目指すべき目標はたしかにそこにあって。
だから、ただがむしゃらにもがいて、苦しんで。
いつだって孤独に戦い続けてきた。
モノクロの世界を彩る音色を探して。
──キーンコーンカーンコーン
がやがやと騒がしい廊下に響く、放課後を知らせるチャイム。
帰宅する人や、部活の場所へ向かう人の流れに逆らって、私は足早に特別棟2階の第三音楽室へ向かった。
一歩足を踏み入れれば、かすかに空いていた窓からひんやりと冷たい風が、金木犀の甘く馨しい香りを運んでくる。
窓から下を覗きこんでみると、橙色の可愛らしい花を咲かせた木がかすかに揺れて、挨拶をしてくれた。
花のすき間に時折映る下校中の生徒たちの楽しそうな姿までもが、明るく色づいて見える。
その様子をしばらく眺めたあと、私は大きく息を吐いて、窓を閉めた。
外界との透明な隔たりを作れば、途端にこの世界に自分だけが取り残されたような、そんな錯覚に陥る。
学校の隅っこに追いやられるようにして、日の当たらない場所に位置する第三音楽室。
私がここに来る理由は決まって、ピアノを弾きに来るとき。
この学校の音楽の先生がしっかり管理してくれているらしく、楽器の状態は悪くない。
だからいつも練習している家ではなく、たまに環境を変えたくなった時、私はよくここに来ていた。
夢は──目標は、ピアニスト。
ただそれだけを目指して、がむしゃらにモノクロの鍵盤に向かい続けてきた。
ひとり、孤独に。
チクタク、チクタク、と無機質に響く秒針の音に催促されるようにして、私はようやく窓辺から離れて黒塗りの蓋を開けた。
──ピアノ練習曲『ハノン1番』
鍵盤に乗せた指が運動を始める。
リズム練習、スタッカート練習、レガート練習。
工夫を施しながら同じメロディーをひたすら繰り返していけば、冷え性でかじかんでいた指先もだんだんと本調子を取り戻していく。
その勢いのまま、ハノンは早々に切り上げてエチュードに移行。
──ショパン作曲『エチュード10ー2』
まずは全体を通して、どれだけ弾けるかを確認し、そのあとはひたすらゆっくりの練習。
少しのズレもないように、右手の半音階を丁寧に練習していく。
耳をすまして聴けば聴くほど、感じる音の粒のばらつきにイライラが止まらない。
しばらくその作業を続けていると、ふと集中力が途切れた。
なにか透明なものが〝レ〟の音の白い鍵盤にこぼれ落ちて、溶けていくのが目に映ったから。
「……っ、え」
唐突だった。自分でもこぼれた涙の理由もなんてわからなくて。
──ううん、わかってるかも。
次々にやってくる本番。それをこなしつつ、小さい頃からひたすらがんばってきた。
ピアノのためにたくさんのものを犠牲にして。
練習時間の確保のために、友だちと過ごす時間なんてなかった。
欲しいものがあってもお金はレッスン代に消えていった。
そんな生活が辛すぎて、苦しくて、全部投げ出してしまいたくなった頃には。
私はもう後戻りできないところまで来ていた。
「……ふっ……うぅ……」
私だってコンクールなどではかなり上位を狙える。ある界隈ではそれなりに名前も知れている。
それでも、やっぱり上には上がいて。
同年代の上手い人の演奏を聴いては、自分との差に打ちのめされる。
高校2年生にもなると増えてくる、授業での大学受験についての話に、将来が不安でたまらなくなる。
その一方で、がんばらなきゃと思えば思うほど、何も抱えていないような笑顔で楽しそうに話すクラスメイトの姿が目に写って。
〝トモダチ〟〝セイシュン〟〝レンアイ〟
一生手に入れることができないであろう、輝きから必死に目を逸らした。
心の片隅に溜まっていた真っ黒なものは、穏やかだったはずの海に少しずつ溶け込んでいたらしい。
そして今、この瞬間、なんの前触れもなく。
──橙色の眩しさに嫉妬してしまった。
押し寄せてきた真っ黒な荒波は、しばらく収まりそうもなく。
やけくそ気味に鍵盤の上に突っ伏すると、私の心の中みたいにぐちゃぐちゃに混じりあった嫌な音が耳を劈く。
私はこのとき、気づけなかった。
遠慮がちに、この異様な空間へ踏み込んだひとつの影が、すぐ隣にいたことを。
どれだけ時間が経ったかもわからない。ただずっとそうしていたような気がする。
ようやく涙も収まり、少しだけ気持ちも静まってきたころ、私はふいにすぐ近くでなにかの気配を感じた。
ハッとして顔をあげて、周囲に視線をやれば、心配げに揺れる男の人の澄んだ瞳とぶつかる。
「大丈夫?」
「あ……はい、えっと、」
校則通りにきっちりと着こなした制服に、清涼感のあるマッシュヘア。
イケメン、とは言わずとも、割と整った柔和な顔立ちは好印象だ。
だが一番の問題は、私がこの男の人を見たこともなければ、まして知り合いでは無いということ。
なぜこの人がここにいるかはわからないが、泣いているところを見られてしまったのは恥ずかしい。
なんだか気まずくて目を逸らせば、この人の履いていた上履きが目に入った。
私の学校では上履きに入っているラインの色が学年ごとに異なる。
2年生の私は緑色で。
青……ってことは3年生の先輩?
私よりも一個上だ。
「ごめんな。静かに勉強できる場所を探して歩いてたら、泣き声が聞こえたから思わず……。驚かせるつもりはなかったんだ」
申し訳なさそうに眉を下げる先輩に、私はふるふると横に首を振る。
そうすれば先輩は「怒ってないならよかった」と安心したように笑って、近くにあった丸椅子に腰掛けた。
「俺は伽々里優、3年。優でいいよ。きみは?」
「天野緋依、2年です」
優……先輩に促されて答えた自分の声はまだ少し震えていた。
「緋依な、よろしく」
人懐っこい笑顔を浮かべて、差し出してきた手を反射的に握る。
すごく距離感の掴み方が上手いひとだ。言い換えればコミュ力が高い。
きっと人気者なんだろう。私とは生きる世界が違う人だと思った。
「辛いならその気持ちをなにかにぶつければいいんだよ。大声出してもいい、何かを投げつけてもいい……そのピアノを思いっきり弾くとか、ね」
「……ぶつける、」
「そうそう、こうやって」
突然、窓辺に移動した優先輩は、思い切り窓を開けて。
「ばっかやろー!」
声を裏返しながら、大声でそう叫んだ。
肩で息をする先輩が面白くて、私は思わず声をあげて笑ってしまった。
「はい、次は緋依の番」
「……じゃあ」
私はピアノのイスに座ったまま大きく息を吸った。
──ショパン作曲練習曲作品10-12『革命』
ショパンが自分のふるさとが行く末への不安を、激情的に表した言わずと知れた名作。
体の弱かったことや他国に渡っていたことが原因で、祖国ポーランドで起きた蜂起に参加できなかった彼は自身の怒りをこの曲にぶつけた。
なら私は。
右手の第一音に今感じている、言いようのない悔しさも悲しみも、全てを込めて。
そういえばいつかだれかがコンクールで言っていた。
『機械の天野』
私の演奏はいつだって完璧。
並外れたテクニック、すべて楽譜通りにこなす強弱やアーティキュレーション、作曲家の意図を完全に汲み取った非の打ち所のない演奏。
でも、つまらない。惹き込まれない。まるで機械のようだと。
細かく動く左手を勢いに任せて弾いていれば、ショパンが私を誘ってゆく。
何もかもどうでもよくなった。
力が入って腕が鉛のように重くなっても、レガートのパッセージが雑でも、弱く弾くべきところをどんなに強く弾いても。
今は、どうだってよかった。
──響け、どこまでも。この激情をのせて。
もう『機械の天野』なんて言わせない。
今、この想いに、革命を。
意味を見いだせなくなってしまった日常に、革命を。
自分のつまらない演奏に、革命を。
「……っ」
最後の重低音が爆発した瞬間、時間が止まった気さえがした。
同時に湧き上がる、今までに味わったことのないような快感。
しばし訪れる沈黙に私の荒い呼吸だけが響いていた。
そして。
「……え、なにこれ、鳥肌止まんない、どうしよう」
私が振り向くのと、先輩がぼそっと独り言をつぶやいたのはほぼ同時だった。
尚も呆然とした様子でやばい、すごすぎる、と繰り返す先輩。
「心が震えて、熱くなって……。あー、なんて言ったらいいんだろ。とにかく感動した……」
「……嬉しい、です。そう言ってもらえて」
心からの想いが考えるより先に溢れて、こぼれ落ちた。
上辺だけの賞賛や、コンクールの賞なんかよりも。
先輩がくれた言葉はたぶん私がずっと1番ほしかったものだったんだと思う。
上手、じゃなくていい。私はただずっと、誰かの心を揺るがす演奏がしたかった。
「将来はピアニストになるの?」
「なり、たいです。すごく狭き門だし、難しいかもしれないけど」
だって、私はピアノが大好きだから。その気持ちをようやく思い出した気がする。
「絶対なれる。俺、めっちゃ応援してるから」
私の瞳をまっすぐに見つめて、力強くそう言ってくれた先輩に、どんどん私の中に固まっていた何かが熱く溶かされていく。
照れくさくて、「……ありがとうございます」と、小声で言ってから、私は少しだけ勇気を出したくなった。
「……な、なんか好きな曲ありますか?」
私がそう言うと、きょとんとした顔で見つめ返してきた先輩。
「なかったら全然いいんです! もしあったら弾こうかな……って」と慌てて弁明する。
「え、めちゃくちゃ嬉しい……。じゃあ──『月の光』は?」
「弾けます! 私も大好きな曲です……!」
月がこぼした淡い光のように、美しく澄んだ旋律。
私はこの曲を初めて聴いたいつかの日、一瞬で恋に落ちた。
もうすでに瞳を輝かせて、演奏を待つ先輩を見届ける。
──ドビュッシー作曲『月の光』
静かに、優しく、闇夜を照らす月のように。
高音のメロディーを奏でれば、思わずうっとりと目を閉じる。
たったそれだけの時間に。
「続けててね」
……え、と反応する間もなく、気づいたら私の左どなりに腰を下ろしていた先輩。
ピアノ専用の長椅子にふたりで座る形になり、私はわけがわからないまま、演奏を続けながら少し右に移動する。
9小節目。
重厚な低音がようやく姿を現す、その瞬間に彼の音楽は、私の音楽と交わって。
原曲よりも豪華になった伴奏を奏でていく。
驚いて、左を向けばいたずらっぽく笑う先輩。
だんだんと盛り上がりを見せる曲調に合わせて、アレンジを加えていく先輩に驚きを隠せなかった。
──着いてきてね。
そうとでも言いたげに、先輩が私の方をちらりと見る。
──のぞむところですよ。
ふっと私がこぼした息遣いを合図に、先輩はガラリと曲の雰囲気を変えた。
まるでジャズ風。こんなの普通はありえない。
複雑なリズムの伴奏を正確に刻む先輩に感服しつつ、トレモロやトリルなんかを入れて、軽快なステップを踏む。
月夜のダンスパーティー。たまにはこんな夜も悪くないでしょ……?
止まらない。私たちは、もう誰にも止められない。
おしまいにはグリッサンドまで入れて、キメ顔をしてやれば、先輩が隣で笑いをこらえているのを感じた。
──戻るよ。
──了解です。
原曲に戻るコードを奏でた先輩に合わせて、私たちは共に曲を終焉に導いていく。
今度は目配せさえ必要なかった。
そして曲は、ゆっくりと、柔らかに、エンディングを迎える。
ふたりで響かせた最後の音の余韻が。
1滴残らず蒸発し終わったその瞬間に。
「……ふっ」
私たちはどちらからともなく吹き出して、声を出して笑いあった。
なにかが特別面白かったわけではない。
ただ、夢中になって連弾したその数分間がバカみたいに幸せで。楽しくて。
それはもう、笑っちゃうくらいに。
「聞いてませんよ。こんなにピアノ弾けるなんて」
「小さいころに少し習ってて、今はもうやめてるから趣味で弾いてるだけだよ。クラシックなんかはこういう有名な曲しか弾けないしな」
たしかに先輩の演奏は基礎がなってなさすぎるし、雑すぎる。
でも何より、人を楽しませる魅力があった。
即興の腕に関しては、私よりも何段も上。それに関しては天性の才能なんだと思う。
「先輩は……すごいですね。魔法使いみたいです」
「え? どういうこと?」
「私が何年も溜めてきた不満とか苦しかったこととかを、今日のたった数十分だけで、全部素敵な記憶に塗り替えちゃったんですから」
私の心の中に溜まっていたドロドロしたものなんかを、スピード洗浄のごとく取り除いて。
またその中にキラキラしたものを積み重ねてくれた。
「魔法使い……か。俺にとっては緋依の方が魔法使いだと思うけど」
「なんでですか?」
「緋依の演奏を聴いてると、どっか違う世界に紛れ込んだみたいな気分になるから」
そんなことを言われたのは初めてで、思わず目を瞬かせてしまう。
コンクールに行けば周りの人みんなが敵。純粋に私の音楽を褒めてくれる人なんていなかった。
「最近受験勉強で息が詰まってたから、こうやって緋依のピアノ聴いて、一緒に連弾してたら、気が楽になったんだ。ありがとう」
「いやいや私は何も。今日のお返しにもならないかもしれないけど、魔法をかけてほしかったらいつでも来てください……!」
笑顔でそんなことを言ってから、自分は何を言ってるんだ……と今更恥ずかしくなって、下を向く。
「……やっぱり今のは忘れてください」
「忘れないよ、ずっと。俺も魔法使いとして、またここに来るから」
約束……と言うように差し出してきた小指に、恐る恐る自分の細い小指を絡めた。
きっとこんな約束なんて、友達が多そうな先輩にとってはちっぽけなものなんだろう。
でも、もしもほんの少しでも、この約束を覚えていてくれるなら。
──そのときは、もっと素敵な魔法をかけられるようにがんばりますね、先輩。