家に戻り、居間に入ると風にのって煙草の煙が流れ込んできた。
煙草の匂いは嫌いだ。この世の不純物を全て詰め込んだような匂いが、なんだか好きになれなかった。
朝の煙草の匂いは姉さんが起きて来たことを意味している。
「姉さん。いつも言ってるけど窓開けたままベランダで煙草吸っても意味ないよ。煙が全部家の中に入ってきてる」
姉さんは下着姿のままベランダで煙草を吸っていた。僕の声に反応して唇から煙草を離し、ゆっくりと振り返る。蒸気機関のように煙を吐き出し、眠たそうに目をこすってからボサボサに乱れた頭をぽりぽりとかいた。
「あ、帰って来たんだ。相変わらず朝早いね。朝ご飯昨日の残り物で良いから、準備しといて」
姉さんは僕の問いかけを無視して人差し指で台所を指す。
「了解。あと、そんな姿でベランダに出てると外から見られるよ」
「良いのよ。別に減るもんじゃないし。見たけりゃ勝手に見てれば良いから」
姉さんはベランダから海を見下ろしていた。僕の家の後ろはちょっとした崖になっていて、その下には普通の道がある。見られる可能性は充分にあるのだが、姉さんは全く気にしていない。
「確かにそうだ。裸見られてるわけじゃないしね」
「そういうことよ」
姉さんと短いやり取りを終えてから台所へ向かう。
下着姿なんてビキニと変わらない。特に海の近くに住んでいるから良く水着になるし、近所の人に見られたところで何も感じない。というのが、姉さんの主張らしかった。実に彼女らしい考え方だなと思う。
シチューの入った鍋に火をつけ、二人分のご飯をよそる。姉さんは昨日の残り物だけで良いと言ったが、これではいささか少なすぎる気もする。僕は冷蔵庫から生卵三つとフライパンを出し、フライパンに油を引いてから溶かした卵を入れて卵焼きを作った。
「まあ朝だしこのくらいあれば充分だろう」
卵焼きが出来上がる頃に一服を終えた姉さんがやって来た。
「何? あんた卵焼きなんて作ってるの? 寝起きは胃が受け付けないから昨日の残りだけで良いのに」
「そんなのギリギリまで寝てる姉さんが悪いんだよ。ご飯食わないとロクに仕事できないだろ」
二人だけの朝食が始まる。我が家には父も母もおらず、住んでいるのは僕と姉さんの二人だけだ。
両親は三年前に死んだ。これも事故だ。旅行の帰り道の出来事だった。僕と姉さんを置いて、旅行帰りの幸せな気分の中、二人は仲良く天国へ旅だってしまった。本当、嫌になってしまう。
父と母が死んで以来、僕と姉さんは両親の遺産をチマチマ使いながら暮らしている。ちょうど去年に姉さんは大学を卒業し、晴れて社会人となった。結婚して家を出るまでは僕を養ってくれるらしい。その代わり、僕がこうやって家事全般をやっている。当然のギブアンドテイクだと思うが、この姉が結婚するビジョンが見えない。僕達はもしかすると一生、この街で暮らしていくのだろうなという漠然とした思いがあった。
「あんたさあ」
姉さんは僕の作った卵焼きを箸で掴みながらそう切り出す。
「なに?」
「まだ清涼くんとか立夏ちゃんと喋ってないの? あの子達、この間うちの前の駄菓子屋に来てたよ」
清涼と立夏というのは僕の以前の友人達のことだ。僕と葉月と清涼と立夏。この四人が僕の幼馴染で、昔良く一緒に遊んでいた。思い返せば、あの頃が僕の人生の中で一番輝いていたかもしれない。だからこそ、あの輝きを失ってしまったからこそ、僕は今こうなってしまった。
「別に何でも良いだろ。迷惑かけてるわけじゃないんだからさ。それより姉さんこそ会社の人とうまくやってけてるの?」
「私は別に上手にやってかなくても良いのよ。私は特に上手にやっていく必要もないし。地元の友達とは上手にやっていけてるしね。ビジネスパートナーに友情なんて求めたらいけないのよ」
姉さんはコップに入っていた水を一気に飲み干してから続ける。
「あんたみたいな根性なしとは違うから。目を背けてるわけじゃないしね。一緒にしないで欲しいかな」
姉さんはピンとコップを弾く。グラスに入っていた氷がカランと音を立てた。
姉さんの言葉を聞いて、水の中にどす黒い粘液を落としたかのように、僕の心に靄が漂う。
「余計なお世話かな。僕は好きでやっているんだよ。自分自身は自分で守るからいいのさ」
「そういうところが弱いって言ってんの。言っておくけど、あんたのそれ、強さでもなんでもないからね。強さを求めるんじゃなくって強くならないといけないのよ。乗り越えないと話にならないわ」
僕は姉さんの言葉を無言で聞き、噛みしめるように残りの朝食を胃に放り込んだ。
せっかく作った朝食は、何の味もしなかった。粘土でできた食べ物の形をした何かを食べているような気分だった。それらは僕の腹の奥にずっしりと重くのしかかり、わだかまりと共になかなか消えてくれなかった。
食べ終えてから席を立ち、再びシャワーを浴びてから身支度を整えて家を出た。先程までと比べていくぶんか日差しが強くなっている。突き刺さるような日差しを受け、目を細めながら学校までの道を歩く。
家の前のちょっとした坂道を今度は逆に登っていく。坂道を登りながら、小さなため息をついてしまった。
葉月を亡くしてから、僕は臆病者になってしまった。
あの輝やかしく美しい日々を、もう二度と失いたくない。
僕は、これ以上何かを失うのが怖い。
煙草の匂いは嫌いだ。この世の不純物を全て詰め込んだような匂いが、なんだか好きになれなかった。
朝の煙草の匂いは姉さんが起きて来たことを意味している。
「姉さん。いつも言ってるけど窓開けたままベランダで煙草吸っても意味ないよ。煙が全部家の中に入ってきてる」
姉さんは下着姿のままベランダで煙草を吸っていた。僕の声に反応して唇から煙草を離し、ゆっくりと振り返る。蒸気機関のように煙を吐き出し、眠たそうに目をこすってからボサボサに乱れた頭をぽりぽりとかいた。
「あ、帰って来たんだ。相変わらず朝早いね。朝ご飯昨日の残り物で良いから、準備しといて」
姉さんは僕の問いかけを無視して人差し指で台所を指す。
「了解。あと、そんな姿でベランダに出てると外から見られるよ」
「良いのよ。別に減るもんじゃないし。見たけりゃ勝手に見てれば良いから」
姉さんはベランダから海を見下ろしていた。僕の家の後ろはちょっとした崖になっていて、その下には普通の道がある。見られる可能性は充分にあるのだが、姉さんは全く気にしていない。
「確かにそうだ。裸見られてるわけじゃないしね」
「そういうことよ」
姉さんと短いやり取りを終えてから台所へ向かう。
下着姿なんてビキニと変わらない。特に海の近くに住んでいるから良く水着になるし、近所の人に見られたところで何も感じない。というのが、姉さんの主張らしかった。実に彼女らしい考え方だなと思う。
シチューの入った鍋に火をつけ、二人分のご飯をよそる。姉さんは昨日の残り物だけで良いと言ったが、これではいささか少なすぎる気もする。僕は冷蔵庫から生卵三つとフライパンを出し、フライパンに油を引いてから溶かした卵を入れて卵焼きを作った。
「まあ朝だしこのくらいあれば充分だろう」
卵焼きが出来上がる頃に一服を終えた姉さんがやって来た。
「何? あんた卵焼きなんて作ってるの? 寝起きは胃が受け付けないから昨日の残りだけで良いのに」
「そんなのギリギリまで寝てる姉さんが悪いんだよ。ご飯食わないとロクに仕事できないだろ」
二人だけの朝食が始まる。我が家には父も母もおらず、住んでいるのは僕と姉さんの二人だけだ。
両親は三年前に死んだ。これも事故だ。旅行の帰り道の出来事だった。僕と姉さんを置いて、旅行帰りの幸せな気分の中、二人は仲良く天国へ旅だってしまった。本当、嫌になってしまう。
父と母が死んで以来、僕と姉さんは両親の遺産をチマチマ使いながら暮らしている。ちょうど去年に姉さんは大学を卒業し、晴れて社会人となった。結婚して家を出るまでは僕を養ってくれるらしい。その代わり、僕がこうやって家事全般をやっている。当然のギブアンドテイクだと思うが、この姉が結婚するビジョンが見えない。僕達はもしかすると一生、この街で暮らしていくのだろうなという漠然とした思いがあった。
「あんたさあ」
姉さんは僕の作った卵焼きを箸で掴みながらそう切り出す。
「なに?」
「まだ清涼くんとか立夏ちゃんと喋ってないの? あの子達、この間うちの前の駄菓子屋に来てたよ」
清涼と立夏というのは僕の以前の友人達のことだ。僕と葉月と清涼と立夏。この四人が僕の幼馴染で、昔良く一緒に遊んでいた。思い返せば、あの頃が僕の人生の中で一番輝いていたかもしれない。だからこそ、あの輝きを失ってしまったからこそ、僕は今こうなってしまった。
「別に何でも良いだろ。迷惑かけてるわけじゃないんだからさ。それより姉さんこそ会社の人とうまくやってけてるの?」
「私は別に上手にやってかなくても良いのよ。私は特に上手にやっていく必要もないし。地元の友達とは上手にやっていけてるしね。ビジネスパートナーに友情なんて求めたらいけないのよ」
姉さんはコップに入っていた水を一気に飲み干してから続ける。
「あんたみたいな根性なしとは違うから。目を背けてるわけじゃないしね。一緒にしないで欲しいかな」
姉さんはピンとコップを弾く。グラスに入っていた氷がカランと音を立てた。
姉さんの言葉を聞いて、水の中にどす黒い粘液を落としたかのように、僕の心に靄が漂う。
「余計なお世話かな。僕は好きでやっているんだよ。自分自身は自分で守るからいいのさ」
「そういうところが弱いって言ってんの。言っておくけど、あんたのそれ、強さでもなんでもないからね。強さを求めるんじゃなくって強くならないといけないのよ。乗り越えないと話にならないわ」
僕は姉さんの言葉を無言で聞き、噛みしめるように残りの朝食を胃に放り込んだ。
せっかく作った朝食は、何の味もしなかった。粘土でできた食べ物の形をした何かを食べているような気分だった。それらは僕の腹の奥にずっしりと重くのしかかり、わだかまりと共になかなか消えてくれなかった。
食べ終えてから席を立ち、再びシャワーを浴びてから身支度を整えて家を出た。先程までと比べていくぶんか日差しが強くなっている。突き刺さるような日差しを受け、目を細めながら学校までの道を歩く。
家の前のちょっとした坂道を今度は逆に登っていく。坂道を登りながら、小さなため息をついてしまった。
葉月を亡くしてから、僕は臆病者になってしまった。
あの輝やかしく美しい日々を、もう二度と失いたくない。
僕は、これ以上何かを失うのが怖い。