「私、生まれ変わったら今度は大川橋蔵と結婚するわ」

 いきなりそう断言したのはエプロンマダムだ。

 いったいなんの話だ? っていうか、大川橋蔵って誰? と戸惑っていたら、すぐにヒョウ柄マダムも手を挙げる。

「じゃあ私はアラン・ドロン」

「私は……先に逝った夫とまた一緒になりたいわ」

 着物マダムがおっとり言うと、他のふたりは黄色い笑い声をたてた。

「こんな人もいるのね。死んでから他人のノロケを聞くとは思わなかったわよ」

「きっと素敵なご主人だったのねぇ。羨ましい」

「うちの亭主なんて浮気ばっかりで、本当に何度殺してやろうと思ったことか」

「浮気といえば、政治家のあの人、なんていったっけ……」

 私生活の愚痴になったかと思うと、いきなり政治家のゴシップに話が飛んだ。その流れで、高齢化やら年金といった社会問題について議論を交わして、その後は得意料理のレシピを自慢しあう。

 僕は展開の速さについていけず、ただ笑顔を顔に張り付かせていた。誰がなにを話しているのか聞き分けができず、半分以上話が頭に入ってこない。

 話す内容はなんでもいいんだろうな。

 三人ともまったく異なるキャラだけど、きっとこうして誰かとおしゃべりしているだけで楽しいのだ。

「皆さん、生前からお友達だったんですか?」

 話が途切れたときに尋ねると、三人口をそろえて「違うわ」と答えた。

「死んでから出会ったの。私なんて、昨日死んだばっかりよ」

 そう答えたのはヒョウ柄マダムだった。

「仲が良さそうなので、てっきりもともとの知り合いなのかと」

「一緒に死ぬなんて、そんな偶然なかなかないわよ。家にいてもつまらないし、ちょっと遠出してきたら二人に会って、ここで女子会を開いてたってわけ」

 女子会……? 表現の自由というやつか。

「初対面だけど、生前のしがらみがないからむしろ気楽よ。どうせ家にいてもなにもできないし、息子や嫁の顔も見飽きたし」

「あとは、成仏するのを待ってのんびり過ごすだけなのよね」

「腰や足の痛みも消えて、今はとっても快適だわ」

 着物マダムに話を向けられて、エプロンマダムが立ち上がって見せた。

 さすがに、大往生組は迷いがない。

 この神様の気まぐれみたいな時間、悪あがきすることに意味なんかないと、彼女たちはよく知っている。

「あなたは、なにか思い残したことがあるの?」

 エプロンマダムが、ほっこりとする笑みを浮かべて尋ねた。思わず、心の中の迷いを洗いざらい白状してしまいそうになる笑顔だ。

「あるといえばあります。自分では、そんなに未練を感じていたつもりはなかったんですけど、ここにいるってことは、案外こじらせているのかもしれません」

 こじらせているのは、加奈への愛情なのか、後ろめたさなのか。

 幽霊となった今、肉体の苦しみからは解放されて、心の痛みだけが残っている。これも、時間が経てば消えるものなのだろうか。

「私にとってはね、今のこの時間は、神様からの贈り物なの」

 着物マダムが口を開いた。

「生前にできなかった心の整理をして、自分の死を受け入れるための時間。この世で、私にできることはもうなにもない。いいえ、もうなにもしなくていいの。そう言えるくらいの人生を、私は生きたわ」

 そう語る声は清々しかった。

 長い人生を生き抜くことも、楽なことばかりではないだろう。だけど、彼女は自分の人生に満足している。

「だけど、あなたはそうではないわよね。できなかったこと、やりたかったこと、たくさんあったでしょう。その心の痛みは、あなたが自分の人生を大切に思っている証だわ」

「それは、いずれ消えるものなんですか?」

「ええ、きっとね。死者は、肉体だけでなく、様々なものから自由になっていくものだから」

 幽霊は、法律からも物理法則からも、社会のしがらみからも自由だ。やがて、自身の辛い記憶からも解放されるのだとしたら。

 それが消えたとき、僕は何者になるのだろう。

 今感じている心の痛みが、僕を僕たらしめている気がした。

「あなたの心が安らぐよう、祈っているわ。強い心残りは、自分自身を縛って身動きをできなくしてしまう。私たちはもうこの世のものじゃないの。ここに長居をするのは、あまりいいことではないわ」

「それはつまり……」

 成仏できずにこの世を彷徨い続けるということか。

 僕が不安そうな表情をしていたのか、マダムは眉を寄せて微笑んだ。

「余計なことを言ってごめんなさいね。若い方を見ていると、つい老婆心が働いてしまうのよ」

 マダムが言うことは本当なのだろう。

 昔からフィクションで描かれてきた幽霊というのは、この世への未練の塊みたいなものだ。たとえ悪霊とはならなくとも、その存在は健全とはいいがたい。

「せっかくお会いできて名残惜しいけれど。でも、私もそろそろ時間みたいだわ」

 着物マダムが、何かが聞こえたように天を仰いだ。上空には星ひとつ見えない真っ暗な夜空が広がっているだけだった。

 自分が消えるときはわかるらしい、とバンさんから聞いている。

 僕はなにも聞こえなかったけれど、マダムにはなにかが聞こえたのだと思った。

「一足お先にお暇するわ。それじゃあ、皆さんお元気で」

「『お元気で』ですって」

「いくらなんでも、その挨拶はないわよ」

 またしても三人で大笑いする。

 甲高い笑い声が夜の街に響き、それが消えたとき、着物マダムの姿は消えていた。

 これが、幽霊が消える瞬間なのか。

 あっけない。まるで、シャボン玉がはじけるみたいだ。

 でも、彼女の最後の笑顔は、とても穏やかで幸せそうに見えた。

「行っちゃったわ」

 ヒョウ柄マダムが呟き、エプロンマダムもこくりと頷く。

「寂しいけど、こっちももうじきよ」

「そうね。最後に少しだけ羽を伸ばせて楽しかったわ」

 それから、ふたりのマダムたちは僕を見た。

「あなたにも会えて嬉しかったわ。引き留めちゃってごめんなさいね。お婆さんの話し相手なんてつまらなかったでしょう?」

「いえ、そんなことは」

「『はいそうです』とは、思ってても言いにくいでしょ」

 ヒョウ柄マダムにツッコまれ、マダム二人で笑いあう。三人から二人になっても、この賑やかな空気は変わらない。

 そして、空が白み始めた頃、残った二人のマダムたちも、僕の前から姿を消した。