ライブが終わってから、僕はすぐに学校を出た。文化祭は終わっていなかったが、それよりも大切なことがある。

 僕は花火や清涼、立夏に別れを告げてから走り出した。

 学校を出て、坂道を全速力でくだっていく。

 あの日を、過去を、乗り越えるんだ。

 僕は今、葉月の実家へと向かっている。

 四年前から一度も行けていない、葉月の家に。

「頼む葉月。僕に力を貸してくれ」

 夏の暖かな風に背中を押され、僕は進んで行く。力強くアスファルトを蹴って、前に前に、進んで行く。

 しばらく走って、葉月の家の前へ着いた。

 呼吸を整えて、集中する。

 息が荒いのは疲れてるせいじゃない。とても緊張している。

 駄菓子屋で見た時の立夏も、こんな風に緊張していたんだろう。

 立夏だってやり遂げたんだ。僕だって頑張らなくちゃな。

 インターフォンを押した。

 ピンポーンと電子音が鳴る。しばらくして、マイクから声が聞こえてきた。

「はい。どちら様でしょうか?」

 忘れもしない。葉月の母の声だ。緊張する。時間がゆっくりと感じられた。ゴクリと唾を飲み込んでから、答える。

「お……お久しぶりです。あの……涼風太陽です」

 一瞬だけ沈黙が流れる。一瞬のはずなのに、その沈黙が永遠のことのように感じた。

「ああ、太陽くんね。ちょっと待っててね」

 葉月のお母さんの声が聞こえてくる。

 ガチャリと扉が開き、葉月のお母さんが顔を出す。

 しばらく見ない間に、随分と老け込んでしまったな。僕の両親も、生きていれば今頃こんな感じになっていたのだろうか。

「随分と男らしくなっちゃって。葉月に会いに来てくれたんでしょう。ほら、上がって上がって」

 葉月のお母さんは僕を見て、瞳を細めた。まるで、昔を懐かしむかのように。そして、手招きをして僕を家に入れてくれる。

 和室に通される。部屋の隅、窓の隣に、仏壇が置いてあった。そこに、葉月の遺影があった。彼女のお日様のように眩しい笑顔が、窓から漏れる陽の光に照らされている。

「ほら、葉月。太陽くんが来てくれたよ」

 葉月のお母さんが仏壇の横に座り、葉月に話しかける。

「良かったら、お線香でもあげてくれないかしら。きっと、葉月も喜ぶと思うの」

「はい。もちろんです」

 座布団の上に座り、マッチを使って線香に火を付ける。

 線香を供えてから、手を合わせて、瞳を閉じた。

 様々な思いがこみ上げてくる。

 あの日ついて行かなかった後悔。もう会いたくないと言ってしまった後悔。そして、好きだと言えなかった後悔。思い返せば、後悔ばかりだ。

 葉月の言葉で、今の僕がいる。君は死して尚、僕の背中を押してくれているんだ。

 ありがとう。そして、今までごめん。

 もう一度、力を貸して欲しい。

 思いの丈をぶつけて、瞳を開ける。

 葉月のお母さんの方に向き直ると、彼女は目尻に涙を浮かべていた。

「ああ、ごめんなさい。ちょっと嬉しくてね。やっと、太陽くんが家に来てくれたね。良かったねって。葉月に言ってあげられると思うとね」

 葉月のお母さんは涙を拭いながら、そんなことを言ってくれた。

「どう? 良かったら葉月の部屋に久しぶりに入ってみない? きっと葉月も喜んでくれるわ」

 僕は、こみ上げてくる感情を堪えて言った。 
「はい。ぜひお願いします」

 二階に移動して、葉月の部屋まで案内してもらう。

「分かってると思うけどここが葉月の部屋よ。私は下に降りてるけど、ゆっくりして行ってね」

 そう言うと、葉月のお母さんは下へ降りて行った。気を使ってくれたのか、それとも、泣く姿を隠したかったのだろうか。

 僕はゆっくりと深呼吸をしてから、ドアノブに手をかけた。

 扉を開けて、猛烈な懐かしさに襲われた。

 四年前と何一つ変わっていない。

 ピンク色のカーテン。木製の勉強机に、ベッド、本棚があの頃と同じ姿で置いてあった。

 机の棚には当時使っていた教科書がそのままある。

 この部屋の時間は四年前から止まっていた。何から何まで、あの頃のままだった。

 本棚の上にはバスケ部時代の写真や、僕とのツーショット、清涼、立夏、僕、葉月で出かけた時に撮った写真などが飾られていた。

 それだけでもう、胸がいっぱいになる。

 僕は押し寄せる感情を必死に抑えながら、机の前まで歩いた。

 彼女の机の上には一冊のノートが置いてある。ノートの表紙には『日記帳』と書いてあった。きっとここに、神隠しの神社が書いてあるはずだ。

「ごめんな葉月。ちょっと、見させてもらうよ」

 僕は一枚一枚、ノートのページをめくっていく。

【4月10日
 今日は入学式。太陽と同じクラスになれたみたい。これからもみんなと仲良くやっていきたいな】

【5月13日
 今日は気分が悪かった。なんでか分からないけど太陽が立夏と二人で遊びに行ってるのが嫌。私も誘って欲しかった】

【5月16日
 今日は私の誕生日。太陽と立夏と清涼が来て祝ってくれた。この前出かけてたのは私の誕生日のためだったみたい。昨日冷たくして損してしまった】

 ページをめくる手が、震える。堪えきれない思いが、こみ上げてくる。

【6月8日
 今日は太陽と海に遊びに行った。懐かしの海の家の前で集合して楽しかった。太陽が私の水着にデレデレだったので非常に気分が良い!! いい夢が見れそうだ】

【6月28日
 私は神隠しに興味を持ってしまった。今日見た映画がとても面白かったから。私も素敵な王子様と出会いたい】

【7月12日
 色々調べた結果、神奈神社が怪しいらしい。明日太陽を誘って行ってみようと思う。行ってくれるかな? 一緒に行けたら嬉しい】

 僕の中の、何かが弾けた。堪えきれず、ポタポタと涙がこぼれ落ちる。

 ああ、僕はなんて馬鹿な男だったんだろうか。葉月の日記には僕のことが多く書かれていた。学校での些細な出来事や、出かけた時のこと。非常に多くのことが書かれていた。

 一緒に行けたら嬉しい。そう思ってくれていたのに……僕は、大馬鹿野郎だ。

 こんな後悔は、二度としてはいけない。

 神奈神社――ここがパワースポットだ。

 一通り泣いてから、僕はノートを閉じる。いつまでも、めそめそしていられないな。

「ありがとう葉月。僕に力を貸してくれて」

 葉月の言葉が、時を超えて僕に届いた。ありがとう。本当に。僕は君に出会えて本当に良かった。僕の心にできた空っぽは、葉月が僕の心にいたことを表している。

 僕は一生、この空っぽを抱きしめていくよ。

「じゃあ、またね」

 僕は椅子に向かって手を振った。そこに、彼女がいる気がしたからだ。

 後ろを向いた瞬間――ふわっと、暖かい風が吹いて、僕の背中をそっと押した。

 慌てて振り返る。ピンク色のカーテンが風になびいて、海を泳ぐ魚のようにゆらゆらと揺れていた。いったいいつから窓が開いていたのだろうか。部屋に入った時からだろうか。

 いや、そんな野暮なことは考えなくていいか。葉月が僕に『頑張れ』と言ってくれている。そうだと信じよう。

 僕は部屋を出て葉月のお母さんに別れの挨拶を済ませてから、再び学校へ向かった。

 葉月のお母さんは赤く腫れぼったい瞳をしていたが、笑顔で僕を送り出してくれた。