息を切らしながら、必死に走る。

 花火に心をこじ開けてもらって、立夏に背中を押してもらった。

 後は、僕が決意するだけだ。恐怖を、乗り換えるだけだ。

 立夏の覚悟を、僕は確かに受け取った。彼女は僕のところに来るのが怖かったはずだ。僕が花火のことが好きだというのを知っているのに、来てくれた。

 何も得がないのに、傷つくことになるのに、彼女は来てくれた。そして、背中を押してくれただけじゃなく、閉ざされかかっていた心をも、開いてくれた。

 その想いに、応えなくてはならない。

 でも、驚いたな。立夏がまさか僕に好意を抱いてくれていたなんて。そうだ。立夏はその勇気を僕に与えてくれた。覚悟だけじゃない。勇気も確かに受け取った。僕はもう、一人じゃない。恐怖から瞳を背けてられない。花火を助ける。まだ諦めない。まだ、粘れるはずだ。

 新たな決意を胸に、僕は走った。走り続けた。しばらく走って、家の前に着く。

 ポタポタと汗が滴り落ち、アスファルトに雨水のような斑点を作る。

 身体は汗でびっしょりで、服が胸にべったりと張り付いていた。

 でも、そんなの気にしていられない。

 僕は扉を開けて家の中に入った。

「ただいま」

 僕がそう言うとドタドタと階段を駆け下りて来る音が聞こえてきた。

「おう。太陽か、遅いぞ」

 階段から降りて来たのは姉さんだ。姉さんはホッとしたような表情で、僕を迎えてくれた。

「あれ? 清涼くんと立夏ちゃんは?」

「ああ。立夏に色々としてもらったよ。背中、押してもらった。立夏が気を利かせて、僕を先に帰してくれたんだ」

 姉さんは納得といった感じで頷いて「なるほどな」と呟いた。

「姉さん。本当に迷惑をかけた。ごめん。今、花火に会えるかな?」

 僕は深々と頭を下げてから、姉さんに聞いた。

 本当に迷惑をかけたと思ってる。姉さんだけにじゃない、僕にはもっともっと、謝らなければならない人が沢山いる。

「ああ、大丈夫だ。それに、花火ちゃんもお前を待ってるよ」

 姉さんにタオルを貰って汗を拭いてから、シャツを着替える。そして、僕は二階に上がった。

 姉さんは気を利かせて「下で待ってるから」と言ってくれた。

 花火の部屋の前に立ち、大きく深呼吸をした。「良し」と小さく呟いて、ノックする。
 今まで、花火が悩んでいると知っていながら、何もできなかった。

 僕はいっぱい貰っていたというのに、何もできなかった。

 ボロボロで、寒くて、光なんてない。そんな真っ暗な部屋から、彼女は僕を引っ張り出してくれた。

 今度は、僕の番だ。

 僕が、彼女を救い出すんだ。

 ガチャリとドアノブを回す音がする。

「太陽くんですか?」

 ドアが開き、花火が顔を出した。

「うん。帰って来たよ」

 花火は、僕の事を相当心配してくれていたのだろうか、それとも病気の恐怖に怯えていたのだろうか、とても不安気な表情をしていた。僕は花火を安心させようと、出来るだけ笑顔で彼女を見る。

「ちょっと、話さないといけないことがあるんです」

 そう言って、花火は僕を部屋に入れてくれた。

 彼女は布団の上に、僕は座布団の上に座る。

「これを見て欲しいんです」

 頬を赤く染めながら、ゆっくりと、彼女は上着を脱ぎ始めた。

 きっと、自分の身体の半分が透明化したのを見せようとしているんだろう。恥ずかしいのに、包み隠さず見せてくれようとしているんだ。

「いや、脱がなくていいよ。立夏から聞いてる。今回の発作で身体の半分が透明化しちゃったんでしょ」

 言っていて、胸が締め付けられる。ずしんと、鉛のような空気が肩にのしかかってきた。それでも、もう逃げられない。

「聞いていましたか。そうなんですよ。思っていたよりも早く、リミットが迫って来ているみたいなんです」

 花火は瞳を伏せながら、そう呟いた。

 花火の話では、身体の半分を透化病に蝕まれたら、後は一気に来るらしい。一週間と、その身体は持たないという。

 その現実を突きつけられた時、いったいどんな気持ちになるだろうか。そんなの、僕の絶望より辛いに決まってるじゃないか。僕の想像の及ばないくらいに、苦しいに決まってるじゃないか。

 僕は今まで、いったい何をやっていたんだ。
 あんなに時間がありながら、なんて無駄な時間を過ごして来たんだ。

 その時間を取り戻すように、僕は言葉を一つ一つ選びながら、話し始める。

 何と言えばいいのか分からなかった言葉を、一つ一つ、選んでいく。

「花火。僕は正直、君と離れたくない」

 僕は、はっきりと本心を彼女に告げた。その本心は、彼女に帰らないでくれと言っているようなものだ。帰らないとは、つまりここで死んでくれと、そう言っているようなものだ。

「でも、それでも、それ以上に、僕は君に生きていて欲しい。離れ離れになっても、きっと僕達は繋がっている。だから、まだ諦めないでいよう。まだ君は死んでない。死ぬ必要なんてない。僕が、君を生きて帰らせる」

 離れ離れになるのは嫌だ。それでも、やはり花火には生きていて欲しい。それが、一番の本音だ。

 涙を必死に堪えながら、喉を震わせながら、僕は言った。決して、格好いい姿ではない。それでも、そんなのはなりふり構わずに、僕は言った。彼女の心に響いてくれと願いながら。

「花火は言ってたよね。『こっちの世界に来たこと、幸せを知ったことは間違いだったのでしょうか』って」

 花火は僕の方を向いて「はい」と頷いた。その表情は読み取りづらく、彼女がどんな感情を抱いているのか分からない。それでも構わず、僕は続けた。

「僕は全く、間違いだなんて思ってないよ。だって僕は、君と出会えて良かったと思ってるから。花火は僕を救ってくれた。僕の空っぽを、満たしてくれたんだ。僕は昔、花火に出会うまでは自分の殻に閉じこもって、外を拒絶してきた。それでも、君と出会って楽しいと思えることが増えたんだ。この気持ちは、知らないと損だよ。自分がこんな事を言えるようになるなんて、思ってもみなかったさ。それもこれも、君と出会えたからなんだ。この幸せな気持ちは知っていた方がいいに決まってる」

 幸せを知った分だけ別れが辛くなると逃げていた僕がこんな事を言えるなんて、本当に矛盾しているなと思う。それでも、今は本当にそういう気持ちだった。空っぽに襲われることは凄く悲しい。でも、それよりも、幸せを知らない方が悲しいんだ。花火と過ごした時間が、立夏と清涼と過ごした時間が、僕にそれを気付かせてくれた。僕の空っぽは、楽しかったことの証明になるんだ。だから、この愛しい空っぽは、抱きしめ続けようと思う。

「僕だって花火ともっともっと思い出を作りたかったよ。冬になって、白い息を吐きながら、花火が僕のコートに手を入れてくれたらなって。考えてもみた。でもさ、今しかできないことがきっとあるはずなんだ。その今しかできないことの中で、僕は花火に喜びの感情を与えたい。他でもない大好きな君を、僕の手で救いたいんだ。花火、君は『どうしたらいいんでしょうか』って、迷ってたよね。僕はこう思うんだ。残された時間の中で、後悔がないように、やりたいことを、思った事を、全てやる。僕は花火に、そうして欲しい。これが答えだとは限らない。ありきたりで、誰でも思いつく答えだと思う。それでも、やらないよりはマシだ。これが、僕の答えだ」

 思いの丈を全て花火にぶつけた。色々な人に背中を押してもらって、ようやく。本当に、僕は恵まれている。立夏がいなかったら、清涼がいなかったら、姉さんがいなかったら、花火がいなかったら、そして、葉月がいなかったら、今僕はこんな事を言えていないだろう。たどたどしくて、どこまで彼女に伝わったのかは分からない。それでも、少しでも響いてくれたらと思う。生きる糧に、なってくれたらと思うんだ。

 花火は涙を拭いながら僕の話を聞いていた。そして、唐突に笑い出す。

「あはははっ」

なぜだろうか、何か変なことでも言ってしまったか。一瞬だけ理由を考えたけど、すぐに辞めた。笑われようが何だろうが、今はもう花火が笑ってくれてるだけで嬉しい。僕の言葉で笑ってくれたことが、とても嬉しい。

「いや、ごめんなさい。やっぱりか。何となく、そんな気はしてたんですよね。ちょっと、似てたんです」

花火は目尻に浮かべた涙をぬぐいながら言った。何のことだかさっぱり分からない。それでも、この泣き笑いは嬉しかった。さっきまでの涙と違う。嬉しさから来る涙だと、そう感じれたからだ。

「ありがとうございます。太陽くんの気持ち、しっかりと届きました」

 そう言ってから、花火は僕に抱き付いてきた。そして、僕の唇に、唇を重ねてくれる。

「ちょ、花火! いきなり何してるの!?」

 花火は瞳をこすりながら、再び「あはははっ」と笑った。

「後悔がないように思った事をやりたいことを全てやれって言ったのは、太陽くんですよ?」

 顔が赤くなっていくのが手に取るように分かる。僕は花火の顔を真っ直ぐに見つめるのがこそばゆくて、瞳を晒してしまう。

「こっちを見てください。確かに、太陽くんの話はありきたりで、ぐだぐだで、それに長かった。それでも、他の誰でもない太陽くんの話だからこそ、私の胸に響きました。今は寂しさとか悲しみとか……恐怖よりも、嬉しさの方が勝っています。だから、私のゲージが満たされました」

 花火は笑ったまま、右腕の機械を見せてくる。その表情は力強く、何か一つの覚悟ができたような、そんな表情だった。僕の言葉で、生きるんだと覚悟を決めてくれたのだとしたら、とても嬉しい。

 しかし僕はそのことが信じられなくて、ゆっくりと、彼女に近づいていく。

「ほんとに……僕なんかの言葉で……」

 確かに、確実に、十個目のタンクが、満たされていた。

 喜びの感情が込み上げてくる。でも、それと同時に、信じられないという思いが強まった。僕の言葉が響いて欲しいとは思っていた。それでも、本当に響いてくれるなんて思ってもみなかったからだ。だって、僕の言葉は的を得ていたのかも曖昧だ。ただ、僕が言いたかった事を言っただけだ。なのに……どうして……。

「だから言ったじゃないですか。他の誰でもない、太陽くんの言葉だからですよ。信じてください」

 そう言って、花火は立ち上がった。

「嬉しい。とっても嬉しいよ。でも、なんで……僕なんかの言葉で……だって、だって僕は、花火に何もしてあげられなかった。君は苦しんでいたのに、手を差し伸べることすらできなかった。君は僕を助けてくれたのに、真っ暗な部屋をこじ開けて、僕を照らしてくれたのに、僕は何もできなかった。それなのに、どうして……」

 花火はゆっくりと、近づいて来る。

「ううん。違うんです。私の方が太陽くんに助けられていたんです。私はあっちの世界にいた頃、孤独だった。何もなかった。透化病にかかる前から透明人間のような存在でした。そんな私を太陽くんが引っ張り出してくれたんです。喜びを教えてくれたんです。希望をくれたんです。透明だった私の身体は、太陽くんとの思い出で色鮮やかに彩られています。貴方は、まさに私の太陽でした。私を照らしてくれたんです。今も、昔も、だから、ゲージが満たされたんですよ」

 そう言って、花火はぎゅっと僕を抱きしめた。力強く、抱きしめてくれた。

 喜びの感情が爆発する。そんな風に思ってくれていたなんて、思っていなかった。ああ、僕は本当に愚か者だ。そして、戻ってこれて良かった。

 僕は、力強く彼女を抱き返した。

「ありがとう……花火」

 そこで、僕は気づいてしまう。

 ゲージが満たされたということは、花火もうこの世界にいる必要はないのだ。

 今すぐにでも新たな並行世界に移動して、少しでも早く治療を受けた方がいい。花火にとって、文字通り命を賭けた最後の賭けだ。その世界に透化病の治療法がなければ、彼女は死んでしまう。

 やっぱり、いざ彼女が移動してしまうと考えると悲しいな。それでも、僕は花火に生きていて欲しい。もう、後悔をしないために。やれる事はやるべきだ。

 空っぽだって、怖くない。花火がこの世界から消えて産まれる空っぽは、彼女がこの世界にいた事を意味しているからだ。僕にとって、かけがえのない、愛しい空っぽだからだ。

 僕は決意を固めて言う。

「花火。今すぐに並行世界に移動しよう。時間は多い方がいいはずだ」

 花火の瞳をじっと見つめる。言葉にした事で、より一層悲しさが襲ってくる。それでも、覚悟は変わらない。

「太陽くんなら、そう言ってくれると思いました。でも、今すぐじゃなくてもいいです」

 花火は僕の瞳を見つめ返しながら、力強く言った。

「どうして!? パワースポットの場所だって目星がついてる。今花火の帰りを邪魔するものなんて何もないんだよ。ライブもあるかもしれないけど、君と命と比べたら、それは仕方ない事なんだ。みんな、納得してくれるさ」

 昔、葉月が言っていた神隠しの神社。あそこなら、花火を送り出すことができるはずだ。今の僕には、そこに行く覚悟だってある。

 今まで目を背けて来た、あの神社にだって行くことができる。

 詳しい場所は分からないが、それは葉月の家に行って確かめるつもりだ。彼女が昔書いていた日記に、その場所が書いてあるはずだから。花火のためなら、過去を乗り越えられる。事故以降一回も行っていなかった葉月の家にだって行ける。

 言い方を変えれば、花火のおかげで、僕は過去を乗り越えることができた。過去と向き合う勇気をもらった。

 その恩返しがしたい。ただ、それだけなのに、どうして。

「パワースポットとか、そういうことじゃないんですよ。ライブなんです。私はみんなと、ライブに出たい。きっと、今並行世界に移動して命が助かったとしても、私はライブに出なかった事を一生後悔すると思うんです。でも、私は後悔はしたくありません。だから、私は明日まではこの世界にいたい。後悔がないように、思った事を、やりたいことを全てやれって言ったのは、太陽くんですよ?」

 花火は瞳を細めながら、そう言った。

「本当に、それでいいの?」

「はい。それがいいんです」

 後悔はしたくない。そう言われてしまったら、何も言い返せない。だって、僕は今までそれで苦しんで来たのだから。