きちんと振り分けられた畑が目の前に延々と広がり、所々にポツリと民家の集団がある。
辺りをぐるりと見渡すと、半分は深々とした緑で装った木々が生い茂り、残りの半分は静かな水面を持つ海がある。
「この一帯だけ世界に取り残されてしまったのでは」と錯覚してしまうくらい典型的など田舎にある集落の中に、比較的大きな建物が一軒。
数十年、いや、百年くらい経過しているのではないだろうか。
濃い茶色の染料で染められた木製の外壁は、長年雨に晒されてきたせいか、表面はボソボソにささくれていて、隙間からは植物の蔓が顔を覗かせている。
そう。ただのボロボロの古民家だ。
けれど、中に入ってみると、意外にも部屋の一部は木材の香りが残るフローリングに張り替えられていたり、井草の香りがする新しい畳に張り替えられていたり、トイレはウォシュレット付きの水洗に変えられていたりと、なかなかの手の込みようだ。
そして僕はここに住んでいる。と言っても居候させてもらっている身だけれど。
この家の主人である茂さんは、もともと都内で編集者としてバリバリ働く優秀なサラリーマンだったらしい。
けれど、どういうわけかわざわざ会社を辞めて、この古民家を購入したようだ。
購入したと言っても、いつも家にいるわけではなく、遠く離れた都心の方で泊まり込みの仕事をすることが多く、この家に帰ってこないことがほとんどだ。
一週間以上も帰ってこない日もざらにあるものだから、時々僕一人で住んでいるのではないかと思うことも少なくない。
今にも外れてしまいそうな玄関の戸が、景気良くガラガラと音を立てた。
こう大きな音だと、どこにいようが戸が開くのがわかるから、ある意味便利だ。
「茂さん、お帰りなさい。長旅お疲れ様です」
「ただいま」
茂さんは僕の顔を見ると、にこりと微笑んでから「よっこら……しょっと」と言いながら、大きなキャリーバッグを式台に引きずり上げた。
いつものようにちょっとやつれた顔をしているけれど、今回は心なしかいつもより嬉しそうに見える。久しぶりに帰って来られたからかな。
「助かったよ、まやくん。留守番してくれてありがとう」
「いえ、お礼を言われるほどのことなんて。あ、この前言っていた破れた障子の戸は全部張り替えておきました」
「おお!ありがとう。それは助かるよ。あの部屋、戸のせいで見栄えが悪かったからなあ」
「ここに居させてくれているので、せめてこれくらいはしておかないと」
「この家にまやくんがいてくれるだけで大助かりだから、そんなに張り切らなくても良いよ」
いやいやそんな。居るだけでって、良い人すぎますよ。
茂さん曰く、家は人が住んでいないと、すぐにカビが生えたり虫がわいたりするらしい。
特に、この家みたいに築百年以上経過している古民家だと、何日か空けているだけであっという間に埃が溜まってカビだらけになるらしい。
人が住んでいない家はすぐに老朽化が進むから、なるべく空気の流れを止めてはいけない。だから、僕がここに住んで生活をしているだけで家を長持ちさせられて大助かりなんだとか。
「巷では古民家って徐々に人気が高まっているようですけど、実際に住むとなると、意外と管理が大変なんですね」
「そうだよ。僕も買ってからこりゃ大変だなって思っていたんだ。でもさ、やっぱり帰って来た時に誰かがいるって、良いよね!」
ふうん。そういうものなのか。単にこの人が良い人すぎるだけではないのか。
「あ、それと、僕の姪がしばらくここに泊まるからよろしく頼むよ」
「わかりま……ええ⁉︎ここに来るんですか?」
「そうだよ。僕の姉貴の娘さん。今年高一だから、多分まやくんと同じ年代じゃないかな。向こうで姉貴の家に泊めてもらう機会があったんだけど、その時会って話してさ。彼女、写真を撮るのが好きで、この辺りの風景も興味があるみたい。じゃあ遊びにおいでよって言ってみたら、『ぜひ行きたいです』って。まやくん、仲良くしてあげて」
……何だって⁉︎
茂さんはここを古民家民宿にしたいと言っていて、一緒に床を張り替えたり、網戸を直したりして、ようやく僕達二人が快適に過ごせるようになってきた。
でも、まだ今にも外れそうな窓枠や、抜けそうな床の部屋もたくさんあるから、人を呼ぶのは随分先のことだと油断していた。
というか、一人でこんなど田舎のボロボロな古民家に泊まりにくるなんて、その女の子はどれだけ図太い性格をしているんだ。きっと普通の子じゃないはず。
どうしよう。それに、僕がいて大丈夫だろうか。
だって僕はーー
「そんなに心配しなくても大丈夫。きっと仲良くなれるって!」
立ち尽くしていろいろ考え込んでいると、茂さんが僕の目を見てにこっと笑いながら、肩をポンポンっと叩いた。
決して鋭い眼光という訳ではないけれど、真っ直ぐに僕の目を見ながら、はっきり『大丈夫』と言い切ってくれると、どんなに不安でも、なぜか本当に大丈夫なような気がしてくるから不思議だ。
「わかりました。それで、いつから来られるのですか?」
「今日から」
「今日⁉︎」
「実は……もう来てる」
「……はい?」
さっきまでちょっと格好良いなんて思っていたのに、急に頭を掻きながらへへへって笑うものだから、さっき思ったことは全部撤回しておく。
「おーい、そんなに遠くにいなくても大丈夫だよ。こっちに入ってきな」
茂さんは玄関から顔を出しながら手招きをすると、庭の入り口にある石垣の方からスッと女の子が姿を現した。
女の子は大きなスーツケースを重そうに引きずりながら、恐る恐る玄関に近付いてきた。
たしかに僕と同じくらいの年齢の女の子だった。
肩にかかるかどうかくらいの長さの整えられた髪は、見惚れてしまうほどさらりとしている。下の方に行くにつれ、外にふわっとしている。ええと、たしか『ボブカット』って呼ぶんだっけ。
真夏だというのに、なぜかパーカーを着ているのが気になったくらいで、それ以外は意外というか、とても控えめっぽい子だったから、僕の緊張スイッチはすぐに切ることができた。
というか、見ているこっちがハラハラするほどおぼつかない足取りをしているんですけど。茂さん、もしかして連れてくる子を間違ったのでは?
「こん……にちは……」
女の子は、右腕の袖を強く握り締めながら、不安と警戒が混じった声で、今できる精一杯の挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
これ以上この子を刺激すると死んでしまうのではないかと思ったので、僕もできる限り同じ大きさの声量を意識して言葉を返した。
女の子は、ゆっくりと視線を上げていく。
あ、目が合った。
って、あれ?
僕とその女の子は、しばらく見つめ合ってしまった。
その瞬間、まるで僕らだけが別の空間にいるような感覚になった。
ビビッときたとか運命の出会いがとかそういうのじゃなくて、どこかで会ったことがあるような、ないような、懐かしいような、懐かしくないような、そういうよくわからない気持ちになった。
ーーこの気持ちは、僕だけだろうか。
その子のことが、気になった。
照りつける太陽がもっと主張しても良いはずなのに、ここ最近は暑さだけをしっかり残したまま、灰色の空色が続いていた。
机に頬杖をつきながらぼんやりと外を眺めていると、頼りない雨が外の視界を霞めている。
窓越しに見える桜の木には、一匹のアブラゼミが雨に負けまいと、大きな声で夏を主張している。
けれど、今のところ雨が止む気配は全くない。
教室中には湿気を含んだ空気が充満していて、それが余計に憂鬱な気分にさせてくる。
今日も教室にいるだけで精一杯かもしれない。いや、いられるだけまだマシか。
「おっはよー!」
さっきまで教室中に漂っていた灰色の空気は、櫻井絵里ちゃんの一言で明るい色に彩り直される。そして私の鬱々とした気分は少しだけ晴れ間を覗かせる。
「おー櫻井!おはよー」
「櫻井さん、今日も元気だね」
「へっへー。あ、水沢さんおはよー!」
「おはよー」
クラスのアイドルともいえる絵里ちゃんを筆頭に、教室中に『おはよう』が浸透していく。
絵里ちゃんは忙しなくクラスメイトに挨拶をし終えると、ようやく私の隣の席にたどり着いた。
「おっはよー沙希!」
「あ、絵里ちゃんおはよう」
最大級の愛嬌を振り撒かれると、私もつられていつもより声の大きさが二割増しになる。
「明日から夏休みだね!沙希は何するの?やっぱ旅行なんか行ったりするの?」
私の方を向きながら鞄から取り出した教科書を机の中に突っ込んでいると、するりとカバンからプリントが抜け落ちた。
「ねえ聞いてよ!昨日バイト終わったの十一時だよ!店長に私一応高校生なんですけどって言ったんだけどね!ごめんごめんしか言わないんだよ!まったく、いくら人がいないからって酷すぎない?もう辞めてやる!」
愚痴を聞いているはずなのに、絵里ちゃんが言うと、なんだか楽しい話をしているように聞こえてくるから不思議だ。
「それでねそれでねー」なんて話を続けようとするけど、そろそろ気付いてほしいから私は頭の中で「絵里ちゃん気付いて」って念を送りながら、わざとプリントにチラチラと視線を送る。
「……ん?どうしたの?あ、やだ私、落としちゃってた?」
「うん」
私の念が届いたようだ。
「えへへ……ありがとう!さすが沙希。いつも細かいところに気が付くよね」
「私からはよく見えるところだったから」
絵里ちゃんは私と性格が正反対で、底抜けに明るい性格をしている。
誰かと話しているときはいつもにこにこしているし、相手を傷付けない言葉を選びながらも、自分の思ったことはきちんと話す。
絵里ちゃんは小学生の時からの同級生で、私にとって唯一の友達かもしれない。いや、友達はちょっと言い過ぎかもしれない。
向日葵のように明るい絵里ちゃんが眩しすぎて、時々くらくらしてしまうことがあるし、ずっと一緒にいるとしんどくなってしまうことだってある。
けれど、底抜けに明るい絵里ちゃんには何度も助けられている。今の高校生活もなんとか過ごせているのは絵里ちゃんのおかげだし。
それに、お昼休みになると一緒にお弁当を食べてくれたり、頻繁にボランティア部に入部しないかと誘ってくれたりする。
クラスの人気者だからいろんな人と仲良くするのに忙しくて、高校進学と共に私と絵里ちゃんが一緒にいる時間はどんどん少なくなっていった。
でも、その距離感が今の私には丁度良かった。
さっきまで「もう辞めてやる!」とかなんとか言っていたのに、いつの間にか、
「でもね!バイト先の上林先輩が昨日最後まで手伝ってくれたんだよ!」
って話に替わる。
ファミレスでアルバイトをしている絵里ちゃんは、どうやら大学生の上林さんがお気に入りみたい。
ひとしきり私に昨日のことを報告し終えると、顧問の先生に提出するプリントの期限を延ばしてもらえるように交渉しに行くとか言って、パタパタと教室を出ていった。
なるほど提出期限は守るものだと思っていたけれど、どうやら絵里ちゃんは引き伸ばすものだと考えているらしい。
私にはその発想がなかった。先生に直談判するなんて、やっぱり絵里ちゃんの行動力は凄まじい。
ーー絵里ちゃんのようになりたいなんて、もう何度思っただろう。
◇
「三年生になったらすぐ進学か就職かに分かれて対策しないといけないからねー。じっくり時間が取れる夏休みのうちに進路のことも考えておきなさーい」
一時間目が始まる前のホームルームで、担任の斎藤先生が一学期最後の連絡事項を伝え終えると、付け加えるように言った。
「まだ早いってー」
「一年以上先のことじゃん」
「どんだけ俺らを焦らせんだよせんせー」
先生の言葉が私に重くのし掛かったのはどうやら私だけみたいで、クラスのみんなは反撃するかのように、あちこちからブーイングをする。
「君達甘ーい!三年生になったら考える暇なんてないんだからね!進学組は試験対策をしなくちゃいけないし、就職組は面接練習だってあるんだから!それに三年生なんてあっという間よ!あっという間!」
「せんせー夏休み前に何でこういうこと言うかな」
「マジテンション下がるわー」
秋吉くんや遠藤くんは相変わらず反撃を続けている。斎藤先生はやれやれと言わんばかりに小さく溜息を吐きながら、
「はいはい。じゃあくれぐれも羽目を外しすぎないようにね。夏休み中に呼び出しなんて先生やだからね!」
と言っていた。なんだかお母さんみたい。
少しクスッとしてしまったから慌てて口元を押さえていたら、隣の席に座っている絵里ちゃんと目が合った。
絵里ちゃんはシシシッて悪戯っぽく笑い返してくれたから、またちょっと笑ってしまった。
ホームルーム終ると、斎藤先生は教卓に学級簿をトントンとしてから、もう一度小さな溜息を吐いて、静かに教室を出ていった。
進路……か。大人になったら一体何をしているのだろう。
お母さんや先生に「将来どうするの」って聞かれたら、納得できるような答えを用意しておかなきゃいけない。
でも、私は何事も起こらない毎日を過ごすのに精一杯で、将来どうしたいのかや、何をしたいのかなんて考えていなかった。
いや、ずっと考えたくなかったのかもしれない。私は取り柄なんてないし、クラスで唯一話す人といえば絵里ちゃんくらいだ。
成績は悪い方ではないけれど、持て余らせている時間をとりあえず勉強に充てているからにすぎない。
好きな事は、そうだな。たまにお父さんからもらったミラーレスカメラを持って出かけるくらいかな。
電車に乗って街とは反対方向に行って、海の景色や花の写真を撮る。じゃあ将来は写真に関することを仕事にしたいのかというと、別にそうでもない。
出かけた先で、気になったものを写真という形で残しておきたいだけ。
撮った写真は、レタッチと言ってパソコンの加工ソフトで少しだけ手を加えて”大切なもの”フォルダの中に溜め込んでいく。
フォルダの中にお気に入りの写真が少しずつ増えていくと、満たされた気持ちになる。誰に見せるわけでもない、ただの自己満足で楽しんでいるものだ。
というか、将来について考える前に、私は過去を何とかする必要がある。
だって私は幼い頃の記憶が全くないのだから。
どんなに頑張って思い出そうとしても、小学生に入学する前までの記憶はすっぽりと抜けてしまっている。
それに、記憶がある頃からすでに右腕に痣のようなものがある。
これが生まれつきのものなのか、それとも小さい頃にできたものなのか、よくわからない。
このことをお母さんに聞くと、決まって悲しい顔をしながら、いつもはぐらかされる。
本当のことを教えてくれないのは、きっと聞いちゃいけないことなんだと自分に言い聞かせていくうちに、次第に聞くことは無くなった。年々もやもやが大きくなってきているけれど。
唯一言えることは、この痣のせいで小学校は「ながそで」と呼ばれ続ける暗黒の時代を過ごした。
まあ、痣をコンプレックスに感じた私はいつも隠すように長袖の服を着ていたからしょうがないんですけど。
ああ、思い出すだけで気分が悪くなってくる。
今を生きるのに精一杯な私に、先のことなんてわかるはずがない。
「沙希、おーい、沙希!」
「えっ?」
机の木目模様をぼうっと眺めながら考え込んでいると、絵里ちゃんが私を自分の世界から引き戻してくれた。
「沙希ってば、また一人でどっか行ってたでしょ」
「え……うん」
「何考えてたの?」
「何って……」
「聞きたいなー沙希が考えてたことー」
「別に……大した事じゃないよ」
私が考えることなんてちっとも面白くなんてないし、むしろ周りの人が嫌な思いをするから、たとえ絵里ちゃんでも話したくない。
けれど絵里ちゃんは、いつものように興味津々に聞いてくる。
「もう、その大した事じゃない話が聞きたいの」
「えっと……忘れちゃった。それより絵里ちゃんは進路どうするか考えてる?」
半ば強引に話を絵里ちゃんに振るのは私の常套手段となっている。
「もー沙希のこと聞きたかったのに」
口を尖らせてしまったけれど、私の質問には律儀にしっかり答えてくれる。
「私は小学校の先生」
小学校と聞いて少しもやっとしたけれど、私の目を真っ直ぐ見つめながら、はっきりと言ったから、すぐにそのもやもやはどこかに飛んでいってしまった。
絵里ちゃんはいつも笑顔でふわふわしている印象が強いけれど、時折見せる真っ直ぐな瞳を見せられると、ドキッとしてしまう。
やっぱり格好良くて、でも、そう思えば思うほど、私とは違うんだなんて思ってしまう。
「どうして教師なの?」
「うーん、私ってめっちゃ喋るの好きじゃん。だから相手に何かを伝えることってしょうに合ってるんだと思うんだよね。あ、でもアナウンサーみたいに決められていることを喋るのはあまり好きじゃないかな。というか、もっといろんな人と話していろんな人の考えを知りたいわけ、それで知ったこととかを誰かに伝えることができたらなーなんて考えたら、学校の先生に行き着いたんだ。それに小さい子供も好きだし、できれば小学校の国語の先生が良いかなって。あ、でも小学校だと担任の先生が全教科教えなきゃいけないか。ひえー大変だなー」
「すごい……」
絵里ちゃんなら何にでもなれると思う。本当に。
「いやいや、全然すごくないよ。まだ漠然と思っているだけだし。どこの大学に進学すれば良いかもわかんないし。お父さんやお母さんに言ったら、頑張れ、絵里ならできる!しか言わないんだよ!もう、うちの両親適当かよ!」
最後はケラケラと笑ってしまった。
もしこんなに底抜けに明るい人が担任の先生だったら、きっと私みたいな人間でもそれなりに楽しい学校生活が送れたのではないだろうか。
「絵里ちゃんなら絶対になれるよ」
「ありがと!沙希が言ってくれると本当になれそうな気がしてきた!で、沙希は何になりたいの?」
「ええと……」
しまった振り出しに戻ってしまったなんて追い詰められていると、一限目が始まるチャイムが私を助けてくれた。
それからは特に問い詰められることはなく、というか、もう既に私が何になりたいのかという興味は授業中に見つけたであろう動物園の動画にすり替わっていた。
休み時間になると「これ見て!さっき見つけたの!可愛いよねえ」なんて言いながらカピバラがスイカを食べている動画を見せてくれる。
授業中に見つけたのか、なんて心の中で突っ込んでしまったけれど、それ以上に、その度胸が羨ましいとも思った。
「それじゃ、また明日」
「バイバイ」
夏休み前の最後の授業が終わるチャイムが鳴り終わると、絵里ちゃんは朝に落としていたプリントを持って慌ただしく職員室に行ってしまった。
ボランティア部の集まりで計画表を配らなきゃいけないらしく、今からコピーしにいくんだとか。今から行って集合時間に間に合うのかな。
できれば今日は絵里ちゃんと一緒に帰りたかったけどしょうがない。私と違って忙しい人だから。なんて、わざわざ考えなくても良いことを考えて勝手に落ち込む私は本当に面倒臭い人間だ。
学校は街から少し離れたところにあるため、ほとんどの人は上りの電車に乗って帰る。もちろん私の家もみんなと同じ方向にある。
六時間目の授業が終わってすぐに下校したから、もしかして私が一番乗りではと思ったけれど、既に駅のホームには同じ制服を着た生徒で混み合っていたからげんなりした。
ホームには、スマホの画面を見ながら友達と話している人か、一人でスマホの画面と睨めっこしている人、あとはスマホを横に持って指を器用に動かしている人がいた。
なんかすごい光景だなと思ったけれど、当然私もその中の一人に過ぎないわけで。
地べたに座って大声で話している子達には、目をつけられないように気を付けなければいけない。
誰にも気付かれないように気を付けながら私は下りのホームに降りる。
色褪せたベンチにはおばあさんが一人で座っているだけだった。私は駅名標に隠れて電車が来るのを待った。
幸い電車はすぐに来た。自分だけみんなと違う方向に向かうことが、後ろめたいけれど、心地良くもあった。
鞄からお気に入りの文庫本を取り出して続きを読もうとしたけれど、二、三ページほど読み進めたらすぐに睡魔が襲ってきたからやめた。
『ご乗車ありがとうございます。次の駅は、汐丘ーー』
夢現で外の景色を見ていると、目的地である七番目の駅名がアナウンスされた。
ホームは至る所に割れ目があり、その隙間からは細い茎の雑草が太陽めがけて一直線に伸びていた。
小さくて可愛い花を咲かせているのもあったから、私はカバンの中に手を突っ込んでミラーレスカメラを取り出し、シャッターボタンを押す。
古びたレールの上には椋鳥が羽を休めていたから、びっくりさせないようになるべくそうっと近付き、パシャリ。
シャッター音に驚いた椋鳥は迷惑そうにチチチッと鳴きながらどこかに飛んでいってしまった。驚かせてしまってごめんなさい。
汐丘駅に来ると、何もかもから解放されたような気分になるから不思議だ。
そんな時は自然と心を打つものを見つけて、写真に収めたくなる。それが楽しくてしょうがないし、そんな時は良い写真が撮れる。
無人の改札口を通って駅の外に出ると、ほとんどがシャッターが降ろされている商店街に出る。
決して人通りは多くないけれど、意外とカップルが多く、活気があるようにも見える。
駅は小高い丘の上にあるため、短い通りを抜けると、一気に景色がひらける。
海が見える時々潮の香りがしてくるので、汐丘という名前なのだろう。前にスマホで調べてみたら、どうやら最近はここ一体がデートスポットになっているらしい。
そして私は目的地に到着した。
「あら、沙希ちゃん。いらっしゃい」
「やあ、いらっしゃい」
「こんにちは」
商店街の一番隅にある小さなカフェ『海猫堂』に入ると、いつものように郁江さんと誠司さんが迎えてくれた。
海猫堂はもともと小さなバーだったらしく、厨房を囲むようにカウンター席が設けられている。おまけに店内にはBGMが流れていないため、店内の雰囲気はゆったりしている。
初めてきた時は静かすぎる店内が苦手だと思ったけれど、郁江さんと誠司さんの話し声や、料理を調理している音を聞いていると、段々とそれが心地良くなって、つい何度も通うようになった。
それに、おっとりとした郁江さんと、少し天然な誠司さんが作るお店の雰囲気を求めて来るのは私だけではない。休日になると都内の方からたくさんのお客さんが訪れる。
たしか、この前地元の情報誌に『おしどり夫婦が経営する癒しのカフェ』として紹介されていたっけ。
平日だったからか、珍しく他には誰もいなかった。
絵里ちゃんと一緒の時は決まってカウンター席の真ん中に行くけれど、一人の時は一番奥にある一人がけの小さなテーブル席に座る。
でも、今日はほかにお客さんがいなかったし、二人の雰囲気を近くで感じていたいと思ったから、カウンター席に座ることにした。隅っこにするけれど。
席に座ると、誠司さんがコップに注いだ水を静かに置いてくれた。
「今日はお転婆なお友達と一緒じゃないんだね」
「あ、はい。絵里ちゃんは部活の集まりがあるので」
「そりゃ残念。せっかく新作のケーキを焼いたんだけどなあ。今度お転婆さんに会ったら自慢しておいてよ。すっごく美味しいケーキをいただいたよって」
「え……?新作のケーキですか」
「お昼に焼き上がってふみちゃんと試食したんだけどね、これが結構上手くいったんだよ。で、せっかくだから沙希ちゃん達にも食べてもらいたいねって言ってたんだ」
無邪気な少年のようにキラキラした目をする誠司さんを見ていると、私も釣られて気持ちが盛り上がってくる。
誠司さんが郁江さんのことを「ふみちゃん」って呼んでいるから、本当に仲がいい夫婦だなあなんて思う。
正直、誠司さんと郁江さんのような大人に憧れてしまう。私には絶対無理だろうけど。
「食べてみたいです」
「ちょっと待ってて!持って行くから!」
「あ、いつものミルクティーもお願いします」
誠司さんがダッシュでキッチンにケーキを取りに行こうとしたから、私は慌てて注文を伝えた。
「オーケー!いつものね」
キッチンでは郁江さんが鼻歌を歌いながら洗い物をしている。郁江さん達を見ていると、この空間だけ本当に平和だなあなんて思ってしまう。
さて、と。
私は小さく深呼吸してから、カバンからカメラとノートパソコンを取り出す。
今まで撮った写真がメモリーに溜まってきていたから、そろそろ”大切なもの”フォルダに移さないと。ついでに夏休みの宿題もやれるだけやってしまおう。
カメラからSDカードを取り出してパソコンに差し込む。写真加工ソフトを立ち上げたら、さっき駅で撮った可愛い花の写真を見る。雨が降っていたから全体的に暗くなってしまっているけれど、露光量を少し増やせば解決する。花びらの輪郭をもう少しくっきりさせてあげたいから、コントラストも大きくしてみよう。
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます」
ああでもないこうでもないと明るさを何度も調整していると、郁江さんがお盆を持ってやって来た。
「紅茶はいつもの砂糖多めのミルクティーね。それと、これが試作のブルーベリーパウンドケーキ。沙希ちゃんはブルーベリー苦手じゃない?」
「はい、大丈夫です。わあ……美味しそう」
小さなお皿に乗せられたパウンドケーキは、表面に小ぶりのブルーベリーが散りばめられていて、中は紫のマーブル状が描かれている。
いかにも手作りといったような形を見ていると、心がほっこりしてくる。
「今年はブルーベリーの苗を植えてみたんだけれど、思った以上に収穫できてね。期間限定にはなるんだけれど、せっかくだから新メニューに取り入れてみようって作ってみたの」
心が揺さぶられたものを写真に収めると決めている私は、気が付くと既にカメラを手にしていた。
「すごいです……!あの……写真を撮っても良いですか」
「ええ、もちろん!」
ミルクティーとパウンドケーキがバランスよく見えるように位置を整えてシャッターを切る。
「甘さを抑えてみたのだけれど、沙希ちゃんみたいな若い子からすればもの足りないかもしれないわね。ぜひ味の感想も聞かせて」
こんなに可愛いケーキにフォークを入れてしまうのはなんだかもったいない気がしたけれど、パウンドケーキの香りを吸ってしまったら、すぐにでもフォークを刺して口に運んでしまいたいという衝動に駆られてしまった。
心の中では「えいっ!」と叫びながら、でも実際はいつもより慎重にフォークを入れる。
一口サイズよりも小さく切り分けた一つを選んで口に運ぶ。
「美味しいです……!」
「本当⁉︎」
郁江さんと誠司さんが同時に言ったから。三人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「甘さはどう?」
郁江さんが心配そうに聞いてきたから、私は精一杯自分なりの感想を伝える。
「ジャムのおかげでしっかり甘さはあると思います。それに、ブルーベリーの酸っぱさも感じます。私、このケーキすごく好きかも」
「ありがとう!沙希ちゃんにそう言ってもらえると、とっても嬉しいわ」
「早速明日から新メニューとして加えようか!」
二人ともお母さんより一回りも年上なのに、「いえい」なんて言いながらハイタッチをしている。それを見ていると、やっぱり海猫堂が好きだなあなんて思う。
この時間がいつまでも続くと良いのに。
私はお礼に撮った写真をすぐにパソコンに取り込んで、少し明るく編集してから二人に見せる。
普段は自分が撮った写真を人に見せるなんてことはしないのだけれど、この二人には何かお礼をしたいと思ったから、思い切って見せてみることにした。
「あら、すごい!綺麗に撮れているわね!」
「本当だ!沙希ちゃん写真撮るの上手いね!」
「いえ、全然です。これは少し写真に手を加えていますし」
この二人のことだからと思って予想していたけれど、あまりにも褒めてくれるものだから、慌てて自分で自分を思い上がらせないように否定の言葉を付け加える。
「へー!そういうこともできるんだ!」
「はい、『レタッチ』と言って、撮った写真を編集ソフトで意図的に明るくしたり、暗くしたりしています」
「本格的だね」
「いえ、私なんて、ちょっと明るさを変えているくらいです、プロの人はもっと凄いです」
「写真ってカメラで撮るだけじゃないんだね」
誠司さんが興味深そうに聞いてくれるから、少しだけ楽しくなってきた。
「最近、カメラで撮った景色と目で見た景色は全然違っていることに気が付いたんです。その時良いなと思って撮ったものでも、実際写真にして見てみると、なんか違うなって思うんですよね。でも、レタッチをすると、その時の感動に少しでも近付けられるような気がするんです」
「なかなか良い感性を持っているね。そうだ、この写真、メニュー表に載せても良いかな」
「え……いや、そんな……私の写真なんて……」
私なんかが撮った写真をメニュー表に使いたいだなんて、誠司さんは褒めすぎだと思う。
そうだ、きっと私がケーキのことを褒めたから、そのお返しに言ってくれたんだ。私がすることなんて……
「えっと、もう少し上達してから撮り直しても良いですか」
提案は嬉しかったけれど、これ以上思い上がるわけにもいかないから、やんわりと断っておいた。
「そっかあ。まあ無理にはお願いできないからね」
残念そうな誠司さんの顔を見たら、また少し申し訳ない気持ちになった。
「でも、沙希ちゃんは本当に写真が好きなのね」
「い、いえ、そんなことないです……」
「そう?さっきケーキを写真を撮ってくれているとき、すっごくにこにこしながらカメラを触っていたけど」
「それは……ケーキが美味しかったので、つい。私の写真なんて……」
せっかく話を振ってくれているのに、次々と否定的な言葉で修正しようとしてしまう。ちょっとはしゃぎすぎてしまったかもしれないとか。調子に乗ってしまったように見えてしまったかもしれないとか。
気が付くと、学校にいる時の私に戻ってしまっていた。
「上手だと思うけどなあ。もっと自信持って良いんだよ」
「はい……」