向こうも気づいたらしく、入店した僕の顔を見て「あ」と口を開ける。僕もなにかリアクションすべきかと迷っていると、

「あの、もしかしてこのあいだ、万年筆を拾ってくださいました?」

 加奈のほうからそう聞いてきた。

「あ、はい」

 僕が素っ気ない返事をした直後、

「どうもありがとうございました!」

 加奈はカウンターごしに深々と頭を下げた。

 結構大きな声だったので、周囲にいた客の視線が僕らに向けられる。

「大事な物だったので、ずっと探していたんですけど見つからなくて。ここに落とし物として届いていたと知って驚きました。届けてくれた方の背格好を聞いたら、あのとき本を拾ってくれた方と似ていたので、もしかしてと思って……本当に本当にありがとうございました!」

 加奈は二度も礼を言って、ふたたび頭を下げた。

 あの万年筆がそれだけ大事なものだったことはわかったが、あまりの感謝ぶりに僕のほうがうろたえた。

「いえ……僕は拾っただけなんで。見つかってよかったですね」

「はいっ」

 そのとき、顔を上げて微笑んだ加奈に、僕の目は釘付けになった。

 さして長くはない僕の人生で、なにかに見とれたことなどあっただろうか。

 だけど、そのときだけは確かに、僕は加奈の笑顔に見とれてしまったのだ。

 彼女が喜んでくれたことが嬉しくて、そして、それだけではない気持ちも僕は自覚した。

 彼女が好きだ。

 たぶん、一目惚れだったんだろう。加奈と会ったのはそれが二度目だったけれど、僕は最初から彼女に恋をしていたのだと思う。

 だからといって、それでどうなるものでもないが。

 外見的にこれといってセールスポイントがない僕は、漫画や小説でたとえるならモブキャラ、背景に描かれる名もなき通行人である。

 性格も、よく言えば慎重、悪く言うとヘタレで、自分から女の子に声を掛けたりデートに誘うような度胸はない。

 そうでなくても、厄介な病気を抱えていたせいで、彼女を作るということに罪悪感のようなものさえあったのだ。

 だから、加奈とはだたの店員と客のまま。僕はそれまで通り何気なくその書店に寄り続け、彼女と顔を合わせるたびに、二言三言言葉を交わす仲になった。

 そのうちに、二言三言が会話になり、僕と加奈との距離は縮まっていく。

 加奈は同い年で、他大学の教育学部に在籍していた。実家は他県で、書店でのバイトは週三回、他にも家庭教師のバイトをしていたらしい。

 僕とは読書という趣味が共通していたから、お互いにおすすめの小説や漫画を教えあったり、ネタバレしない程度に感想を言い合ったりもした。

 意外にも、加奈はおしゃべり好きで、僕はたいてい聞き役だった。

「私は面白ければなんでも読むほうで、前は時代小説にハマってたの。おすすめはやっぱり司馬遼太郎かなぁ。有名だから今更だけど、だいたいなにを読んでもハズレはないから。……この前、家庭教師をしてる中学生の女の子にライトノベルを借りたら、これが結構面白くて、流行りの異世界ものっていうか……」

 彼女は話しはじめると、こちらが止めない限りどんどんマニアックな方向に進んでいく。それも、歴史小説から異世界ファンタジーまで、時空さえ超えるので、ついていくのが大変なのだ。

 客が少ない閉店間際にうっかり話し込んでしまい、他のスタッフに注意されたこともある。加奈は普段、大学の友達とはあまりそういう話をしないらしく、僕は彼女にとってちょうど良い話し相手だった。

 店で加奈と会って他愛のない話をする。それだけで僕は十分だった。

 もっと加奈と仲良くなりたい。店の外でも会えたらいい。そんな期待に蓋をして、顔見知りの客を演じ続ける。

 いつどうなるかもわからない僕には、加奈に恋をする資格なんかないとずっと自分に言い聞かせていた。それは、意気地のない自分への言い訳でもあったのだと思う。

 転機が訪れたのは、加奈と出会ってから一月も経った頃か。

 当時、僕も加奈も読んでいた小説が、映画化されたことで話題になっていた。どちらかというと女性をターゲットにしたようなラブストーリーで、僕は映画館まで足を運ぶ気はなかったのだが。

「もしよかったら、一緒に行きませんか?」

 ある日、加奈が僕をその映画に誘った。

 彼女がバイトが休みの日に、わざわざ僕が来店する時間を見計らったかのように、店の前で声を掛けられた。

 彼女にしてはめずらしく、緊張した面持ちで。

 いつもはしっかりとこちらを見つめる視線が、はにかむように逸らされる。

 初めて見るそんな表情に、僕の心臓は馬鹿みたいに跳ねた。

 加奈に恋をしたのはそれで何度目だったか、たぶん数え切れない。

 気持ちを抑えるつもりだったことも、たいして興味がない映画だったことも、するりと頭から抜け落ちて。

 あの日、僕は自分への言い訳まがいの信念をかなぐり捨てて、加奈とデートすることを選んだのだった。

 ヘタレでネガティブで、人づきあいが苦手な僕の心を、加奈の細腕はいとも簡単に開けてしまった。

 そしてその後も、加奈の持つ天性の明るさと積極性は、僕に大きな影響をもたらすことになる。ただの脇役がまがりなりにもリア充と呼ばれる立場になったせいで、勘違いしていただけかもしれないが。

 僕は幸せだった。

 その先もずっと、加奈と一緒にいられる未来が続けばいいと願い、続くのだと信じてしまいそうになるくらいに。

 彼女と過ごしたのは、わずか一年という期間だった。

 けれどそこには、僕の人生で一番の、生きる喜びが詰まっている。

 多くの人にとってはあたりまえの、ありふれた幸せだとしても。

 僕にとってはすべてだった。

 加奈とは半年前に別れて、それ以来一度も会っていない。

 幽霊になるほどの心残りが僕にあるとするなら、彼女との別れなんだろう。

 もう一度、加奈に会いたい。その気持ちは否定できない。

 だけど、会ってどうする?

 僕の姿は加奈には見えず、声も聞こえないというのに。一方的に彼女の姿を見れば、それで僕は満足して成仏できるのか?

 加奈の部屋のカーテン越しに、人影が見えた。窓が開くだろうかと期待したが、加奈が顔を出すことはなかった。

 幽霊である僕には、彼女の部屋に入るのは簡単なことだ。気づかれることなく、法に触れることもなく侵入できる。

 だけど、それはできない。たとえ僕がまだ生きていたとしても、もう彼女とはなんの関係もないのだ。

 それに、もしかすると今はもう新しい彼氏がいるかもしれない。ちょっと癖はあるけど、加奈くらい可愛くて性格が良ければ、周りが放っておかないはずだから。

 僕はもう二度と、加奈にかかわることはできない。

 部屋に入れない一番の理由は、それを感じたくないからだ。家族がそうであったように、彼女との距離も遠くなってしまったことを。

 僕は今も、加奈への思いを引きずっていることを認める。

 体が死んでも、心は生と死のあいだで揺れている。

 疲労することのない幽霊にとって、時間が経つのはあっという間だった。空が暗くなって星が瞬き、それからしばらくして加奈の部屋の灯りが消えるまで、僕はずっと彼女の部屋を見守り続けた。

 おやすみ、加奈。いい夢を。

 そして僕は、幽霊の退屈な夜を、あてもなく彷徨い始める。

              ***