閉店後のミーティングと片付けや清掃も終え、ディーンとグレンをパトロールへ送り出したのち、ジオとロンは店の地下でトレーニングに励んでいた。彼らは喫茶店員でもあるが、退魔官という幽霊退治の仕事も行っており、そのために日々トレーニングを行なっている。
ジオは主に犬の精霊を使役するので、トレーニングルームに彼らを呼び出して訓練をする。基本的に生きている犬と同じようにトレーニングするため、ジオはドッグトレーナーの資格も持っていた。彼らと一緒に体を使ったりもするので、筋力トレーニング等も怠らない。
一方、ロンは風の精霊を使役する。主に銃器の扱いに長けており、憑依した霊を引き剥がすための隙を作ったり、霊を攻撃したりする。実弾を発砲すると生身の人間に怪我をさせてしまうので退魔官としての仕事の時は退魔専用の銃を使っているが、トレーニングでは実践と感覚ができるだけ近いエアガンのようなものを使っている。銃器を扱うのも体幹が必要なので、彼も基本的な筋力トレーニング等は怠らない。
パトロールに出ているディーンは主に封印術や結界術を得意とし、グレンは火と水の精霊を使役するのが得意だ。故に彼は厨房担当であることが多い。精霊の加護を受けているグレンが調理する方がより美味しく仕上がるのである。ただし、材料をきっちり測るのは苦手なため、菓子作りのうち焼く部分以外はロンの担当である。
小一時間ほどすると、ディーンとグレンがパトロールから戻ってくる。そこからは4人でのトレーニングだ。たまに退魔官協会からチームでの依頼があり、その際は普段のパトロールペアだけではなく、4人で協力する必要がある。普段から互いの動き方やシミュレーショントレーニングを行うことで、そういった大型の案件でも対応できるようにしているのだ。
30分から1時間ほどで全員でのトレーニングを終えるとグレンが6人分の夕飯を作る。ディーンとグレンの二人は地下の一室に住み込んでいるが、ジオは店の東側、ロンは店の西側の徒歩10分圏内のコンドミニアムに住んでいて通いだ。それぞれ2人の同居人の分も合わせて作られるが、食べるのは帰宅後だ。
この日、夕飯を作りに厨房へ向かったグレンに、ロンが声をかけた。
「悪い、今日もアルフの分、いらないみたいだ」
「了解。今日も撮影か? 大変だな」
ロンはアルフの今朝の様子を思い出した。
「このところ毎日夜遅くまで撮影してるみたいだ。今朝も少し調子が悪そうだった」
「もしかして、それで遅れたの? なら早めに連絡してくれたらよかったのに」
ディーンの言に、ロンは決まり悪そうに笑う。
「いや、単に俺が寝坊しただけだ」
「なんだ。じゃあ減給だね」
「そうしておいてくれ」
潔い返事にディーンは片眉をあげたが、何も言わなかった。
翌朝。ロンが目覚めると、アルフはまだ眠っていた。時刻は午前6時15分。ロンはのそりと動き出し、シャワーと髭剃りをすませた。そして、昨晩のうちにカットしておいたフルーツと野菜に水とプロテインを一人分ミキサーにかけ、一気に飲み干す。フルーツと野菜はアルフの分も作ってある。さっと洗い物を済ませ、メモに一言メッセージを書きおき、ロンは出勤した。
「お、今日は寝坊しなかったんだな」
ロンは揶揄うグレンに苦笑いを返して着替え始めた。グレンとディーンは既に着替えているため、厨房や客席の点検へ向かっていく。そうこうしているうちにジオも到着し、着替え終えた二人はそれぞれ持ち場へついた。
開店後1時間が経過し、午前8時。ちょうど客足が途絶え、グレンが一服がてらカウンターへ顔を出す。
「今日はあの老婦人、まだ来てないのか」
「そうだな……。今日は日曜か。いつもならいらっしゃってるよな?」
カレンダーと時計を確認し、ジオとグレンは顔を見合わせた。
「何かあった……」
ジオが言いかけたその時、ドアベルが鳴り、老婦人が入店した。
ジオは軽く眉を顰める。使役している犬の精霊たちがジオにしか聞こえない声で唸ったのだ。グレンはジオの様子を見て、ディーンを呼びにジオの元を離れた。
「いらっしゃいませ」
ジオは努めて平静を装い、老婦人を応対する。
「いつものをちょうだい」
やはり思い違いではないとジオは確信した。
「かしこまりました。お持ちしますので、おかけになってお待ちください」
「ありがとう」
老婦人の笑みはいつもより硬かった。
何事もなかったかのようにジオは接客を続けるが、老婦人の様子は常に視界の端に入れられるようジオはレジで固定し、ディーンとグレンがバックアップする。そうして時間は過ぎていき、老婦人がブレンドを飲み終え席を立った。ジオはハンドサインを厨房に見えるように投げる。ロンが頷いて裏口から出ていった。
店を出て、庭の道路へ向かう道を歩く老婦人をジオは呼び止めた。
「お忘れ物ですよ」
老婦人は足を止めて振り返った。
「あら? どこかしら?」
「こちらです」
ジオが裏庭へ老婦人と共に到着すると、ディーンが裏口から出てきた。
老婦人の表情が消え、ディーンを眼光鋭く睨みつける。直後、ロンが引き金を引くと、老婦人の動きが音もなくピシッととまった。と同時に目を見開き、一瞬の後、影が鋭くディーンに向かって伸びる。そこへ間髪入れず、ディーンは右手のひらを前に突き出し呪を唱える。
「縛」
影の動きがびたりと止まった。そしてディーンが右手をゆっくり握ると共に、影が老婦人から徐々に分離していく。そして老婦人の体が小刻みにぶるぶると震え出し、ディーンから逃げようと足をあげようとする。ジオは指笛を吹き、彼の使役する犬の精霊たちが彼女の動きを抑えた。同時にロンがもう一発、老婦人に向かって引き金を引いた。
「うっ」
かすかなうめき声をあげ、老婦人が気を失って倒れ、影が完全に分離した。老婦人の体が地面に倒れ込む前にジオがすんでのところで受け止める。影はディーンの右手の動きと共に徐々に黒く丸い塊になっていった。塊は小刻みに震えている。
ディーンはカフェエプロンの左ポケットに左手を突っ込んで小瓶のふたを開き、握りしめた右手を徐々に自分の体へと引き寄せ、丸い塊になったそれを瓶の中へ押し込んだ。瓶に右手で蓋をし、再度呪を唱える。
「封」
塊の震えが完全に止まった。ディーンは右手で瓶を掴み、空いた左手で蓋をする。ディーンはふぅ、と息をついて顔を上げた。ジオは老婦人をベンチに寄り掛からせている。意識が回復するのはおそらくもうすぐだろう、と封印の感触からディーンは推測した。
「あとは任せたよ」
頷きを返すジオに背を向け、ロンとディーンは店へと戻った。
閉店後のバックヤード。いつものように全員がミーティングルームに集まった。
「じゃあ最初に、今日の一件について。ジオ」
ディーンに話を振られたジオは立ち上がって、ディスプレイに報告書を映し出す。
「まだ途中までしかできてないんだけど、とりあえず。まず、あのおばあさんは何かに憑依されてた。第一発見者は俺。干渉者はロン。封印者はディーンで協力者は俺とロン」
「いいなあ。次は俺にもやらせろよ」
「仕方ないだろう、店があるんだから」
「あ! 大変だったんだぞ、お前ら3人もいっぺんにいなくなるから」
「はいはい、助かったよ」
文句を言うグレンに、適当にディーンが返す。ちなみに、老婦人が目覚めるまでジオは付き添っていたため、その間の店は他の3人で回していた。接客の苦手なロンをできるだけカウンターに出さず、ディーンとグレンが苦心していたのは言わずもがなである。若干オロオロしているジオに、ロンが黙って続きを促した。
概要はこうである。憑依された老婦人は憑依がそこまで深くなく、比較的あっさり捕獲できたと言える。そして、老婦人が目を覚ましたのは、封印後15分ほど経ってからだった。憑依の度合いがもっと深ければおそらく回復にもっと時間がかかったはずである。このことから、憑依していたモノは低級な霊だったと推測される。詳しい分析結果は後ほど報告する。以上を報告書に書く予定であることをジオは話した。
「おばあさんが覚えてたのは、今朝、家を出たところまでだって。お守りは渡しておいたよ」
ジオの報告に、ディーンは頷いた。
「次は昨日のパトロール報告だね。グレン」
「はいよ」
ディスプレイには地図と表が表示され、グレンはポインタを持って説明し始めた。
「昨日は東地区。水路は問題なし。結界は8番部分がちょっと壊れてたからディーンが修復。それと、5番で不審物が一点」
ディーンが袋に入ったそれを取り出した。ジオが眉を顰め、片腕で自分を抱く。グレンはジオを気にかけつつ、話を進めた。曰く、それは首輪として死んだ犬に巻かれており、犬はひどく痩せ細っていたと言う。
「不審物と言うからには、ただ犬が死んでたと言うだけじゃないんだな?」
ロンの疑問に、ディーンとグレンは頷いた。
「……首が切られてたんだよね」
ジオが目を閉じてゆっくりと息を吐いた。犬の精霊を主に使役するジオにとって、それはひどく不快なものだった。
「パトロール報告は以上。次は、協会からの連絡だけど……ジオ、大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ」
顔色の悪いジオを気遣いつつ、ディーンは話を再開した。
「じゃあ手短に。このところスラムでのパトロールが難航しているから、周辺地域に影響が出るかもしれないって。俺たちの担当管轄は距離があるからあまり関係はないかもしれないけど、念のため注意してほしい。以上、解散!」
ディーンとグレンが袋に入れたソレを持って部屋を出ていく。ジオはようやく深く息を吐いた。
「店、片付けるぞ」
ロンに頷きを返し、ジオは椅子から立ち上がった。
老婦人の一件から何事もなく約1ヶ月が過ぎた。ジオたちは相変わらず日中は店で、閉店後は退魔官としての任務に当たっている。
その日の夕方、店へやってきたマイルドに元気がなさそうだとジオは思った。店へ到着したてで疲れているだけかもしれないため、注文の品を準備しながらジオはマイルドの様子を観察する。
「……マイルドちゃん、なんか元気ない?」
「お前もそう思うか?」
横にやってきたグレンと小声で会話しながら、ジオは心持ちゆっくり目にカフェラテを注ぐ。
「気になるし、ちょっと聞いてみるよ」
そう言ってジオはトレイを携えてマイルドの元へ向かおうとする。
「あ、ジオ待て」
ロンが器をトレイに載せる。
「旬のタマリンドを添えたヨーグルトだ。疲労回復にいいから」
今度こそ、ジオはトレイを携えてマイルドの元へ向かった。
「お待たせしました。カフェラテとこれはサービスのヨーグルト」
はい、とジオはマイルドの目の前に並べて、テーブルの横にしゃがんだ。
マイルドはスプーンを手に取って一口、ヨーグルトを口に含む。
「……美味しい」
ほっとしたような笑顔を見せたマイルドに、ジオは微笑んだ。
「……何だか元気がないように見えたけど、なにかあった?」
「えっ。私、そんなに表情に出てました……?」
「いや、ちょっと違和感を感じたくらいだし、そうでもないと思うよ。それで……、もしよかったらだけど、話を聞こうか?」
遠慮がちに尋ねたジオに、マイルドは少し考えるそぶりを見せたのちに口を開いた。
「実は……」
マイルド曰く、最近、気のない相手から猛烈にアタックを受けているのだとか。相手は同じ演技教室に通っている男子大学生らしい。マイルドはまだ高校2年生でこれから受験勉強も本格化する。それは相手もわかっているはずなのだが、先週から急にしつこく絡むようになってきたらしい。先輩だから無碍にするわけにもいかず、頭を抱えていると言う。
「それは悩むね……。今すぐにアドバイスするのは難しいけど、俺たちも考えてみるよ」
「すみません。ありがとうございます」
「謝らないで。役に立てる……かは分からないけど、君の役に立ちたいなとは皆が思ってるから」
にっこり微笑んでジオは立ち上がり、カウンターへ戻った。
30分後、マイルドはカウンターへ近寄ってきた。
「すみません、アルフさんから頼まれたのですけど」
「ああ、さっきこっちにも連絡がきたよ。もうすぐできるから、もうちょっと待ってもらえる?」
ディーンはそう言って、大きめの保冷バッグを用意した。出来上がっていて重いものから順に詰めていく。
「お待たせしました。気をつけていってらっしゃい」
「はい、いってきます!」
店へ来た時より明るい表情と軽い足取りで去っていくマイルドを、ディーンは優しく見送った。
その日の終業後、バックヤードでのミーティングでジオはマイルドから聞いた事情を共有した。
「なるほどねえ」
「俺もどうすればいいか分からないんだけど、グレンならどうする?」
「え、なんで俺?」
「いやだって、学生の時からそういうの慣れてるだろ」
「いや俺はモテないから。口説くの専門。というか、お前の方が慣れてるだろ!」
「そんなことはないよ」
ジオの返答にグレンは頭を掻きむしった。
「くそぉ! 腹立つぞ! こういうことには鈍感なんだから! 俺の歴代彼女のハートも全員もっていったくせに……!」
小声でイライラしているグレンに首を傾げつつ、ジオはディーンとロンの方を見た。視線を向けられた二人は微妙な表情を浮かべる。ジオは眉を下げた。軽く息を吐いて、ディーンが口を開いた。たぶん軽くかわせるような感じじゃないんだろうけど、と前置きを置いて話し始める。
「まずはアリかどうか置いといて選択肢を洗い出してみる方がいいんじゃないか。たとえば、無視をする、はっきり振る……」
「待って待って。メモ取るから」
ジオは付箋を取り出し、ディーンが出していくアイデアを一つずつ書き留めては机に貼っていく。ロンやグレンもアイデアを出していった。
「さすがチュラ大卒だな!」
そう言ってグレンがディーンの肩をバシバシ叩く。ディーンは面倒くさそうに首を横に振って紅蓮の手を避けた。ディーンはタイの東大と呼ばれるチュラロンコン大学を卒業している。一般企業に就職して数年働いたのち縁あって退魔官になり今に至るのだ。
4人は書き出されたアイデアを眺めた。
「ここから絞るには、もう少し情報が欲しいな。相手はどんな人なんだ?」
ディーンが尋ねると、ジオは言葉に詰まった。
「同じ演技教室の男子大学生、ってところまではわかるんだけど……」
「演技教室が同じなら、アルフに聞いてみてもいいが……」
「お! ナイスアイディア」
ロンの提案に、グレンが指をパチンと鳴らす。ジオは申し訳なさそうにロンの顔色を伺った。
「悪い、聞いておいてもらえるか」
「ああ。様子を見て聞いてみる。俺も気になるし」
ほっとした顔になったジオにロンは目を伏せてふっと笑みを漏らす。パンツのポケットに突っ込んでいたロンの手は、自宅の鍵に触れていた。
同じ頃、ロンの手の中にあるものと同じ鍵は撮影現場のカバンの中にあった。その主、アルフはフラッシュがバシバシと焚かれる中、フラッシュに合わせて次々とポーズを取っている。
「一旦、休憩挟もうか」
ディレクターの一言で、小太りな男性スタッフの一人がアルフへ水の入ったペットボトルを渡す。アルフは礼を言って受け取り、二口ほど飲むとペットボトルをスタッフへ返した。そして、用意されている座席へ腰掛け、カバンから教科書とノートを取り出す。
学生であるアルフは、大学の授業を受ける傍らモデルや俳優として撮影の仕事があったり、演技教室へ通っていたりと大忙し。勉強もおろそかにはできず、撮影の合間に教科書やノートを読み返していたりする。
「あ! マイルドちゃん!」
先程アルフへ水を渡したスタッフが、到着したマイルドへ駆け寄った。マイルドはスタッフへ一言挨拶をすると、すっとアルフの元へ近づきプラスチックのカップに入ったアイスコーヒーと焼き菓子を渡す。
「アルフさん、頼まれてたこれ」
「ありがとう! 助かったよ」
「お安い御用です! 撮影、頑張ってくださいね」
マイルドの笑顔に、アルフも笑顔を返した。その様子を、マイルドへ駆け寄っていった小太りのスタッフは不服げにマイルドとアルフの方を見つめていた。
しばらく談笑したのち、マイルドは他のスタッフへも配るためにアルフの元を離れた。小太りのスタッフはここぞとばかりにマイルドへ近寄り、手伝いを申し出た。
アルフは焼き菓子を一口食んだ。アーモンドの香りが鼻腔をくすぐる。アルフはゆっくりと深呼吸しすると、片手で焼き菓子を頬張りながら勉強を再開する。
しばらくして、休憩終了の合図があった。アルフは立ち上がり、焼き菓子の残り紙を見つめて微笑んだ。薄ら髭で甘く端正な顔立ちをした男を脳裏に浮かべながら。
深夜。撮影と打ち合わせが終わり、マネージャーの車でコンドミニアムの玄関前まで送り届けてもらったアルフは、ロビーで警備員やスタッフに挨拶をしてエレベーターへ向かった。エレベーターへ乗り込む直前、周囲を確認する。このところ、アルフはずっと視線を感じていた。
スタジオ前でファンが出待ちしていることはよくある。基本的に、イベントなどの限られたタイミングで接するファンの方が圧倒的多数ではあるが、中にはどうやってスケジュールを把握するのかスタジオまでやってくる熱心なファンもいる。フードサポートも以前は受け付けていたが、最近、別の事務所のモデルが睡眠薬を混ぜられる事件が起きたこともあって今は受け付けていない。それもあり、このところスタッフが甘いものを欲しがっているのをよく聞いていたのだ。
さすがにスタジオまでならともかく、自宅近辺まで付け回されることはそうない。学校やスタジオの周辺、屋外の撮影場所近辺で視線を感じることはあっても、これまでは自宅近辺で視線を感じることはなかった。もちろん、このコンドミニアムはセキュリティがしっかりしており、警備員も居眠りしているところを見たことはないし、カードキーがなければエレベーターも使えない程の厳重ぶりだ。自室まで上がられることは考えにくい。
プレゼントなども、ぬいぐるみ類は必ずスキャンしてカメラや刃物など金属類が隠されていないかを確認するし、自宅にまで持って帰ることはない。以前、靴に発信器が仕込まれており、撮影のため飛行機へ乗ろうとした際に引っかかったことがあるのだ。以来、アルフの所属事務所ではプレゼントは全て事務所預かりになった。
そこまでしていも視線を感じることに、アルフは少し気味悪さを感じていた。
アルフは自室前に到着すると、鍵を取り出した。シリンダーを回して扉を開ける。部屋の中に入ると、少しだけ息が軽くなった気がした。
西洋とのハーフを思わせる顔立ちをした男は暗い部屋で一人、歯軋りした。
今度はうまくいったと思ったのに。あれは弱過ぎたのか、数日でいなくなってしまった。
まあいい。次はこれだ。
暗闇で男はほくそ笑んだ。視線の先にも暗闇が広がっている。
釣り上がった口角の端がギラリと光った。
それから数日後の夜。ロンは自宅でアルフの帰りを待っていた。今日は久しぶりに撮影が早く終わる予定で、一緒に夕飯を食べる約束をしていたのだ。
「ただいま」
アルフの声が玄関先から聞こえ、ロンは鍋を卓上コンロの上に置いた。廊下と部屋を仕切るドアが開き、アルフが姿を見せる。
「ロンさん、ただいま」
「おかえり」
「うわあ、美味しそうだなあ!」
アルフが目を大きく輝かせ、食卓を見渡した。食卓に並んでいるのはスッキーナーム(注:タイスキのこと。日本でいうしゃぶしゃぶのようなもの)の材料たちだ。卵を潜らせた肉に海老、生イカ、飾り切りをしたニンジン、白菜、緑の葉物野菜、ルークチン(魚のすり身ボール)、そしてナムチム(つけダレ)などが所狭しと並べられている。細い割にはよく食べるアルフだが、太り過ぎないためヘルシーな食事になるよう気を遣っていた。
「早く手を洗ってこい」
そう言ってロンは鍋を火にかける。アルフは目をキラキラさせたまま、大きく頷いた。まるで大型犬のようだ、とロンは手洗い場へ向かっていくアルフの背中を優しく見つめた。
食後、ロンはテーブルをそれぞれ片付けつつアルフに尋ねた。アルフは洗い場に立ち、ロンに背を向けて食器を洗っている。
「なあ、演技教室でマイルドちゃんにすごくアタックしている人がいるって聞いたんだが、どういう人か知ってるか?」
振り返ったアルフは眉を下げていた。
「ロンさん、マイルドちゃんのことが好きなの?」
アルフの姿が、あまりにも耳を垂れてシュンとした大型犬のそれだったため、ロンはふっと笑いを溢した。首を横に振ってロンは否定する。
「違う、違う。実は……」
マイルドの一件について事情を話すと、アルフは元気を取り戻したようだった。尻尾を振っているかのようなご機嫌モードに切り替わり、皿洗いに戻る。ロンはわかりやすい同居人を微笑ましく見つめた。
アルフは記憶をたどりながら話し始めた。
「たぶんだけど……最近よくみるのは、ヨーク先輩かなあ。ちょっと小太りでね、背はロンさんよりちょっと小さいくらいかな。丸い顔が可愛い先輩だよ。演技がとっても上手だし、何より振る舞いがチャーミングなんだ。みんなをいつも楽しませてくれる人だよ。面倒見が良くて、よく一緒についてきてくれるし。そういえばここ最近、ちょっと様子がおかしいかも。なんだかマイルドちゃんばっかり追いかけ回しているというか。前はそんなことなかったはずだけどなあ」
「いつぐらいから変わったか、わかるか?」
うーん、と唸ってアルフは首を傾げた。
「1週間くらい前かな? たぶん」
ロンはアルフの返答に一瞬考える様子を見せ、情報を整理してジオたちと使っている専用のチャットに書き込んだ。ロンが書き込みを終えて顔を上げると、アルフがロンをじっと見つめていた。ロンはアルフを見上げた。
「どうかしたか?」
「えっ……と、なんでもないよ! 課題をやってくるね」
さっと視線を逸らし、アルフはスタスタと荷物を持って寝室へ向かっていく。ロンはその姿を怪訝な顔で見送った。
寝室へ向かったアルフは、ドキドキと脈打つ胸を押さえていた。
(心臓に悪い……! 慣れてたつもりだったけど、本当に心臓に悪い!)
もともと顔立ちが整っているロンだが、考え込む様子や真剣な横顔がアルフのストライクゾーンだった。同居し始めて2年が経つが、いまだに慣れないでいる。
大学に入学が決まってすぐの頃。入居物件を探しにコンドミニアムの管理人室へやってきたアルフは、同じく物件を探しにきていたロンと鉢合わせた。一眼見て、アルフは目を見張った。
(すごいハンサムだ……! でも)
鼻筋はスッと通っており、形のいい目に形のいい唇。芸能人顔負けの整った顔立ちだ。でも、あまり身なりに気を使わないのか、無精髭をすこし生やしていて、髪もブラッシングしかしていないような、お世辞にも整っているとはいえない状態だった。服装は普通の白シャツにベージュのクロップドパンツ。身長は平均身長よりは高いが、190cm近いアルフよりは低い。おそらく、学生時代に一度は芸能界からスカウトを受けたはずだ、もしかしたら同業者かもしれないとアルフは思った。
アルフが見惚れている間に、ロンはさっさと管理人に話を通して、内見の手続きを済ませ始めていた。
「おーい、そこの坊ちゃん。見るんか? 見ないんか?」
管理人に声をかけられて我に帰ったアルフはそのまま、ロンと一緒に内見へ向かうこととなった。
通された部屋は、一人で住むには少し広かった。だが、綺麗で設備も整っている。キッチンも屋内にある。アルフがこのアパートに注目していた理由もキッチンだった。
タイは外食文化が根付いていおり、基本的に都心にはお金持ちが買うような物件や外国人向け物件でもない限りキッチンのない物件が多い。しかもタイ料理は香辛料がきつく匂いがつきやすいためオーナーが嫌がることが多く、自炊はあまりできないか屋外にキッチンがあることもしばしばだ。
しかしアルフは、健康面でもそうだが、母親が料理好きだったこともあり自炊をしたいと考えていた。しかもアルフは芸能人である。セキュリティもしっかりしていた方が良い。その面で、このコンドミニアムは非常に良い物件だった。だがしかし悲しいかな、内見を終えて月々の値段を確認したアルフは、肩を落とすことになる。芸能人として一般の学生よりは稼ぎがあるものの、一人で払える値段ではなかったのだ。
様子を見ていたロンがルームシェアを申し出てきてくれた時、アルフは迷わず飛びついた。一も二もなく承諾するアルフに、ロンが苦笑していたのは言うまでもない。
それから一緒に暮らすようになり、ロンが朝にとても弱いこと、どうやら仕事は喫茶店員だけではなさそうだということをアルフは知った。たまに深夜出かけていって、別に酒の匂いを纏うわけでもタバコの匂いを纏うわけでもなく、どちらかといえば運動してきた後のような汗の匂いを纏って帰ってくる。もちろんその後シャワーを浴びて寝るわけだが、同じベッドで横になっていると、いろいろ筒抜けである。ロンは筋肉もしっかりついており、普段から運動をしていることがわかるのだ。
アルフは一度だけロンにこの部屋に決めた理由を聞いたことがある。返答は至ってシンプルだった。セキュリティがしっかりしているから、だそうだ。バンコクで深夜に一人で出かけられるくらいだからセキュリティがしっかりしていなくても良さそうなものだが、とロンが本当はいったいどんな仕事をしているのか、アルフは今でも疑問に思っているのだった。
翌週の週末。ジオたちは午後から店を臨時休業にして映画館にいた。
ジオの左隣にはマイルドを挟んでロン、さらにアルフが端の座席に座っている。そしてジオの右隣はというと。
「ずごーっ」
音を立ててコーラを飲むヨークがいた。映画を見ながらチラチラと恨みがましげにジオを睨んだり、ポップコーンを食べたりと忙しそうである。そして彼らを見守るため、最後部の座席に陣取った人影が二人。ディーンとグレンだ。
「なんでお前の横にいなきゃならないんだよぉ」
グレンの小さな嘆きは映画館の暗闇に吸収されていく。
なぜこうなったか。事の発端はロンがアルフとタイスキを食べた翌日に起こった。
「アルフとマイルドちゃんが、デートだって?」
グレンの素っ頓狂な声がミーティングスペースに響き渡った。
終業後のミーティングで、ロンがアルフから聞いた話を伝えたのだ。曰く、昨日の雑談中に注目の映画の話になり、先日言っていた猛アタックしてくるヨーク先輩がマイルドを誘った。アルフはいなかったが、ちょうどその場にいた他の人間はこのところヨークがマイルドにお熱であることを知っていて、お節介にも仲を取り持つつもりなのかトントンと話を整えてしまったという。ヨーク以外の他の人間に困っていることを話してもなかなか取り合ってもらえず、さらに学校の友達にも断られ困ったマイルドは、アルフに白羽の矢を立てた。そしてそれを、アルフが了承したということだった。
「……いつなんだ?」
恐る恐る聞いたのはグレンだ。
「来週末の日曜日だ。お昼間13:30にサイアムパラゴンで待ち合わせらしい。新作の恋愛映画を観るんだそうだ」
「アルフなら知り合いだし、ちょうどいいんじゃない?」
そう言ったのはディーンだ。
「俺もそう思ったんだけどな。ちょっと気になることがあって」
ロンに皆の視線が集まる。
「アルフによると、ヨークがマイルドちゃんに熱烈にアピールするようになったのはつい最近のことらしいんだ。それまでは恋愛には自信がなくて、積極的にいくタイプではなかったみたいだ。それに何より、これが気になっていてな」
ロンが取り出したのは、一見どこにでもあるようなぬいぐるみのキーホルダーだった。
「アルフのペンケースについていたんだが、これに低級霊が憑いていた」
昨晩、風呂上がりにソレとリビングで遭遇したロンはすぐに風の精霊を呼んで祓った。そして、見慣れないキーホルダーに気付き、触れて原因がこれだと確信した。
「でも、ぬいぐるみに霊が宿るのなんて割と普通だろ? 拾ってきただけじゃないのか?」
グレンの言葉に、ディーンとジオもうなずく。
「そうだな。だが、これならどうだ……?」
ロンはキーホルダーを裏返した。すでに綿が飛び出しており、その合間に紙が挟まっているのが3人の目に映った。
ロンは紙を取り出すと机に広げる。そこには術式が描かれていた。3人の顔が一気に険しくなる。
「アルフは狙われている」
ロンの低い声が部屋に落ちた。
アルフを護衛する目的もあり、結局アルフだけでなくロンとジオを含めた3人がマイルドのお供をすることになった。ヨークは待ち合わせ場所に着いて驚いた顔をした。タイではデートに友達を呼ぶことはよくあることなのだが、自分よりも年上の男も含めた集団が来るとは予想してなかったようだ。しかも全員顔立ちが整っていて、かなり目立つ集団になってしまっている。ちなみにロンはいつもよりは服装を整え(正確にいえばアルフが整えたのだが)ているものの、サングラスをつけているから余計だ。一方のヨークだって負けてはいない。初めこそ少し落ち込んだ様子も見えたが、服装はオシャレだし、マイルドにポップコーンとドリンクを奢ったり、何かと世話を焼いている。少し距離を置いて後をつけているディーンとグレンはなかなかやるなとヨークに感心していた。
映画が終わっても、ポップコーンは残っている。袋に入れてもらったポップコーンは各自持ち帰ることになった。
「俺たちの店に寄っていくか?」
そう声をかけたのはジオだ。ヨークが一瞬むっとしたのを見て、ロンが付け加える。
「この余ったポップコーンを使ったスイーツを作ってみようと思うんだが」
これにマイルドが喜んで返事をしてしまったので、ヨークは慌てて笑顔になって「行きます」と口に出した。ジオは内心ほくそ笑み、後ろを歩いているディーンたちに向かって親指を下に突き出した。ディーンが顔を顰めたのを見て、グレンが慌ててロンに無言でアピールする。気付いたロンが、ジオの指を見て苦笑しジオの肩を叩いて耳元で囁いた。自分のやっていたことを理解したジオが、慌ててディーンを振り返って手を合わせ、今度はちゃんと親指を上に立てた。ディーンは苦笑して頷きを返した。幸い、ヨークはこの一連の流れに気がつかず、マイルドに夢中であった。
実は映画後、トイレ休憩のタイミングでGarden Spiritsの面々はチャットをしていた。
「ヨークには何も憑依してなさそうだな」
ジオの書き込みにグレンが返した。
「とすると、ヨークの狙いはアルフか?」
「いや、アルフが来ることはデートに誘った時点では分からなかったことだろ。それに、それだとマイルドちゃんにしつこく迫る理由もないし」
ロンの返答に、グレンが確かになと相槌を打つ。
「突然行動が変化したことを考えると、暗示と見るのが妥当かもしれないね」
そう言ったのはディーンだ。
「暗示? あの『あなたはだんだん眠くなる』ってやつか?」
「うん。もっといえば洗脳かな。まあ俺たちの専門とはちょっと違うけど、まだ初期段階のようだし放置するのもちょっと」
グレンの疑問に答えたディーンは、そのまま続けた。
「知り合いに専門家がいるからあとはその人に任せるとして、まずは店に連れてきてくれるかな」
了解、と返したジオは全員が揃ったところで、店へ来るかを聞いたのだった。
店に到着した一行は、ロンとジオを除いて店内でくつろいだ。ディーンとグレンは後をつけていたことがバレないようにバックヤードに引っ込み、監視カメラで様子を見守っている。そして、バックヤードにはもう一人、新たな客人が到着していた。ディーンの知り合いである精神科医だ。
ロンとジオは出かける前に準備しておいたアフタヌーンティーセットをセットし、ワゴンで運んだ。ジオがテーブルにサーブしていく。アルフは厨房へと戻っていくロンの後ろ姿をキラキラとした瞳で見つめており、その様子にディーンとグレンはバックヤードでニヤニヤしていた。
皿に盛られた品々をみて、ヨークの喉がゴクリと鳴った。
「じゃあみなさん、召し上がれ」
ジオの声掛けを合図に、ヨークが恐る恐る最下段にある一口サンドイッチへ手を伸ばす。口へ放り込み、目を見開いた。
「うまい……!」
ヨークはそこから猛烈な勢いで夢中になって順に食べていった。マイルドとアルフはカロリーオーバーなどにならないよう、アフタヌーンティーセットではなくあっさりしたコンポートのみだったが、ヨークがあまりに美味しそうに食べるので、ジオは少しずつ二人にサーブしたのだった。
5分ほどして、ロンがトレイを持って戻ってきた。トレイの上には、素焼き風の白い陶器で丸みを帯びたプリンカップが3つ載っている。
ロンがマイルドたちそれぞれにサーブした。器の中には、クリーム色でやわらかくツノのたったクリームの上にポップコーンが数個乗っている。
「わあ……! すごく綺麗だしオシャレ!」
マイルドとアルフは写真を撮ってインスタグラムにあげている。ヨークは手に取らず、マジマジと器を眺めている。そのうちにマイルドが食べ始めた。
「んーっ! 美味しい! ポップコーンの塩味がプリン味のクリームと合わさって、すっごく美味しいよ!」
まだ口に入れていなかったアルフは、マイルドの気迫に押されつつ恐る恐る口に入れる。一口食べて、アルフも目を見開いた。
「ねっ! すっごく美味しいよね!」
アルフは無言で縦に激しく首を振った。
一方のヨークはというと、二人の様子を見てようやくスプーンを手に取り、口へ運んだ。一口味わうと、そのまま黙々と食べ続け、30秒もしないうちに皿は空になった。そして、ヨークはそのまま黙り込んでしまった。心なしか落ち込んでいるようである。
しばらくして、食べ終えたマイルドがお手洗いへと向かったのを見計らい、ジオが柔らかい声でヨークに問いかけた。
「口に合わなかったかな」
ヨークは慌てて顔をはっとあげ、首を横に振る。
「いえ! 滅相もありません! とても美味しかったです。とても……」
そしてヨークはぽつりと呟いた。
「こんなに美味しいスイーツを作れる人に、勝てるわけがないですよ……」
テーブルに沈黙が流れた。ロンは小さく息をつくと、口火を切った。
「なあ、マイルドちゃんのどこが好きなんだ?」
ヨークが飲んでいたコーヒーを吹き出してむせた。ロンの横に座っているアルフは不安そうにロンを見つめる。
「そ、そりゃあ、あの天使のような笑顔や優しさを好きにならない人などいないでしょう」
「そうですか」
ロンが聞いた割には興味のない返事をするので、ヨークは困惑した。
「あなたは、彼女のことが好きなのではないのですか」
「恋愛対象かどうかという意味で言えば、違う」
ロンの返事に、アルフは胸を撫で下ろした。一方のジオは驚いた声を出す。
「え? 違うの? 俺はてっきりロンもあの子のことを好きなんだと思ってたよ」
バックヤードではグレンも俺もそう思ってた、と呟いている。
「人見知りなのによく気にかけてるなと思ってたから……」
ジオの困惑した声に、ロンは目を伏せため息をついた。
「親戚なんだ」
「「「えええーっ」」」
ヨーク、ジオ、アルフの声が重なった。バックヤードでもグレンが声をあげていた。グレンはディーンが驚いた様子を見せないので、お前知ってたのかと問いただす。
「まあ、二人が最初に顔合わせてた時に聞いたよ。知り合いかって」
「おいおい、教えておいてくれよ」
「個人的な事情だし、俺から勝手に話すのはちょっとね。でも、もういいかな。ロンは事情があって家族と縁を切って暮らしているんだ。でも心配したロンの家族が、ちょうどバンコクにいるマイルドちゃんに様子を見に行って欲しいと頼んでいるらしい」
「事情って?」
「時が来たら本人から言うだろうし俺からは言わないよ」
グレンはディーンがそれ以上口を割らないことを察し、追求をやめて監視カメラ画面に集中することにした。
ちょうどその頃、店内ではロンに聞かれたヨークが、マイルドを好きになったきっかけを答えていた。もともと可愛いなとは思っていたけれど、落ち込んでいた時に慰められて惚れてしまったという。でもアタックする勇気は出ず、影から思い続けていたのだそうだ。
「じゃあ、もうひとつ。最近になってアタックしようと思ったのはなんでだ?」
ロンの質問にヨークははて、と首を傾げた。沈黙が続いたのち、ヨークはゆっくり喋り始めた。そこへ、そろりとマイルドが戻ってきているのが反対側に腰掛けていたジオたちの目に映った。
「誰かに、マイルドは君に好意があるはずだって言われた気がする……ってうわぁ!」
「ごめんなさい……微妙なタイミングで戻ってきてしまって」
ヨークの気持ちはどうやら本物らしい。ヨークは口をパクパクさせ顔を真っ赤に染め、固まってしまっていた。マイルドは申し訳なさそうに続ける。
「ごめんなさい……。私、好きな人がいるんです」
「それは……」
「ダオさんです」
アルフとヨークは目を見開いた。
「誰……?」
ジオがアルフを突き、小声で尋ねる。
「同じ演技教室の先輩で、女性です。すごく綺麗な方で。僕もダオ先輩はかっこよくて綺麗な女性だと思います」
なるほど、とジオたちは大きく頷いた。ヨークは項垂れている。
「ということは、君は……レズビアンなのか」
ヨークの呟きに、マイルドは沈黙を返した。
「そうか……」
ヨークは再度呟いて、大きく息を吐いた。心なしか、表情は晴れやかである。
「まだ整理はつかないけど……。ひとまず君の気持ちはわかったよ。迷惑をかけたみたいでごめんね」
ヨークはそう言いつつ頭を下げ、立ち上がった。
「僕は先に帰るね」
それからヨークは振り返らず、まっすぐ背を伸ばして店を出て行った。
店内には静まりかえっていた。沈黙を破ったのは今度はアルフだった。
「マイルドちゃん、ダオさんが好きだったんだね」
「はい……。でも、自分がレズビアンかどうかは分かりません。将来はもしかしたら男性を好きになることもあるのかもしれないし」
「パンセクシュアルまたはバイセクシュアルということか」
ロンの確認にマイルドは一つ頷いて、続けた。
「たぶん、そうなんだと思います。でも、自分でもよく分かりません。はっきり分けなくてもいいのかなって思ってます。決めつけちゃうと、そこに囚われてしまう気がするから」
「まあ、性はグラデーションだし、まだ高校生だもんな……」
ジオたちは各々考え込みながら頷いた。同性愛者なら、おそらく好きになる性別が変わることはないだろうということでヨークは諦めたようだが、彼女は好きになる条件として性別を気にしないパンセクシュアルなのか、男性か女性を好きになるバイセクシュアルなのかがまだわからないということだ。マイルドはまだ高校生で、恋愛経験も乏しい。確かに今、早急に結論を出すようなことではないだろう。
「それに、今は仕事と勉強の方が大事なんです。だから、お気遣いとか、大丈夫なので!」
アルフに向かって力強くそう言うマイルドに、アルフは微笑んだ。
「うん。わかった」
そして、アルフはマイルドとハグを交わした。
「大事なこと、話してくれてありがとうね」
アルフの言葉に、マイルドは顔を歪めた。一寸の間、ぎゅっと目をつぶって涙を堪える。ジオとロンも二人を包むようにハグの輪に加わり、優しく暖かな時間が流れていった。
「こんにちは」
映画館デートの一件から2週間ほど経ったある日、ヨークが店へと訪れた。ジオが目配せすると、ロンはカウンターへ出て来てヨークに気がついた。
「今日は、お礼も兼ねて来たんです。この前はありがとうございました」
深々と頭を下げるヨークに、ジオとロンは慌てた。
「いや……その、すまない。傷ついただろう」
ロンの言葉にヨークは苦笑したものの、その表情はどこか晴れやかだ。
「まあ多少は傷付きましたけど、おかげでスッキリしました。普通だったらフラれた店には来たくないかもしれないですが、ここのはいろいろ美味しかったし。それに、なんだか自分を取り戻したような気がするんですよ。ロンさんにマイルドちゃんを好きな理由を聞かれて、何だか我に帰ったような感じだったんですよね」
ジオとロンは顔を見合わせた。
「頑張りたいことも見つけられたし」
そう言ってヨークは筋トレする仕草を見せた。言われてみれば、心なしかスリムになったような気もする。ジオは頷いた。
「体を動かすのはいいことだよ。健康にもなるしね」
「ええ。それに、気持ちがスッキリしますね」
「本当に元気そうでよかった。それに、また店にも来てくれて。ありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
再度頭を下げてメニューを見始めたヨークにロンは声をかける。
「少し聞きたいことがあるんだが、いいか」
「はい、なんでしょう」
「この前、マイルドちゃんが君のことを好きだと誰かに言われたと言っていたが、誰に言われたか思い出せるか」
ヨークは数秒、首を傾げたのち目を見開いた。
「……ルイス! ルイスだ! んーでも、冗談半分だったような気がするなあ。なんでイケると思ったんだろう……?」
さらに首を傾げるヨークに、ジオとロンは頷き合ったのだった。
「で? そのルイスって誰なんだ」
グレンはジオたちの報告を聞いて腕を組んだ。
「アルフの同僚だ。最近よく一緒に仕事をしているらしい」
ロンの答えに、ディーンは頷いた。
「一度整理してみようか」
ディーンが付箋と青いマーカーペンを手に取る。アルフ、マイルド、ヨーク、ルイスの4人の名前とアルファベットのエックスを書いた付箋をつくり、大きめの画用紙を机に広げた。
「今わかっている事実は?」
「マイルドちゃんはヨークにアタックされた」
まず、ジオがマイルドとヨークの付箋を画用紙に貼った。
「それに、ヨークはルイスにけしかけられた」
グレンがルイスの付箋をヨークの近くに貼る。ディーンがジオとグレンの説明を聞きながら矢印を書き込む。
「アルフは何者かに狙われている」
ロンはアルフとエックスの付箋を先程ジオ達が貼った箇所から少し離して貼り、ディーンが画用紙に矢印を書き込んだ。
「それくらいだよな? 今わかっているのって」
グレンが首を捻った。ディーンはまだあると言って書き込みを始める。
「ルイスとアルフは最近よく一緒に仕事をしてるんだよね? それに、マイルドちゃんとアルフ、ヨークは同じ演技教室の仲間だ。ルイスがヨークとどんな繋がりなのかはよくわからない」
言いつつ、ディーンは書き込みを続ける。情報を書き終えるとペンを緑に持ち替えた。
「ここからは行動の理由についてで、推測が混じってくる。まず、ヨークの行動だけど、これは本人から証言があったように元々マイルドちゃんに好意を持っていたというのと、ルイスからの後押しがあったというもの」
「でも、ルイスの後押しは冗談混じりだったんだろ? ヨークはなんで本当に行動しようと思えたのかを不思議がってた」
ジオの指摘にディーンは頷き、赤ペンに持ち替えた。
「そうだね。一旦、後押しのところは“?”としておこう。それから、アルフを狙っている容疑者Xの意図はわからないので、ここも“?”だね」
ディーンは書き込み終えると緑色のペンに持ち替え、顔をあげて皆を見渡した。
「で、ルイスはなんでヨークをけしかけたんだと思う?」
「冗談まじりだったんだろう? 理由なんてあるのか?」
グレンの疑問に、ディーンは鷹揚に頷く。
「うん。その可能性もある。だけど、実際にヨークは行動に移すレベルにまで気持ちが上がったんだ。ただ冗談まじりだっただけなら、きっとそうならない。本人も不思議がっていたくらいなのだから」
「つまり、ルイスにはなんらかそうしたい意図があって、ヨークを洗脳したのではってことだな」
ロンがディーンに尋ねる。
「憶測に過ぎないけどね」
ディーンはそう言って、ロンと二人で難しい顔をして黙り込んでしまった。ジオとグレンは二人の様子を伺い、顔を見合わせる。
「こうしててもわからない。ルイスについてちょっと調べてみよう。そこから何かわかるかもしれない」
結局、ディーンがそう言ってこの話はお開きになったのだった。
パトロールから戻ったディーンはロンに声をかけた。個人訓練で射撃を練習していたロンはディーンからのハンドサインにヘッドホンを外す。
「ロン、ごめんね。協会からのお達しもあってなんだけど、捕縛術を学んでみない?」
「捕縛術というと、警察なんかで使うあれか?」
「ううん、ロンが加護してもらっている精霊の力をつかったものだよ。この前、ジオが任務で使っていたようなイメージかな」
老婦人の一件でジオは自身が使役する犬の精霊達を使って、老婦人の動きを制していた。ロンは無言で頷く。
「普段はジオと組んでもらっているからいいんだけど、この先ローテーションで俺やグレンと組んでもらうことになることもあるし、場合によってはそろそろ一人で任務にあたる必要も出てくる」
ディーンのセリフに、ロンは考えるそぶりを見せた。
「だけど、捕縛術の前に風のコントロールをもう少し覚えてもらわないといけない。全体練習の前に、俺と一緒に練習してみない? もちろん無理強いはしないよ」
「いや、やってみるよ」
ディーンは自身を真っ直ぐ見つめるロンに、ほっとした顔で笑った。
「よかった。じゃあ早速やろうか」
そう言って、ディーンはロンを連れて射撃練習室を出てトレーニングルームの別の一角へ向かった。
「今のイメージは勢いで一瞬ぎゅっと圧縮して押し出しているだろう? でも捕縛するには、持続的に適度に強い風の力をかける必要がある。だから、トレーニングは2つあるんだ。持続的に風を送る練習と、適度に強い風を送る練習。それができたら、二つを合わせて使えるようにする。それから、範囲や方向をコントロールできるようにしていこう。まずは、持続的に風を送る練習から」
そう言ってディーンは、キャンバスのようなものを取り出した。キャンバスと異なるのは、木枠に張られている布はピンと張っているものではなく、伸びやすい性質の布でゆとりがある点だ。ディーンは部屋の隅にトレーニング用で立たせてある鉄棒に布が裏側に来るように木枠部分をロープで括り付けた。
「この布が凧みたいに張るように、風を送ってみてくれるかな」
ロンは頷いて目を閉じる。一つ深呼吸すると、目をゆっくり開けて布を見つめた。しばらくして、布が一瞬張った。
「うーん。今のは瞬間的な力だよね。そうだな……。もっとこう、ドライヤーみたいなイメージ」
ロンは頷いて、眉根を寄せて再度布を見つめた。ふわりと部屋の風が動き始めるが、5秒ほどで息が上がり始め、風が止んだ。肩で息をするロンに、ディーンは腕を組んだ。
「OK。じゃあ、まずは10秒キープできるようになっていこう」
ロンは首を縦に振ったが、難しい表情をしていた。
木々に囲まれた大学内の公園で、アルフは撮影に挑んでいた。今日は雑誌の撮影である。同い年で同じ大学に通っている俳優ルイスとともに様々なポーズを取っていた。アルフは最近、ルイスと仕事を共にすることが増えていた。
ルイスは祖父が欧米からの移民で、顔立ちにもそれが色濃く表れている。彼の実家はかなり裕福で、バンコクに居を構える富豪の一つだ。芸歴もアルフよりずっと長い。学部はアルフと違い、芸術系の学部に通っている。
そんなルイスがアルフと一緒に撮影しているのには理由がある。二人は3ヶ月前に受けたオーディションでドラマの役に抜擢されたのだ。そのため、宣伝も兼ねてドラマのスポンサー企業の商品を紹介したり、雑誌からの取材を受けたりを一緒にやっている。
二人が撮影を終えると、仕事の邪魔にならないよう遠巻きに見ていたファンらしき女性たちが二人の元へやってきた。外での撮影だとよくあることで、一緒にセルフィーをとって欲しいというのが多い。二人も快く対応し、ファンたちはそれぞれ数枚取ると礼を言って去っていった。
「アルフがいるとファンが増えたって錯覚しそうだよ」
撮影の後片付けを手伝いながら、ルイスがそんなことを言うのでアルフは驚いた。
「ええっ。あのファンの子達、みんなルイスのファンだと思うよ? 手帳とかにも君の写真ばっかりだったし」
「そうかな……」
「うん、そうだよ。どうしたの、そんなこと言うなんて。何かあった?」
ルイスはなんでもない、と暗い顔で首を振った。
「おーい! アルフくん、ちょっと来てくれるかー?」
「はぁーい! 今行きます!」
アルフは返事をすると、ルイスを気にかけながら立ち上がって駆けていく。その様子を見送って、ルイスは近くにいた衣装担当のスタッフに声をかけた。
「これ、僕の私物なんだけど、撮影に使えないかな? アルフに似合うと思うんだけど」
ルイスはそう言って、赤い石を嵌め込んだ男物のネックレスを取り出した。
「へえ、綺麗だね! うん、今日のテイストにも合うし使ってみるよ。ありがとう!」
スタッフはそう言ってアルフの元へ向かっていく。ルイスの目と赤い石がキラリと鈍く光った。
その日、アースとマイルド、そしてアルフがGarden Spiritsへと連れ立ってやってきたのを見て、ジオたちは眉を顰めた。マイルドは顔色が悪く、アルフも調子は悪そうだ。アースだけが比較的元気そうな様子だった。皆学校帰りなのか、制服を着ている。Garden Spiritsの面々に視線が飛び交った。一つ頷いてディーンが3人に近付いた。
「いらっしゃいと言いたいんだけど、ちょっと顔色が悪いね。ひとまず奥で休んで」
そう言って、ディーンはロンに眴して3人をバックヤードへ案内していく。ロンも頷きを返してグレンに近寄る。時計の長針はちょうど5と6の間を示している。ラストオーダーの時間は過ぎているため、調理担当のグレンとロンの仕事はほとんど残っていない。
「こっちは任せとけ。早めに閉めてそっちにいくから」
ジオも親指を上に立てている。ロンは頷いてバックヤードへと向かった。
ロンが扉を開くと、マイルドが仮眠用ベッドに横になったところだった。ディーンが足元にブランケットをかけてあげている。
「何があったのか聞いてもいいかな?」
アースは頷いて話し始めた。曰く、アースとマイルドは学校で同じクラスなのだそうだ。最近になって仲良くなり、たまたま今日は店に行こうという話になったという。そして、店の近くでアルフとばったり会い、その後マイルドの体調が悪化したとのことだった。
「店が近くだし、とりあえず外にいるよりはマシかなと思って連れてきたんです。兄ちゃんには連絡しておいたんですけど」
タイミングから逆算すると、おそらくジオは手が離せず確認できていなかったろう。ディーンはアースに礼を言ってロンを部屋の片隅に連れていった。
「マイルドちゃんは頭が痛いらしい。店に入ったら少し楽になったと言っていたから、少し休んでもらって様子を見ようと思う。知り合いの医者には連絡したし。ちょっと気になるのはアルフの顔色が悪いことと、嫌なカンジがあることかな。さっき軽く払ってみようとした時にうまくいかなかったから、その辺の霊が憑いたわけではなさそうだし、原因がわからないと対処が難しい類かもしれない」
ロンはアルフたちの背中を見つめて眉間に皺を寄せた。
「俺もこのところ毎晩祓ってはいるんだけどな。今日は特にひどいな」
「そうなのか。とすると何か持ち物が影響しているかもね。調べられるかな」
「聞いてみる」
ロンはアルフに声をかけ、隣にあるもう一つの仮眠室へ連れ出した。
「どうしたの、ロンさん」
「それはこっちのセリフだ。お前、顔色悪いぞ。お前も少し休め」
そう言って、仮眠用のベッドにアルフを促した。
「こっちにもベッドがあるんだね。すごい」
「あっちはお客様用だし、女の子と同じ部屋にはちょっとな。従業員用のこっちで悪いけど。あ、横になる前にちょっと座ってくれ」
アルフは大人しくベッドに座った。気怠げで、背中が曲がっている。ロンはお湯をタオルに含ませて絞り、アルフに近寄った。アルフは目の前に立ったロンをぼうっと見上げて首を傾げた。
「脱いで」
「えっ」
「汗かいてるだろ。冷えると良くないから」
ほら早くとロンに促されて、アルフはドギマギしながらも大人しくシャツのボタンを開け始めた。下着も脱いで上半身裸になったアルフを、ロンは丁寧にタオルで拭いていく。一通り拭き終えると、立ち上がってクローゼットを開けた。中から従業員用の替のシャツを取り出すと、アルフに放り投げる。
「それ、着とけ」
アルフが脱いだ下着とシャツをハンガーにかけて部屋の隅に吊るすと、ロンは振り返った。アルフはシャツのボタンを閉めて、横になろうとするところだった。
「じゃあ、俺はちょっと店に戻るけど、またすぐくるから寝て待ってろ」
こくこくと頷くアルフを確認して、ロンは部屋を出た。
閉店を少し前倒ししてバックヤードに集まったジオたちGarden Spiritsの面々は、ミーティングルームで二つの仮眠室の様子を監視カメラ越しに確認しつつ簡単に状況を共有した。
「マイルドちゃんはアルフの影響かと思ってたけど、どうも違うみたいだな。今はアースくんに様子を見てもらっているけど、アルフと引き離しても体調は回復していないし。それにさっき軽く祓ったけど効果はなかったから、おそらく物か何かに呪いが仕込まれていると思う」
ディーンの言葉に、ジオが口を開いた。
「このメンバーで感知型は俺しかいないし、俺が様子を見てくるよ」
「頼むよ。アルフの方はどうだい」
「身につけているもので怪しいものはなかった。荷物はまだ確認できていないから、ジオ、後で見てくれるか」
「わかった」
「グレン、ジオのバックアップを頼むよ。除霊が必要になるかもしれない」
「あいよ。やっと俺の出番が来たかぁ」
ぐるぐると肩を回すグレンと共にジオはミーティングルームを出た。
ジオとグレンが客用仮眠室へ入ると、マイルドは横になっていた。ジオは眉を顰める。見慣れない紅いアクセサリーがマイルドの首元にあった。
「アース、悪いが席を外してくれるか。ちょっとマイルドちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「わかった。廊下で待ってるね」
グレンと共にアースが廊下へ出たのを確認すると、ジオはベッド脇の椅子に腰掛けた。
「具合はどうかな」
「ちょっと、良くなったみたいです。ありがとうございます」
そう言いつつも、マイルドの顔色は優れない。
「俺たち、まだ仕事があるからもう少し休んで待っててもらえるかな。アースと一緒に家まで送っていくよ」
「いえ、そんな。大丈夫ですから」
「心配なんだ。送らせて?」
ジオが優しく笑いかけると、マイルドは渋々と頷いた。
「よし。じゃあそういうことで。そうだ、そのアクセサリー、外したほうがいいんじゃないかな。痛くない?」
ジオの言葉に、マイルドははっと首元に触れた。まるでそのアクセサリーに初めて気が付いたかのようだ。
「そうですね。外してみます」
マイルドは肘をついて起き上がると、首元をいじった。が、なかなか外せない。
「手伝うよ。ちょっといいかな」
ジオが手伝いを申し出ると、マイルドは大人しくジオに背を向けた。ジオがネックレスの金具に触れるが金具が動かない。何度か試しているうちに、マイルドの息が上がり始めた。ジオははっとしてマイルドの顔を覗き込んだ。首が絞まっているかのように首元に両手を持ってきてネックレスを下げるような仕草を見せるマイルドに、ジオは険しい表情で監視カメラの方を一瞬振り返ったのち、マイルドの苦しそうな目をみて肩に触れる。
「ごめん」
一言、ジオは呟くと目をそっと閉じた。そして次の瞬間に目を開いたときにはジオの瞳はいつもの茶色ではなく、ブルーとグレーのオッドアイになっていた。
マイルドの首元右側にジオは顔を寄せ、ネックレスを思い切り噛みちぎった。直後、ネックレスから禍々しい気が立ち上り、霧散する。マイルドは一気に咳き込んだ。
徐々に呼吸が落ち着いてきたマイルドは、ジオの顔を見て驚いたように目を見開いた。
「どこか……痛いところはない?」
オッドアイのジオはマイルドの背をさすり、自身も肩で息をしながら優しく問うた。マイルドはその優しく気遣う瞳と声音にどきりとした。と同時に、強烈な眠気がマイルドを襲った。
「大丈夫です……でもすごく……眠い……」
マイルドはオッドアイのジオの胸元に頭を預ける。そっと髪を撫でられ、瞼が自然に落ちていった。眠りに落ちる前、マイルドは優しい声を聞いた気がした。
「夢だよ。眠れ」
再び、Garden Spiritsの面々はミーティングルームに集まった。マイルドは深く眠っており、アースがそばで宿題をしながら様子を見ている。アルフは6時半ごろになると、撮影があるからと言って店を出て行った。
マイルドが首につけていたネックレスは、真ん中についていた石が割れ、鎖はちぎれ、見るも無惨な姿になっていた。ジオがみたところ、もうモノは憑いていないらしい。
「写真は撮ったし、悪用されないように燃やしてしまったほうがいいだろうね」
ディーンの言葉に、グレンはウキウキと処分用のものが入った袋にネックレスの残骸を片付ける。後で裏庭の専用スペースでまとめて処分するのだ。燃える類いのものは火の精霊で浄化するが、金属などの燃えないものは水の精霊の力で浄化されたのちにリサイクルセンターへと送られる。
「呪いの類なのはわかってるけど、問題は誰がやったかだね」
呪いを媒介する物を破壊しても、大元が断たれない限り同じことが繰り返される。それどころか、より強力な呪具が使われてしまうケースも多い。アルフの件と同様、できるだけ早く犯人を見つける必要がある。
「ジオはマイルドちゃんが目を覚ましたら、どこで買ったのか、それか誰からもらったのか聞いておいて欲しい」
ジオは黙って頷いた。瞳はいつもの焦げ茶色に戻っている。
「それから、この前ロンが見つけてきたアルフくんへの呪いの件だけど」
そう前置きして、ディーンはディスプレイに先日キーホルダーの中から見つかった紙を映し出した。
「これはやっぱり呪いではあるんだけど、アルフくんの名前はかかれていなかった。持ち主を呪う類いのものだったんだ。犯人は直接的な知り合いじゃない可能性がある」
ディーンの説明にロンは首を傾げた。
「アルフは知り合い以外からのプレゼントは受け取らないって言ってたぞ。前にGPSが仕込まれていて事件になったことがあるからって」
「そうすると、あのキーホルダーはやっぱり知り合いからだったってことか。でも、アルフ個人を狙ったわけじゃない?」
グレンの仮説をジオは否定した。
「そうとも限らないだろ。アルフに渡してるんだから」
それもそうだな、とグレンは腕を組んで唸った。
「もしこれが、仮にだぞ、無差別だとしたらエラいことだぞ……」
グレンの言葉に、ディーンたちは険しい顔で黙り込んだ。
数秒ののち、沈黙を破ったのはロンだった。
「そうだ、ルイスについて何かわかったことはあるか?」
「いや。住んでいるところぐらいだよ」
「どこだ?」
ディーンが地図を表示させ、ポインタで示すとジオとロンは顔を見合わせた。
「そこって……」
そこは、ジオとロンがパトロールの帰りに立ち止まったアパートだった。
アルフは次々とフラッシュが焚かれる中、スタジオでポーズを取っていた。その首元には、紅い石の嵌ったネックレスがあった。
強がって撮影に来たものの、アルフはどんどん強くなる頭痛に内心で後悔していた。
(次の休憩になったら頭痛薬を飲まなきゃ……)
「よし! いったん仕上がりを確認するからちょっと休憩してて!」
監督の声に、アルフはほっと息を吐いて用意された席へ向かう。数歩進んだのち、アルフは目眩に襲われた。視界がグルンと回転し、身体から力が抜けて尻餅をつく。ドシンと尻に衝撃があったが、どこか遠い感覚でアルフの意識はすうっと遠のいて行った。
パトロール担当のディーンとグレンが店を出発して間もなく、マイルドが目を覚ましたとアースから知らされ、ジオとロンはホットミルクを持って客用の仮眠室へ向かった。
ノックをして部屋へ入ると、マイルドはベッドで起き上がっていた。ジオがホットミルクを渡すと、マイルドは受け取って一口飲み、ほっと息を吐いた。
「気分はどう……?」
気遣わしげなジオの顔をマイルドはじっと見つめた。ジオの瞳は焦げ茶色だ。マイルドはさっき朦朧としながら見たものは幻だったのかもしれないと思った。
「ずいぶん楽になりました。ありがとうございます。ごめんなさい。ご迷惑をおかけしてしまって……」
申し訳なさそうに小さくなるマイルドに、ジオは首を横に振った。
「迷惑なんかじゃないよ。いつでも頼ってくれていいんだ」
安心させるようにジオは微笑みかけ、ロンもジオの横で頷く。
「ありがとうございます」
マイルドは遠慮がちに笑顔になった。ロンとジオはマイルドに微笑みを返し、手を握ったり肩を叩いたりする。
「申し訳ないんだけどもう少し待っていてもらえるかな。俺たち、まだちょっと仕事があるから」
「ありがとうございます。宿題して待ってます」
「うん。ごめんね。……ところで、あのネックレスなんだけど、どこで買ったのか教えてもらえないかな? 外すときに壊しちゃったから、弁償したくて」
ジオが申し訳なさそうにマイルドに問うと、マイルドは言いにくそうに口を開いた。
「あれは貰い物なんです。衣装のスタッフさんが私によく似合うからって。でも確かスタッフさんも誰かに貰ったって言ってました」
「誰だったか覚えてるか?」
ロンの問いかけに、マイルドは首を捻った。
「……ルイスさん……?」
ジオの横で聞いていたロンは、その瞬間血相を変えて部屋を飛び出していく。ジオは慌てて追いかけ、廊下に出た。
「おい、どこ行くんだよ!」
ジオの慌てた声を背中にロンは叫んだ。
「アルフの現場! あいつ、今日はルイスと一緒なんだ!」
ジオははっと目を見開くと、部屋に戻った。びっくりしているアースとマイルドに戻るまでこの部屋で待つように言い聞かせると、部屋を出た。廊下を走りながらグレンに電話をかける。数秒後、グレンが電話に出た。
「どうした?」
「ネックレス、ルイスがプレゼントしたものだったって! それでロンがアルフの仕事場に向かってる。俺も今追いかけてる!」
「ジオ、現場はどこだ?」
ジオはガレージに着くとバイクへ乗る準備をしているジオに尋ねた。
「ロン! 現場ってどこ?」
「スタジオ! 車だと渋滞に巻き込まれるからバイクで行く! ジオはディーンたちを迎えに行ってくれ!」
「わかった! スタジオの住所は?」
「今送った!」
ロンはそう叫ぶとバイクへ乗って飛び出して行った。ジオも車に乗り込み、ディーンたちの居場所へと向かった。
ものの10分ほどでスタジオに着いたロンは、スタジオから搬出されていく道具を見て嫌な予感を覚えた。
「あの、アルフの同居人で彼を迎えに来たんですが、アルフはどこに?」
「アルフくん? え? もう帰ったよ?」
「何かあったんですか?」
「何かも何も、スタジオで倒れちゃって。30分くらい前かな。ルイスくんが送って行ったよ。というか、倒れたって連絡が来たから迎えに来たんじゃないのかい? 君ほんとにアルフくんの同居人?」
「ちっ! あのバカっ」
思わず舌打ちを漏らし罵ったロンにスタッフは目を丸くし、益々疑いの目を強めた。
「あ、すみません。ありがとうございます」
尚も何かを言おうとするスタッフにロンは慌てて頭を下げると駆けだした。バイクに戻りながらグレンに電話をかける。
「グレン? 今どこにいる?」
「そっちに向かってる。なんかあったか?」
「アルフはもう帰ったらしい。30分くらい前にスタジオで倒れてルイスが送って行ったって」
グレンが電話の向こうであー、と頭を抱えたような声を上げた。
「ルイスのアパートだったらお前の方が近いな。俺たちは念のためお前ん家に向かう。ここからなら5分で着くはずだ。いなかったら即そっちに向かうけど、多分そっから15分はかかる」
「わかった! こっちも着いたら連絡する」
手早くヘルメットをかぶると、ロンは再びバイクを走らせた。
ロンがルイスの住んでいるアパートにたどり着いた時、ロンは背筋に嫌な感触を覚えた。風の精霊が怯えている。
「こっちがビンゴだな」
ロンはチャットでグレンたちに知らせる。すでにグレンからもロンの家にはアルフはいなかったとメッセージが届いていた。
(アルフはどこだ……?)
ロンはアパートを見上げ、灯が点滅する部屋を見つけた。
(あそこか……! 1、2、3……4階だな!)
「今から突入する! 着いたら道路から見て手前の左端、4階の部屋に来てくれ!」
片耳にはめた無線イヤホンに向かってロンは叫び、アパートに入るとロビーに入ってすぐ左手の階段室へ駆け込んだ。はやる気持ちを抑えつつ、ロンは一気に駆け上がる。駆け上がりながら、位置関係を思い出す。
1分もしないうちに4階にたどり着き、ロンは階段室から廊下へ出る扉を開いた。廊下を右に曲がり、真っ直ぐ駆ける。部屋の前に着くと、ドアノブをつかんだロンの手にバチっと静電気の火花が散った。右手に軽い痛みを覚えつつ、ロンはドアを引く。扉はあっさりと開いた。
「アルフ!」
部屋へ飛び込むと、リビングで金髪の男が一人倒れている。背格好からアルフではないことを見てとり、ロンは部屋中の扉を開いてアルフの姿を探した。
(いない……どこに行ったんだ。)
突然、ロンの後ろでドアが音を立ててしまった。
「ジャマヲスルナァ」
リビングの床で倒れていた若い金髪の男が、ドアの前に立ち、だらりと腕を垂らしてしゃべった。目は血走っている。
「……っ」
ロンは銃を取り出して金髪の男に打ち込む。男がどっと倒れた。ロンは扉を再度開け、銃口を男に向けたまま低く問うた。
「アルフはどこだ」
「……ハッ」
「どこだと聞いてる」
「ハハハハハハハッ」
金髪の男は目を見開いたまま上を向いて甲高く笑った。
「答えろっ!」
「ハハハハハハハッ モウスグダッ ハハハハハハッ」
尚も上を向いて笑い続ける金髪の男に、ロンははっと目を見開いた。
(上! 屋上か!)
ロンは踵を返し、部屋を飛び出した。その時、近くで車のブレーキ音がした。どうやらディーンたちが到着したようだ。ロンは廊下を駆けながら無線イヤホンに向かって叫んだ。
「俺は屋上に向かう! ディーンたちはルイスを頼む!」
階段室の扉を開く直前、了解と短く答えるディーンの声がロンの耳に届いた。ロンは再び駆け上がり始めた。屋上まではあと4階分、階段を上がらねばならない。呼吸はすでに荒い。気持ちだけがはやるばかりで足は重い。
(くそっ。アルフ、無事でいてくれよ!)
心の中で悪態をつきながら、ロンは全力で階段を駆け上がって行った。
アパートの屋上では、夜風が吹き荒ぶなかを細身で長身の端正な顔立ちをした男が一人、虚な目をしおぼつかない足取りで端へ向かって歩いていた。アルフである。首元には紅い石のネックレスが光っている。
アルフは朦朧とする意識の中、思い通りにならない身体を必死で押し留めようとしていた。だが、思いも虚しく体は屋上の端に向かって動いていく。
(死にたくないよ……。やりたいこと、まだたくさんあるのに)
思い浮かぶのは薄らと無精髭を生やした黒髪で端正な顔立ちの同居人だ。
(ロンさんの言うとおり大人しく休んでおけば、こんな目に遭わなかったのかな……)
アルフの視界は涙で歪んでいく。
(会いたいよ、ロンさん……)
その時、アルフは屋上の重い金属の扉が勢いよく開かれる音が遠くで聞こえた気がした。
(誰だろう……。誰でもいい。助けてほしい……)
声にならないアルフの叫びは、夜風に攫われていく。直後、アルフの耳に想い人の声が飛び込んできた。
「アルフ!」
(ロンさん……? そんなわけないよね……。俺、やっぱり死ぬのかな……)
涙で霞む視界は、すでにバンコクの夜の明かりがいっぱいに広がっている。もう少しでアパートの端にたどり着いてしまう。止まりたくても、体は思い通りにならない。誰かが駆けてくる音が聞こえる。
「アルフ! とまれ! アルフ!」
(嗚呼……。ロンさんの声だ……。やっぱり、俺、死ぬんだ……)
アルフの右足が端にあるフチにかかった。グッと体重が乗る。思い通りにならない体のどこにそんな力があるのかアルフはどこか不思議に思いながら、体がふわりと宙に投げ出される感触を感じた。
落ちる寸前、アルフの視界に声の主が入った。
(嗚呼……! ほんとにロンさんだったの……?)
アルフの表情が切なく歪んだ。
「アルフ……!」
ロンの悲痛な叫びが夜闇に木霊した。
直後、一陣の風が吹き、アルフの体を上へ押し戻した。
(えっ……?)
だが、アルフの体を支えるには不十分で、再びアルフの体は徐々に傾いでいく。それでも、重力に逆らった動きをしていることは、朦朧としたアルフにも理解できた。そして、数秒後に支えを失ったかのような感触になる。
(今度こそ落ちる……!)
スピードを増した傾き速度に、アルフは死を覚悟した。再び視界の端にロンの姿が映った。肩で荒く息をしながら、アルフの方を見つめている。
二人の視線が一瞬交錯した。ロンの手がアルフの方へ伸び、空を切った。
伸ばした手は空を切った。支えようと風を送ったが保たなかった。
ロンは無力感に打ちひしがれていた。あの時、アルフを助けられなかったことに。
アルフの体が再び宙に投げ出されたとき、それを押し留めたのはジオだった。
「ロン! アルフを捕まえろ!」
ジオは犬の精霊たちにアルフの体を支えさせ、押し留めたのだ。ロンはアルフに駆け寄り、上半身にタックルして屋上の床へ押し倒した。上から馬乗りになり、アルフの首元に光るネックレスを掴む。アルフの表情が苦悶に満ちた。
駆け寄ってきたジオが、オッドアイになってネックレスを噛みちぎった。黒いモヤが霧散し、アルフがどっと気を失った。その後、ルイスと共にいたディーンたちがルイスの部屋で暴れまくるソレと対峙して、ディーンが応急処置として部屋を封じたのだった。
あの日から3日。衰弱もしていたアルフは今日まで念のため検査も兼ねて協会の関連病院で入院中である。バックヤードで項垂れるロンを、ジオとグレンは気遣わしげに見つめた。
「協会に問い合わせていたあのアパートについて、いろいろわかったよ」
ディーンは入室すると、ロンの肩を叩いたのちに報告を読み上げていく。曰く、あのアパートが建っていた土地には、もともと殺人事件が起きた一軒家が立っていた。調べたところ、寺などを含めてお祓いをした記録がない。土地を買った人間が外国の人間で、迷信だと一蹴しお祓いをしなかったという。殺人事件は怨恨によるものだった。子供ができたということで離婚を迫られた女性が男性を殺したというものだ。被害者の男性はルイスと似て欧米系の顔立ちをしていた。
ルイスはつい最近、あのアパートに引っ越した。そしてアパートの土地に憑いていた幽霊の影響を受け、相手の想い人を呪い殺すように操られてしまった。ルイスは実はゲイで、相手がアルフになってしまったのだと言う。幸いにもルイスは当時のことを一切覚えておらず、彼の精神状態はあまり心配する必要はないようである。
「マイルドちゃんが巻き込まれたのはなんでなんだ?」
グレンの問いに、ディーンは口を開いた。
「どうも、アルフと付き合ってると思っていたみたいだよ? それで、二人が別れれば都合がいいからってヨークをけしかけたりしてたみたい」
これはルイスがスタッフと話をしていて、その話を覚えていたスタッフがディーンたちに教えたそうだ。
「それから、呪具についてだけど、アルフくんのキーホルダーから見つかったあの紙と同じものがルイスの部屋から見つかった。それと、アパートの裏手にある庭から犬の死体が1体見つかった」
ディーンが言うには、老婦人の事件があった前日にパトロールでディーンたちが発見していたものと特徴が似ていたそうだ。
「おそらく、これは蠱毒の類だと思う。これらの共通点は、持ち主を呪うこと。犯人はあのアパートの幽霊と見て間違い無いだろうね」
幽霊となった女性は生前、霊感商法等を行っていたのだと言う。その類にも詳しかったと見ていいだろう、とディーンは語った。
「それで、どうするんだ?」
グレンが首を傾げた。
「君の出番だよ、グレン」
ディーンに名指しされ、グレンはキョトンとした。
土地についた霊は、ディーンでは祓えない。また、ここまで害をなすまでに力をつけた幽霊だと、高名な僧でもなかなか難易度が高い。ジオとロンは言わずもがなである。
「でも、グレンなら火で浄化できるでしょ」
「ええっ。燃やしちゃうのか?」
「それしか方法がない、と言うのが正しいかな。お寺と連携しているとは言っても、この辺でこのレベルの除霊をできる人をってなると予定がね。でも、うかうかしてると被害が拡大しかねないから。というわけで、このあとよろしく」
「えええっ」
「もちろん、消防署には連携済みだよ。単なる火事ってことになると思うけど、もうアパートのオーナーにも話は通してあるし、爆発と倒壊の危険があるってことで周辺住民も含めて退避済み」
「手早すぎるだろ……」
グレンは感嘆の声を漏らした。
退魔官協会は普段、あまり表立った活動はしない。というより、世間一般に存在を知られていない。隠していると言ってもいい。タイは特に仏教国で寺の影響力が強いのもあり、別勢力として認知されてしまうのもいろいろと面倒だからだ。その状態でここまでうまく連携できるということは、それだけディーンかディーンのバックアップをしている協会中心で動いているメンバーが優秀であることを示している。グレンは内心で、コーヒーをただ飲みしていたことを後悔した。
「あ、ちなみに残さず焼いてね? 残ると君の階級が落ちるよ」
さらりと脅され、グレンは悲痛な面持ちになった。手柄を上げる機会が少ない分、こういう時に役に立たないと評価されづらいというわけだ。といっても、もし焼き残しがあると除霊は失敗となり、封を解かれた幽霊が出てきてしまう可能性もある。今回は場所に固定されている幽霊のためそれほど問題にはならないが、それでも周辺地域に及ぼす影響を考えると、必ず成功させなければならないのは確かだった。
「大丈夫。グレンならできるよ」
ディーンの頼もしい言葉に、断ったら断ったでえらい目に遭いそうだしと内心で震えつつ、グレンは顔を上げた。
「わかった。やってみるよ」
一行は深夜、件のアパートから数十メートル先のビルの屋上を訪れた。近くからだといらぬ疑いを招く可能性があるためだ。アパート周辺では主に警察と消防の部隊によって中に人が入らないよう警戒されており、物々しい雰囲気となっていた。
警察と連絡をとっていたディーンが顔を上げ、グレンに合図した。グレンは一つ頷くと、瞼を閉じた。数秒後、アパートから火の手が上がった。あっという間に燃え広がった炎は、アパートを包み込んで燃え上がる。消防が放水を始めた。と言っても、この炎はグレンのコントロール下にあるため形だけだが。
アパートは三時間ほど燃え続け、全焼した。
その日の深夜。アルフが目覚めるとロンがベッドの横で手を握ったまま寝落ちていた。アルフは2日前のことを思い出した。
事件があった翌日の夜、事件からそれまで眠り続けていたアルフは病院で目覚めた。真っ白い天井が見えて、アルフはしばらくぼうっとしていた。息をゆっくり吸って、少しだるさのある体だけれども自分の意思で動くことに驚き、一寸の間、思考が停止した。
(俺……生きてる?)
ゆっくりと首を左右に動かすと、ロンが近くの椅子に腰掛け腕組みをして眠っていた。
アルフはゆっくりと上体を起こした。衣ずれの音にロンが目を覚ましハッと顔を上げ、アルフと目があった。
二人は言葉もなくただ見つめあった。
アルフの目に映ったロンは、切なげに少し眉根を寄せ、でもどこかほっとしたような顔をしていた。アルフはそんなロンを幻でも見るかのように数秒、ただぼうっと見つめた。そして、アルフの顔がくしゃりと歪み、涙が溢れた。ロンは恐る恐る近づいてきて、ベッドに腰掛けた。
「アルフ……」
ロンを見つめたままただただ静かに涙を流すアルフを、ロンはそっと抱き寄せた。ロンの手が、アルフの後頭部を優しく撫でる。その温かさにアルフの口から、震えて掠れた声が出た。
「ロン……さ、ん」
アルフは止めどなく溢れる涙をそのままに、ロンに縋りついた。ロンはアルフを強く抱きしめた。
「こわかった……。もう、死ぬんだって、怖かった……」
すがりつき、泣きじゃくりながら訴えるアルフに、ロンは謝った。
「ごめんな、俺、何もできなくて」
アルフは抱きしめられ、涙を流しながら首を横にふるふると振った。アルフは覚えていた。自分を助けようと、必死に叫ぶ姿を。伸ばしてくれた手を。そこからどうやって助かったのかは理解の範疇を超えているけれど、ロンが必死に繋ぎ止めようとしてくれたことを。
「ロンさんは、助けてくれた、よ……」
今度はロンが顔を歪め、じわりと涙が溢れた。二人はその後、しばらく無言で抱きしめ合っていた。
「ロンさん」
ひとしきり泣いて落ち着いた後、アルフはロンに呼びかけた。目で続きを問うロンに、アルフは口を開いた。
「退院するまで、毎晩来てくれる……? 一人じゃちょっと怖くて」
それから毎晩、ロンは仕事終わりにアルフを見舞いにやってきては世話を焼いて、アルフが眠りにつくまで手を握るようになった。深夜に目覚めてもこうしてずっと手を繋いでいてくれるから、アルフは怖くなかった。
アルフは自分と違う少し固めの髪に指を絡ませ、頭を撫でた。
「ロンさん、ありがとう……」
アルフは再び眠りに落ちた。
ロンとアルフの二人を、暖かく優しい風が包んでいた。