「だから、ありがとう」


 その言葉に、私は精いっぱいの笑顔を浮かべて大きく頷いた。


 ほんとは、言おうと思っていたことたくさんあるけれど。


 今、先輩に伝えたいことは、ひとつだけだった。
 

「先輩、がんばりましょう!」


「へ?」


「先輩は世界に行っちゃう。なら私だって世界に行きます。いつか必ず、世界で活躍するピアニストになって、いつか必ず、世界で活躍してる優先輩っていうお医者さんに会いに行きます」


 自分でも何を言っているか分からない。やっぱり自分の言葉で人に何かを伝えるのは苦手だった。


 でも先輩の話を聞いてて思ったんだ。


 私たちが出会ったのはお互いに夢があったから。私たちは同志だった。仲間だった。


 だから今すべきことは、思い出に浸ることじゃない。たとえ全く別の方向に向かうとしても、お互いに前を向いて進むことだって。


 ──大好きでした。


 でもこの気持ちは、心の奥底にしまっておく。


 離れているのにあなたを想うのはきっと辛いから。


 この恋が消えるのをそっと待ちながら、こんな素敵な仲間がいることを時々思い出しながら。


 私は進んでいく。


「……待ってるよ、緋依。じゃあお互いの夢の先で、もしまた出会えたら言いたいことがある」


「私もです、先輩」


 ピアノに集中するため、という理由でこの歳になってもなお私は携帯を持っていない。


 だからきっと先輩とまた出会える確率なんて、とても少ないんじゃないかと思う。


 それでも、必ずまた会える気がするんだ。


 だって私たちの魔法はだれにも解けないから。


 ──ドビュッシー作曲 『月の光』


 私たちはお互いに何も言わず、この曲を弾き続けた。ただ寄り添うように。



 

 


 もうすぐ私たちの時間が終止線を迎える頃、空にはくっきりと白銀の満月が浮かんでいた。


 ──どんなに離れていても、同じ月の下で繋がっている。


 朧月の如くほのかに霞んだ月を見上げて、いつの日かのように私たちは小指を絡める。


 月色に染まった雫が刹那の輝きを放ち、夜闇に溶けていった。



Fin.