僕が幽霊となってから三日が過ぎた。
通っていた学校や行ったことがある行楽地など、しばらくは思い出の場所を巡って生前をひとり偲んでいたが、それにも飽きて、僕はまたバンさんの壁画の前にいる。
バンさんはこの前と同じように、脚立に腰かけて絵を描いていた。
絵の善し悪しはわからないけれど、鮮やかな色彩が見ていて楽しく、癒される。幽霊が描く絵には、幽霊に対する癒し効果があるのかもしれない。
邪魔するのも申し訳ないので、僕は声を掛けることなく、膝を抱えて壁画を見上げていた。幽霊だから何時間立っていたって疲れないが、ぼーっと突っ立っているよりは座っているほうが落ち着くのだ。
晩秋の空の下、足早に歩いていく人々を眺める。
みんな、そんなに急いでどこへ行くのか。生前は僕もこんな速度で歩いていたんだろうか。それこそ、空を見上げる暇もないほどに。
「タローくん、退屈じゃない?」
バンさんが絵筆を止めて、肩越しに僕を見た。
「いえ、バンさんが絵を描いてるところは見ていて楽しいです。僕は芸術とかわからないですけど、全然飽きないですよ」
「泣かせるね。おじさんを気遣ってくれてありがとう」
バンさんは冗談ぽく返すが、お世辞で言ったわけではない。
でも、実際のところバンさんの享年はいくつなんだろう?
「あの、立ち入ったことを聞いてもいいですか?」
「改まってどうした? なんか怖いけど、いいよ」
「バンさん、結婚はしてないんですか?」
プライベートなことを尋ねるのは憚られたけど、思い切って聞いてみた。バンさんは特に気を悪くした様子はない。
「してないよ。残念なことに彼女いない歴も結構長かった。俺、あんまりモテないからね」
「そうなんですか? なんか、意外……でもないか」
「おい、そこはフォローしてくれよ。『そんなことないですよ。バンさんはイケてますよ』とか」
「そんなことないですよ。バンさんはイケてますよ」
「だろ? なんで俺がモテないのか謎だよな」
「イケてますけど、バンさんは結婚とか恋愛とか、そんなに関心はなかったんじゃないですか?」
バンさんは脚立の上でくるりと向きを変えると、頬をかきながら僕を見下ろした。やや気まずそうな顔だ。
「タローくん、恐ろしい子」
「当たってました?」
「当たっていたというか……確かに、生前の俺には、時間にも心にもそんな余裕はなかったよ。こんなに早く死ぬとわかっていたら、一回くらい結婚しておいてもよかったかもしれないとは思うけど」
それはそれで、残された奥さんや子供が気の毒じゃないか?
でも、そうなっていたかもしれない人生っていうのは、つい想像してしまうものだ。僕らの人生はもう、なにを語ってもタラレバでしかないけれど。
「話は変わりますけど、その絵っていつ頃完成するんですか?」
「さあ、俺にもわからない」
「わからない?」
「絵に限らず、創作ってそういうもんだからな。手を加えたいと思ったらきりがない。特に今回は、いつまでも描いていたいような気さえする。だけど同時に、早く完成させなきゃいけないとも思う。すごく複雑な心境だよ」
壁画を見回して、バンさんが肩をすくめる。
「俺にとっては、この絵が遺作みたいなものなんだ。この世に遺していけなくても、俺自身にケリをつけるためのね」
バンさんがとても真剣にこの絵と向き合っていることは、僕にもわかる。だけど、同じくらい楽しんでいることも。
絵を描きたいと思ったことは一度もないけれど、彼を見ているとその表現手段を知っていることを羨ましく感じるのだ。
「眩しいくらいの青空、大地に沈む燃えるような夕日、季節によって変わる海の色、雲の形。それから、鮮やかな草木や花や動物や人間や……自分がどれほど美しい世界に住んでいたのかを、少しでも描いておきたいんだ」
バンさんが美しいと感じる世界のすべてを、詰め込んだ絵。
自然、動物、人間。その鮮烈な色彩だけでなく、鳥のさえずりや風の音まで聞こえてきそうだった。
彼の目には、この世界がこんなふうに見えていた。
バンさんの絵を通して、僕はそれを見ている。
「バンさん、海外に行ったことあります?」
「何度かあるよ」
「え、何度も?」
ダメもとで聞いたのに、あっさりと肯定された。
聞いておいて失礼だけど、それは意外だ。バンさんは海外旅行とか縁がなさそうで。なにより、あまりお金を持ってそうには見えないから。
「なに、そのリアクション。俺は海外旅行とか縁がなそうとか、金持ってなさそうとか思った?」
エスパーか? まさか、三ヶ月以上幽霊やってると、人の心が読める特殊能力を会得できるとかないよな?
「思いました、すみません」
「だよな。自分でも思うわ。まあ、俺の場合は普通に観光地を回るような旅行じゃなくて、ほとんどが絵画目的の貧乏旅行だけどな。若い頃に少し留学したこともあったし」
「留学? すごい! じゃあ、英会話は得意なんですか?」
「簡単な会話くらいなら。留学してたのはフランスだったから、フランス語のほうが得意だったけど……もうずいぶん昔のことだから忘れたな」
「なんですか、その斜め上いくハイスペックな感じ」
やっぱり、よくわからない人だな。
生きていたら絶対に知り合わないタイプだ。それを言うならアンジェもそうだけど。
「バンさん、僕、一度も海外に行ったことないんですよ」
「そうか。タローくん、まだ若いもんな」
「他の幽霊と一緒なら、自分が行ったことない場所にも行けるんでしたよね?」
期待を込めた目で見上げると、バンさんは溜め息をつくように笑った。
「わかったよ。今度、一緒に行けるか試してみよう。俺も、死んでからここを離れたことがないから、上手くいくかはわからないけど」
「よろしくお願いします!」
「言っとくけど、俺は有名な観光地とかよく知らないからな。行けるとしたらたぶん美術館限定だよ」
「海外に行けるならなんでもいいです」
実は、美術館はあまり興味はないけれど。
それでも人生初の海外旅行だ。お金も時間もかからないってのは最高じゃないか。
「留学か、すごいな。美術関係の学校なんでしょ?」
「そうだけど」
「画家ですもんね。アンジェじゃないけど、僕もそういう人に会ったのは初めてです」
「だから、そんなたいそうなもんじゃないって。若い頃はバイトしながらなんとか絵の仕事もしてたけど、結局それだけで食ってくことができなくて、最近は全然関係ない仕事してたし」
「でも、そこまで好きなことがあるって、僕から見ればすごいです。それを一度でも仕事にできるなんて、誰でもできることじゃないでしょう?」
「あまり褒めるなよ。けど、ありがとな」
照れたように、けれど少しだけ切なげな目をして、バンさんはふたたび壁画に向き直った。
自分を語る彼の口調は淡々としていた。でもそこには、僕なんかには推し量れない感情がいろいろと詰まっているに違いない。
「好きなことでも、結果がでないまま続けるのはなかなかしんどくてさ。もういいかげん、諦めようかと思ってたところだった。今度ダメだったらすっぱりやめるつもりで、少し前にコンクールに出品したんだ。その結果が出る直前に死ぬって、俺は相当日頃の行いが悪かったのかね。もっとも、悪い結果を知らずに済んだとしたら、それは逆に運がいいのか」
と、僕にはとても笑えない冗談を、バンさんは自分で笑いながら言った。
それは、彼の人生においてかなり重要なことではないのか?
バンさんの心残りにも深く関係することだとしたら……?
「その結果って、もう出てるんですか?」
「そろそろかな」
「それ、どうにかしてわからないんですか?」
「結果を知るのは簡単だよ。コンクールの展示会場を覗きに行けばいい。大賞や入選作品が、それぞれ張り出されるから。ここから近い美術館でやる予定なんだ」
「じゃあ見に行きましょうよ。バンさんだって、結果が気になるでしょ?」
「うーん、どうしようかな」
バンさんは言葉を濁して、それきり絵に集中してしまった。
返答が煮え切らないのは、結果が良くても悪くても、悔しく感じてしまうからだろうか。悪い結果はもちろんのこと、良い結果であれば、どうして死んでしまったのかと余計に辛くなるのではないか。
けれど、バンさんの反応はそういうのとも少し違う気もする。
「なにが気になるの?」
声が聞こえたと思ったら、アンジェが僕の隣に座っていた。
通っていた学校や行ったことがある行楽地など、しばらくは思い出の場所を巡って生前をひとり偲んでいたが、それにも飽きて、僕はまたバンさんの壁画の前にいる。
バンさんはこの前と同じように、脚立に腰かけて絵を描いていた。
絵の善し悪しはわからないけれど、鮮やかな色彩が見ていて楽しく、癒される。幽霊が描く絵には、幽霊に対する癒し効果があるのかもしれない。
邪魔するのも申し訳ないので、僕は声を掛けることなく、膝を抱えて壁画を見上げていた。幽霊だから何時間立っていたって疲れないが、ぼーっと突っ立っているよりは座っているほうが落ち着くのだ。
晩秋の空の下、足早に歩いていく人々を眺める。
みんな、そんなに急いでどこへ行くのか。生前は僕もこんな速度で歩いていたんだろうか。それこそ、空を見上げる暇もないほどに。
「タローくん、退屈じゃない?」
バンさんが絵筆を止めて、肩越しに僕を見た。
「いえ、バンさんが絵を描いてるところは見ていて楽しいです。僕は芸術とかわからないですけど、全然飽きないですよ」
「泣かせるね。おじさんを気遣ってくれてありがとう」
バンさんは冗談ぽく返すが、お世辞で言ったわけではない。
でも、実際のところバンさんの享年はいくつなんだろう?
「あの、立ち入ったことを聞いてもいいですか?」
「改まってどうした? なんか怖いけど、いいよ」
「バンさん、結婚はしてないんですか?」
プライベートなことを尋ねるのは憚られたけど、思い切って聞いてみた。バンさんは特に気を悪くした様子はない。
「してないよ。残念なことに彼女いない歴も結構長かった。俺、あんまりモテないからね」
「そうなんですか? なんか、意外……でもないか」
「おい、そこはフォローしてくれよ。『そんなことないですよ。バンさんはイケてますよ』とか」
「そんなことないですよ。バンさんはイケてますよ」
「だろ? なんで俺がモテないのか謎だよな」
「イケてますけど、バンさんは結婚とか恋愛とか、そんなに関心はなかったんじゃないですか?」
バンさんは脚立の上でくるりと向きを変えると、頬をかきながら僕を見下ろした。やや気まずそうな顔だ。
「タローくん、恐ろしい子」
「当たってました?」
「当たっていたというか……確かに、生前の俺には、時間にも心にもそんな余裕はなかったよ。こんなに早く死ぬとわかっていたら、一回くらい結婚しておいてもよかったかもしれないとは思うけど」
それはそれで、残された奥さんや子供が気の毒じゃないか?
でも、そうなっていたかもしれない人生っていうのは、つい想像してしまうものだ。僕らの人生はもう、なにを語ってもタラレバでしかないけれど。
「話は変わりますけど、その絵っていつ頃完成するんですか?」
「さあ、俺にもわからない」
「わからない?」
「絵に限らず、創作ってそういうもんだからな。手を加えたいと思ったらきりがない。特に今回は、いつまでも描いていたいような気さえする。だけど同時に、早く完成させなきゃいけないとも思う。すごく複雑な心境だよ」
壁画を見回して、バンさんが肩をすくめる。
「俺にとっては、この絵が遺作みたいなものなんだ。この世に遺していけなくても、俺自身にケリをつけるためのね」
バンさんがとても真剣にこの絵と向き合っていることは、僕にもわかる。だけど、同じくらい楽しんでいることも。
絵を描きたいと思ったことは一度もないけれど、彼を見ているとその表現手段を知っていることを羨ましく感じるのだ。
「眩しいくらいの青空、大地に沈む燃えるような夕日、季節によって変わる海の色、雲の形。それから、鮮やかな草木や花や動物や人間や……自分がどれほど美しい世界に住んでいたのかを、少しでも描いておきたいんだ」
バンさんが美しいと感じる世界のすべてを、詰め込んだ絵。
自然、動物、人間。その鮮烈な色彩だけでなく、鳥のさえずりや風の音まで聞こえてきそうだった。
彼の目には、この世界がこんなふうに見えていた。
バンさんの絵を通して、僕はそれを見ている。
「バンさん、海外に行ったことあります?」
「何度かあるよ」
「え、何度も?」
ダメもとで聞いたのに、あっさりと肯定された。
聞いておいて失礼だけど、それは意外だ。バンさんは海外旅行とか縁がなさそうで。なにより、あまりお金を持ってそうには見えないから。
「なに、そのリアクション。俺は海外旅行とか縁がなそうとか、金持ってなさそうとか思った?」
エスパーか? まさか、三ヶ月以上幽霊やってると、人の心が読める特殊能力を会得できるとかないよな?
「思いました、すみません」
「だよな。自分でも思うわ。まあ、俺の場合は普通に観光地を回るような旅行じゃなくて、ほとんどが絵画目的の貧乏旅行だけどな。若い頃に少し留学したこともあったし」
「留学? すごい! じゃあ、英会話は得意なんですか?」
「簡単な会話くらいなら。留学してたのはフランスだったから、フランス語のほうが得意だったけど……もうずいぶん昔のことだから忘れたな」
「なんですか、その斜め上いくハイスペックな感じ」
やっぱり、よくわからない人だな。
生きていたら絶対に知り合わないタイプだ。それを言うならアンジェもそうだけど。
「バンさん、僕、一度も海外に行ったことないんですよ」
「そうか。タローくん、まだ若いもんな」
「他の幽霊と一緒なら、自分が行ったことない場所にも行けるんでしたよね?」
期待を込めた目で見上げると、バンさんは溜め息をつくように笑った。
「わかったよ。今度、一緒に行けるか試してみよう。俺も、死んでからここを離れたことがないから、上手くいくかはわからないけど」
「よろしくお願いします!」
「言っとくけど、俺は有名な観光地とかよく知らないからな。行けるとしたらたぶん美術館限定だよ」
「海外に行けるならなんでもいいです」
実は、美術館はあまり興味はないけれど。
それでも人生初の海外旅行だ。お金も時間もかからないってのは最高じゃないか。
「留学か、すごいな。美術関係の学校なんでしょ?」
「そうだけど」
「画家ですもんね。アンジェじゃないけど、僕もそういう人に会ったのは初めてです」
「だから、そんなたいそうなもんじゃないって。若い頃はバイトしながらなんとか絵の仕事もしてたけど、結局それだけで食ってくことができなくて、最近は全然関係ない仕事してたし」
「でも、そこまで好きなことがあるって、僕から見ればすごいです。それを一度でも仕事にできるなんて、誰でもできることじゃないでしょう?」
「あまり褒めるなよ。けど、ありがとな」
照れたように、けれど少しだけ切なげな目をして、バンさんはふたたび壁画に向き直った。
自分を語る彼の口調は淡々としていた。でもそこには、僕なんかには推し量れない感情がいろいろと詰まっているに違いない。
「好きなことでも、結果がでないまま続けるのはなかなかしんどくてさ。もういいかげん、諦めようかと思ってたところだった。今度ダメだったらすっぱりやめるつもりで、少し前にコンクールに出品したんだ。その結果が出る直前に死ぬって、俺は相当日頃の行いが悪かったのかね。もっとも、悪い結果を知らずに済んだとしたら、それは逆に運がいいのか」
と、僕にはとても笑えない冗談を、バンさんは自分で笑いながら言った。
それは、彼の人生においてかなり重要なことではないのか?
バンさんの心残りにも深く関係することだとしたら……?
「その結果って、もう出てるんですか?」
「そろそろかな」
「それ、どうにかしてわからないんですか?」
「結果を知るのは簡単だよ。コンクールの展示会場を覗きに行けばいい。大賞や入選作品が、それぞれ張り出されるから。ここから近い美術館でやる予定なんだ」
「じゃあ見に行きましょうよ。バンさんだって、結果が気になるでしょ?」
「うーん、どうしようかな」
バンさんは言葉を濁して、それきり絵に集中してしまった。
返答が煮え切らないのは、結果が良くても悪くても、悔しく感じてしまうからだろうか。悪い結果はもちろんのこと、良い結果であれば、どうして死んでしまったのかと余計に辛くなるのではないか。
けれど、バンさんの反応はそういうのとも少し違う気もする。
「なにが気になるの?」
声が聞こえたと思ったら、アンジェが僕の隣に座っていた。