意識が深く深く下へと堕ちていく。暗い水中を漂っているかのような感覚に陥った後、おぼろげながらも意識が蘇ってきた。

 初めは全体がぼやけて見える。段々と輪郭を捉えられるようになって、次第に形が分かるようになった。

 気がつくと、僕はアスファルトの上に立っていた。右を向くと海が見えて、左側には赤いポストがある道路だ。

 忘れもしない。そこは中学校の通学路だった。その場所に、僕は立ち尽くしている。

 その瞬間に、これは夢なんだと理解した。僕はこの夢を何度も何度も見ている。

 僕の前から、制服に身を包んだ少女が歩いてきた。彼女の隣には同じく制服を着た少年が歩いている。その少年とは僕のことで、隣にいるのは葉月だ。

 彼らに僕の姿は見えていない。当時あった出来事を、僕が思い出しているに過ぎない夢だからだ。

「ねえ、図書館とか行って調べたんだけどさ。やっぱり神隠しの場所はあそこで間違いないみたいだよ!」

 葉月は僕の隣で笑顔を振りまきながら話している。

 この時、僕達はこの地域で昔から語られている都市伝説にハマっていた。今思えばどこの誰が言い始めたのかも分からない何の信憑性もない話だが、当時の僕達にとっては何よりも気になる話題だった。

「私達でそこに行ってみようよ! もしかしたら神隠しにあっちゃうかもしれない! そしたら立夏や清涼達に教えて驚かせようよ! きっと羨ましがると思うんだよね!」

 葉月は目をキラキラと輝かせて嬉しそうに僕に提案して来る。ただ、その時の僕はあまり葉月と二人で行動したくなかった。

 僕はこの時間違いなく葉月のことが好きだった。それは友達としての好きとかそういうことではなく、異性としての好きだった。

 僕は彼女と付き合いたいと思っていたんだ。恋人として、彼女として、隣を歩いていて欲しかった。

 僕と葉月はとても仲の良い幼馴染だったから、学校でもよく一緒に行動していた。

 そのせいでクラスメイトからあいつらは付き合っているだのなんだのと噂されるようになったんだ。

 二人でいる時間は、本来なら喉から手が出るほど欲しいものだ。僕だって、初めは二人の時間が嬉しかった。

 だけど、クラスメイト達からからかわれて「私達はそんなんじゃないのにね」なんて言いながら苦笑いする葉月の姿を見て、考えが変わった。

「私は別に君を好きじゃないよ」と言われているようで、酷く心が痛んだ。

 だから、僕は彼女を拒んだ。拒んでしまったんだ。それが間違いだったと今なら分かる。

「僕は良いよ」

 僕がそう言うと、葉月は顔をしかめて僕を見つめてきた。

「なんで? 最近の太陽はなんか変だよ」

「別に何も変じゃないよ」

 僕の発言が嘘だと分かるのか、彼女は目を細めてジーッと僕を見つめた。

「もしかしてクラスの子達にからかわれるのが嫌なの? 私、そんなの全然気にしてなんかないよ」

 彼女の偽りの無い素直な言葉が胸に突き刺さる。

『私、そんなの全然気にしてなんかないよ』

 それだよ。と心の中で呟いた。それなんだよ、葉月。

 気にしてないというのが、とても嫌なのだ。僕は意識して仕方ないというのに、君は全く意識していない。そのことが、途方もないほどに悲しい。惨めで、情けないと思ってしまう。

 そして僕は、夢の中でそんな僕達を見ていた。心の中がざわざわと泡立っていく。

 ああ、ここで僕は言ってしまうんだな。何度も何度も後悔して、取り消したくても取り消せなくて、未だに夢にまで出てくるような言葉を。

「そういの嫌なんだよ……」

言葉に出したらもう止まらなかった。

「君は良いかもしれないけど、僕は嫌なんだ! 行くなら一人で行ってくれよ! もう、お前とは会いたくない!」

 気がつけば叫んでいた。

 行くなら一人で行ってろ。

 僕の言葉通りに彼女は一人で神社に向かった。そして、事故にあって死んだ。

 最後に言った言葉がもう会いたくないだ。

 本当に会えなくなってしまった。

 本当にどうしようもない馬鹿野郎だ。

 今の僕があの時の僕に会えるなら、胸ぐらを掴んでやりたい。

 僕は俯いたまま、葉月の顔を見ずに走り出した。逃げたんだ。乱暴な言葉で傷つけてしまった葉月の前にいたくなくて、僕は逃げ出した。僕は目を瞑りながらがむしゃらに走って、今の僕の横を通り過ぎて行った。

 待ってくれ! 行くな! 葉月に謝れ!

 手を伸ばして引き止めようにも、身体が動かない。叫んで止めようにも声が出ない。

 走って行く僕の背中が見える。立ち尽くす葉月の姿をこれ以上見たくない。

 せめて、夢の中だけでも仲直りして欲しい。

「頼むから、行かないで……」

 ガバッと、タオルケットを投げ出して飛び起きていた。

 目が、覚めたんだ。

 窓越しに海に浮かぶ月が見える。額には脂汗がぐっしょりと付着していて、シャツもびしょびしょだった。

「またあの夢か」

 はあ、はあ、と荒い呼吸を整えて、僕は天井を見上げた。

 自分の気持ちしか考えず、相手を傷つけた。更には一人で行かせて死なせるという取り返しのつかない失敗まで犯してしまった。

 あのとき僕も神社に一緒に行ってたら。それを考えない日はない。事故を防ぐことができていたかもしれない。そんなもしものことを、考えずにはいられなかった。僕は馬鹿だ。葉月を殺したのは、僕だと言ってもいい。

 そのことを考えるたびに胸が締め付けられる。

 やはり僕に友人を持つ権利なんてない。手に入れてもまた同じように傷つけて失ってしまう。

 ぽっかりと空いた心の穴が増えるだけだ。僕はもうこれ以上は失いたくない。傷つきたくないんだ。

 人を傷つけていたって、僕は自分のことしか考えていない。なんて自分勝手な人間なんだろうか。自分で自分が嫌になる。

 気分を紛らわせるために一階に下りた。冷たいミネラルウォーターをコップに注いで一気に飲み干す。冷たい液体が空っぽの胃の中を満たしていく。火照った身体に水が痛いくらいに染み込んできた。

 口を拭ってからベランダに出る。柵に肘をついて、手に顎を乗せて海を眺めた。

 緩やかな波の音だけが聞こえる静かな世界。いっそのこと世界がずっとこうなってしまえばいいとさえ思う。

 世界なんて、終わってしまって構わない。そうすれば、みんな揃ってあの世だ。みんながみんな不幸だというのは、それはそれで幸せで美しい話だと思う。

 空を見上げると、そこには満天の星が広がっていた。あの中の一つが葉月なんだと、夜空を見上げるたびに思うようになった。

 そんなことを思い返していた時だ。

 煌めくように流れ星が落ちて、夜の闇に吸い込まれていった。

「あの星が葉月で、僕の前に落ちて来てくれたらいいんだけどなぁ」

 自分で言って、ため息をついてしまう。こんなアホらしいことを考えて気持ちよくなってしまうなんて、本当に終わってる人間だ。

「姉さん。やっぱり僕にはまだ無理そうだよ」

「どうしたんですか?」

 聞き慣れない声がして、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。慌てて振り返って見ると、居間の戸から女の子が顔を半分だけ出してこっちを見ていた。

 さっき助けたあの少女だ。

 どこから聞かれていたのだろうか。全部聞かれていたと考えるとかなり恥ずかしい。

 気持ち悪いポエマーだと馬鹿にされるかもしれない。

「なんでもないよ。それよりも君は寝てなくて大丈夫なの?」

「さっき叫び声がしたんで慌てて起きてきました。そちらこそ大丈夫なんですか?」

 ああ、彼女はどうやら僕の寝言で起きてしまったようだ。でもあれは寝言というよりは叫び声だったから、申し訳ないことをした。

「ごめん。それ、僕の声だ。ちょっと悪夢を見てたけど、大丈夫だから気にしなくていいよ。それよりも君は寝たほうがいい」

 あの夢を悪夢と言うことは嫌だったが、ここは便宜上仕方なくそう言っておこう。

 僕はできるだけ彼女と目を合わせないようにして言った。そしてベランダから部屋に戻る。

 一刻も早く彼女と距離をとりたかった。これ以上話すのが怖い。

 彼女のことを気にいるのが怖かったし、彼女と近くにいて葉月を思い出すこともためらわれたからだ。

「あの……今日はどうもありがとうございました」

 女の子は僕を見て深々と頭を下げた。

 頭をあげてから僕を見てニコッと笑ったが、やはりその笑顔も今朝と同じで作り物のようなぎこちないものだった。

「別にいいんだ。気にしないでよ。僕は少し出かけてくるから、早く寝た方がいいよ。まだ、体調だって万全じゃないんだろうから」

 礼を言う彼女に右手を上げて応えてから、僕はシャツだけを着替えて外に出た。

「はあ……姉さんには悪いけど、やっぱり無理そうだよ」

 いざ人を前にすると失う怖さを一番に考えて行動してしまう。僕は彼女を気に入りたくない。

 葉月に似ている彼女を嫌いになるはずがないんだ。思い出して辛かろうと、面影に幸せを感じてしまうんだ。だからこそ、彼女を気に入ってはいけない。

 雑念を振り払うためにも、僕は今から葉月の元へ向かおうと思う。本当は身体を洗って清潔にしてから行きたかったが、あの女の子がいるところで風呂に入るのも嫌だ。仕方なくシャツだけを変えて行く。

 誘蛾灯に群がる害虫を横目に暗い夜道を歩く。途中コンビニに寄って葉月へのお供え物を買った。

 あの女の子から逃げるように葉月の元へ向かっているのだが、頭から中々あの子のことが消えてくれない。

 それもそのはずなんだ。まずあの子は葉月に似ている。それだけでも僕の頭から離れにくいというのに、加えて身体が透明になっているのだから。

 彼女の肋骨付近を見た時の衝撃が、未だに脳から消えてくれない。透明と呼んでいいのかも分からない。あれからは消滅に近いものを感じた。

 僕の心が空っぽになってしまったように、彼女は身体を虚に蝕まれているのかもしれない。

 この現象を呼びやすくするために便宜的に名前をつけようと思う。この現象を《透明化》と呼ぶとして、彼女の《透明化》はいったい人体にどんな影響を及ぼすのだろうか。

 《透明化》は命に関わる病気なのだろうか。命に関わるのだとしたら、僕はまた――――

 水の中に黒い絵の具を垂らしたかのように、僕の心の奥深くに靄がかかる。

 そこまで考えて、僕は慌てて意識を振り払った。頭をブンブンと回して頬を二回叩く。

「違うだろ。冷静になるんだ。僕はまだ彼女と仲良くなったわけじゃない。失ったって全然平気な相手なんだ……そのはずなんだ……」

 ただ葉月に似ているだけだから。葉月と彼女は違う。全く違う人間なんだ。

 とにかく彼女のことを意識から外さなければ。葉月と似ていようが、身体が透明だろうが、忘れるんだ。朝見た時はそんなに意識しなくて済んだのに。やはり『助けた』という事実と《透明化》の衝撃が大きいのだろう。ダメだ。消えてくれない。

 脳にこびりついて離れてくれない彼女の事を無理矢理忘れるために、僕は全力で走り出した。

 考えたくないのなら、何も考えられないくらいに全力で走ればいい。

 僕はさざ波の音に意識を傾けながら、むし暑い夏の夜を全力で走った。走り抜けた。

 暴言を吐いて逃げ出したあの日の僕を追いかけるように、僕はただ全力で、ひたすらに全力で葉月の墓を目指して走った。アスファルトを蹴って、がむしゃらに走り続けて、気がついた時には墓場の前にいた。

「はあっ……はあっ……」

 激しく込み上げる嘔吐感を必死に抑え込む。頬から汗が滴り落ちて、地面にいくつもの斑点を作り上げた。

「汗だくになっちまった……」

 膝に手をついて激しく肩を上下させながら、僕は自分の服を見つめる。シャツにもズボンにも汗が染み込んでいて、とても葉月の前に行けるような状態ではない。

 だけど、ここまで来たからには顔くらいは出したい。

 僕は滴り落ちる汗を拭ってから階段を上がり四段目の左から四番目の墓の前で腰を下ろした。

 さっき買った線香に火をつけて墓の前に置く。その後今朝買ったお菓子とジュースを取り替えた。

 そのまま僕は逃げるように祈りに没頭した。他の事は何も考えずに、葉月への祈りに全神経を集中させた。

「君が居なくなってから、とても大変だよ」

 祈っている途中で、言葉が漏れる。そこから、堰を切ったように言葉が溢れて来た。

「僕はいつも過去に縋ってる。あの頃はまだ未来に希望を見出していたんだ。まさかこんな自分になっているなんて思わなかったよ」

 言葉が溢れ出す。今なら、葉月の前にいれば、なんでも素直に話せる気がした。今思っていることがすんなりと出てくる気がする。それから、言葉がすらすらと出てきた。

「僕は君を失ったあの日からずっと後悔して来た。もう後悔はしなくないと思って生きてきた。今まさにその後悔と向き合わなくちゃいけない場面が来たのかもしれない。今が過去になった時、僕は後悔したくない。胸を張って未来の自分に誇れるような今を生きたいんだ」

 そこで、言葉に詰まる。その瞬間にほんのりと暖かい風が吹いて、僕の頬を撫でた。葉月が僕を撫でてくれたのかと、一瞬だけ思う。その錯覚のおかげで何とか続けることができた。

「僕はこれ以上……失いたくないんだ。だから、僕は彼女をどうすればいいと思う? 失わないためにこのまま突き放せばいい? それとも葉月の時の後悔を晴らすために彼女を助ければいい? 後悔しないためには、何かを失わないためには、どうしたらいいんだろう」

 葉月を前にして、葉月の力を借りて、やっと、僕は口に出して言うことができた。僕が心の奥底で悩んでいたこと。それは彼女を助けるべきかどうかということだ。

 僕が倒れている彼女を助けてしまったのには理由がある。それは葉月に似ていたということと、葉月を失った時の罪悪感、後悔によるものだ。

 僕はこのまま失うリスクを背負いながら彼女を助けるべきなのだろうか。それとも、先ほど会った時のように避け続けるべきなのだろうか。

「彼女は……きっと病気なんだ。助かるかどうかなんて分からない。だから、後悔を晴らそうとしたって更なる後悔を背負うことになるかもしれない。僕にはどちらも選べない。選びたくない。今までずっと、葉月が僕を導いてくれたからだ」

 僕にとって、葉月はそれくらい大きな存在だった。彼女が、僕の道標だった。

 結局、終わりのない問いに答えを見つけ出すことができず僕は立ち上がった。

「君の前で話せたからスッキリしたよ。ありがとう」

 言ってから、僕は葉月のお供え物を眺める。僕が持って来た物とは別に、いくつかのお菓子とジュースが供えてあった。

 どれも葉月の好きなお菓子だ。今朝立夏たちが供えたものだろう。

 昔みんなで一緒に飲んだサイダー。一緒に食べた駄菓子。それらを見ていると、少しだけ懐かしい気持ちになる。

 僕は帰りながら、取り替えたお供え物のサイダーを開けた。プシュッという音と共に、サイダーの良い香りが立ち昇る。飲み口に耳を近づけるとシュワシュワと炭酸の弾ける音がした。

 中身はすっかりぬるくなっていたが、思い出の味は、全く変わっていなかった。

 このサイダーの缶をマイクがわりにして葉月が歌っていた曲を思い出す。サビのワンフレーズしか覚えてないし、何の歌だったかは忘れてしまったが、そのことがとても印象に残っていた。

『悲しみは消えるというなら喜びだってそういうものだろう』

 彼女の鈴の音のように美しい歌声と、この歌詞だけははっきりと覚えている。

「この歌、すっごく良い歌なんだよ! 良かったらみんな聞いてみてよ!」

 歌い終わった葉月がいつもそう言っていた。でも、歌の題名が思い出せない。

 いつも前向きな葉月が歌うにしては少し消極的な歌詞だな、なんて思いながら聞いていた。確かに、悲しみがいずれ消えるのなら喜びだって消えてしまうのかもしれない。

 なんだかこのまま家に帰るのもためらわれた。今家に帰って、《透明化》の少女が起きていたら嫌だから。答えが見つからない今、彼女と顔を合わせたくない。それが逃げだというのは分かっている。ただの時間稼ぎだということも分かっている。

 僕は小さなため息をついて、少女と始めて出会った浜辺へと下りた。しっとりと冷たい砂に腰を下ろして、ぼんやりと空を眺める。

 死んだ人間はお星様になる。

 どこで学んだか覚えていないが、いつからか脳に刷り込まれていた言葉だ。

 空には無数の星が広がっていた。その中の一つが、きっと葉月だ。彼女は今、無限のように広い宇宙の中を漂っているんだろう。

「まるで宇宙飛行士だ」

 星になって宇宙に行った彼女は夜にしか顔を出してくれない。そう思っていたが、今は考えが変わった。

 夜に彼女を見れるだけで充分だ。なんて、いつしかそう思うようになっていた。