時瀬くんは、わたしにとって生まれて初めてできた彼氏だ。
恋愛シロウトのわたしは、男の子との付き合い方がそもそもあまりよくわかっていないのだけど……。時瀬くんは、たぶん初めてじゃない。
確かめたわけではないけれど、なんとなく、女の子の対応に慣れている気がする。
教室でもわたしがひとりでいると、さりげなく近寄ってきて声をかけてくれるし、週三日ある美術部の活動日以外は、必ず時瀬くんのほうから「一緒に帰ろう」と誘ってくれる。
時瀬くんの態度がそんな感じだから、告白をオッケーした一週間後には、わたしたちの関係はクラス公認になっていて。しばらくのあいだは、これまで話したこともないクラスメートたちから声をかけられて戸惑った。
突然複数人に囲まれて一気にしゃべられたりすると、相手が誰だか認識するのに時間がかかって、一瞬頭が混乱してしまうのだ。
「今日、帰りにどこか寄る?」
並んで教室を出ると、時瀬くんがわたしのほうを向いて首を傾げた。
「いいよ」
そう答えた瞬間に、時瀬くんの口角が上がるのがわかる。
「じゃあ、マックでちょっとしゃべってから帰ろ」
時瀬くんの綺麗な薄茶の髪が跳ねるようにふわりと揺れ、誘いかけてくる彼の声が弾む。
笑ってくれてるのかな……。
肌に感じる雰囲気や弓状にしなる口の動きでその気配はわかるけど、実を言うと、わたしは自分の彼氏がどんな顔をしているのか、その全貌がわからない。
◇◇◇
中学二年で自覚するまで、自分の見え方が他人と違うなんて思いもしなかったのだけど。わたしは人の顔がうまく認識できない。それも、生まれつきに、だ。
そのせいもあってか、小さな頃のわたしは友達作りが苦手だった。
どうしてかわからないけれど、わたしは一緒に遊んでいる子たちの顔と名前をうまく覚えることができなかったのだ。
言っても、悪気があるわけでも、覚える気がわけでもない。一緒に遊んで覚えたはずの友達が、次の日に幼稚園や学校に行くと、どの子だったかわからなくなってしまうのだ。
たとえば、今日遊んだAちゃんが次の日に服装や髪型が変えているとする。そうすると、わたしは服装や髪型の変わったAちゃんが昨日のAちゃんだと気付けない。
昨日の服装の違うAちゃんから話しかけられて、誰だかわからず困った顔すると、向こうはわたしの態度に気を悪くする。
そういうことが続くと何度も続くと、やがてクラスでウワサになって、わたしのそばには誰も寄って来なくなる。
幼稚園の頃は、なかなか友達の顔と名前を覚えられない私を先生がさりげなくフォローして集団の輪に入れてくれていたけれど、小学校に入ってからは特に女の子たちのわたしに対する態度は露骨だった。
『柚乃ちゃんて、いつも友達のこと無視するよね』
『昨日遊んだのに、今日話しかけたら『名前何?』って聞かれたんだけど。失礼じゃない?』
『柚乃ちゃんなんて、こっちから無視しようよ』
だんだんとそんなふうに悪く言われるようになって。
小学生のわたしは、休み時間にひとりで教室の席に座って、ノートに絵を描いて過ごすことが多くなった。
絵を描くことは嫌いじゃなかった。
趣味で日本画教室に通っているお母さんのおかげで、家の中には絵の具や色鉛筆やスケッチブックなどの画材道具がいろいろあって。それらを使って遊ぶことがわたしの日常だったからだ。
子どもの頃から、わたしが描くのは風景画が多かった。
幼稚園の頃は、両親や先生が読んでくれた絵本に出てきた森の中のお花畑や海や空を想像して。小学生になってからは、両親と出かけた先の風景を思い出しながら描いていた。
それ以外にも、庭から摘んできた花とか、お母さんと行ったスーパーで買ってきた果物とか、家にあったお土産の置き物とか、毎朝ホットミルクを飲むのに使っているカップとか。目についた《物》をいろいろと描いたけど、わたしが自由に描く絵の中に人が出てくることはほとんどなかった。
人を描くのは、幼稚園や学校の図工でどうしても描かないといけないときだけ。そのときは、周りに座っている子たちの描き方を真似て、楕円の顔型の中に線のような眉を二本とまん丸の目をふたつと、三角の鼻と、半円の口を適当に配置した。
だけど、真似をして描いたつもりでも、わたしが描く人の顔はやっぱり不自然らしい。
小学五年生のとき、教室の後ろの壁にみんなが描いた運動会の思い出の絵が飾られたことがあって。適当に玉入れの絵を描いたら、わたしの絵を見たクラスメートの女子に笑われたことがある。
『榊さんが描いた人の顔、なんか変じゃない? 無表情で怖っ』
クラスメートが笑っているのを聞いて、他の子の絵と自分の絵の人の顔がどれほど違うのか観察してみたけれど、わたしにはどこが変なのか、どこが怖いのかよくわからなかった。
それでも、小学校の高学年くらいになると、わたしは自分なりに人間関係を作れるようになっていった。
友達の顔を覚えるのは相変わらず苦手だったけれど、話しかけてきてくれた子の名前がわからないときでも、とりあえずまずは笑顔で言葉を返せばいいんだと気付いて。しばらく相手に話を合わせるようにした。『無視した』とだけは言われないように、頑張って気を付けた。
そうしていたら、低学年の頃のように悪口を言われることも減り、少数だけど学校内で一緒に行動する友達ができた。
中学に入ってからは、特に深く考えることもなく美術部に入った。
基本的には、部員それぞれが好きなテーマで好きな絵を描いて過ごせるゆるめの部活だったのだけど。中学二年のときに、顧問の先生が「市のコンクールに絵を出してみよう」と、美術部員全員に課題を出してきた。
顧問の先生が急にそんなことを言い出したのには、職員会議で立場が上の先生から「目的や目標を具体的に設定して部活の指導を行っていくように」と指示された背景があったらしく。わたし達美術部員は二ヶ月ほど、市のコンクールに向けた絵を描かされた。
コンクールのテーマは「わたしが描く未来の街」だったと思う。
自分の意志で出すコンテストではないし、わたしは気楽な気持ちで街の絵を描いた。
ガラス張りの高層マンション、カラフルな壁のショッピングモール、空中に浮かぶ緑溢れる公園。なんとなく近未来を思わせるような建物や施設をいくつか描いて、それらに自由に行き来できるような曲がりくねった迷路みたいな道路もつけた。背景には、スカイブルーの絵の具を一色だけでざざっと塗った。
特にこだわりもなく描いた絵だったのに、なぜかわたしの作品はコンクールの中学生の部で佳作に選ばれて学校新聞に掲載された。それがキッカケで、休み時間中に絵を描いていると、あまり話したこともないクラスメートに突然声をかけられた。
「榊さん、絵がうまいんだね」
声をかけてきたのは、夏木さんという女の子だった。
名字の夏木から「なっちゃん」というあだ名で呼ばれていて、わたしみたいにおとなしい子よりもクラスの中心グループいる女子達と仲良くしているような子だった。そんななっちゃんが、どういう気まぐれか、市のコンクールで入賞したわたしの絵に興味を持ったらしい。
わたしが教室で絵を描いていると、なっちゃんは仲良しグループの輪から抜け出してきて、わたしの絵を見にきた。
最初は絵を描いているときにだけ話しかけてきていたなっちゃんは、そのうち休み時間の度にわたしの席に近付いてくるようになり、いつのまにかわたしのことを「柚乃ちゃん」と呼ぶようになった。
初めは、わざわざ仲良しグループの輪を抜け出してまで声をかけてくるなっちゃんのことを不思議に思っていたけれど、毎日のように話しかけられているうちに、彼女の存在感はわたしの中で少しずつ大きくなっていった。
なっちゃんと話すのは楽しかったし、彼女はいつでも無条件にわたしの絵を褒めてくれるから嬉しかった。
ある日の昼休み。部活で描く次作の下絵をなんとなく考えていると、なっちゃんが話しかけてきた。
「柚乃ちゃんは風景画が好きなの?」
「うん、昔から風景ばっかり描いてるかも」
「そうなんだ」
近くの席から椅子を引っ張ってきて座ったなっちゃんが、スケッチブックに鉛筆を走らせるわたしの手元をじっと見てくる。
なっちゃんは、いつもそうだった。わたしが絵を描いていると、ものすごく興味深そうに横から覗き込んでくる。
「なっちゃんも何か描く?」
いつも見ているだけでは退屈かと思って、スケッチブックのページをちぎって渡そうとしたら、なっちゃんが顔の前で手を振った。
「いいよ。わたし、下手だもん」
「でも、いつも一生懸命見てくれてるから……」
「うん。わたし、柚乃ちゃんの絵を見てるのが好きなんだよね」
そう言ったなっちゃんの口角の上がり具合は、とても好意的に見えた。
「実はね、うちのおじいちゃんが水彩画が趣味で、よく風景の絵を描いてたの。二年前に病気で死んじゃったんだけど、柚乃ちゃんの絵を見てるとおじいちゃんが描いてた絵を思い出すんだ」
「それで、話しかけてきてくれたの?」
「それもあるけど……。それだけじゃなくてね、ちょっと最近、今のグループの子たちとの付き合いに疲れてて。柚乃ちゃんの絵を見ると、なんか癒される」
市のコンクールで入賞したのは、たぶんまぐれだ。
とりたててうまいとも思わないわたしの絵を見て癒されるなんて。なっちゃんの言葉になんだか照れてしまう。
「あ、りがとう……」
うつむいて照れ笑いすると、机に肘をついてわたしを見ていたなっちゃんの空気が、ふわっと柔らかくなった。
「ねえ、柚乃ちゃん。今度一緒に遊びに行こうよ」
「遊びに?」
「うん。電車乗って、買い物とか」
「買い物……」
なっちゃんからの思いがけない誘いに、胸がドキドキした。
小さな頃から友達が少なかったわたしは、学校外で誰かと遊んだ経験がほとんどない。もちろん、友達と一緒に電車に乗って買い物に行ったことなんてあるはずもなかった。
「今週の土曜日、空いてる?」
「うん、空いてる」
なっちゃんに予定を聞かれて、わたしは迷わず頷いた。だけど、これが失敗だったのだ。
約束の土曜日。わたしとなっちゃんは、まず、待ち合わせした地元の駅でうまく落ち合えなかった。
約束の時間ピッタリに駅の改札前に到着して、切符売り場の前にいた女の子に「おはよう、なっちゃん」と声をかけたら、人違いだった。
声をかけた女の子は、学校でいつも見ているなっちゃんのようにストレートの黒髪を肩までおろしていて、背格好や細長い手足までなっちゃんそっくりだったのに。その子に「たぶん間違えてますよ」と、怪訝な声で言われてびっくりした。
その子の背格好はなっちゃんにそっくりだったけれど、声はなっちゃんよりも少し低かった。
「柚乃ちゃん、何やってるの?」
切符売り場の前で固まっていると、誰かが後ろからわたしの肩をポンッと叩く。
声をかけてきた女の子は、今度こそ本物のなっちゃんだった。
「ごめん。なんか、人違いしちゃって……」
頬を引きつらせながら謝ると、なっちゃんは「あはは」と楽しそうな笑い声をあげた。