「おれの消しゴムじゃありません」

 おれは最後の最後まで女性教師に主張し続けたけど、その主張は認められずに、証拠の消しゴムとともに担任の吉原先生に引き渡されてしまった。


「菊池先生にも言いましたけど、おれじゃありません」

 菊池っていうのは、おれのことをカンニング犯に仕立て上げた国語教師だ。

 あいつの授業なんて、今後一切聞きたくない。耳栓して、最初から最後まで居眠りしてやりたい。

 腹立たしさに任せて菊池からの評価が余計に下がりそうなことを考えていると、吉原先生が手に持っていた消しゴムケースからカンニングメモを引っ張り出した。


「これ、よく見ると、小さな紙に細かく綺麗な字でものすごくたくさん書き込んであるよね」

 カンニングメモをしばらくじーっと見た吉原先生が、感心したようにつぶやく。

 高二でおれのクラスの担任になった吉原は、三十代前半でのんびりとした性格の男の先生だ。

 おれも選択科目の美術の授業でお世話になっているけれど、吉原先生が怒ってるところや焦っているところはあまり見たことがない。

 授業中に生徒に説明するときも、個別に誰かと会話するときも優しい口調でゆっくり話す。

 メモを隅々まで眺めた吉原先生が、それをもとの通りに丁寧に折り畳んで、消しゴムケースに押し込む。


「時瀬くんの性格だと、こんな小さな紙に綺麗な字で細かく英単語を書き込むのには相当時間がかかりそうだよね。君、いつも授業で絵を描くとき、紙いっぱいに、迷いなくバーッと大雑把に色をのせるでしょう?」

 吉原先生がそう言って顔をあげる。

 何が言いたいのかと思って怪訝に眉を寄せたら、吉原先生がおれにカンニングメモの入った消しゴムを差し出してきた。その手の指に少し、青い絵の具が付いている。


「まぁ、僕が直接見たわけではないからなんとも言えないんだけど。これからは気を付けて」

 吉原先生が、にこっと笑う。

 何かもっと、それらしい注意を受けるのかと思っていたおれは、吉原先生の態度にすっかり拍子抜けしてしまった。


「え、それだけすか? 菊池(きくち)は反省文書けって……」

「菊池先生、ね。そんな生産性のないことやったって意味ないよ」

 吉原先生がふっと笑って、開いて差し出したおれの手の上に消しゴムを落とす。

 よくわからないなりに理解できたことがひとつ。

 どうやら吉原先生は、おれのカンニングを疑っていないらしい。


 悪目立ちして誤解されることには慣れているけど、それでもやっぱり、やってもいないことをやったと思われるのは悲しい。

 吉原先生が呑気なのか、単に説教するのが面倒なのかはわからないけれど、疑われなくてよかった。ほっとして、返された消しゴムをぎゅっと握り込む。

 そのとき、吉原先生が椅子から立ち上がりながら「あ、そうだ」と何か思い出しだようにつぶやいた。


「もし時間があるなら、時瀬くんにひとつお願いがあるんだけど……」

「はい……?」

 カンニング容疑が晴れて気が緩んでいたおれは、穏やかに笑いかけてくる吉原先生の言葉に、つい頷いてしまった。


◇◇◇


「人物画の課題のモデルになってあげてほしいんだ」

 カンニングの反省文を書く代わりに吉原先生に頼まれたのは、クラスメートの(さかき) 柚乃(ゆの)の絵のモデルだった。

 うちの高校では、一、二年のあいだは芸術科目の選択が必須になっていて、音楽か美術の二択。

 榊もおれも、その二択の中から美術を選んでいる。

 のんびりとした吉原先生の美術の授業は結構緩くて、絵の上手い下手は関係なく、テーマにさえ沿っていれば、割と自由に絵を描かせてくれる。

 そんな吉原先生が、高二の一学期の前半に生徒たちに与えたテーマは人物画だった。

 美術室にある石膏をデッサンしたり、二人組になってお互いに相手の顔を描き合うというような課題が順に出されたのだが、どうやら榊は高二になって初回の美術の授業に出たあと、二回目以降は全く参加していないらしい。

 なぜ榊が授業に出てこなくなったのか、訊いてみても彼女が何も言わないから、吉原先生にもその理由がわからないそうだ。

 その話を聞いて不思議に思った。

 榊とおれは高一のときも同じクラスで、美術の授業を一緒に受けていたのだが、彼女の絵は人並み以上に上手い。

 授業中も吉原先生からよく褒められているし、噂によると、榊は美術部にも所属しているらしい。榊にとって、美術は決して嫌いな授業じゃないはずだ。

 おれの記憶では、榊はほとんど毎日学校に来ていたはずだし、得意そうな美術の授業だけをサボる理由がわからない。

 そもそも榊 柚乃という女子は、おとなしくて真面目そうで、授業をサボるようなタイプに見えない。

 まぁ、見た目がそうってだけで、榊が腹の内で何を考えてるのかなんてわからないんだけど。


「課題だけでも出してもらわないと、成績がつけられないからね。榊さんは、一学期前半分の成績はいらないって言うんだけど……。そういうわけにもいかないでしょ。モデルは僕がやろうかと思ってたんだけど、同級生の時瀬くんに頼んだほうが榊さんも気が楽なんじゃないかな」

 吉原先生はそう言っておれ達ににこりと笑いかけてきたけれど……。

 おれはもちろん、榊も、吉原先生の提案に無言で顔を強張らせていた。その表情を見れば、自分が榊にあまり歓迎されていないのだということがわかる。でも、それはおれだって同じだ。

 榊 柚乃はどちらかと言うと、おれの苦手なクラスメートだった。

 おとなしいし、クラスでも目立たないし、人の害になるような子ではない。だけど、なんだかすごく、とっつきにくい。

 おれが初めて彼女に関わったのは、高一の文化祭のときだ。

 おれたちのクラスの出し物は焼きそば屋で。校庭に学校の備品の白いテントを立てて簡易な屋台を作り、販売をすることになった。

 十時〜四時まで営業する屋台での店番は一時間ごとの交代制で、全員が必ず一回はシフトに入るようにクラスメートたちは五つのグループが割り振られた。

 おれと榊が割り振られたのは、たまたま同じグループで。シフトが当たった時間帯が、十二時から一時のランチタイム。

 焼きそば屋が特に忙しくなる時間だというのに、榊の働きっぷりはひどかった。

 だたでさえオーダーが殺到してそれをさばくだけでも大変なのに、榊がオーダーとは全然違う個数の焼きそばを客に渡したり、お釣りを待っている客に別の客が頼んでいた割り箸を渡したり、そのことで外部から来てくれていたお客さんを怒らせたり……。

 とにかくいろんなドジをやらかして、一緒にシフトに入っているメンバーの手を煩わせ、無駄な仕事を増やしまくった。

 一時間の店番が終わると、おれたちのグループのメンバーは忙しさと榊のフォローでクタクタになっていて。特に榊以外の女子メンバーは全員、目尻をつりあげて怒っていた。

 これは一悶着ありそうだなと様子を窺っていたら、案の定。次の時間のシフトメンバーと店番を交替したあと、榊は焼きそば屋のテントの裏で、グループのなかでも気の強そうな女子三人に取り囲まれた。

 文化祭委員がデザインしてクラス全員で揃えたオリジナルの黒Tシャツを着て、怖い顔で腕組みする三人の女子達。その輪の真ん中で、彼女たちとお揃いの黒Tシャツの裾をつかんだ榊が、申し訳なさそうにうつむいていた。


「榊さん、真面目にやる気あった?」

「最初っから最後まで、あたし達の邪魔にしかなってなかったよね」

「ただでさえランチタイムで忙しいのに、榊さんのせいで大変だったんだけど」

 女子達に責められて、だんだんと猫みたいに背中を丸めて縮こまっていく榊。遠くから眺めていたおれは、なんだか榊が気の毒に思えてきた。

 たしかに榊の仕事ぶりは酷かった。だけど、たかが文化祭の、たったの一時間の店番の失敗を寄ってたかって責める必要もないと思う。



「なぁ、もう終わったことをしつこく責めなくてもいいんじゃない?」

 榊を取り囲む女子たちに声をかけると、三人が同時に「はぁ?」という顔でおれのほうを振り向いた。


「何言ってんの、時瀬。こっちは榊さんのせいで、お客さんから怒られたり、フォローしなきゃいけなかったりで大変だったんだよ」

「そうだよ。榊さんにはちゃんと謝ってもらわないと気が済まない」

 榊を庇ったことで、女子たちの彼女に対する怒りや不満が、一気に全部おれに向かって降りかかってくる。

 すぐに、これはマズったなって怯みかけたけど、女子達の輪の真ん中で下を向いていた榊が、ちらっとこちらに縋るような視線を向けてきたから、おれは引くに引けなくなった。

 助けに入っといて逃げるなんて、そんなかっこ悪いことできない。

 店番中に汗が垂れないように頭に巻いていた白いタオルが額に少し下がってきて、それをぎゅっと押し上げながら三人の女子達に対峙する。


「そうは言ってもさ、何かを初めてやるときって緊張したり勝手がわからなかったりして、失敗するときあるじゃん。お前らはそうやって榊ばっかり責めてるけど、一時間の店番のあいだに一個も失敗なかったの? おれはあったよ。焼きそば調理してるときに、ソースがどばって大量に出ちゃって、何個か濃すぎる焼きそば出しちゃったと思う」

 おれが店番中の失敗をひとつ白状すると、怖い顔をしていた女子達三人がそれぞれ少し気まずそうに視線を泳がせ始めた。

 榊のことをひどく責めてるこいつらだって、きっと完璧に仕事をこなせていたわけじゃない。


「ほら、お前らだって否定できないじゃん。だったら、榊のこと責めるのやめろよ。今回の店番だって、忙しかったけど何とか回しきれたんだからもういいじゃん。みんな頑張りました、ってことで」

 おれが顔の前でパンッと手を叩くと、女子達三人はまだ少し煮え切らない表情をしたまま榊から離れた。

 なんとか収拾ついてよかった。ほっと安心して巻いたタオルの上から頭を掻いていると、榊がつつっとそばに寄ってきた。


「あの、時瀬くん……? ありがとう」

 榊が、おれの名前を確かめるようにちょっと語尾上がりに呼んだことを怪訝に思った。

 高校生になってからも相変わらず悪目立ちしているおれは、授業中もちょっとしたことで先生から名指しで注意されたり怒られたりしている。

 うぬぼれでもなんでもなくて、そんなふうに教室で悪目立ちすることの多いおれの名前を、榊が知らないはずがないと思う。それなのに、おれの名前を確かめるように呼んだ榊の声は、どこか少し不安そうだった。

「いや、別に。あいつらにも言ったけど、榊がそこまで責められるようなことじゃないって思っただけだから」

「……、うん。ありがとう」

 もう一度お礼を言った榊は、おれから少し顔をうつむけるようにして微笑んでいた。

 普段からおとなしいやつだし、人見知りで恥ずかしがり屋なのかな。

 一度目の榊との関りで感じたのは、そんな感想と少しの違和感だった。


 榊 柚乃との二回目の関わりは、高一のときの体育の授業中。たぶん、文化祭から一週間も経たないくらいの頃だったと思う。

 おれ達男子は体育館の半面を使ってバスケットボールをやっていて、残りの半面で女子がバレーボールをしていた。

 授業の後半で、四つのグループに分かれて試合をすることになって。おれのグループの試合中に、コートのラインをはみ出たボールが女子が授業をしているスペースへと転がっていった。

 たまたま一番近くにいたおれが追いかけていくと、バスケットボールが体育館の壁際に座って見学をしていた女子の足に軽く当たる。その女子が、榊 柚乃だった。


「悪い、榊。それ、こっちに投げてくんない?」

 ちょうどいいや、と思って少し離れたところから声をかけると、顔をあげた榊が少し警戒するような目でおれを見てきた。

 ゆっくりと榊のほうに転がっていったバスケットボールは、彼女に何の危害も加えていない。

 それなのに、こっちを窺うように見てくる榊の表情はやけに強張っていて。おれが悪いことでもしたみたいな、嫌な気分になった。


「そのボール、投げて」

 榊の足元にあるボールを指差してそう言ったら、彼女が慌てたように立ち上がっておれにボールを投げてくる。


「ありがと」

「いえ……」

 受け取ったボールを軽く持ち上げて礼を言うと、榊がおれを警戒するように身をすくめながら他人行儀に会釈した。