「俺はここを散歩するのが日課……というか習慣なんだ。君みたいな人がよく来るからね。仕事柄、そういう人達をほっとけなくて」
「…………」

 正直、胡散臭い。町から遠くないとはいえ、こんな曰くつきの広大な森で偶然出会うだなんてあり得るだろうか。それに、荒んだ考えだがプライベートまで人助けみたいな慈善活動をしているというのが、あまりにも嘘っぽい。
 だが一方で、危険人物の類ならば呑気に雑談をしながら自分の個人情報まで晒す必要性が皆無なのもたしかだ。臨床心理士資格登録証明書と書かれたカードに印刷された写真は間違いなく目前の男だし、本物を見たことはないが素人目にも手が込んでいるので偽造している感じもしない。
 半信半疑な私の心情を知ってか知らずか、男はなおも馴れ馴れしく話しかけてくる。

「その制服……この近くの高校だよね? 何年生? あっ、そういえば名前も聞いてなかったね。無理にとは言わないけど、よかったら教えてくれないかな」
「…………」

 別に、相手が名乗ったからといってこちらが名乗り返す義理はない。仮に無害な人だとしても初対面の他人には違いないので、無視して早く帰るのが一番だ。というか、常識的にそうすべきだ。
 でも……。

「……綿雪(わたゆき)のどか……二年生、です」

 名刺に記載されたスクールカウンセラーという文字をじっと見つめながら、私は乾いた口を開いた。
 この一年あまり、私は理不尽な仕打ちを誰にも相談できず、たった一人で懸命に耐えてきた。教師は面倒がって見て見ぬふりをしてきたし、仲が良かったはずの友達も遠巻きに私を蔑むようになったし、仕事で毎日忙しい両親には心配も迷惑もかけたくない。
 だから……聞いて欲しくなった。聞いてくれるだけでいい。救ってくれなくていい。解決策がなくてもいい。その肩書きが詐称でも自称でもいい。見ず知らずの人だけれど……いや、だからこそかもしれない。私はただ、一人で苦しむことに疲れてしまった。

「綿雪のどかさん、か……いい名前だね。とりあえず、立ちっぱなしもなんだし、座ってゆっくり君のことを聞かせてくれないか?」

 そう言って、一際大きな木の根元に座った男――春原さんは、懐から出したハンカチを広げて隣に座るように促した。こんな所で……と一瞬思ったが、ここなら誰にも聞かれる心配がないから、かえって落ち着いて話せると思い直し、私は素直に従った。

「ありがとう。さて……俺はのどかさんの気持ちを少しでも軽くしたいとは思っているけど、決して人生の先輩ぶって偉そうに助言するつもりはないからね。だから、あまり気を張らずに今の悩みを話してくれると嬉しいな」

 優しく見守る太陽のような温かい言葉と眼差しが眩しくて、思わず目を逸らしながら私はこの一年間の苦悩をぽつぽつと語り始めた。

「…………あの……私、実は……――」




「――――そうか……それは、辛かったね。今までよく頑張ったよ……俺だったら……とても、耐えられないな……」
「…………」

 一通り話し終えると、春原さんはまるで自分のことのように苦しそうに顔を歪めて、私を気遣う言葉を途切れ途切れに絞り出した。それが上辺だけの同情ではないのは明らかで、私は積もり積もった鬱屈とした感情を全て吐き出したこともあり、久しぶりに胸がすく思いがした。
 冷静に振り返ると、自分が本当に自殺寸前の瀬戸際の状態だったと実感する。とはいえ根本的には何も解決していないのだから、所詮は一時的に気が紛れただけに過ぎない。
 だが、話すことで気持ちが楽になるという当たり前の感覚を思い出せただけでも、この自殺多発地帯に迷い込んだことが神の導きのように感じられる。

「あの……ありがとうございました。会ったばかりの……私なんかのために……。では、あの……もう大丈夫、なので……」

 実際には全然大丈夫ではないが、気分がすっきりすると同時に心情を赤裸々に吐露した気恥ずかしさが沸き上がり、私はそそくさと立ち上がり走り去ろうとした。
 しかし――。

「…………」
「……あ……あの……?」

 左手首を温かな感触が包むのを感じて目を向けると、春原さんが何かを考え込みながら掴んでいた。今になって何かされる心配はしていないが、その真剣な表情を見て私は声を詰まらせた。

「す、春原さん……?」
「……のどかさん……もしも……もしもの話なんだけど……君に酷いことをしてきた奴らに、復讐できるとしたら……君はどうする?」
「…………え?」

 唐突な例え話に、私は言われたことを何度か頭の中で反芻する。
 もしも復讐ができるなら?
 質問の真意は分からないが……そんなこと、考えるまでもない。

「できるなら……したいですよ、復讐。だって、私は何も悪くないんですよ……当たり前じゃないですか……」
「それは……仮に謝罪や賠償があっても……かな? 具体的には、どのくらいの復讐で気が済む――」
「そんなのっ! 殺してやりたいに決まってるじゃないですかッ!!」

 思い出したくもない不快な顔が脳裏をよぎり、ついカッとなって声を荒らげる。
 謝罪? 賠償? あの腐りきった外道にそんな人間らしい良心があるわけない。それに、多少痛い目に遭った程度でいじめをやめることも反省することも絶対にない。ちょっとでもやり返すと私の方が逆に悪者にされるから何もできないだけで、そうでなければとっくに刺しているところだ。

「……そうか……ごめん、変なこと聞いて……。帰り、気を付けてね」

 爪が肉に食い込むほど強く拳を握り締めて体を打ち震わせる私の腕を放し、春原さんは申し訳なさそうに謝った。何も答えずにとぼとぼと歩き出した惨めな私の背中に、最後まで穏やかな声が優しく響いた。

「のどかさん……また来て欲しい。苦しい時も、そうでない時も。この時間、俺はいつもここにいるから」