明日の夜、いよいよ玄夜が迎えに来る。

 そう思うと、紗代はなかなか寝付けなかった。
 あんなにはっきりと玄夜に嫁入りすると思っていたはずなのに、約束の日がいざ迫ってくると、不安に押しつぶされそうになる。

 真っ暗な部屋の中で、遠く、鳥の鳴き声がする。
 美しくも、どこか寂しそうな声。

 鳥や虫の音くらい、いつも聞こえるはずなのに、今日はやけに耳につく。

(緊張して、気が立っているせいね……そうだ)

 紗代は布団から起きだして、真っ暗な部屋を手探りで鏡台へとたどり着く。一番上の抽斗には、玄夜に買ってもらったリボンが大切にしまってある。

 まだ髪にかけたことはない。けれど、やっぱり自分なんて、と不安に負けてしまいそうになるたびに、紗代はそれに触れて心を奮い立たせた。
 玄夜の強さを分けてもらうように、リボンをそっと手のひらで包む。

(大丈夫、大丈夫……落ち着いて。わたしが自分で、選んだ道よ)

 自分自身に言い聞かせて心を落ち着けた紗代の指先に、ふと、覚えのないざらつきが触れた。

「えっ……」

 慌ててリボンを取り出して、暗闇の中で広げようとする。はらりはらりと花びらが散るように、リボンが床に舞い落ちた。
 切り裂かれたのは見るまでもない。それでも、目にするまでは信じたくない。
 紗代は震える手で明かりをともした。
 あんなに美しかった紫のリボンが、ズタズタに引き裂かれてしまっている。

(ひどい……どうしてこんなこと……)
 さんざん虐げられてきたが、着物や私物を切り裂かれたことはなかった。
 今になってなぜこんなことをするのか。
 悲しみで呆然としかかった紗代の視界に、紫の布に交じって、桃色の生地が映る。

「そんなっ……!」
 長持に飛びついて蓋を開くと、中の着物も、リボンと同様に傷だらけにされていた。
 あちこちにハサミを入れたうえに、力任せに引き裂いたように大穴が空き、修繕は不可能だ。

「……ひどい……どうして……」

 どんな仕打ちにも涙一つ流さず耐えてきた。けれどもこれはあまりに酷で、堪えきれずに涙が零れた。
 これは、玄夜の思いやりだった。彼の優しさが、踏みにじられたのだ。それがどうしようもなく悔しかった。

「お姉さまに相応しくないものは、わたしが処分しておいてあげたわ」
「初子……」

 いつの間にか紗代の部屋の障子を開けて、初子が中に入って来ていた。
 長持に縋りついて涙を流す紗代を、初子は勝ち誇ったように見下ろしていた。

「どんな気分かしら。腹が立つでしょう? わたしが憎いでしょう?」

 体の奥で炎が上がったような激しい感情がこみ上げてくる。
 腹が立つ? 憎らしい?
 あたりまえだ。これで、どうして恨まずに済むというのか──

「紗代!」
 玄夜の声とともに、ぶわりと部屋に風が吹き、明かりが消えた。

「なに? なんなのっ!?」
 初子の怯えた声が、暗闇の中で反響する。

 だが玄夜は、騒ぐ初子など気にも留めない。
 闇の中で、温かく大きな彼の手が、紗代の両頬を包んだ。

「紗代、堕ちないでくれ。そっちに行かないでくれ。俺を見ろ!」

 強く言われて、紗代ははっとする。
 胸に抱いた負の感情。これに流されては、心が穢れて玄夜が見えなくなってしまう。
(それはいや……!)
 まだ見える。彼の姿が、はっきりと。

「……荘宕、さま……」
「見えるか? 聞こえるんだな?」
「はい……」

 紗代がこくりとうなずくと、玄夜は安堵の息をついた。

「よかった……紗代を失うかと思った」

 玄夜の瞼が伏せられると、長いまつ毛が瞳を隠す。彼の眉に、さらさらと流れる髪がかかる。

(あ……お面が、ない……)

 いつも彼の顔の半分を隠しているお面が、今日はない。
 筆を流したような涼やかな目元に、通った鼻梁。これまでも見えていたやや薄い唇がそれらと合わさると、こんなにも美しい顔になるのか。
 男性にしておくのが惜しいほどの麗しさに、状況を忘れて思わず見惚れてしまう。

「なによっ、荘宕様がそこにいるの?」
「ああ、ここにいるぞ」

 問うた初子を玄夜が振り返ると、一拍後に、初子は悲鳴をあげて腰を抜かした。

「何事だ!?」

 騒動に気付いた父や比佐が紗代の部屋に集まったが、揃って驚愕に腰を抜かしてへたり込んでしまう。

「っひっ……! こ、これはっ……!」
「嫌っ! こっ、来ないで! あなたっ、多江がっ、多江が化けてっ……!!」

 比佐はどうやら、玄夜の姿が紗代の亡き母に見えるようだ。
 比佐には比佐の言い分があるだろうが、化けて出るのを恐れるほどには、自分がしたことの自覚はあるようだ。

「まったく……欲にまみれるからそうなる。しばらく腰を抜かしておけ」

 初子は腰を抜かして震えあがり、父は両手を合わせて拝み、比佐は頭を抱えてうずくまっている。
 ため息をついて、玄夜は紗代に向き直り、羽織を肩にかけてくれた。

「鬼の一族がもうすぐ来る。それまで待とう」
「玄夜!」

 もうすぐ、どころか、玄夜の言い終わらないうちに、鬼牙が紗代の部屋に乗り込んできた。そのあとには、鬼牙を屋敷に招き入れたであろう住み込みの使用人と、鬼牙の仲間が続いている。
 使用人まで脅かすのは酷だと思ったのだろうか、玄夜はすでにいつもの白いお面をつけていた。

「これは……何があったんだ」
 鬼牙は動揺を隠しきれない様子で、玄夜と初子を交互に見やる。

「……見えるはずだ。鬼の目なら」
 鬼の目は、赤く光るとき、真実を見るといわれている。
 鬼牙の瞳が赤く光ると、彼はグッと唇を噛み、いまだ腰を抜かした初子を立たせようと腕を引いた。

「……初子、立つんだ。穢れの元凶を、こんな住民の多い地区にいつまでも置いておくわけにはいかない」
「……わたしは悪くない! 悪いのは紗代よ。無能者のくせに」

 鬼牙は、肩を落として初子の前に膝をついた。

「じゃあ、君は、俺とのあいだに生まれた子が能力を授からなかったら、紗代ちゃんと同じように扱うのか?」

 初子が目を瞠り、ぽろぽろと涙を零した。
(きっと初子は、そんなこと、考えたこともなかったのね……)

 初子はただ、母親である比佐の真似をしていただけ。幼い頃から、紗代は虐げていい存在で、自分のほうが優れていると植え付けられてきたのだ。

「ちがう……ちがう……そんなこと……」

 初子はいやいやと首を振り、涙を流しながら、鬼牙に連れられて屋敷を出て行った。
 いまだ正気に戻れずに怯えきった父と比佐も、鬼牙の仲間たちによって引きずられるように屋敷から連れ出された。

「鬼牙は、婚約者を見捨てたりしない。きっと彼女は更生できる」

 そう願う。心から。
 優しく語りかけてくれる玄夜に、紗代は希望を抱いてうなずいた。

 ◆ ◇ ◆