生首だと思った。
昼下がりの小さな喫茶店、背広姿の男性数人組のうちの一人。
橙色の灯りに照らされた、珈琲の良い香りの漂う店内にて。
別段、変わったところもなくよくいるような客だが、今確かに、彼が持っていた鞄が生首に見えた。
自分の目を疑った。頭も疑った。
働きすぎて疲れているのかもしれない。
けれどそれは紛うことなく生首に見える。
目蓋は閉じていて、髪は短く散切りにされていて、傷はないけれどそれは土気色をしていて───────。
「桐花」
「───────はっ、はい!」
途端に、速くなっていた心臓がびくりと跳ねた。
すっかり釘付けになっていた視線を動かせば、カウンターの向こうで店主の高瀬沙一が訝しげな顔をしてこちらを見ている。
綺麗に纏めた長い黒髪、すっと伸びた背筋に洒落た洋装、端正な顔立ちを際立たせる切れ長の目。
見慣れたはずの沙一の顔を、上手く見ることができなくて目を逸らした。
「どうした、手が止まっている。考え事か?」
「ああっ、いえ、なんでもないです・・・・・・」
心配して言ってくれているのは分かっているが、今回ばかりは素直に話すわけにはいかないだろう。
まさか、お客様が生首片手に店を出ていったなんて言えるわけがない。
何か言われる前に、布巾を持っていそいそと店の裏へ引っ込んでため息をついた。
「どうしちゃったんでしょうね・・・・・・」
ここ数日間、『変なもの』ばかり見る。
幻覚、と言った方が正しいだろうか。
例えば、人の首。
例えば、黒い影。
例えば、どこかからの絡みつくような視線。
沙一に幻覚を見るようになってしまった、なんて言いたくはないがいつまで隠せるか。
彼の鋭い目は有無を言わせない圧力があり、桐花はそれを前にするとどうにもできなくなってしまう。
数日間朝と夜の食事を抜いていた時、父の新たな借金が発覚した時など、大抵の隠し事は白状させられてきた。
沙一が桐花のことを心配して、助けたいと思ってくれていることは重々承知しているが、いつまでも沙一に頼り続けるのは心苦しいものもある。
(沙一さんの気持ちはありがたいですけれど・・・・・・でも、人様にもうこれ以上迷惑はかけられない)
多額の借金を遺して消えた父親の代わりに、返済義務を背負うことになったのはもう二年前の話だ。
事の発端は、父が経営している会社で事業に失敗した時から。
債務を抱え事業を持ち直そうとしたはいいものの、結局上手くいかず、しまいにはあくどい商売にまで手を出して金を稼ごうとするような始末。
当然そのようなことがまかり通ることは無く、加賀里家に残ったのは借金だけだ。
当時の桐花はまだ十六で、母はとうの昔に亡くなっており、頼れる相手はどこにもいない。
どうにか勤め先を見つけ、死に物狂いで働いたはいいものの、なんとつい二ヶ月前に勤め先が倒産してしまった。
実家が倒産して、勤め先も倒産して。
自分はもしや疫病神か何かなのかと絶望した。
当然桐花は路頭に迷うことになったのだが、そこを救ってくれたのが沙一だ。
帝都の片隅でこの純喫茶『花影』を営んでいる彼は、行くあてのない桐花を女給として雇った。
新しい仕事を探し歩いていた時に声をかけられたのだが、曰く、桐花の父とは関わりがあったそうで、その縁からだと。
当時はいきなり見ず知らずの顔の綺麗な男性に声をかけられて、新手の詐欺かと怯えてしまったのはいい思い出だ。
加賀里家はとうに潰れているというのに、一体どこで桐花のことを知ったのか、不思議な巡り合わせもあるものだ。
本人は人手が足りなかったから都合が良かっただけ、と言っているがその本心は桐花の為を思って、というのは周知の事実である。
しかし、沙一はどう見積もってもせいぜい二十後半としか考えられない外見年齢で、桐花の父とはかなり歳が離れている。
父と沙一がどのような関係であったのかは知らないが、本人が行方をくらました後にわざわざ娘の自分を探し当てたということは、なにか金銭絡みで迷惑をかけたのではと不安になったが、それは違うのだと。
それならどうして、という疑問は残るがこれ以上詮索するのはなんだか気が引けてしまった。
と言うよりも、父に関して思い出せば余計な感情がぐるぐると渦巻いて、無駄に自分だけが苦しむ羽目になるので敢えて避けているのだ。
とにかく、拾ってもらったご恩は返さなければと桐花は常々思うのであった。
「ダメダメ、もっと気合を入れて頑張らないと」
気を引き締めるように頬を叩く。
飾り気のない黒髪に、和洋折衷の少し変わった女給服。
自分の着古した銘仙とは違う、上等なものだが、相も変わらず表情は冴えなくて衣装に着られているよう。
硝子細工の窓に映った自分と、その影は見ない振りをして、桐花は何事もなかったかのように仕事へ戻った。
「ただいま帰りました・・・・・・」
立て付けの悪い引き戸を開いて帰宅する。
当然、ただいまの声に返事をする人は誰もいない。
桐花の家は、帝都の外れにある。
沙一から下宿先を紹介するとの申し出もあったが、それは断らせてもらった。
かつての住所であった父が建てた文化住宅はとっくに売り払ったが、加賀里家が裕福になったのは桐花が産まれる少し前のことで、父が新しい家を建てている間までに住んでいた古い家がまだ残っているのだ。
父のことはともかく、共に過した年月は少なかったとはいえ、亡き母との思い出の詰まった家だ。
それに、帝都にあるとはいえ古い小さな家なので打ったところでたいした額にもならないことは分かっている。
新しい家を探すよりも、ここに住んでいた方が良いと判断した。
そんな桐花に対して沙一は、必要とあらばいつでも言ってくれ、とのことで。
沙一は隙あらば桐花を甘やかそうとするが、強制することは決してしなかった。
むしろ、桐花から言うのを待っているかのようにも感じられる。
(沙一さんは、どうしてあんなに私に優しいのでしょうか・・・・・・)
郵便受けに入っていた催促の通達を、今の机にぱさりと置く。
手を洗って、これから夕食の支度をしなければならないと厨へ向かおうとするが、気は進まない。
ここ数日は、食欲もあまり無かった。
こういう時はどうにも気分が沈みがちになる。
洗面台の鏡に映る自分は、なんとも情けない顔をしていた。
(ただの知り合いの娘に、仕事を紹介したり、なにかと面倒を見てくださったり・・・・・・。沙一さんは、本当に優しい方です。私はあの方に、一体何をお返しできるのでしょうか・・・・・・)
沙一のことは好きだ。
でもこの感情が、世間一般で言うところの恋情なのかは分からないし知りたくもない。
沙一が自分のことをそんな目で見ていないことははっきり分かっているのだから、例え本当に恋情だったとしてもそれは意味を成さない。
それに、結局、沙一が自分を拾った理由も判明していないのだ。
自分に利用価値があるとは、到底思えない。
『どうしたの、桐花ちゃん』
「───────っ!」
俯いた瞬間、どこかからか声が聞こえてきて反射的に顔を上げる。
鏡に映っていたはずの自分が、袴姿のかわいい少女にすり変わっていた。
この少女には覚えがある。
女学校の友人だった人だ。
もちろん、学校は金が払えなくなってとっくにやめている。
『ねえどうしたの、桐花ちゃん。悲しいことがあったの?それなら、楽しいことを考えましょう。今日の放課後には先輩のお姉さま方と遊んでいただく予定でしょう。それに、今度の週末には、一緒にカフェーに行く約束をしてるじゃない』
鏡の中の彼女は優しい笑顔で語りかけてくる。
楽しいかった思い出が頭の中をめぐると同時に、背筋が段々と凍っていくのを感じた。
桐花はこの後に続く言葉を知っている。
もう嫌という程聞かされたからだ。
『桐花ちゃんには悲しい顔は似合わないよ。桐花ちゃんは優しくて、素敵な人で、本当に───────無様な人ね』
咄嗟に耳を塞ぐ。
けれども声は、止まることなく桐花に語りかける。
「・・・・・・ッやめて」
『近寄らないで下さるかしら、加賀里さん。本当に卑しい人』
塵芥をみるかのような冷たい瞳で、鏡の中の彼女は桐花を見下している。
桐花は耐えきれず、絞り出すような掠れた声で謝り続けた。
「やめて・・・・・・もうやめてください」
しばらく蹲っていると、気配は消えていった。
でもまだどこかから気配は感じる。
よろよろと立ち上がり、厨へは行かずに寝室へ向かう。
(頭が痛い・・・・・・今日はもう何も出来そうにない)
布団を敷いて横になると、少しは楽になりそうだった。
眠りにつく前に、懐からいつも持ち歩いている手帳を取り出す。
手帳の中に挟まれていた栞を抜き取ると、その手に固く握りしめた。
この栞は桐花が幼い頃から持っているもので、桐の花が押し花にしてある。
父曰く、これは貰い物らしいが、誰から貰ったのかまでは教えて貰えなかった。
自分の名前と同じの、その桐の花の栞はずっとお気に入りで、大切にしているものだ。
これを持っていると、心が凪いでいくようで落ち着きたい時はこうしている。
桐花の目蓋がそっと閉じていった。
夕暮れ時の帝都は、立ち並ぶ街灯のおかげでまだまだ明るい。
帝都の夜はこれからだ。
そう言わんばかりに街を行き交う賑やかな人々を横目に、桐花は一人逆方向へと歩いていく。
陽射しが眩しくて、目を細める。
橙色の光は、『花影』の暖かなランプの色にも似ていてどこか心地よかった。
昨晩は散々な目にあってよく眠れなかったのもある。
酷い顔をしていたようで、案の定沙一からはずいぶんと心配されてしまった。
しばらく歩いてから、なんとなく、桐花はふと立ち止まった。
石畳の道路とぎっしり並んだ建物の間に、小さな社がある。
ここは最近見つけた神社だ。
帝都の近代化が進んだ影響で、こんな奥まったところにあるのだろう。
前面にあった建物が変わったことでその存在を見つけることが出来たのだ。
(今日もお参りしていきましょう。神様へのご挨拶は大切なことです)
中々減らない借金に加えて、ここ最近続いている幻覚はいつだって桐花の頭を悩ませる。
神頼み、というわけではないがこうして神に祈ると何かしらのご利益がありそうで、この社を見つけてからというもの通い続けていた。
二礼二拍手一礼。
きっちり礼をしてから、くるりと踵を返して帰ろうとした時。
「あっ」
思わず口から声が零れて、慌てて手で押えた。
喫茶店に手帳を置き忘れてきたことに、今気づいた。
休憩室で荷物を整理する時に、机の上に置いたのをそのままにしてしまっていた。
もしかすると、神様が教えてくれたのかもしれない。
桐花は通ったばかりの道を引き返していく。
休憩室といっても『花影』で働いている女給は桐花一人なので急ぐ必要はないが、あの手帳には大切な栞が挟んであるのだ。
もし失くしたなんてことになったら、立ち直れないかもしれない。
疲れが溜まっているのもあるのだろう、なんだか肩も重くて足も怠い。
風邪でも引いたら困る。早く用を済ませて帰宅した方が良いだろう。
足早に人々の間を通り抜けて、喫茶店へと戻ってくる。
こぢんまりとした『花影』の外観は洋館風で、硝子細工の窓が目を引く。
こんなハイカラでお洒落な店で自分は働いているのだと、扉を開く度に思ってしまう。
「沙一さん。すみません、私、忘れ物を・・・・・・」
店内には沙一がいつものようにカウンターにいたが、珍しくその手には煙管がある。
「待て」
「は、はい!」
低い声でそう言われ、無意識的に緊張してしまう。
不機嫌というわけではないが、いつもよりも険しい表情をしている。
沙一は煙管片手にこちらへ歩み寄ってくる。
紫煙をくゆらせるその姿は、より一層色男が際立っていた。
もしや自分は何かをしでかしてしまったのかと焦る桐花をよそに、沙一はただ一言呟く。
その視線は、桐花ではなくその後方に向いていた。
「去れ」
「・・・・・・え?」
その言葉を理解する前に、風もないのに、沙一の煙管から紫煙がこちらへ漂ってきた。
煙はそのまま桐花を避けるように過ぎていくと、霧が晴れるように背後で急に消えてしまう。
この煙は一体なにかと振り返った一瞬、なにか黒いものが見えたような気がしたが、それどころではなかった。
「桐花。何か俺に言うことはあるか」
「えっと、その・・・・・・」
顔を上げれば、鋭い視線が降ってくる。
(今のはなんだったのでしょう?)
問いたいが、沙一の有無を言わせない雰囲気に言い淀んでしまう。
そんな桐花を前に、沙一は表情を変えることない。
沙一は、カウンターに戻るとなにかを手に持って再びこちらへ向かってくる。
「そっ、それは私の手帳・・・・・・!」
沙一の手にあったのは、桐花にはよく見覚えのあるものだった。
茶色の飾り気のない手帳だが、押し花の栞を挟んでいる。
紛うことなく、桐花がずっと使い続けている大切な栞だ。
「まさか、この栞をまだ使ってくれていたとはな」
「えっ?」
小さな声だったのでよく聞こえなかったが、一瞬、沙一の顔が綻んだように見えた。
「まあ座るといい。少し話をしよう」
沙一に促され、ひとまず、カウンター前の背の高い席に座る。
いつも客が座っている場所に自分がいるのは、なんだか落ち着かない気分だった。
沙一も隣に座り、灰皿に灰を落とすと煙管を置いた。
「さて、今から語ることは詭弁だと思ってくれて構わない」
沙一は真っ直ぐな目で、戸惑う桐花のことを射抜いた。
「お前、取り憑かれているだろう」
「と、とり・・・・・・!?」
「ここ最近、幻覚や幻聴に悩まされていなかったか」
突然、沙一の口から非科学的な発言が出てきて動転してしまう。
さらに幻覚の一件まで勘づかれていたとは。
「どこで拾ったかは知らないが、お前は確実にどこかから『悪しきもの』を惹き付けてきた。幻覚や幻聴の原因はすべてそいつの仕業だ」
「それは、悪霊のようなものということでしょうか・・・・・・?」
「ああ。そう考える方が分かりやすいだろうな」
その口ぶりから察するに、単なる悪霊では無いことは分かるのだが、桐花にはその方面の知識はまるで無いので悪霊と簡単に考えた方がマシだろう。
「例えば、廃墟や廃れた神社など、呪術や妖の痕跡の残るような場所に行かなかったか」
「いえ、特に心当たりは・・・・・・あっ」
そんな素人目でも分かるような怪しい場所には近寄らない。
と、胸を張って言いたいところだが『社』というのには覚えがものすごくあった。
「今しがた行ってきたばかりですね」
あの小さな社のことだ。
なんなら毎日通っている。
「だろうな。あれほどの邪気を漂わせていたのだから」
予測はついていたのだろう。
項垂れる桐花を前に、沙一はおもむろに手帳から栞を取り出した。
「この栞には守護の術がかけられている。これを手放さない限り、桐花の身の安全は保証されると思えば良いだろう。だが、これの効果は最低限の安全を守ることだけだからな。視覚や聴覚に訴えるような微弱な攻撃にはあまり効力を成せない」
そんなことは初耳だ。
貰い物の栞に、守護の術だなんて。
桐花はどうして良いのか分からず唖然とする。
「しかしお前はこれを持たずに『悪しきもの』の所へ足を運んでしまった。その結果、それをより一層惹き付けている状態にある。今は軽く追い祓ったから良いが、奴はどうにも執念深そうだ。今日はこのままお前を帰すわけには行かない。いや、いっその事今日のうちに祓いきってしまう方が良いだろうか」
なんとなく、理解はできないことは無い。
しかし、この口ぶりではまるで霊媒師やら拝み屋やらの職種の人のようではないか。
ただの喫茶店の店主が、悪霊祓いなど習得しているはずがない。
「・・・・・・沙一さんは、何者なのですか」
聞きたいような、聞きたくないような。
よく見知っているはずの彼の、知らない顔に桐花は戸惑うことしかできなかった。
「再三言うが、俺の話すことは全て詭弁と思ってくれて構わない。なぜならこれは、普通の人間にとっては信じ難い話だからだ」
無論、彼が詭弁を言うなどと桐花は思っていない。
真面目で実直な沙一が、真摯な顔で話してくれているのだ。
どんなに突飛で摩訶不思議な話でも、沙一が言うのなら、それは真実だと思えた。
「まだ帝国が帝国ではなかった頃からのことだ。古来よりこの国には高瀬という祓い師が仕えていた。俺はその一族の生まれで、祓い師としての力を持っている」
陰陽師の連中と似たようなものだろう、と沙一は肩を竦める。
「お前の家・・・・・・加賀里家とはその関係で縁があった。知らないだろうが、加賀里家の一族もかつては祓い師だったんだ。今はもう術師は一人もいないが、その才は僅かながらも受け継がれている。そしてお前は近年稀に見るほど、才を色濃く受け継いでしまったんだ」
沙一の手が、優しく、桐花の頭を撫でる。
一瞬、どきりとしてぴくりと肩が震えた。
「しかし、加賀里家はもう祓い師ではない。その能力はこの先、桐花にはとってしがらみにしかならないだろう。だから加賀里家は高瀬に依頼をしてお前の才を封じることにした。当時の俺はまだ修行中の身で、父や姉の仕事に同行させてもらうことが多く、加賀里家にも少しばかり関わらせてもらっていた。お前と出会ったのはその時なんだ。まだ四、五歳ほどだったから憶えていないのも仕方がないことだ」
沙一は慈しむかのような、優しい視線で、穏やかな声で語り終えた。
思えば、自分は沙一の背景について知らないことだらけだった。
沙一もあまり自分のことを語りたがるような性格では無いので、触れる機会がなかったというのもあるが、まさか祓い師という特殊な事情を持っていたとは。
あまりに非現実的な話だが、実際にその力を見た後ではすんなり納得できた。
「そう、だったんですね・・・・・・」
貧弱な語彙のせいで、簡単な言葉しか言えない自分が恨めしい。
しかしまさか、自分自身もそういった世界に身を置いていた血筋だったというのは完全な想定外だった。
父との繋がりというのも、そういうことだったのなら納得がいく。
自分を拾ってくれたのも、ただ、本当に当時のことがきっかけとなっただけで、利用価値など考えてもいなかったのだと。
この話に実感はないが、幻覚は見続けているのでそれがなによりの証拠だろう。
「それにしても、俺の拙い術で作った護符をまだ持ち続けてくれていたとは思っていなかったがな」
「ずっと私のことを守って下さっていたんですね」
昨日の夜も、世話になったばかりだ。
なんとなく気恥ずかしくてはにかみながらそう言うと、沙一は照れくさそうにふっと笑って視線を逸らした。
「でも、どうしてすぐに話してくださらなかったんですか?私がここに勤めてからそれなりに経つじゃないですか」
「せっかく才を封じて普通の道で生きていけるようにしたんだから、わざわざ教える必要はないだろう。お前を危険に巻き込みたくはなかったんだ。だが・・・・・・」
沙一の手が、今度は桐花の頬を撫でた。
「すまなかった。今まで、お前の身に何が起きているのは分かっていたし、できるかぎり祓ってはいるが、やはり俺の術ではお前に気づかれないように上手くやることができなかった」
段々と近づいていく彼の美しい顔に、動転してもはや指の先まで凍ったように動かせなくなる。
沙一の言っていることは正しく、仕方の無いことで、謝らなければならないことなどひとつもない。
あなたが謝ることなんて。
そう言いたいのに、甘いとろけるような声で囁かれて、謝罪をされているのか骨抜きにされているの分からなくなる。
「こんなことなら、お前が言い出すのを待たずに無理やりにでも祓ってしまえばよかった。昨日もよく眠れなかったんだろう」
その時。
沙一の言葉を遮るようにちりん、と扉の呼び鈴の音がした。
もうとっくに店は閉まっているのに客が来るなんて。
桐花が慌てて沙一から身を離すと、沙一も渋々といったように手を離して桐花を解放した。
「こんばんは、高瀬さん。椿の代理で参りま・・・・・・あら、お楽しみ中でしたか」
「違う。帰るな」
どうやら、客ではなさそうだった。
店に入ってきたのは、沙一の知人と思しき女性。
鮮やかな色のひざ下丈のワンピースは洒落ていて、いかにも流行最先端のモダンガールといった装いだ。
「椿はどうしたんだ」
「締め切りに間に合わないそうで。今日は代理の伊月でガマンしてください」
「またか、本当に奴は学ばないな」
一体誰の話をしているのか、彼女は誰なのか。
目の前で繰り広げられるやり取りを前に、桐花は狼狽える。
「初めまして、お嬢さん。私は伊月小町。怪しい人ではありません、ただの高瀬さんの同業者ですよ」
ぺこりと礼をして、小町と名乗った彼女は桐花に名刺を差し出した。
『帝都十三協会 伊月小町』と書かれているが、初めて聞くような組織名だ。
しかし、沙一の同業者ということは彼女の正体は分かっているようなもの。
「では、祓い師、ということで・・・・・・」
「そうですそうです」
小町はにこにこと万遍の笑みを浮かべて頷く。
ではなぜ同業者がここへ訪ねてくるのかとという疑問には、沙一が答える。
「実はこの店は表向きは純喫茶だが、裏では祓い師として依頼を請け負ったり情報収集をしている。今まで隠していてすまなかったが、やはり、少しでも危険が及ぶとなると正直に話す訳にはいかないからな」
「普段は高瀬さんと椿凛世っていう祓い師の人が活動してるんですけど、時々私が代理で駆り出されるんですよ。高瀬さんが純喫茶をやっているように、椿も作家をしていまして、皆さんそれぞれ普段の顔があるんですよ」
先程から名前だけ出ている『椿凛世』なる人物が作家だったとは。
本を買う金はないので桐花は知らなかった。
普段の顔、と小町は形容したが、今まで桐花は沙一のほんの一面しか見てこなかったのだろう。
(本当に、知らない世界。私は、何も知らなかった・・・・・・)
仕方の無いこととはいえ、それを意識すると、なんだか沙一が急に遠い存在に思えた。
それからすぐに、自分の覚えた感情が何かに気づいてすっと胸が冷えた。
(今、私は何を考えて・・・・・・)
助けてくれようとしている相手に、嫉妬を覚えるなどふざけている。
自分の卑しさに目眩がしそうだった。
「はい、ここ数日間の帝都での異常観測の調査結果です」
「ふむ・・・・・・やはりか」
小町から渡された書類を眺め、沙一は思案する。
「桐花を狙う『悪しきもの』。思った通りの筋書きだったようだな」
その表情は彼にしては珍しく、口角が上がっていた。
「お前に憑いたものの正体が分かったぞ。禍津神だ」
「まがつ、かみ?」
まるで聞きなれない単語に、桐花は首を傾げる。
神ということはわかるのだが、神は人に取り憑いたりするものだっただろうか。
「禍津神とは、浮世において人々に災禍をもたらす災いの元となる存在だ。桐花が出くわしたのは、力を失い消えかけ堕ちた存在で、言わば神の成れの果てと言えるだろう」
沙一は淡々と説明したが、なんともおぞましい存在のように聞こえる。
「そのまま塵芥に消える場合もありますが、今回は何故か徐々に力を得ている様子で我々が観測をしていたんです。どうやらその力の源はお嬢さんと見ていいでしょう。若くて純新無垢な心は、神に潤いを与えますからね。あなたがもっと自分に救いを求めてくれるように、敢えて幻や妖の姿を見せて苦しめていたんでしょう。彼らの思考回路は自分勝手な直線みたいな形をしていますから」
なるほど、善し悪しはともかく理にはかなっているだろう。
実際に桐花は、苦しくなるほどあの社へ通うようになっていた。
この国に八百万の神々がいることは桐花とて知っていることだが、神にも様々あるということだ。
しかしまさか、よりにもよって堕ちた神に参拝しにいっていたとは思いもよらなかった。
「私にお手伝いできることは、ありますでしょうか」
「手伝いなぞ、桐花が気にする必要は・・・・・・」
沙一がそうやって桐花を危険から引き離そうとすることは予想済みだ。
ここで引き下がるわけには行かない。
「だって、自分のことなんですから。ただずっと後ろで沙一さんに守ってもらうだけなんて、嫌なんです」
「桐花・・・・・・」
沙一に対して、こんなに強く自己主張をしたのは初めてかもしれない。
それでも、取り憑かれているのは自分なのだ。
足でまといかもしれなくても、後ろで見ているだけなんてできない。
それぐらいの強い意志をもって訴えれば、沙一も驚いたように言葉に迷っている。
そんな沙一を見てか、小町が口を挟んでくれた。
「そう言ってるんですし、いいんじゃないんですか。高瀬さんがお嬢さんのことを籠の中に閉じ込めて守りたい気持ちも分かりますけど、結局拒絶されちゃってるんですから。それに、今回の件ならお嬢さんがいた方がやりやすいでしょう」
拒絶までした覚えはない、と言いたかったが、それよりも彼女が最後に言った言葉の方が引っかかった。
やりやすい、とは何が。
「お嬢さんを餌に、禍津神をおびき寄せればいいんですよ」
沙一や桐花が問う前に、なんてことない口調で小町はそう言った。
「そんなこと俺が許すと思っているのか」
即座に沙一が提案をばっさり斬り捨てる。
その声は明らかに怒気を含んでいた。
だが桐花はそれを遮って声を上げる。
「やります!私が囮になります!」
「桐花・・・・・・」
「お願いです、沙一さん!私も、お役に立ちたいのです!」
「あの口を開けばお嬢さんのことばかりの高瀬さんが、大切なお嬢さんの意見を無下にするなんてこと、しませんよねぇ?」
煽るように伊月が言えば、沙一は忌々しそうに睨み返しはするもののそれ以上なにも言わなかった。
口を開けば自分のことばかり、というのは桐花にとっては心外のことだったが、何はともあれこれでことは決定した。
「役に立ちたい、か・・・・・・。そんなの、もう随分前から果たせていると思うんだがな」
ふいに、沙一が再び優しい手つきで頭を撫でてきたものだから、また桐花の心臓は跳ね上がってしまった。
策が決まったのなら、行動はできるだけ早い方がいい。
一行は日が完全に沈んでしまう前に、件の神社へと向かった。
「ここです。いつも私は、この神社にお参りをしていました」
奥まった路地の先、真新しい煉瓦造りの瀟洒な建物に囲まれたそこには、時間が止まったかのように古びた神社が佇んでいるだけ。
「まだ帝都にこんな土地が残ってたんですねぇ」
小町がへぇと感嘆したように言う。
駅前を行き交う人々、立ち並ぶ賑やかな店、かつての帝都の面影を残しながらも段々と洋に染まっていく都の喧騒。
それら全てから切り離されたかのように、ここは静かで落ち着く場所だった。
だからこそ、ここにいる神が悪しき存在だとは思い難かった。
「桐花、これを」
シャツの袖を捲り首元も緩めた状態の沙一がなにやら、御札のようなものを桐花に差し出す。
「護りの術がかけられている。あの栞よりもずっと効力が高いものだ。それから、これとこれも」
一体どこにしまっていたのやら、御札に次いで別の札や御守りなど、次々と桐花に渡してくる。
桐花は手も足も出ずされるがままの状態だ。
「沙一さんは本当にお嬢さんのこととなると必死になりますね。私も何かしようかと思いましたけれど、余計な邪魔になりそうなのでやめておきます」
結界を維持しておきますね、と小町は言い残すとこの場を離れていく。
小町が少し離れた場所から結界を張り、内部から桐花が誘い出したところを沙一が討つ、という単純な構図の作戦になっている。
しかし、言葉に表せば単純なだけで実際に重要な役割を背負うとなると緊張してしまう。
「本当に、これで大丈夫なんですよね・・・・・・?」
「ああ。お前のことは、必ず俺が守る」
「いえ、そうではなくて。本当に私の声に神様が応えてくださるのかなって」
「・・・・・・おそらく禍津神は俺や伊月の声には応えない。桐花だからこそできることだ。万が一失敗したとしても、俺や伊月がほかの策を用意していないはずがないだろう?安心するといい」
そう言ってから、沙一は桐花の肩口に顔を寄せて囁いた。
「だが、お前はもう少し、自分のことも大切にするべきだと俺は思うぞ」
「こ、心がけておきます・・・・・・」
秘密を知ってからというもの、沙一の距離がやたらと近い。
沙一ともっと親しくなれたようで嬉しい気持ちと、勘違いをしてしまいそうになるからやめてほしいという気持ちが綯い交ぜになってどうにかなりそうだった。
「それでは、はじめましょう」
気持ちを切り替えるようにそう言うと、一歩前に出る。
桐花の声を合図に、空にはいくつもの点が浮かび、線で繋がる。
これは、小町が貼ってくれた結界なのだろう。
淡く光るそれらに囲まれた空間は、まるで幻でも見ているかのような不思議な心地だった。
「かしこみかしこみ申す」
教えられたとおりに、まじないの言葉を唱える。
後ろで沙一が札を構えるのが分かる。
ピンと張り詰めた空気の中、桐花は言葉を紡いだ。
「こい こい ねがう」
言葉の意味は分からない。
けれど、確かにそこにいる『なにか』を感じられる。
「ことのはねがう」
キィ・・・・・・と音を立てて、固く閉ざされていたはずの社の小さな扉が開いた。
来た。
そうわかった途端、鼓動が早くなる。
それでもなんとか自身を落ち着かせて言葉を続ける。
「・・・・・・ッ、よいやみ、まどえ あめつちうたえ」
どうにか最後まで言い切ることができた。
と、安堵する間もなく周囲の空気が変わり始める。
黒い、夜のような濃い霧が辺りを囲むように広がり、視界が奪われていく。
「桐花!」
瞬間、沙一の持っていた札が青色の炎に包まれ変化する。
炎が消えた時、沙一の手にあるのは一振の刀だった。
沙一は迷うことなくそれを抜くと、桐花を庇うように前に出る。
「沙一さん、これは・・・・・・!?」
「落ち着け。俺が必ずお前を守ると言ったはずだ」
いつも通りの冷静な声だが、その顔は随分と険しい。
影の中からは突風が吹き荒び、着物の裾がばたばたとはためいてしまう。
野分のような風の中、桐花は必死に目を凝らして沙一の姿を見つめる。
『桐花ちゃん、こっちを向いて!』
予想通り、かつて友であった少女たちの甲高い声が聞こえてきた。
振り向けばきっと、そこには袴姿の少女たちが朗らかな笑顔で手を振っていることだろう。
でも決してそれに惑わされてはいけない。
『あらいやだ、卑しい人がいるわ』
『詐欺師の娘がなんの用かしら』
『やめてちょうだい。あなたなんて友人でもなんでもないわよ』
桐花がいつまで経っても反応しないと、今度は耳を塞ぎたくなるような言葉が次々と降ってきた。
これは全て、桐花の記憶を再生しているだけのこと。
今までならここで音を上げていただろうが、今はすぐ側に沙一がいる。
「俺の声だけ聞いていろ」
「・・・・・・っはい!」
刀を構えたままの沙一からそう言われ、落ち着きを取り戻す。
それでも尚、声は止まない。
きっと桐花が折れるまで、相手も諦めないつもりなのだろう。
『ふざけるなよ!お前の娘を売り飛ばしてやろうか』
これは父が金を借りた人が怒鳴り込んで来た時の記憶だ。
夜半に突然知らない人が来たと思ったら、怒りの矛先を自分に向けられて布団の中で息を殺して怯えていた事を覚えている。
『知らなかった、で済むと思うなよ!』
これも、父が事業で騙した相手だ。
父が不在の時に家まで来られたのだが、あいにくこちらは何も知らされていない。
頭を下げてなんとか帰ってもらおうとしたら、この言葉を投げつけられた。
『黙れ。子供が口を挟むな』
これは、初めて父に反抗した日のことだ。
加賀里家はこの先どうなってしまうのかを教えてくれと涙ながらにそういえば、ただ頬をぶたれて余計な怒りをかっただけだった。
あの日、父にぶたれた左頬の痛みが蘇る。
それでもぐっと涙をこらえて、沙一の背を見る。
「いつまでそうしているつもりだ。観念して出てこい」
沙一が鋭い声でそう言うと、くすくすと子供の笑い声のようなものまで聞こえてきた。
このままでは埒が明かない。
しかし次の瞬間、桐花の眼前には見慣れた姿の人物が現れた。
『おいで』
思わず桐花は息を飲んだ。
この声は、沙一だ。
あの顔は、沙一だ。
けれど、これは違う。
「何が見える」
沙一には禍津神の幻術は見えていない。
姿形は見えないとはいえ、気配や呪力を察することができるので問題は無いのだが、桐花の様子がおかしくなったことで不審に思ったようだ。
「・・・・・・ッさ、沙一さん、です」
少しだけ、声が震えてしまった。
眼前でうっそりと笑みを浮かべる黒髪の男は、どこからどうみても沙一だった。
『私はおまえの一番いとしい人だ。さあ、おいで。私といれば、悲しいことや辛いことなんて何も無いよ』
姿形こそ沙一であれ、おそらくこれが禍津神なのだろう。
その口調は思っていたよりも穏やかで、実に楽しそうだった。
「はっ!」
沙一が素早く太刀を振り、真っ直ぐ一文字に切り裂く。
同じ顔の人間が、同じ顔の人間を斬っている。
なんとも奇妙な光景だ。
「人の顔を勝手に使わないで貰えるだろうか」
いかにも不機嫌そうな顔で沙一はそう吐き捨てた。
確かに斬られたはずのそれは、一度姿を消してもまた再び沙一の姿で現れる。
沙一は間髪入れずに札を取り出すと、術を発動させる。
「結べ」
いくつもの光芒が現れ、禍津神を貫いていく。
貫かれてはまた新しい形をつくり、それを繰り返している。
一見して全く変わっていないように思えるが、沙一の術を何発もまともに食らっているのだから確実に力は消耗している。
けれど神は執念深く、桐花のことを諦めない。
『さあおいで。浮世を捨てて、わたしに全てを捧げておくれ』
そう言って、桐花に縋るように手を伸ばしてくる。
甘い声で迫り来る禍津神に、桐花は少し戸惑った。
けれど、後方で刀を構え鋭い眼光でこちらを睨んでいる沙一の姿が目に入り、すぐさま正気に戻る。
手の中にある栞を握りしめて、眼前で微笑む禍津神の手を跳ね除けた。
「・・・・・・沙一さんは、そんなこと言いません。沙一さんは、そんな人じゃありません」
きっぱりとそう言うと、桐花は勢いよく頭を下げた。
「おかえりください」
禍津神は怒るだろう。
だが、それでいい。
はっきりと桐花が拒絶の意を表せば、禍津神も分かるだろう。
「どうか、おかえりください」
禍津神の表情が、色を失っていく。
呆然としたようになってから、だんだんと目を見開いて桐花のことを見る。
憎しみのこもった目だ。
きっと今、この神様は怒りで我を忘れてしまうだろう。
否、もともと我などなかったのかもしれない。
「堕ちた神など、恐るるに足らず」
沙一がその声とともに、神を袈裟斬りにする。
もはや沙一のことすら頭になかったのだろう。
禍津神は驚いたような顔をして、あっさりと斬られていた。
その表情が妙に臭くて、沙一は口の端を吊り上げると刀を鞘に納めた。
「人に希われるはずの存在が、人に乞うようになるとはな」
禍津神の姿が、沙一の顔から本来のものへ戻っていく。
深海のような青い瞳に、泡藤色の綺麗な髪。
白い装束を纏った、花の化身のような美しい人がそこにはいた。
しかし、美しくともその表情からは深い落胆の意が読み取れる。
光の無い目でこちらをちらりと見遣った後、彼は静かに目を閉じた。
「終わりだ」
ぱりん、と硝子が砕けたような音が聞こえた。
「・・・・・・ッ!」
次の瞬間、霧は晴れて元の場所に戻っていた。
禍津神の姿はそこにはなく、ほんの少ししか時間が経っていないのか夕焼けの空は変わりない。
だが、不思議と身体は軽く、平生よりも体調がよく感じる。
「桐花、異常はないか。何かあればすぐに言え」
「いえ、私は大丈夫です」
ただ一つ変化があるとすれば、小さな社は前よりも朽ちて汚れていた。
一歩進もうとして、慌てて足を止めた。
───────足元に、一輪の花が落ちていた。
きっと安らかに眠れますように。
ささやかな祈りをこめて、桐花はその花をそっと朽ちた社へ置いた。
あの幼子と再会した時、自分がいつになく喜んでいること知った。
まだ父や姉の元で、弟子として祓い師の修練を積んでいた頃のことだ。
依頼をもらい向かった家には、変わった子供がいた。
はるか昔に薄れたはずの祓い師としての力を持って産まれてきたその子供は、話に聞くよりも大人しくて無垢な子供だった。
大人たちが難しい話をしている間、そこへ入れて貰えない俺の服の裾を引っ張って、遊んでほしそうにしていたので遊んでやった。
子供は、最近お母さんの元気がなくてかなしいと唇を尖らせて言ってくるものだから、お前の母親はもう長くないなどと本当のことは言えなかった。
その代わりに、ささやかでもこの子供の支えになるようなものをあげたいと思った。
自分なりにこの小さな生き物の未来を祝福してあげたかったのかもしれない。
理由はなんにせよ、それほど上手くない護符を、その名と同じ植物を添えて作ってあげた。
子供は嬉しそうにありがとうと言い、その小さな顔に万遍の笑みを浮かべてくれた。
それから十数年程経って、帝都の街を歩いていた時のこと。
懐かしい気配に惹かれて向かった先には、あの日の子供が成長した姿があった。
俺自身も、祓い師と純喫茶の店主というちょっと変わった職業を得てからしばらく経った頃だ。
子供は俺の事など覚えていないだろうと思ったが、その手にはあの時の栞もとい護符があった。
やけに思い詰めた顔をしているものだから、我慢できずに声をかけてしまった。
案の定、仕事を失い路頭に迷っているというのだから、すぐさま店に連れ帰って女給として雇った。
同業者の椿から、「お前は時々、突発的に振り切ったことをするから困る」と言われた時はそんなことはないだろうと強く否定したが、あながち間違いではなかったかもしれない。
ともかく、沈みきった顔をしている少女に昔のように笑って欲しいと思い、あれこれと面倒を見た。
しかし、少女は人に頼ることがあまり得意ではないようでいつも遠慮がちだった。
自身が彼女に恋心を抱いていることに気がついてからも、彼女の為になにかをしたいと色々手を尽くしてはいたが、中々少女の疲弊した心を溶かすことはできなかった。
そんな矢先、道端で堕ちた神を拾い取り憑かれるなどと誰が想定しただろうか。
正直、神に頼ろうとするぐらいなら俺に頼れと言いたくて仕方がなかった。
祓い師である自分と普通の人間である少女では生きる道が違う。
だから、自分の私情は出さずに少女のことを見守る。
そう決めたばかりのことであったから、尚更苛立った。
何故、彼女のような心優しい人ばかりが理不尽な目に遭うのか。
そう思えば、自分の隠していた仕事について知られても構わないからなんとか救いたかった。
その結果として、無事に事は解決したものの結局祓い師のことについては知られてしまうこととなった。
だが予想外にも彼女は自分のことを恐れるどころか感謝までされてしまうとは。
一体、どこまで彼女は優しいのだろう。
堕ちた神さえ縋るような美しい心を持つあの少女を、離したくはない。
この感情は、恋というには昏すぎるだろうか。
禍津神の件から数日経った頃。
桐花はいつもどおり『花影』で女給として働いていたが、その心はいつもより浮き足立っていた。
実は、桐花にはとても嬉しいことがあった。
簡単に言ってしまえば、借金を大幅に減らすことができたのである。
その金の出処は、伊月小町が沙一に持ってきたあの依頼の報酬金だ。
依頼によって金額はかなり左右されるそうだが、今回は依頼人の羽振りがかなり良かったらしく、是非とも桐花に有効活用して欲しいと小町が持ってきたのだ。
桐花はいいと断ったが、小町から今回の件は桐花のおかげで解決できたものだから、と半ば根負けする形で受け取ったのだ。
普段の給金も、普通の女給としては少し多すぎるくらい貰っているのだから申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、最初に提案したのが他ならぬ沙一なので抗いきれなかったのもある。
不幸中の幸いとでも言った方がいいのだろう。
結果的にこうなったとはいえ、あの神様にであってよかったのかもしれない。
結局世の中巡り合わせで、幸も不幸もどちらにも転がれるのだ。
「桐花、そろそろ休憩にしよう」
「はい」
客が減り、店が閑散とした頃に休憩になる。
沙一に呼ばれカウンターの椅子に座ると、いつもの珈琲がすっと差し出された。
沙一が桐花に作ってくれる珈琲は、いつも砂糖とミルクが入っていて、甘さの中にほんのりとした苦味が感じられて好きだった。
また少しすれば、客が増える時間帯になる。
しっかり休んで休憩後もがんばろう。
そう、ゆっくりと穏やかな気持ちで珈琲を味わっていると。
「・・・・・・あの」
一旦、カップを置いて恐る恐る口を開く。
先程からずっと、沙一が桐花のことを見つめてくるのだ。
「そ、そんなに見られると恥ずかしいのですが・・・・・・」
「ん?そうか、それはすまなかった。気にしないでくれ」
気にするな、と言われてもなんとも形容しがたい温い視線がどうにもむず痒い。
再三繰り返すことになるが、沙一との距離が近くなればなるほど桐花は困ることになるのだ。
「あれから、体調は大丈夫か」
「はい。もうすっかり元気ですよ」
もう大丈夫だと言っているのに、沙一は桐花の体調をこまめに確認する。
心配してくれているのはありがたいが、もう幼子ではないのだからそんなに気にしなくても、と思ってしまう。
「何かあればいつでも祓うからな。これからは、迷わず俺の所へ来い」
「・・・・・・はい。お気持ちはありがたいのですが、今後はご迷惑をおかけするようなことにはしませんので」
「迷惑だと言った覚えはなかったが。何故、お前は誰かに頼ることをそうも拒む?」
「なぜって、それは・・・・・・その」
上手く言えなくて口ごもる。
色々な人に裏切られてきて、人間不信になりかけていたところもあるかもしれない。
だが、沙一に関しては例外中の例外だった。
(あなたのことを好になってしまいそうだから勘違いをしてしまいそうになる・・・・・・なんて、言えませんよ)
「その、・・・・・・他人に頼りすぎるのは良くないことですから。自分のことは、自分で頑張りませんと。それに、あまり頼ってばかりでは一人になった時に困りますから」
取り繕うようになってしまったが、この言葉は嘘ではない。
一人になってから、自分の無力さを嫌という程思い知らされたのだから、桐花にとって誰かに頼らず自分の力で生きていくのは大切なことだった。
しかしその程度で引き下がる沙一ではない。
「なら、他人相手じゃなければいいんだな」
「え?」
沙一の意図が読めなくて、桐花は困惑する。そんな桐花を見て、沙一は小さく笑った。
「俺が、桐花にとっての他人じゃなくて、特別になればいいんだろう」
「えっ、えっ」
徐々に沙一の顔が近づいてくる。
心を溶かす甘やかな声が、囁いてくる。
「好きだ」
一瞬、言葉の意味が理解できなくて桐花は固まってしまった。
それから、ゆっくりと沙一を指さしてから自分のことを指さす。
沙一は力強く頷いた。
少しの間、二人の間を静寂が包む。
「・・・・・・わ、私も」
意を決して震えながら口を開けば、満足気な顔で、いたずらっぽく笑っている沙一がいた。
その顔を見て、ようやく桐花は気がついた。
(もしかして、最初から全部・・・・・・)
顔が熱い。
きっと今自分は取り繕いようのないくらい赤面しているのだろう、と桐花は悟った。
嬉しいような、恥ずかしいような。
桐花にとって『これ』は初めて味わう感情だった。
「いつから好きでいてくださったんですか」
恐る恐るそう聞いてみると、沙一は優しく笑う。
「あの日、お前と再会した時からだ。懐かしい気配がすると思ったら、自分が昔作った護符を持っている人がいたんだからな。すぐにあの時の幼子だと気づいたが、加賀里家に起きたことは俺たちの界隈でも噂になっていたから、少々心配になって声をかけたんだ」
あの日、沙一が桐花に気づいたのはあの栞がきっかけだった。
運命の巡り合わせ、とは言い過ぎかもしれないが、桐花が栞をずっと大切に扱って来たことが今の未来に繋がっていた。
「昔の俺は不出来な弟子だったからな。あの頃の自分の努力が報われた気がして、嬉しかったんだ」
沙一が不出来だなんて桐花は思わないが、その声音は本当に嬉しかったということが分かるぐらい優しかった。
「それからしばらくして、俺はお前の事が愛しいのだと気づいた」
直球に愛しいと言われて、またも桐花は赤面する。
何故この人はこうも簡単に愛を囁けてしまうのだろうか。
「桐花」
「・・・・・・えっ、あ、え!?」
頬に手を添えられて、段々と沙一が顔を寄せてくる。
彼の長い睫毛が至近距離で見える。
綺麗な顔を前にして、もはや桐花は為す術などない。
破裂しそうな心臓の鼓動だけが桐花を支配する。
「さ、沙一さん・・・・・・」
その時のことだった。
静かだった室内に、ちりん、という呼び鈴の音が響く。
「真っ昼間から何してるんです、ふしだらですよ」
よりにもよってこの瞬間に客が来るとは、と思いきや現れたのは伊月小町だった。
じとぉっ、とした目で沙一のことを見ている。
桐花はきょとんとした顔をしてから、気がついたようにすぐに沙一から離れた。
まさかこんな時に来られるとは思わなかったが、そういえば初対面のときもこんなようなことがあった気がしなくもない。
「・・・・・・伊月」
沙一がいかにも悔しそうな顔をして頭を抱える。
「すみません、わざとじゃないんですよ。あとこれ、新しい依頼です」
小町は淡々と謝ると、なにやら書類の束を沙一に渡す。
普段の涼しい顔でカウンターに立っている姿からは想像できないくらいの、苦々しい顔で書類を受け取る沙一がどうにも面白くて。
「ふふっ、ふふふっ」
思わず桐花の口から笑い声が零れてしまった。
沙一も小町も驚いた顔をして桐花を見たが、堪えきれなくなったかのように小町も笑いだした。
「あははっ!」
瞬く間に店内が、可愛らしい二つの笑い声で埋め尽くされる。
桐花が笑いつつ、ちらりと沙一に目配せをすると、沙一も小さく笑ってくれた。
二ヶ月前、帝都の喧騒の中を死んだように歩いていた頃では想像できなかったぐらい、桐花は幸せを感じていた。
あの時、分からなかったこの気持ちの名前がようやく分かったような気がした。
そう。
きっと、この気持ちの名前は、愛だ。