季節は進み、冷暖房器具が備えられていない体育館は、毎日外気と同じ気温。大きな箱の中で吐く白い息は、風が拐うでもなくそこに留まる。でもそれはストレッチの時だけで、練習中は一切見えなくなるから不思議だ。
俺等の代がまず目指すは、来月1月の新人戦。県内で2位以内に入れば、関東新人大会への切符を受け取れる。
「息上がりすぎだ花奏ぇ!スタミナつけろ!」
「はい!」
涙なんか見せていい奴だなと思えたのは深間校に負けたあの日のみ。やはり中川原は厳しい鬼で、笑顔はないし眉間にはいつも皺が寄っている。
「そんなんじゃベンチにも入れんぞ!」
そして、脅しも得意。
俺等2年生は計16人。この数字は1番厄介だと思っている。何故なら試合に出られるのは15人だけだと決まりがあるから。24秒ルールも好かないが、この1年間だけはこのルールの方が嫌いだ。いつも同い年の誰かがユニフォームを貰えないなんて酷すぎる。
「ねえねえ修斗、ちょっといいか?ゴール下の動きで教えて欲しいことがあるんだけど……」
そしてそれが、今のところだとたぶん彼。森田勘助という男。俺ほどの背丈で風貌も俺と似ているからか、校内では「じゃない方」と言われ後ろ指をさされている。無論、俺がそこに出くわせばその指の主を思い切り睨む。
「ああ、いいよ。俺でよければ」
「ありがとうっ。中川原の説明だといまいちわかんなくってさ」
「ははっ。あいつは怒鳴るばっかで語彙力がねえんだよ」
「俺もそう思う。けど言えねえよな」
「言ったら殺される」
人一倍やる気はある、バスケ大好き野郎の勘助が俺は好きだ。
「哲也!この問題教えてくれ!」
12月初旬、期末テスト期間。この1週間はどこの部活も全て休み。普段の俺は茶色いボールしか追いかけていないのだから、こんな休みをいきなり与えられたところで何をすればいいのかわからない。
哲也の自室。椅子をくるりと回して振り向く彼は呆れ顔。
「おい修斗。毎回テスト前になると放課後俺んち来るのやめろよ。こっちの勉強が進まん」
「じゃあ俺が留年してもいいのかよ!」
「そしたらバスケもう1年できんじゃん」
「あ、そっか」
あほか、と投げられむすっと膨れる。うなじをぽりぽり掻きながら、哲也は気怠そうに言う。
「なにがわかんねーんだよ」
「全部」
「あほか」
「てかなんで哲也は余裕なんだよ。お前も毎日バスケバスケしてんのに」
「へへ、修斗と違って朝型だからじゃね?」
「あ、そういえば知ってるか?担任の春ちゃん先生、赤ん坊できたらしいぜ」
「え、まじ?」
「まじまじ」
「絶対可愛いの産まれんじゃん」
バッシュを履けないこの1週間も、哲也といればあっという間に過ぎていく。
テスト期間も残すところ1日までくると、緊張も必勝のハチマキも解かれリラックスモードに切り替わる。だから俺は、聞こうと思った。
「なあ哲也。最近どうよ」
大雑把なその問いに、哲也は首を傾げていた。
「はあ?なんだよいきなり。どゆ意味」
「この数ヶ月で、なんか変わったこととかねえの?」
「変わったこと?」
中学1年生の時から3年以上も付き合っていた恋人と別れたこと。それをどうして俺に知らせない。
「……べつに、ないなあ」
何食わぬ顔でしらを切る哲也に、俺は真那花の「ま」の字を吐き出した。
「ま、真那花とは?上手くいってる?」
その時哲也の白目が広がって、かと思えば狭まった。
「別れたけど」
「え、なんで?」
「フラれた」
「そ、そっか」
「なんか俺以外に好きな奴ができたんだってさ」
あっさりとした言い方だった。けれど悲しそうな顔だった。
「もういいだろこんな話。つまんねえよ」
哲也の心は未だに真那花へあると、痛いほどに伝わった。
俺は真那花に恋をしている。彼女が初めて試合を観に来てくれた、あの日からずっと。
✴︎✴︎✴︎
「修斗、応援席にいるあの子誰?可愛くね?」
中学1年生の6月、南山校で行われた練習試合。君はそこに現れた。鼻の下を伸ばした哲也が、誰だ誰だと騒いでいた。
「俺のクラスの子」
「え、まじで!?誰!?」
「平原真那花」
「真那花ちゃんか」
その時の君とは話したこともなかったし、ときめきのひとつも俺は持っていなかったから、淡々と答えることができた。
「真那花ちゃん、なんで応援きてるんだろ?」
「さぁ。部に誰か、仲の良い奴でもいるんじゃん?」
「えーっ。彼氏?」
「知らねえよ」
そわそわする哲也を見れば、彼が恋に落ちたことが容易くわかった。それなのに。
「修斗くーん!頑張ってー!」
試合中、君が叫んだのは俺の名前。
「修斗くんファイトー!」
話したこともないただのクラスメイトを、君は懸命に応援してくれた。だから気になってしまった。
シュートを決めては君の反応をうかがって、ハーフタイムは顧問の肩越しに君を見つめて。終始笑顔の君が愛おしいと思った。
「俺頑張ってみようかな、真那花ちゃんのこと」
その日の帰り道。茜色の空を見上げながら、哲也が言った。
「応援してよ、修斗」
大切な友人の恋を応援する。その選択をするのに時間を要さなかったのは、俺の今日抱いた感情など一時的なものだと勘違いしていたから。
「おう、頑張れ哲也」
それが誤算だと気付いたのは、哲也と真那花が付き合ってすぐだった。
✴︎✴︎✴︎
もういいだろこんな話。つまんねえよ。
哲也がそう言った瞬間、空気が淀んだ。こんな話をするんじゃなかったと後悔した俺は、逃げるようにしてその場を去った。
家路で浮かぶ満月が、真那花の顔を映し出す。哲也が想いを寄せていて、俺も彼女のことが好きで。けれど彼女の気持ちはもう、他の誰かに向いている。
「ああ、さっみ……」
頬を掠めた凍てつく風が、つららのように痛かった。
「おかえり修斗。夕ご飯、もうちょっと待っててね」
家へ帰る頃、時計の針は夜7時。エプロン姿でキッチンを駆け回る母に、俺は聞いた。
「どっか行ってたの?ママ友会?」
「違うわよ。今日からお母さん働き出したの」
「え」
「不慣れで早速遅くなっちゃった」
専業主婦ではない母を、俺は産まれて初めて見た。どうして働き出したのかと予想をすれば、ちりりと疼き出す鳩尾付近。
ソファーに目を移す。そこには日本酒片手に顔を赤らめる父の姿。
「母さん、父さんって何時から家にいるの?」
母の耳元、ウィスパーボイスで質問すると、彼女も声のボリュームを落とす。
「わからない。私が仕事から帰ってきた時にはもうお酒飲んでたから、だいぶ早くにお店閉めたんじゃないかしら」
借金の2文字が、心にどかんと居座った。
「ちょっと走ってこようかな」
前々から思ってはいたが、俺って走ることを気分転換に利用している。夕飯を食してすぐの行動に、母が戸惑う。
「えぇ!テスト勉強は!?」
「哲也んちでしたから大丈夫」
「寒いわよ、気をつけて」
「うん。なにか買ってくる?」
「じゃあ牛乳」
「いつも牛乳じゃん」
「背伸びたいとか言って、あんたが全部飲んじゃうんでしょっ」
ははっと笑い、家を出る。今日はいつもよりもスピードを落として、何時間だって走っていたかった。
「あ。修斗」
夜10時。牛乳を購入するため訪れたコンビニで、目に飛び込んできたお団子ヘア。
「真那花……お前なんでいつもここにいるんだよ」
「いつもじゃないよ。修斗こそまた走ってたの?」
「うん」
「好きだねー」
真那花が抱えていたペットボトル。俺はそれを奪うと「送る」と言った。
並んで歩く夜の街。普段よりも落ち着かないのは、哲也とあんな話をしてしまったから。
「明日でテストも終わりだね。修斗はまたバスケ漬けの日々?」
「おう。新人戦近いし」
「そっか。いつ?」
「1月9日から。勝てばとりあえず3日間連続」
「また応援行こっかなあっ」
真那花の浮かれたその声に些か苛立ちを覚えたのは、哲也の悲しそうな顔が頭に過ぎったからだろうか。まだ真那花を好きな彼を身勝手な理由でフっておいて、よくも平気でそんなことを言えるものだと。
信号機の手前で立ち止まった俺は言う。
「真那花は一体誰を見にくんの?」
「え?」
「今回はもう先輩いないんだよ。哲也も絶対試合に出んだよ。一体なにしにくんの?」
「なにって、崎蘭を応援しに……」
「だったら女子バスケでもいいじゃねえか、会場ちげえよ」
がらりと変わった俺の態度に、真那花は困惑していた。
「て、哲ちゃんが気まずいってこと?だってもう、別れて7ヶ月も経ったよ?この前観に行った試合の後だって、来てくれてありがとうって言ってくれたし」
フッた側の「もう」はフラれた側の「まだ」かもしれないと、少しでも考えて欲しいと思った。ふいに出た舌打ちが、ふたりをヒートアップさせてしまう。
「じゃあべつにいいよ。応援くれば?」
「はぁ?なにその言い方」
「俺に断る権限ないし」
「だからなにその言い方!来るなってこと!?」
「知らね」
「修斗は私に来て欲しくないの!?」
「はぁ?俺?」
「私の応援、迷惑なの!?」
そんなわけねぇじゃん、と言いかけたけれど、それは飲み込んだ。もしそんなことを言ってしまえば、真那花への想いも口にしてしまいそうだから。
無言になった俺の手からペットボトルを取ると、真那花は言った。
「もうひとりで帰る!じゃあね!」
「え、ちょっと待っ」
「じゃあね!」
背を向けスタスタと足早に歩む真那花。俺はそんな彼女の後ろ姿を、暫く見つめていた。
クリスマスと正月を終えれば間近に迫る新人戦。今日は試合前最後の部活動。部員を円く集めた中川原が言う。
「今日の練習はここまで!今夜中に疲れをとって、明日は万全で挑むぞ!」
今日も今日とて競走馬よりも走らせておいてよく言えるな、と哲也と目配せだけで笑い合った。
「3年がいなくなってから初めての公式戦だ。今年の崎蘭は去年よりも強いって、そう思わせてやろうじゃないか!」
ユニフォームはすでに頂戴した。俺は4番、哲也は5番で、勘助はベンチ入りしなかった。
皆を見渡し、言葉を続ける中川原。
「初戦はいきなりだが、去年の大会で関東まで駒を進めたチーム、十神高校だ。キーパーソンは4番5番の双子、峰山兄弟。花奏と斉藤にマークさせようと思っている」
名を呼ばれた俺等ふたりは「はい」と忠実な返事をする。中川原は不敵な笑みを浮かべていた。
「双子は生まれた時から一緒だ。阿吽の呼吸なんてもんじゃない。だがお前たちなら抑えられるな?」
顔を見合わせる哲也と俺。うんと頷けば揃う声。
「「余裕っす」」
「しゅ、修斗!哲也、学武!」
汗だくの練習着から制服に着替え校門を出ると、新人戦で7番を背負う小俣真斗に呼び止められた。
「ん?」
振り返るとそこには真斗だけではなく、8番の大林良輔や9番の永井太一、10番の蔵前桂樹を含めた2年生全員が、神妙な面持ちで立っていた。
「な、なんだよ怖えな」
そう言って俺の後ろに隠れた学武には、意外と可愛いところあるじゃん、と思った。
「どうしたんだよ真斗。そんな顔して」
真斗に近寄りそう聞くと、彼は重そうな口を開く。
「お、俺たちはさ、1年の時にユニフォームを貰ったことなんかないから、お前たちより断然試合経験が少ないんだっ」
「うん」
「だから明日、いきなり関東大会出たところと試合って聞いてすんげえ緊張してる。試合に出ることももちろんだけど、3人に迷惑かけるんじゃないかって。そっちの方がでかい」
「迷惑?なんの?」
「個人戦じゃないから、ミスをすればした分だけ、点数に響くっ」
それがチーム競技というものだろうと俺の頭にはハテナが浮かんだが、両隣にいた哲也と学武はうんうんと頷いていた。
「わかる、わかるよその気持ち。俺も一緒だよ」
そう言った哲也に続き、学武も「俺も」と相槌をうつ。全員の瞳が俺を見た。
「え、俺?みんなのミスを、俺が怒るってこと?中川原みたいに?」
ぽかんとする俺の耳を、哲也は「ちげえよ」と引っ張った。
「修斗の腕前がすごすぎんのっ。それがプレッシャー生んじゃってんのよ」
「へ?」
「俺等も必死に頑張るけどさ、お前なら守れたディフェンスを抜かれたり、お前から見たら簡単なシュートを外したりするんだよ。それがただただ不安なの。こいつ使えねえなって思われんのも嫌だしさ」
「はあ?俺、そんなこと思わねぇけど」
「もちろん。中学からお前と一緒の俺は知ってるよ。でもバスケ部以外の修斗を知らない奴からしてみたら、お前なんてスーパーストイックアスリートでしかねえんだよ」
「なんだそれ」
「だから俺から言っとくわ」
俺の肩を2度叩いた哲也は、えっへんと背を反らす。
「あのなみんな。修斗っていうのはバスケを死ぬほど愛している、ただのガキだから」
どこか馬鹿にされたと思うけれど、とりあえずは見守ることにした。
「修斗のプレーはすんげえけど、あとは特になにも考えてないただのあほ少年。去年の期末だって俺よりはるかに低い点数で、まじ赤点ギリギリ」
やっぱり馬鹿にされたと思うけれど、仕方なしに見守り続ける。
「修斗が自分の力だけでトップに行きたいなら、バスケなんて選ばないよ。きっとテニスやバドミントンを選ぶ。でもこいつはバスケを選んだんだ。仲間が上手かろうが下手だろうが、5人揃わないと試合もできないバスケを。それを小1からやってるっていうんだから、そもそもメンバーのスキルや力量なんて修斗は気にしていないんだって。抜かれたならカバーし合えばいい、点を取られたなら誰かが取り返せばいいって、修斗はそういう考え方の持ち主だよ。現に俺なんか中1の時からずっとこいつと一緒にやってるのに、ああして欲しいとかこうして欲しいとか、一切言われたことないぜ?こいつはどんどん己の能力を高めるだけ。だから真斗たちが思うような不安は全くもっていらねえよ」
そこまで聞き終えて、俺は少し反省した。1年生の頃からベンチに入り、先輩たちの背中だけを見ていた自分は、1番大切な同い年の仲間との交流が浅かったと。もっと関わりを持っていれば、試合の前日にこんな不安を抱かせることはなかったんじゃないのかと。
これは「一目置かれていた」とかではない。ボーダーラインが引かれてしまっていただけだ。自然に生まれたその線を取っ払わねば、このチームが良い方向へ向かうはずがない。
「俺、さ……」
しんと静まり返った場。暗がりの中で、ひとりひとりと目を合わせた。
「俺、ずっとお前等と試合がしたかった」
先輩の輪に入れてもらうのも嬉しいし楽しかった。けれど俺がいて1番心安らぐは、やはり同い年といるその時間。
「俺等のこの学年最強だよ。哲也もいて学武もいて、真斗も大林も太一もいて……同級生だけでベンチ埋まるんだぜ?むしろひとりは毎回入れねえとかいう、ライバル心にも火ぃつけられてさ。超最強じゃん、モチベ上がりまくりじゃんっ」
「修斗……」
真斗の顔が、ようやく綻んだ。俺もそれと同じ表情で捲し立てる。
「俺、ずっと俺等の代になるの待ち侘びてたから、まじで明日の試合すっげえ楽しみっ。絶対勝つよ、だって崎蘭最強の代だもん。コートの中にもベンチにも、そして1番試合がよく見渡せる、ギャラリーにだってその仲間がいるんだぜ!?なあ、勘助っ」
皆の末端でさっきからコロコロと目を行き交わせていた勘助に親指を立てて見せると、彼は耳から耳まで歯を広げた。
「おう!中川原の見えていない部分は、俺がカバーしてやるんだっ」
崎蘭高校2年生16人。このメンバーで必ずてっぺんを取ってやる。
「おーい。修斗行くぞー!」
翌朝6時きっかりに、窓の向こうから声がした。夢から無理矢理剥がされた俺の寝起きは当然悪い。
「おい修──!」
「シャラップ!!」
バシンと乱暴に窓を開けると、笑顔の哲也と目が合った。
「おはよ修斗」
「早いっつってんだろ!」
「今日は6時58分の電車じゃないと間に合わん」
「そんなこと言っていつも俺等が1番乗りじゃねえか!」
「いいから早く部屋上げてよ」
こんなにも不機嫌な人間を前にしても悪びれぬ態度。窓の縁で項垂れた。
「ひとりで行けよもー」
「やだよっ。一緒に行きたいじゃん、それが青春じゃんっ」
途端に鼻で奏でられる、バスケアニメのオープニングソング。ふんふんと陽気な彼を一頻り眺めていれば、眠気が空の彼方へ消えていく。
「それもそっか」
いつだって俺の朝は、元気な哲也から始まるんだ。