放課後――僕はすぐに教室を出た。別に居心地が悪いとかそういうのではない。立夏や清涼に再び声をかけられるのが嫌だからってわけでもない。嫌ではあるが、すぐに交わせるからだ。

 今はとにかく一人になりたい。一人の時間が欲しかった。基本的にお前は一人でいるじゃないかと思うかもしれないが、今の僕が求めているのは完璧な一人だ。近くに誰一人としておらず、あるのは自然が創り出す音だけの静かな世界。

 そこで落ち着きたい。ゆっくりとこの乱れた感情を沈めたい。

 外に出ると、空は未だ青いままで、海の上には天高く伸びる入道雲が浮かんでいた。至る所から聞こえる蝉時雨が心地よく鼓膜を打った。

 帰り道と反対側に向かって歩いて行く。そっち側に目的の場所があるんだ。

 僕の周りにはまだ下校途中の生徒達が大勢いた。彼らを避けるように僕は道路の端、海側の方に備え付けられている階段へ向かう。

 この道路は坂道のようになっていて、海側の道には海沿いの道路へ続く階段が付いているところがある。ジェットコースターの横に付いてある係員用の階段みたいなものだと思ってくれていい。岩を削って作った階段で、ステンレス製の柵がついた丈夫な作りになっているが、高さによる恐怖からあまり利用されていない。

 下り方面へ向かって伸びている階段を一段一段慎重に降りて行く。

 しばらく歩いた所に、小さな踊り場のようなところがある。

 そこが僕のお気に入りスポットだ。嫌なことがあると、良くここに来ていた。

 柵からぶらんと足を放り出して踊り場に腰を下ろした。

 眼前には広大すぎる海が広がっている。空へと伸びる雲。海へ向かって滑空する鳥。耳元を通り過ぎる風の音。岩場に当たるさざなみのリズム。

 ここに来ると、現実を忘れられる。水平線の向こう側に連れて行ってもらっているような気になる。

 しばらく海を眺めてから今さっき降りてきた階段に視線を移した。

 ゴツゴツとした岩の階段がどこまでも続いている。昔よく、ここで千と千尋の神隠しごっこをした。

 千が釜爺の元へ行くために降りた階段。あれを連想した当時の僕達はここの危険度も知らずにこの危ない階段を駆け下りていた。

 一人になって、自然の力を借りて、頭から今日のことを振り払おうとしてみても、結局のところ過去へ、葉月へ行き着いてしまう。

 辛くなった時、苦しくなった時、最終的に助けてくれたのは昔の記憶達だ。

 過去は美しいものだから。この記憶は僕の逃げ道なんだと、自分に言い聞かせる。だから、僕は立夏や清涼と友達に戻りたいと思っているわけではない。

 海の上に光の道を作りながら、陽が沈みかけていた。

 もう、家に帰ろうと思った。

 ここは暗くなったら危ない。足を滑らせたりしたら大変だ。そう思った瞬間、葉月のことが頭に浮かんだ。僕は慌てて頭を振って、その想像を振り払った。

 事故だけは、何が何でも起こしてはならない。

 一段一段、階段を慎重に降りて行く。陽はまだ完全に暮れきってはいないが、階段を下り終わる頃には空は真っ赤に染まっていた。

 海沿いの道路に降り立ち、夕日に照らされた緋色の海を横目に歩く。風に流された砂浜の砂が、靴底と擦れ合いじゃりじゃりと音を立てている。

 しばらく進んでいるとバス停が見えて来た。小屋のような木製の休憩所があるバス停だ。小屋の中には青いベンチがあって、何度かそこで雨宿りをしたことがある。そのバス停の前を通り過ぎようと歩いた時、背筋が凍りついた。

 そのベンチの前に、今朝会った女の子が倒れていたからだ。あの、カーディガンを羽織っていた少女だ。彼女が、苦しそうに顔を歪めて倒れていた。

 酷く呼吸が乱れていて、額にはあぶら汗が浮かんでいる。死んだ葉月や父母の姿が頭の中にフラッシュバックする。

 僕は頭の中に蘇って来た彼らの姿を振り払い、倒れている少女に駆け寄った。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

 この状況を見過ごせるほど腐った覚えはない。

「う……うぅ……」

 少女は呻き声を上げていた。どうやら意識はあるようだ。

「とりあえず救急車をよびます。もう少しですから、頑張ってください」

 救急車を呼ぼうとケータイを取り出した時だ。

「待……って……くだ……さい」

 少女が震える腕を伸ばして、力無く僕のケータイを掴んできた。

「お、お願い……です……救急車は……呼ばないで」

 振り絞って出した微かな声で、彼女は必死に訴えてくる。

「でも、君。凄く苦しそうだ」

「お願い……です……から……辞めて……ください。できれば……貴方の家まで……連れて行って……くだ……さい……たす……け……」

 少女はそこまで言うと意識を失ってしまった。

 どうするべきなんだ。

 彼女を僕の家まで連れて行くべきなんだろうか。

 今も少女は身体を汗でぐっしょりと濡らしながら荒い息を立てている。

 救急車は呼ぶなと言われた。家まで連れて行ってくれと頼まれた。

 でも、彼女をこのまま家まで連れて行ったら、僕は彼女を失った時にまた心に深い傷を負うかもしれない。このまま彼女を見捨てたならば、僕は今罪悪感を覚えるだけで済むだろうか。

 だが、彼女は最後なんと言いかけていた。

 苦しむ少女の横顔が、葉月の顔と重なって見えた。

 ああ、ダメだ。そんな風に見えてしまったら見捨てることなんてできない。

 彼女の身を案じるならば救急車を呼ぶのが一番だろう。ただ、彼女がこんなに苦しみながらも、意識を失う寸前でありながらも、救急車を拒んだということには、何かそれなりの理由があるはずだ。

「僕はやっぱり弱いな。弱すぎて自分で自分が嫌になる」

 人とは関わりたくないと自分で決めたはずなのに、かつての友人さえも拒んできたはずなのに、僕は彼女を背負って歩き出していた。