受験勉強を頑張った甲斐があって、私は市内でも有数の高校に進学した。
女子高校だから、バカな男たちはいない。
これで安心して勉強できる。
もう男なんて絶対いるもんか。
覚悟を決めたかった。
ママからもらったパールのイヤリング。
それをお店で加工してもらって、ピアスにした。
左耳に穴をあけて、塞ぐ。
どこかで聞いたことがある。同性愛者の人はこんなことするって。
でも、私は同性愛者じゃない。
このピアスは一生シングルっていう決意だ。
高校に入学すると、成績は常に上位。
だけど、ピアスをつけているから、授業中にいつも注意される。
そして毎日バカみたいに反省文を書かせられる。
くだらない。
こんなことで私の決意を曲げられるわけないじゃない。
ある日、担任の先生が産休に入って、代わりの教師が赴任してきた。
「げっ、男だ」
思わず声に出しちゃった。
若い男の教師で、ニコニコ笑って教壇に立つ。
女しかいない高校だったから、たちまち人気者になった。
端正な顔立ちしてたし、身長も高いし、明るい性格だし。
でも、私はそのセンセイを見る度に吐き気を感じた。
アイツを思い出す。
センセイの担当している授業は美術。
その日も私は適当に絵を描く。
みんなが一生懸命描いている絵を、センセイはひとりひとり優しくアドバイスしていた。
(うわっ、私のところには近づかないでほしい)
さっさと授業が終わらないかなと思ったその時だった。
センセイが声をかけてきた。
「あれ……君の耳」
また怒られるのか、そう思ってため息をつく。
「そのピアス、いいね」
「え……」
「君のだろ? パールがキレイでいいね。どこで買ったの?」
「こ、これはママからもらって……」
予想と違った質問をされて、ついつい答えちゃった。
「そっかぁ! いい趣味してるね、お母さん」
センセイは太陽のように眩しく笑って見せる。
私は動揺を隠せなかった。
「あの、センセイ。私を怒らないんですか?」
「え、なんで?」
「だって……校則違反だから」
「それで? なんで僕が君をそれぐらいのことで、怒らないといけないの?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる。
(なにこの人、バカじゃない)
「服装とか身なりぐらいで、僕は生徒を怒ったりしないよ。例えば、君が犯罪や死に関わることがあれば、別だけどね」
そう言うセンセイの瞳は、キラキラと輝いてた。
まるで真珠のよう。
悪い人ではない。むしろ、善人に近い。
でも、思った。
この人もいざ女の裸とか見たら、アイツみたいに自制がきかなくなるただのオス。
それに、汚れを知らない一般人だ。
私とは住む世界が違う。
イライラしながら帰宅した。
自分の部屋に入って、机の引き出しからカッターを取り出す。
私は‟あれ以来”むしゃくしゃすると、自分の左腕を切る……という行為を繰り返した。
別に死のうとか思ってない。
ただ安心する。
刃が肌に触れると、一本の線が浮かんできて、そのあと、プツプツと血の球が浮かび上がってくる。
(あったかい)
するとリラックスできる。
もちろん、ママとパパには内緒でやってる。
だから、年中長袖を着てる。
美術の時間、イライラしながら絵を描いていた。
制服の袖がめくれていたのに気がつかなくて、センセイに呼び止められる。
(またこいつか……)
舌打ちすると、彼が言う。
「ねぇ、神崎さんだったよね? その腕、どうしたの?」
「あ……」
昨日、切った生傷が露わになっていた。
咄嗟に反対の手で隠そうとしたけど、センセイがそれを止める。
「ねぇ。これ自分でやったの?」
じっと私の顔を見つめる。
黙って頷く。
「そっか……放課後、職員室に来て」
(ヤバい、ママとパパにバレる)
言われた通り、職員室に来ると、センセイは書類に目を通していた。
「あの、センセイ……」
「ん、神崎さんか。あのね、さっきの傷、ご両親は知っているの?」
「知り……ません」
「うーん。じゃあこれを知っている大人は、僕だけかい?」
「そうです……」
しばらく沈黙が続く。
「どれぐらいやってるの?」
「一年、ぐらい……」
「なら相当な数の傷があるよね」
袖で見えない私の腕を指差す。
「……」
「それ、僕がお医者さんに言ったらダメかな?」
「ぜ、絶対にダメです! 誰にも知られたくない!」
「そうか、参ったな……君のそれは、命に関わる行為だからね」
(別にアンタに頼んでなんかない!)
しばらくセンセイは腕を組んで、考えこむ。
「あのさ、今日も帰ってするかもしれないんだよね?」
「わか、りません……」
「ならこうしよう。これ、僕の電話番号」
センセイはそう言うと机の上にあったメモ帳に、数字を書きなぐる。
そして、私にそれを差し出す。
「あの……どういうことですか?」
「もしまた切りたくなったら、電話して」
「え?」
「まあいいから、早く帰りなさい」
センセイの考えがさっぱりわからなかった。
動揺していた私は、帰ってすぐに机の引き出しからカッターを取り出す。
傷だらけの左腕に刃を向けたその時だった。
ぐしゃぐしゃになったメモ紙が視界に入る。
『もしまた切りたくなったら、電話して』
どうせ何もできないくせに、威張りやがって。
でも、また明日学校で問い詰められるのも面倒だ。
一回だけ電話して、出なかったら、こんな紙捨ててやる。
そう思って、試しに電話をかけてみた。
すると、ベルの音が一回鳴るか鳴らないぐらいのスピードで相手が出る。
『もしもし、神崎さん? 切りそうなの?』
「あ、ハイ……」
出ると思わなかったから、ビックリした。
『待ってて。すぐに行くから』
「え?」
数分後、窓の外から聞きなれないバイクのエンジン音が鳴り響く。
カーテンを開けると、赤いヘルメットをかぶったセンセイがいた。
手を振っている。
私はパジャマを着ていたのだけど、驚きのあまり、すぐに家から出る。
「はぁはぁ……センセイ。どうしたんですか?」
「どうしたって。君の切る行為を止めに来たんじゃないか」
「止める?」
(なにを言ってるんだ。この人)
「ほら、これ頭に被って」
そう言うとセンセイは、同じ色のヘルメットを私に手渡す。
「はぁ……」
言われるがまま、ヘルメットを被ると、後部座席に促される。
センセイがハンドルを回すと、「しっかり僕につかまってね」と言った。
「あ、あの……」
私の声はエンジンの爆音でかき消され、気がつけば、道路を走っていた。
センセイが連れて行ってくれたのは、近くの海岸だった。
そこで、ようやくバイクから降りる。
夕陽が落ちかけていて、暗くなりだした。
よく考えると、パジャマだったから寒い。
「ほら、これ着なよ」
そう言って、ジャンパーを着せてくれた。
二人でしばらく海を眺めていた。
ただ、波の音を聞いて、潮風を肌で受けて、海の匂いをかぐ。
たったそれだけなのに、心が安らぐ。
終始センセイは黙って海を見つめていた。
しばらくして、私の方から口を開いた。
「もう……大丈夫です」
「わかった。帰ろう」
センセイは、特になにもしないし、言わない。
ただ私のことを見守っていてくれる……そんな優しさだけは伝わる。
その後も、私はカッターを手にするたびに電話をかけた。
センセイは決まって数分で、窓の向こう側に現れる。
ピザの宅配よりも早くて笑っちゃう。
そして、二人で夜の海を眺める。
それが毎日、毎週、何カ月も続いた。
センセイは嫌がる素振りも見せず、ただ私を助けるために来てくれる。
優しい人。
バイクで走っている時、センセイの背中に身体を寄せて見た。
ドキドキ……。
センセイに聞こえるぐらい私の胸は高鳴っている。
私、‟先生”が好き。
そう思っちゃった。
それに気がついた時、私は自分を呪った。
汚れきった私なんかじゃ、先生には不釣り合いだ。
帰ってベットに身を放り投げると、涙が流れた。
きっと私が彼に想いを伝えたら、先生は笑ってこう言うのだろう。
『ありがとう。気持ちだけ受けとっておくね』と。
先生は良い人だから、そう言うに違いない。
思い切って先生に告白しようと何度も考えた。
でも、できない。
教師と生徒との間柄じゃなくなるのが怖くて。
私が告白して振られたとしても、先生は優しいままだと思うけど。私が無理。
そんな矢先、クラスの女子が教室で、先生に質問していた。
「先生ってさ。教師と生徒との恋ってあり?」
すると先生は、見たこともないぐらい顔を真っ赤にして怒っていた。
「君たち、僕をそんな目で見ていたの? 心外だな。僕が君たちにそういう感情を持った時、僕は教師をやめるよ!」
私はそれを聞いて『やっぱり』と一人静かに笑った。
そう。先生は私たちを女として見てない。
ただの子供、生徒として見ているんだ。
だから、だから……。
私はもう、切ることをやめた。
あの人をもう苦しませたくない。
電話で呼び出すなんて、卑怯な真似したくない。
卒業するまで、彼と正々堂々と向き合いたい。
この好きという気持ちは、そっと胸にしまって。
私は左耳につけていたピアスを外した。
開いていた穴は、気がつくと塞がっていた。
でも、それで良いと思う。
またピアスをしたくなったら、今度は両耳あけようと思う。
あっという間に卒業式を迎えた。
先生は旅立つ私たちを見て、いっぱい涙を流してくれた。
私は勇気を振り絞って、先生に声をかける。
「あの、先生っ!」
「神崎さん、今日までよくがんばったね」
先生は目を腫らせていたが、ニコニコ笑っている。
「これ。良かったら受け取ってください」
白い小さな箱を差し出す。
「僕に? なにかな」
箱を開けると、中には私が以前つけていたパールのピアス……だったものが入っている。
ピアスを加工して、ネクタイピンにしたのだ。
「あ、これって、神崎さんのピアスだったやつじゃないか! こんな大事なもの、僕にいいの?」
「いいんです。先生にはもっと大事なものを頂いたので」
「ん、なんのこと?」
「ふふふっ」
やっぱり、私のことなんて、ちっともわかってないじゃない。
あなたに埋めてもらった胸の穴。
私だけがもらえた、あったかいプレゼント。
今後、私が先生以上の男性に会えるかはわからない。
誰かを好きになることもないかもしれない。
でも、先生からもらった優しい気持ちは、ちゃんと返したい。
今度は、私が教師になって。
胸に傷を抱えた子供を見たら、先生に教えてもらった優しさで、包んであげたい。
了