いじめの情報共有は慎重に行う必要がある。何かの拍子に加害者の耳に入ると「チクった」と激高していじめが過激化する恐れがあり、勇気を出して話してくれた被害者の信頼も損ねかねない。
まずは被害者と関係が深い人から内々に相談して協力者を増やし、対応策を検討する。となると、まず最初に校内で該当するのは優菜さんの担任教師だろう。
ただ、問題は……。
「尾崎先生、大事なお話がありますので少しお時間よろしいですか? そちらのクラスのことなのですが……」
「……はぁ~……言ったはずだ、お互いに邪魔しないようにと。生徒と雑談するだけの仕事はよほど退屈なんだろうが、教師を巻き込むな。俺に迷惑をかけて楽しいか?」
教師の中でも俺への嫌悪感が特に顕著な尾崎先生は、授業終了後に廊下で呼び止める俺に構わず足早に過ぎ去ろうとする。昼食の前後にタバコ休憩する時間を奪うつもりも否定するつもりはないが、ここで素直に諦めるわけにはいかない。
「本当に大事なことなんです。尾崎先生が担当されている生徒から相談がありました。繊細な問題ですので今は個人名を伏せますが、その子は一年も前から――」
「瀧上のことか? それなら話すことはない。お前も余計なことはするな」
「なっ……!?」
あまりにも無感情に、淡々と、平然と口にした名に、言葉に、俺は驚愕した。
「し……知っていたんですか? それなら、どうして何もしないんですかっ! 彼女はずっと苦しんでいるんですよ!?」
食い下がる俺には見向きもせず、尾崎先生は再び大きな溜め息をつきながら面倒そうに歩く速度を上げる。
「今のところ成績は落ちてないし、親から苦情も来てない。いじめてる連中も、幸い隠れてこそこそやってるだけで大事にはしてない。下手に注意しても反発して何をしでかすか分からんだろうが、あの馬鹿共は」
信じられない……。経験豊富なはずのベテラン教師が発する一言一句が、全て理解出来ない。出来るはずがない。
「それは……本気で言ってるんですか?!」
「ああ、当然だ。元々素行の悪い不良生徒達だが、残念ながら易々と退学にも出来ない。優秀な生徒を妨害するのは忌々しいが、瀧上が一人だけ我慢すれば他の生徒は平穏に卒業できる。……気の毒だとは思うがな」
「ッ……あなたは……あなたは、それでも教師ですかっ!」
怒りのあまり思わず声が荒くなり、近くにいた生徒が驚いて一斉にこちらを見た。尾崎先生は小さく舌打ちすると、人目を避けるように小走りで階段を下りる。
「春原……幼稚な正義感を抱くのは勝手だが、綺麗事では何も変えられないのが現実だ。今の学校という社会では教師やカウンセラーなど底辺で、保護者はもちろん生徒にすらろくに叱責も指導もできない。教師が生徒からいじめられることもあるし、冤罪被害に遭うこともある。保護者からの執拗なクレームで鬱になって退職する後輩も、まっとうな反論をしてクビになった同僚も俺は見てきた」
あくまでも冷淡に……だけど、どこか諦念と疲労が入り混じった声で、尾崎先生は吐き捨てるように言い放った。
「……一つだけ忠告しておく。半端なことをするくらいなら何もするな。生徒達は、お前が思っている通り純粋だが……お前が思っている以上に卑劣で残酷でもある。全員に優しくして、全員を幸せにしようなんて甘い理想は捨てろ」
優菜さんの相談を受けてから一か月。
結局、俺は全く彼女の力になれずにいた。尾崎先生以外の教師も「今はまだ様子を見よう」と協力には消極的だったし、教育委員会への報告を校長と教頭に進言したが「こちらで慎重に事実確認を行ってからだ」と却下されてしまった。
優菜さんから、いじめの主導者である同級生の女子三人が誰かは聞いているが、彼女らには何度か挨拶がてら世間話をしたくらいで、未だに踏み込んだ話は出来ずにいる。尾崎先生が正しいとは決して思わないが、たしかに彼女らを不用意に刺激するのは避けるべきだからだ。
「くそっ……どうすればいいんだ……」
あれから、優菜さんは俺の勤務日には必ず相談室に来てくれるようになった。と言っても、いじめの話は一切せず、いつも他愛のない日常会話ばかりだ。彼女は賢いので、俺が役に立たないと悟ったか……あるいは、力になれず落ち込む俺に気を遣っているのかもしれない。それでも、俺と話すことで少しでも気が楽になるのか、表情は徐々にだが和らいでいっている。
だが、そんなせめてもの朗報に反して、俺の心は日を追うごとに押し潰されていく。
早くなんとかしなければ。どうするのが最適なのだろうか。絶対に間違った行動は出来ない。そんな思いと重責が、容赦なく俺を蝕む。
最も来訪数が多い放課後を告げるチャイムが鳴った後も、俺は答えの出ないいじめへの対応で頭がいっぱいだった。優菜さんには偉そうに安心してと言っておきながら、解決の糸口が全く見えない……。
「すのさーん、遊びに来たよ~」
「おっ、今日はまだ誰もいないねー」
「あ~、授業だるい~。つっかれたー」
入口のドアが勢いよく開け放たれると同時に聞こえてきた快活な声に、俺の心臓が飛び上がった。
心ここに在らずで驚いたから、ではない。
賑やかしく陽気に入ってきた三人組が……今まさに俺を悩ませている、いじめの主犯だったからだ。
まずは被害者と関係が深い人から内々に相談して協力者を増やし、対応策を検討する。となると、まず最初に校内で該当するのは優菜さんの担任教師だろう。
ただ、問題は……。
「尾崎先生、大事なお話がありますので少しお時間よろしいですか? そちらのクラスのことなのですが……」
「……はぁ~……言ったはずだ、お互いに邪魔しないようにと。生徒と雑談するだけの仕事はよほど退屈なんだろうが、教師を巻き込むな。俺に迷惑をかけて楽しいか?」
教師の中でも俺への嫌悪感が特に顕著な尾崎先生は、授業終了後に廊下で呼び止める俺に構わず足早に過ぎ去ろうとする。昼食の前後にタバコ休憩する時間を奪うつもりも否定するつもりはないが、ここで素直に諦めるわけにはいかない。
「本当に大事なことなんです。尾崎先生が担当されている生徒から相談がありました。繊細な問題ですので今は個人名を伏せますが、その子は一年も前から――」
「瀧上のことか? それなら話すことはない。お前も余計なことはするな」
「なっ……!?」
あまりにも無感情に、淡々と、平然と口にした名に、言葉に、俺は驚愕した。
「し……知っていたんですか? それなら、どうして何もしないんですかっ! 彼女はずっと苦しんでいるんですよ!?」
食い下がる俺には見向きもせず、尾崎先生は再び大きな溜め息をつきながら面倒そうに歩く速度を上げる。
「今のところ成績は落ちてないし、親から苦情も来てない。いじめてる連中も、幸い隠れてこそこそやってるだけで大事にはしてない。下手に注意しても反発して何をしでかすか分からんだろうが、あの馬鹿共は」
信じられない……。経験豊富なはずのベテラン教師が発する一言一句が、全て理解出来ない。出来るはずがない。
「それは……本気で言ってるんですか?!」
「ああ、当然だ。元々素行の悪い不良生徒達だが、残念ながら易々と退学にも出来ない。優秀な生徒を妨害するのは忌々しいが、瀧上が一人だけ我慢すれば他の生徒は平穏に卒業できる。……気の毒だとは思うがな」
「ッ……あなたは……あなたは、それでも教師ですかっ!」
怒りのあまり思わず声が荒くなり、近くにいた生徒が驚いて一斉にこちらを見た。尾崎先生は小さく舌打ちすると、人目を避けるように小走りで階段を下りる。
「春原……幼稚な正義感を抱くのは勝手だが、綺麗事では何も変えられないのが現実だ。今の学校という社会では教師やカウンセラーなど底辺で、保護者はもちろん生徒にすらろくに叱責も指導もできない。教師が生徒からいじめられることもあるし、冤罪被害に遭うこともある。保護者からの執拗なクレームで鬱になって退職する後輩も、まっとうな反論をしてクビになった同僚も俺は見てきた」
あくまでも冷淡に……だけど、どこか諦念と疲労が入り混じった声で、尾崎先生は吐き捨てるように言い放った。
「……一つだけ忠告しておく。半端なことをするくらいなら何もするな。生徒達は、お前が思っている通り純粋だが……お前が思っている以上に卑劣で残酷でもある。全員に優しくして、全員を幸せにしようなんて甘い理想は捨てろ」
優菜さんの相談を受けてから一か月。
結局、俺は全く彼女の力になれずにいた。尾崎先生以外の教師も「今はまだ様子を見よう」と協力には消極的だったし、教育委員会への報告を校長と教頭に進言したが「こちらで慎重に事実確認を行ってからだ」と却下されてしまった。
優菜さんから、いじめの主導者である同級生の女子三人が誰かは聞いているが、彼女らには何度か挨拶がてら世間話をしたくらいで、未だに踏み込んだ話は出来ずにいる。尾崎先生が正しいとは決して思わないが、たしかに彼女らを不用意に刺激するのは避けるべきだからだ。
「くそっ……どうすればいいんだ……」
あれから、優菜さんは俺の勤務日には必ず相談室に来てくれるようになった。と言っても、いじめの話は一切せず、いつも他愛のない日常会話ばかりだ。彼女は賢いので、俺が役に立たないと悟ったか……あるいは、力になれず落ち込む俺に気を遣っているのかもしれない。それでも、俺と話すことで少しでも気が楽になるのか、表情は徐々にだが和らいでいっている。
だが、そんなせめてもの朗報に反して、俺の心は日を追うごとに押し潰されていく。
早くなんとかしなければ。どうするのが最適なのだろうか。絶対に間違った行動は出来ない。そんな思いと重責が、容赦なく俺を蝕む。
最も来訪数が多い放課後を告げるチャイムが鳴った後も、俺は答えの出ないいじめへの対応で頭がいっぱいだった。優菜さんには偉そうに安心してと言っておきながら、解決の糸口が全く見えない……。
「すのさーん、遊びに来たよ~」
「おっ、今日はまだ誰もいないねー」
「あ~、授業だるい~。つっかれたー」
入口のドアが勢いよく開け放たれると同時に聞こえてきた快活な声に、俺の心臓が飛び上がった。
心ここに在らずで驚いたから、ではない。
賑やかしく陽気に入ってきた三人組が……今まさに俺を悩ませている、いじめの主犯だったからだ。