はじめて二人きりで出かけてから、玄夜は紗代を二度、散歩に誘った。加地木家の周辺を少し歩いて、他愛もないことを話す。

 手紙のやり取りに加えて、彼と過ごす時間は、紗代にとって大切なものとなっていた。

 三度目に散歩に誘われたときには、紗代の生活は、彼と出会う前とはすっかり変わっていた。

 部屋を与えられ、玄夜が贈ってくれた布団でゆっくり眠れている。みすぼらしい着物を着ると逆に使用人にやんわり窘められ、加地木の娘として──鵺の婚約者として、大事に扱われるようになった。
 家の仕事のかわりに、今は父が選んだ教師から、屋敷で教育を受けている。

「そうか。では今は、あやかしについて学んでいるのか」
「はい。少しずつ、ですが……」

 夕方の川沿いを歩く二人の下には、一人分の影しかできていない。
 けれども玄夜は、たしかに紗代の隣にいる。

 ゆっくり歩いていた二人の前に、急に木陰から子供が飛び出してきた。
「おっと」

 これまで、玄夜はすれ違う人がぶつかりそうになると、するりと身をかわして避けていた。だが子供が転ぶとみると、玄夜はすかさず手を伸ばして受け止めた。
 すると子供は、玄夜をはっきりと見上げて、笑いかけたのだ。

「ごめんなさいー!」
「え……」

 子供は元気に遠くへ駆けてゆき、紗代は思わず足を止めた。

「あの……見えないのでは……?」
「子供の心には穢れがない。心に穢れのない人間だけが、鵺の真の姿を見ることができる」
「穢れ……」
「人間は、時と共に心が穢れ、目が曇っていくものだ。だが、あなたの心は清らかだ。どれだけ周りに闇が巣食っていようとも──これまで出会った誰よりも、あなたの心は美しい」

 あたりまえに玄夜の姿が見える紗代には、わかるようでわからない。
 駆けていくあの子供と、自分の心が同じように清らかだとは、とても思えないのだ。

「鵺については、聞いたか?」
「はい……父に勉強するようにと、本を渡されました」
「醜い姿が載っていただろう? 怖くはなかったか」

 本に描かれていた鵺は怖かった。
 しかし、紗代の目に映る玄夜は、お面をつけた優しい青年で、怖いだなんて思わない。

「わたしには……荘宕様は、ほかの人と同じように見えます」
「そうか。だが、俺はたしかに鵺で、この面を取ると、俺の姿は皆にも見えるようになる。ただしそれは、あなたが見ている人型の姿ではなく、見る者が恐れを抱く姿として映る。鳴き声で鵺だと悟った者は、伝承の姿を思い浮かべて、俺を化け物として見ることになるだろう。人の恐怖を映す、それが鵺の実態だ」

 そうか。鵺の伝承はいくつかあるのに、記録の姿が統一されていないのは、そういう事情だったのだ。

「お面を取ったら……わたしにも、違う姿が見えるのでしょうか……?」
「それはない。この面の効果は、あやかしの力を抑えるもので、姿を変えるものではない」

 お面にそのような効果があったことも、はじめて知った。
 鵺とはそういうものなのだろうと、あるがままを受け入れていた。

「……俺は、あなたに苦労をかけることになる」
「え……?」
「ともに過ごして、見てきただろう。俺はひとりでは買い物もできない。二人で喫茶店に入るのも難しい。注文は、あなたにしてもらわなければならない。俺は人の世で暮らすには適さぬ体で、あなたの理想の伴侶ではないだろう。それでも俺は、あなたに嫁に来てほしい」

 傾きかけた陽に空は赤く色づいて、紗代と玄夜の肌をも染めていく。

 特別な力を持つ、あやかしたち。
 完全無欠の存在としてもてはやされる彼らだが、目の前の玄夜は、自分は決して完璧な存在ではないと認め、それを受け入れている。

 紗代は、それを強さだと思った。
 幼い頃から無能者と蔑まれてきた紗代は、怯え、諦め、自分の人生を投げ出してきた。

 どうせ無駄、どうせできない、どうせ自分は……そうして自分を軽んじることで、楽になろうとしてきた。
 周りに流され、現実から逃げてきた。

(わたしも……強く、なりたい……)

 まだ紗代には、夫婦というものはわからない。あやかしについても、鵺についても、知らないことがたくさんあるはずで、今後に不安がないといったら嘘になる。

 けれども、彼を支えていく道を選んでみたいと、淡い思いが胸に灯る。
 父がそう望むから、断ることができないから、そんな理由ではなく。
 紗代の意思で、こう答える。

「……はい。喜んで、お受けいたします」
「ああ……ありがとう」

 お面をつけていても、玄夜が晴れやかに破顔しているのがわかり、紗代は見てはいけないものを見てしまったような気恥しさに襲われて、そっと顔を伏せた。

 ◆ ◇ ◆