夕暮れ時の帝都は、立ち並ぶ街灯のおかげでまだまだ明るい。
帝都の夜はこれからだ。
そう言わんばかりに街を行き交う賑やかな人々を横目に、桐花は一人逆方向へと歩いていく。

陽射しが眩しくて、目を細める。
橙色の光は、『花影』の暖かなランプの色にも似ていてどこか心地よかった。
昨晩は散々な目にあってよく眠れなかったのもある。
酷い顔をしていたようで、案の定沙一からはずいぶんと心配されてしまった。

しばらく歩いてから、なんとなく、桐花はふと立ち止まった。
石畳の道路とぎっしり並んだ建物の間に、小さな社がある。
ここは最近見つけた神社だ。
帝都の近代化が進んだ影響で、こんな奥まったところにあるのだろう。
前面にあった建物が変わったことでその存在を見つけることが出来たのだ。

(今日もお参りしていきましょう。神様へのご挨拶は大切なことです)

中々減らない借金に加えて、ここ最近続いている幻覚はいつだって桐花の頭を悩ませる。
神頼み、というわけではないがこうして神に祈ると何かしらのご利益がありそうで、この社を見つけてからというもの通い続けていた。

二礼二拍手一礼。
きっちり礼をしてから、くるりと踵を返して帰ろうとした時。

「あっ」

思わず口から声が零れて、慌てて手で押えた。
喫茶店に手帳を置き忘れてきたことに、今気づいた。
休憩室で荷物を整理する時に、机の上に置いたのをそのままにしてしまっていた。
もしかすると、神様が教えてくれたのかもしれない。
桐花は通ったばかりの道を引き返していく。
休憩室といっても『花影』で働いている女給は桐花一人なので急ぐ必要はないが、あの手帳には大切な栞が挟んであるのだ。
もし失くしたなんてことになったら、立ち直れないかもしれない。
疲れが溜まっているのもあるのだろう、なんだか肩も重くて足も怠い。
風邪でも引いたら困る。早く用を済ませて帰宅した方が良いだろう。

足早に人々の間を通り抜けて、喫茶店へと戻ってくる。
こぢんまりとした『花影』の外観は洋館風で、硝子細工の窓が目を引く。
こんなハイカラでお洒落な店で自分は働いているのだと、扉を開く度に思ってしまう。

「沙一さん。すみません、私、忘れ物を・・・・・・」

店内には沙一がいつものようにカウンターにいたが、珍しくその手には煙管がある。

「待て」

「は、はい!」

低い声でそう言われ、無意識的に緊張してしまう。
不機嫌というわけではないが、いつもよりも険しい表情をしている。
沙一は煙管片手にこちらへ歩み寄ってくる。
紫煙をくゆらせるその姿は、より一層色男が際立っていた。
もしや自分は何かをしでかしてしまったのかと焦る桐花をよそに、沙一はただ一言呟く。
その視線は、桐花ではなくその後方に向いていた。

「去れ」

「・・・・・・え?」

その言葉を理解する前に、風もないのに、沙一の煙管から紫煙がこちらへ漂ってきた。
煙はそのまま桐花を避けるように過ぎていくと、霧が晴れるように背後で急に消えてしまう。
この煙は一体なにかと振り返った一瞬、なにか黒いものが見えたような気がしたが、それどころではなかった。

「桐花。何か俺に言うことはあるか」

「えっと、その・・・・・・」

顔を上げれば、鋭い視線が降ってくる。

(今のはなんだったのでしょう?)

問いたいが、沙一の有無を言わせない雰囲気に言い淀んでしまう。
そんな桐花を前に、沙一は表情を変えることない。
沙一は、カウンターに戻るとなにかを手に持って再びこちらへ向かってくる。

「そっ、それは私の手帳・・・・・・!」

沙一の手にあったのは、桐花にはよく見覚えのあるものだった。
茶色の飾り気のない手帳だが、押し花の栞を挟んでいる。
紛うことなく、桐花がずっと使い続けている大切な栞だ。

「まさか、この栞をまだ使ってくれていたとはな」

「えっ?」

小さな声だったのでよく聞こえなかったが、一瞬、沙一の顔が綻んだように見えた。

「まあ座るといい。少し話をしよう」

沙一に促され、ひとまず、カウンター前の背の高い席に座る。
いつも客が座っている場所に自分がいるのは、なんだか落ち着かない気分だった。
沙一も隣に座り、灰皿に灰を落とすと煙管を置いた。

「さて、今から語ることは詭弁だと思ってくれて構わない」

沙一は真っ直ぐな目で、戸惑う桐花のことを射抜いた。

「お前、取り憑かれているだろう」

「と、とり・・・・・・!?」

「ここ最近、幻覚や幻聴に悩まされていなかったか」

突然、沙一の口から非科学的な発言が出てきて動転してしまう。
さらに幻覚の一件まで勘づかれていたとは。

「どこで拾ったかは知らないが、お前は確実にどこかから『悪しきもの』を惹き付けてきた。幻覚や幻聴の原因はすべてそいつの仕業だ」

「それは、悪霊のようなものということでしょうか・・・・・・?」

「ああ。そう考える方が分かりやすいだろうな」

その口ぶりから察するに、単なる悪霊では無いことは分かるのだが、桐花にはその方面の知識はまるで無いので悪霊と簡単に考えた方がマシだろう。

「例えば、廃墟や廃れた神社など、呪術や妖の痕跡の残るような場所に行かなかったか」

「いえ、特に心当たりは・・・・・・あっ」

そんな素人目でも分かるような怪しい場所には近寄らない。
と、胸を張って言いたいところだが『社』というのには覚えがものすごくあった。

「今しがた行ってきたばかりですね」

あの小さな社のことだ。
なんなら毎日通っている。

「だろうな。あれほどの邪気を漂わせていたのだから」

予測はついていたのだろう。
項垂れる桐花を前に、沙一はおもむろに手帳から栞を取り出した。

「この栞には守護の術がかけられている。これを手放さない限り、桐花の身の安全は保証されると思えば良いだろう。だが、これの効果は最低限の安全を守ることだけだからな。視覚や聴覚に訴えるような微弱な攻撃にはあまり効力を成せない」

そんなことは初耳だ。
貰い物の栞に、守護の術だなんて。
桐花はどうして良いのか分からず唖然とする。

「しかしお前はこれを持たずに『悪しきもの』の所へ足を運んでしまった。その結果、それをより一層惹き付けている状態にある。今は軽く追い祓ったから良いが、奴はどうにも執念深そうだ。今日はこのままお前を帰すわけには行かない。いや、いっその事今日のうちに祓いきってしまう方が良いだろうか」

なんとなく、理解はできないことは無い。
しかし、この口ぶりではまるで霊媒師やら拝み屋やらの職種の人のようではないか。
ただの喫茶店の店主が、悪霊祓いなど習得しているはずがない。

「・・・・・・沙一さんは、何者なのですか」

聞きたいような、聞きたくないような。
よく見知っているはずの彼の、知らない顔に桐花は戸惑うことしかできなかった。

「再三言うが、俺の話すことは全て詭弁と思ってくれて構わない。なぜならこれは、普通の人間にとっては信じ難い話だからだ」

無論、彼が詭弁を言うなどと桐花は思っていない。
真面目で実直な沙一が、真摯な顔で話してくれているのだ。
どんなに突飛で摩訶不思議な話でも、沙一が言うのなら、それは真実だと思えた。

「まだ帝国が帝国ではなかった頃からのことだ。古来よりこの国には高瀬という祓い師が仕えていた。俺はその一族の生まれで、祓い師としての力を持っている」

陰陽師の連中と似たようなものだろう、と沙一は肩を竦める。

「お前の家・・・・・・加賀里家とはその関係で縁があった。知らないだろうが、加賀里家の一族もかつては祓い師だったんだ。今はもう術師は一人もいないが、その才は僅かながらも受け継がれている。そしてお前は近年稀に見るほど、才を色濃く受け継いでしまったんだ」

沙一の手が、優しく、桐花の頭を撫でる。
一瞬、どきりとしてぴくりと肩が震えた。

「しかし、加賀里家はもう祓い師ではない。その能力はこの先、桐花にはとってしがらみにしかならないだろう。だから加賀里家は高瀬に依頼をしてお前の才を封じることにした。当時の俺はまだ修行中の身で、父や姉の仕事に同行させてもらうことが多く、加賀里家にも少しばかり関わらせてもらっていた。お前と出会ったのはその時なんだ。まだ四、五歳ほどだったから憶えていないのも仕方がないことだ」

沙一は慈しむかのような、優しい視線で、穏やかな声で語り終えた。
思えば、自分は沙一の背景について知らないことだらけだった。
沙一もあまり自分のことを語りたがるような性格では無いので、触れる機会がなかったというのもあるが、まさか祓い師という特殊な事情を持っていたとは。
あまりに非現実的な話だが、実際にその力を見た後ではすんなり納得できた。

「そう、だったんですね・・・・・・」

貧弱な語彙のせいで、簡単な言葉しか言えない自分が恨めしい。
しかしまさか、自分自身もそういった世界に身を置いていた血筋だったというのは完全な想定外だった。
父との繋がりというのも、そういうことだったのなら納得がいく。
自分を拾ってくれたのも、ただ、本当に当時のことがきっかけとなっただけで、利用価値など考えてもいなかったのだと。
この話に実感はないが、幻覚は見続けているのでそれがなによりの証拠だろう。

「それにしても、俺の拙い術で作った護符をまだ持ち続けてくれていたとは思っていなかったがな」

「ずっと私のことを守って下さっていたんですね」

昨日の夜も、世話になったばかりだ。
なんとなく気恥ずかしくてはにかみながらそう言うと、沙一は照れくさそうにふっと笑って視線を逸らした。

「でも、どうしてすぐに話してくださらなかったんですか?私がここに勤めてからそれなりに経つじゃないですか」

「せっかく才を封じて普通の道で生きていけるようにしたんだから、わざわざ教える必要はないだろう。お前を危険に巻き込みたくはなかったんだ。だが・・・・・・」

沙一の手が、今度は桐花の頬を撫でた。

「すまなかった。今まで、お前の身に何が起きているのは分かっていたし、できるかぎり祓ってはいるが、やはり俺の術ではお前に気づかれないように上手くやることができなかった」

段々と近づいていく彼の美しい顔に、動転してもはや指の先まで凍ったように動かせなくなる。
沙一の言っていることは正しく、仕方の無いことで、謝らなければならないことなどひとつもない。

あなたが謝ることなんて。

そう言いたいのに、甘いとろけるような声で囁かれて、謝罪をされているのか骨抜きにされているの分からなくなる。

「こんなことなら、お前が言い出すのを待たずに無理やりにでも祓ってしまえばよかった。昨日もよく眠れなかったんだろう」

その時。
沙一の言葉を遮るようにちりん、と扉の呼び鈴の音がした。
もうとっくに店は閉まっているのに客が来るなんて。
桐花が慌てて沙一から身を離すと、沙一も渋々といったように手を離して桐花を解放した。

「こんばんは、高瀬さん。椿の代理で参りま・・・・・・あら、お楽しみ中でしたか」

「違う。帰るな」

どうやら、客ではなさそうだった。
店に入ってきたのは、沙一の知人と思しき女性。
鮮やかな色のひざ下丈のワンピースは洒落ていて、いかにも流行最先端のモダンガールといった装いだ。

「椿はどうしたんだ」

「締め切りに間に合わないそうで。今日は代理の伊月でガマンしてください」

「またか、本当に奴は学ばないな」

一体誰の話をしているのか、彼女は誰なのか。
目の前で繰り広げられるやり取りを前に、桐花は狼狽える。

「初めまして、お嬢さん。私は伊月小町(いつきこまち)。怪しい人ではありません、ただの高瀬さんの同業者ですよ」

ぺこりと礼をして、小町と名乗った彼女は桐花に名刺を差し出した。
『帝都十三協会 伊月小町』と書かれているが、初めて聞くような組織名だ。
しかし、沙一の同業者ということは彼女の正体は分かっているようなもの。

「では、祓い師、ということで・・・・・・」

「そうですそうです」

小町はにこにこと万遍の笑みを浮かべて頷く。
ではなぜ同業者がここへ訪ねてくるのかとという疑問には、沙一が答える。

「実はこの店は表向きは純喫茶だが、裏では祓い師として依頼を請け負ったり情報収集をしている。今まで隠していてすまなかったが、やはり、少しでも危険が及ぶとなると正直に話す訳にはいかないからな」

「普段は高瀬さんと椿凛世(つばきりんぜ)っていう祓い師の人が活動してるんですけど、時々私が代理で駆り出されるんですよ。高瀬さんが純喫茶をやっているように、椿も作家をしていまして、皆さんそれぞれ普段の顔があるんですよ」

先程から名前だけ出ている『椿凛世』なる人物が作家だったとは。
本を買う金はないので桐花は知らなかった。
普段の顔、と小町は形容したが、今まで桐花は沙一のほんの一面しか見てこなかったのだろう。

(本当に、知らない世界。私は、何も知らなかった・・・・・・)

仕方の無いこととはいえ、それを意識すると、なんだか沙一が急に遠い存在に思えた。
それからすぐに、自分の覚えた感情が何かに気づいてすっと胸が冷えた。

(今、私は何を考えて・・・・・・)

助けてくれようとしている相手に、嫉妬を覚えるなどふざけている。
自分の卑しさに目眩がしそうだった。

「はい、ここ数日間の帝都での異常観測の調査結果です」

「ふむ・・・・・・やはりか」

小町から渡された書類を眺め、沙一は思案する。

「桐花を狙う『悪しきもの』。思った通りの筋書きだったようだな」

その表情は彼にしては珍しく、口角が上がっていた。

「お前に憑いたものの正体が分かったぞ。禍津神(まがつかみ)だ」

「まがつ、かみ?」

まるで聞きなれない単語に、桐花は首を傾げる。
神ということはわかるのだが、神は人に取り憑いたりするものだっただろうか。

「禍津神とは、浮世において人々に災禍をもたらす災いの元となる存在だ。桐花が出くわしたのは、力を失い消えかけ堕ちた存在で、言わば神の成れの果てと言えるだろう」

沙一は淡々と説明したが、なんともおぞましい存在のように聞こえる。

「そのまま塵芥に消える場合もありますが、今回は何故か徐々に力を得ている様子で我々が観測をしていたんです。どうやらその力の源はお嬢さんと見ていいでしょう。若くて純新無垢な心は、神に潤いを与えますからね。あなたがもっと自分に救いを求めてくれるように、敢えて幻や妖の姿を見せて苦しめていたんでしょう。彼らの思考回路は自分勝手な直線みたいな形をしていますから」

なるほど、善し悪しはともかく理にはかなっているだろう。
実際に桐花は、苦しくなるほどあの社へ通うようになっていた。
この国に八百万の神々がいることは桐花とて知っていることだが、神にも様々あるということだ。
しかしまさか、よりにもよって堕ちた神に参拝しにいっていたとは思いもよらなかった。

「私にお手伝いできることは、ありますでしょうか」

「手伝いなぞ、桐花が気にする必要は・・・・・・」

沙一がそうやって桐花を危険から引き離そうとすることは予想済みだ。
ここで引き下がるわけには行かない。

「だって、自分のことなんですから。ただずっと後ろで沙一さんに守ってもらうだけなんて、嫌なんです」

「桐花・・・・・・」

沙一に対して、こんなに強く自己主張をしたのは初めてかもしれない。
それでも、取り憑かれているのは自分なのだ。
足でまといかもしれなくても、後ろで見ているだけなんてできない。
それぐらいの強い意志をもって訴えれば、沙一も驚いたように言葉に迷っている。
そんな沙一を見てか、小町が口を挟んでくれた。

「そう言ってるんですし、いいんじゃないんですか。高瀬さんがお嬢さんのことを籠の中に閉じ込めて守りたい気持ちも分かりますけど、結局拒絶されちゃってるんですから。それに、今回の件ならお嬢さんがいた方がやりやすいでしょう」

拒絶までした覚えはない、と言いたかったが、それよりも彼女が最後に言った言葉の方が引っかかった。
やりやすい、とは何が。

「お嬢さんを餌に、禍津神をおびき寄せればいいんですよ」

沙一や桐花が問う前に、なんてことない口調で小町はそう言った。

「そんなこと俺が許すと思っているのか」

即座に沙一が提案をばっさり斬り捨てる。
その声は明らかに怒気を含んでいた。
だが桐花はそれを遮って声を上げる。

「やります!私が囮になります!」

「桐花・・・・・・」

「お願いです、沙一さん!私も、お役に立ちたいのです!」

「あの口を開けばお嬢さんのことばかりの高瀬さんが、大切なお嬢さんの意見を無下にするなんてこと、しませんよねぇ?」

煽るように伊月が言えば、沙一は忌々しそうに睨み返しはするもののそれ以上なにも言わなかった。
口を開けば自分のことばかり、というのは桐花にとっては心外のことだったが、何はともあれこれでことは決定した。

「役に立ちたい、か・・・・・・。そんなの、もう随分前から果たせていると思うんだがな」

ふいに、沙一が再び優しい手つきで頭を撫でてきたものだから、また桐花の心臓は跳ね上がってしまった。