クラスに着く頃にはいつも教室の連中はあらかた登校し終わっている。僕がクラスに入ったところでクラスの喧騒になんら変化はない。夏に鳴く蝉の数が一匹増えたことを誰も気にしないのと同じようなものだ。
空っぽの鞄をロッカーに入れてから席に着く。小さなため息をついてから机に突っ伏した。
目を閉じて暗闇に意識を委ねると、今朝姉さんに言われた言葉が頭の中をぐるぐると回り始める。
清涼と立夏は僕の幼馴染だ。昔は仲が良かった。でも、葉月が死んでからは会話をしていない。正直なところ会話をしていないわけではないが、僕が一方的に避けている。
僕はもうこれ以上、大切なものを失いたくないんだ。父を亡くし、母を亡くし、大好きだった幼馴染までもを亡くした。その度に言葉では言い表せないような喪失感に襲われて、どうしようもないくらい悲しくなった。打ちのめされた。
失いたくなければ、初めから手に入らなければいい。そう思ってから僕は友人関係などを全て断ち切った。
葉月と清涼と立花。あの四人で過ごした輝かしい日々さえ無ければ、こんなにも傷つくことは無かった。
初めから何も知らなければ、葉月と出会ってなければ、葉月を失うことも無かったんだ。
だから僕は、そういう人生を目指した。喜びもなければ悲しみもない。そんな起伏のない平坦な人生を手に入れようと思った。それが傷みから逃れる唯一の方法だと思ったからだ。信じたからだ。
僕は空気でいい。風のように何もかもをすり抜けていきたい。目の前にボタンがあったとしても、僕はそれを押さない。どうしてもというのなら誰かがそのボタンを押すまで待つ。
能動的ではなく、受動的に、そういう生き方を選んだ。
人と関わる時も踏み込みすぎず、適度な会話で終わらせる。そういうことを心がけて過ごして来た。
姉さんはそれを強さではないと言った。それには同感だ。孤独でいられることが強さではないことくらいは分かっている。姉さんは少し勘違いをしているんだ。僕は自分が強いだなんて思っていない。僕は弱い。弱くて、脆くて、触ったら一瞬にして崩壊してしまいそうな、そんな繊細な心を持っているから、それを守るために逃げ出したんだ。
逃げたことによってどうなるか。逃げたことによってどうするか。それが一番大事なんだと思っている。
僕はもう自分の心の限界を感じた。だから、逃げた。それだけのことなんだ。
誰にも触れられることなく、透明人間のようになっていたい。そうしていたいのだが――
そこで思考の波が途切れる。トントンと、指で机を叩く音が聞こえたからだ。
「おはよう。太陽」
ほとんど反射的に顔を上げてしまう。そこには清涼が立っていた。長月清涼――僕の幼馴染みの一人。彼は夏の朝にぴったりな爽やかな笑顔で僕を見ている。
その隣に立っているのはこれもまた元幼馴染の打水立夏だ。
「今朝清涼と一緒に葉月のお墓に行ったんだよ。そしたらお供え物があったからさ。太陽のやつかなって思ったんだけど、違う?」
立夏も夏ぴったりのお日様のように眩しい笑顔で喋り出す。
清涼は少し伸びたスポーツ刈りのような髪型をしていて、体格もでかい。頭脳明晰スポーツ万能、クラスの人気者だ。
立夏は髪を肩辺りで切りそろえていて、全体的に細く、すらっとしている。バスケ部のエースで男子からの人気も高い。
空気のように過ごしていたいのだが、そんな人気者の二人が時々話しかけてくる。そんな様子をクラスメイトは毎回訝しんで見ていた。
なぜあの二人があんな奴に、みたいな感じで。今も現にコソコソと囁き合っている。
今朝のような赤の他人ならば、踏み込みすぎずドライに一歩距離を置いて会話をすることができるのだが、この二人の場合そうはいかない。
幼馴染として数年間過ごしていた記憶、さらには葉月の記憶が刺激されてしまうため、少し感情的になってしまうのだ。具体的にいうと気を抜くと昔のように心を許してしまいそうになる。
「そうだよ。僕が行ったんだ」
できるだけ二人に視線を合わせないように、視線を窓の外にある海に向けて言う。
「あ、やっぱりそうだったんだね」
「もし太陽が墓参りに行ってたら放課後もう一回一緒に行ってみたいなって立夏と話してたんだ」
二人揃って「良かったら一緒に行かない?」と聞いてきた。
僕は海を眺めたまま少しだけ考える素振りを見せる。
答えはノーだ。即決できる。
この二人と葉月の墓参りになんて行ったら苦しくて苦しくて仕方ないだろう。
建前として少しだけ悩むんだ。そうすることによって相手に負わせる傷を最小限にすることができる。
喋り掛けられたくないのならいっそ突っぱねてしまえばいいと思うかもしれない。だが、僕にはそれがどうしてもできなかった。こういうところでも、僕はとても弱い。
「誘ってくれたのは嬉しいんだけどさ。今日は放課後にどうしても外せない用事があるんだ。ごめんね」
こういう場合『また良かったら誘ってよ』と付け足さないことがミソだ。
僕が言うと立夏は悲しそうな表情で「そっか」とだけ呟いた。
「予定が悪かったならしゃあないな。また今度よろしく頼むよ」
清涼は立夏の背中をぽんぽんと叩きながら、笑顔を崩さずに言ってくれた。そのまま二人ともそれぞれの席へ戻る。
朝の光が教室中に充満していた。僕の前から去って行く二人の背中は、透明な光も相まって悲しげに見える。
僕はそんな二人の様子を、目を細めながら眺めていた。僕はいったい何をどうしたいんだろうか。
朝の姉さんの言葉が再び脳内に反響する。僕は確かに弱い。でも、弱いままでいい。今のままでいいんだ。きっと、失敗はしない。だって、そうすれば失うものなんて何も無いんだから。これ以上下がりようがない。だからこれでいいんだ。壊れることだってないはずだ。
空っぽの鞄をロッカーに入れてから席に着く。小さなため息をついてから机に突っ伏した。
目を閉じて暗闇に意識を委ねると、今朝姉さんに言われた言葉が頭の中をぐるぐると回り始める。
清涼と立夏は僕の幼馴染だ。昔は仲が良かった。でも、葉月が死んでからは会話をしていない。正直なところ会話をしていないわけではないが、僕が一方的に避けている。
僕はもうこれ以上、大切なものを失いたくないんだ。父を亡くし、母を亡くし、大好きだった幼馴染までもを亡くした。その度に言葉では言い表せないような喪失感に襲われて、どうしようもないくらい悲しくなった。打ちのめされた。
失いたくなければ、初めから手に入らなければいい。そう思ってから僕は友人関係などを全て断ち切った。
葉月と清涼と立花。あの四人で過ごした輝かしい日々さえ無ければ、こんなにも傷つくことは無かった。
初めから何も知らなければ、葉月と出会ってなければ、葉月を失うことも無かったんだ。
だから僕は、そういう人生を目指した。喜びもなければ悲しみもない。そんな起伏のない平坦な人生を手に入れようと思った。それが傷みから逃れる唯一の方法だと思ったからだ。信じたからだ。
僕は空気でいい。風のように何もかもをすり抜けていきたい。目の前にボタンがあったとしても、僕はそれを押さない。どうしてもというのなら誰かがそのボタンを押すまで待つ。
能動的ではなく、受動的に、そういう生き方を選んだ。
人と関わる時も踏み込みすぎず、適度な会話で終わらせる。そういうことを心がけて過ごして来た。
姉さんはそれを強さではないと言った。それには同感だ。孤独でいられることが強さではないことくらいは分かっている。姉さんは少し勘違いをしているんだ。僕は自分が強いだなんて思っていない。僕は弱い。弱くて、脆くて、触ったら一瞬にして崩壊してしまいそうな、そんな繊細な心を持っているから、それを守るために逃げ出したんだ。
逃げたことによってどうなるか。逃げたことによってどうするか。それが一番大事なんだと思っている。
僕はもう自分の心の限界を感じた。だから、逃げた。それだけのことなんだ。
誰にも触れられることなく、透明人間のようになっていたい。そうしていたいのだが――
そこで思考の波が途切れる。トントンと、指で机を叩く音が聞こえたからだ。
「おはよう。太陽」
ほとんど反射的に顔を上げてしまう。そこには清涼が立っていた。長月清涼――僕の幼馴染みの一人。彼は夏の朝にぴったりな爽やかな笑顔で僕を見ている。
その隣に立っているのはこれもまた元幼馴染の打水立夏だ。
「今朝清涼と一緒に葉月のお墓に行ったんだよ。そしたらお供え物があったからさ。太陽のやつかなって思ったんだけど、違う?」
立夏も夏ぴったりのお日様のように眩しい笑顔で喋り出す。
清涼は少し伸びたスポーツ刈りのような髪型をしていて、体格もでかい。頭脳明晰スポーツ万能、クラスの人気者だ。
立夏は髪を肩辺りで切りそろえていて、全体的に細く、すらっとしている。バスケ部のエースで男子からの人気も高い。
空気のように過ごしていたいのだが、そんな人気者の二人が時々話しかけてくる。そんな様子をクラスメイトは毎回訝しんで見ていた。
なぜあの二人があんな奴に、みたいな感じで。今も現にコソコソと囁き合っている。
今朝のような赤の他人ならば、踏み込みすぎずドライに一歩距離を置いて会話をすることができるのだが、この二人の場合そうはいかない。
幼馴染として数年間過ごしていた記憶、さらには葉月の記憶が刺激されてしまうため、少し感情的になってしまうのだ。具体的にいうと気を抜くと昔のように心を許してしまいそうになる。
「そうだよ。僕が行ったんだ」
できるだけ二人に視線を合わせないように、視線を窓の外にある海に向けて言う。
「あ、やっぱりそうだったんだね」
「もし太陽が墓参りに行ってたら放課後もう一回一緒に行ってみたいなって立夏と話してたんだ」
二人揃って「良かったら一緒に行かない?」と聞いてきた。
僕は海を眺めたまま少しだけ考える素振りを見せる。
答えはノーだ。即決できる。
この二人と葉月の墓参りになんて行ったら苦しくて苦しくて仕方ないだろう。
建前として少しだけ悩むんだ。そうすることによって相手に負わせる傷を最小限にすることができる。
喋り掛けられたくないのならいっそ突っぱねてしまえばいいと思うかもしれない。だが、僕にはそれがどうしてもできなかった。こういうところでも、僕はとても弱い。
「誘ってくれたのは嬉しいんだけどさ。今日は放課後にどうしても外せない用事があるんだ。ごめんね」
こういう場合『また良かったら誘ってよ』と付け足さないことがミソだ。
僕が言うと立夏は悲しそうな表情で「そっか」とだけ呟いた。
「予定が悪かったならしゃあないな。また今度よろしく頼むよ」
清涼は立夏の背中をぽんぽんと叩きながら、笑顔を崩さずに言ってくれた。そのまま二人ともそれぞれの席へ戻る。
朝の光が教室中に充満していた。僕の前から去って行く二人の背中は、透明な光も相まって悲しげに見える。
僕はそんな二人の様子を、目を細めながら眺めていた。僕はいったい何をどうしたいんだろうか。
朝の姉さんの言葉が再び脳内に反響する。僕は確かに弱い。でも、弱いままでいい。今のままでいいんだ。きっと、失敗はしない。だって、そうすれば失うものなんて何も無いんだから。これ以上下がりようがない。だからこれでいいんだ。壊れることだってないはずだ。