こうには僕の姿は見えないし、声も聞こえないんだ。逆に、それができちゃったら、向こうもビビって感動の再会どころじゃないだろうけど」

「確かにそうだね。あたしたち、みんなが怖がる幽霊なんだもんね」

 アンジェの乾いた笑い声は、なんとく寂しげに響いた。

 僕が毎晩のように加奈のアパートを見守っていることを話したら、どんな顔をするだろう。それは口が裂けても言えないな。

 情けないストーカー行為は、加奈への未練以外のなにものでもない。

 そんなことをするくらいなら、いっそちゃんと彼女の顔を見に行けばいい。きっとアンジェはそう言う。それは僕にもわかっている。君に言われるまでもない。と、勝手に心の中で会話して言い返す。

 僕には、加奈に会いに行く勇気も、彼女のことを吹っ切る潔さもない。

 このヘタレな性格は、死んだくらいでは治らないらしい。だから、こんなふうにあてもなく現世を彷徨っているんだ。

「タローくん、彼女さんに会わなくていいの?」

「だから、今更会ってもどうにもならないよ」

「そうだけど、タローくんはどうなるの?」

「どうなるって?」

「彼女さんに会わないままだと、きっとずっとこのままだよ」

 女子高生のくせに鋭いな。これも女の勘というやつか。僕の最大の心残りが加奈にあることを、アンジェは見抜いていた。

 だけど、加奈を一目見たらそれでいいわけではない。

 僕はもう、彼女と話すことはできない。彼女に謝ることも、僕の本心を打ち明けることもできないのに。

 本当に、どうしろっていうんだ?

 僕はなにもできないまま、ただ未練を抱えてこの世に留まり続けなきゃならない。そのうち、迷い続けることに飽きて成仏するまで。

「僕は平気だよ。たとえ心残りがあったとしても、それをこじらせて悪霊になるほどのパワーはないから。これでも、諦めはいいほうなんだ」

「本当に諦められる?」

 しつこく聞いてくるアンジェに、少し苛立った。

 どうして彼女がそこまでこだわるのかわからない。ただ、それ以上踏み込んでほしくなかった。

「そう言う君こそどうなの? アンジェ、幽霊になって一ヶ月って僕に言ったけど、本当はバンさんよりもっと前に亡くなったんだってね。僕の心配をしている場合じゃないだろう?」

 つい意地の悪い言い方をしてしまった。それが気になっていたのは事実だが、こんな形で問いただすべきではなかった。

 アンジェはわずかに目を見開き、なにも言わずに顔をそむける。僕は自分の浅はかさを後悔した。

 誰にだって触れられたくない秘密はある。

 幽霊のそれは、たぶん生者よりデリケートだ。だから、幽霊は無意識に他の幽霊と距離を取るのかもしれない。

「本当はね、あたし、死んでからもう一年以上経つの」

 フェンスの外に顔を向けたまま、アンジェは言った。