そこは、とある小さな二階建てアパートの前だった。

 街の中心部からはだいぶ離れた住宅街で、周囲には小さなアパートや一戸建て住宅が並んでいる。

 アパートの名前は『メゾン・グレース』。似たような名前の建物は日本中にありそうだ。

 一階、二階とも、五部屋ずつあり、各部屋の間取りはすべて六畳の1K。こじんまりとしているが、真新しい白塗りの建物だった。

 夕暮れ時。既に住人の何人かは帰宅しているらしく、いくつかの部屋には電気がついていた。二階左端にある、僕の目当ての部屋も明るい。

 アンジェとバンさんと別れてから、気がつくと僕はここに立っていた。

 恐るべし、幽霊の特殊能力。

 それほど強く念じたわけでもないのに、僕は無意識に移動していた。それだけ、気にかかっていたということなのか。

 その部屋に住んでいるのは、僕の元カノだ。

 名前は嶋本加奈。同い年だが、通っている大学は違う。彼女が住んでいるこの場所も、僕の家からはかなり離れている。

 なんの接点もなかった僕たちが出会ったのは、おかしな偶然の重なりで。

 もしかすると、それを奇跡と人は呼ぶのだろうか。

 一年半くらい前。大学二年になる直前の頃だ。その頃、僕は大学の帰りによく立ち寄っていた書店があった。

 昔からそこにある店で、四階建ての小さなビルが丸ごと店舗になっている。最近流行りのカフェスペースもあるような大型書店とくらべれば小さいが、いかにも街の書店らしい落ち着いた雰囲気が僕は気に入っていた。

 その日、いつものように、ひとりで店内を見て回っていると、すぐ近くで大きな物音がした。

 客のひとりが、抱えていた本を盛大に床にぶちまけていたのだ。

「すみません!」

 慌てて本を拾っていたのは、僕と同い年くらいの女子だった。

 こういうのは恥ずかしい。見て見ぬふりをするべきか。僕ならそうしてほしい。

 三秒ほどそんな葛藤をしてから、僕は拾うのを手伝い始めた。近くに他の客はいなかったし、そのまま通りすぎるにはあまりに大量で、さすがにかわいそうになったからだ。

「あ、すみません!」

 彼女はもう一度、心から申し訳なさそうに謝った。僕は「いえ」とかなんとか、小声で返して黙々と本を拾う。

 落ちている本の数も数だが、ラインナップがまた異様だった。

 少女マンガや少年マンガの新刊に、渋い絵柄の青年マンガ。そこに、ミステリー小説、時代小説、アニメっぽい表紙のライトノベル。さらには、児童文学に教育学の専門書、ファッション雑誌まである。

 一言でオタクとくくるにも無理があるくらい、趣味が広い。

 その時点でかなり興味を引かれたけれど、まさか話しかけるわけにもいかない。だいたい、なんて話しかければいい?

「多趣味ですね」

 は、なんとなく鼻につく。

「僕も同じ漫画読んでます」

 これじゃあ下心がありそうに聞こえる。

「レジに持って行くの、手伝いましょうか?」

 それが一番妥当な感じだけど、余計なお世話にも思えたので、結局なにも口には出さなかった。

 彼女が両手で抱えている本の山を崩さないように、拾った本を慎重に載せる。

 そこで初めて、彼女――加奈の顔をしっかりと見た。

 元カレの欲目ではなく、加奈は一般的な基準から見ても可愛い。

 背が低くて、明るい色の髪はゆるく波打ったセミロング。メイクも服装も派手ではないけど、ちゃんと流行も押さえているような。雰囲気は少しゆるふわ系の、どこから見ても普通の女子大生だった。

 そんな女の子が、なんだかよくわからない趣味の大量の本を購入しようとしている。見た目とのギャップもあって、その出会いは僕にとって強烈な記憶となった。

 加奈は合計二十冊近くの本を両手で抱えながら、真っ赤な顔で、

「ありがとうございました」

 と、僕に向かって軽く頭を下げた。

「本当に助かりました。いろいろ買い物を頼まれてしまって、これで全部だったか確認していたら落としてしまって……」

 消え入りそうな声で、聞いてもいないことを付け加える。

 というか、わざわざ自分からそこまで言うなんて、これは全部自分の本だけど、恥ずかしいから言い訳しているふうにしか聞こえない(後になって知ったが、実際そうだった)。

「そうですか。大変ですね」

「ご迷惑をお掛けしました」

 僕が当たり障りなく返すと、加奈は恐縮しながら去っていく。きっと、いたたまれない気持ちで、早くその場を離れたかったに違いない。

 彼女の姿が消えてしばらくしてから、僕はそれに気づいた。

 床に、白いペンが落ちている。

 拾い上げてみると、それは真珠のような光沢を持った綺麗な万年筆だった。

 高級そうだが、よく見ると小さな傷があったりして、大事に使い込まれたことが窺える。

 彼女が落としたのだと察しがついたものの、今時、万年筆というのもめずらしい。確かめようにも、既に加奈の姿は店内にはなかった。

 たぶん、もう僕と顔を合わせなくていいように、急いで会計を済ませて出て行ったんだろう。その気持ちはよくわかる。

 どうしたものかと思案した僕は、落とし物として店に預けることにした。

 彼女が落としたことに気づけば、その店に尋ねるかもしれない。直接返したくても、そのすべはなかった。

 僕と彼女はたまたま出くわした客同士だ。加奈とはもう二度と会うこともないと、そのときはそう思っていた。

 けれど、その三日後、ふたたびその店で僕は加奈と再会する。

 なんと、加奈はその書店でバイトをしていたのだ。

 後になって加奈から聞いた話では、彼女は大学入学と同時にその店でバイトをしていたという。前々日の大量の買い物は、社員割引を使ったのだそうだ。

 だから、きっとそれ以前にも顔を合わせてはいたのだろうけれど。僕はその日初めて、レジカウンター内に加奈がいることを認識したのだった。