「……っ、え」


 唐突だった。自分でもこぼれた涙の理由もなんてわからなくて。


 ──ううん、わかってるかも。


 次々にやってくる本番。それをこなしつつ、小さい頃からひたすらがんばってきた。


 ピアノのためにたくさんのものを犠牲にして。


 練習時間の確保のために、友だちと過ごす時間なんてなかった。


 欲しいものがあってもお金はレッスン代に消えていった。


 そんな生活が辛すぎて、苦しくて、全部投げ出してしまいたくなった頃には。


 私はもう後戻りできないところまで来ていた。


「……ふっ……うぅ……」


 私だってコンクールなどではかなり上位を狙える。ある界隈ではそれなりに名前も知れている。


 それでも、やっぱり上には上がいて。


 同年代の上手い人の演奏を聴いては、自分との差に打ちのめされる。


 高校2年生にもなると増えてくる、授業での大学受験についての話に、将来が不安でたまらなくなる。


 その一方で、がんばらなきゃと思えば思うほど、何も抱えていないような笑顔で楽しそうに話すクラスメイトの姿が目に写って。


 〝トモダチ〟〝セイシュン〟〝レンアイ〟


 一生手に入れることができないであろう、輝きから必死に目を逸らした。


 心の片隅に溜まっていた真っ黒なものは、穏やかだったはずの海に少しずつ溶け込んでいたらしい。


 そして今、この瞬間、なんの前触れもなく。


 ──橙色の眩しさに嫉妬してしまった。


 押し寄せてきた真っ黒な荒波は、しばらく収まりそうもなく。


 やけくそ気味に鍵盤の上に突っ伏すると、私の心の中みたいにぐちゃぐちゃに混じりあった嫌な音が耳を劈く。


 私はこのとき、気づけなかった。
 

 遠慮がちに、この異様な空間へ踏み込んだひとつの影が、すぐ隣にいたことを。