「のどかさん、最初に会った時と比べて明るくなったよね。良かったよ、うん。安心した」
「……まあ、あの時と比べたら、ね。でも、改めて言われるとなんか恥ずかしいなー」
ぼろぼろと泣きながら樹海で首を吊る一歩手前の情けない状態で先生に声を掛けられた当時の様子が脳内再生され、私は走って逃げ出したい衝動をぐっと堪える。
「全然恥ずかしくないよ。恥ずかしいのは相手だ。理不尽な悪意に耐え続けた君の姿は、痛々しくて心配ではあったけど、それ以上に強くて立派だった。俺は、あの時ののどかさんも、立ち直った今ののどかさんも尊敬するよ」
「……先生……」
この人は、いい大人の癖にこういう歯が浮くようなセリフを真顔でさらっと言ってのける。狡いことに、それが全く気取った風に聞こえず、漫画の主人公みたいに様になっていて、妙に格好良いのだ。
「もう……そういうとこが……」
「ん? 何か言った?」
「別にっ!」
そんなやり取りを続けながら歩き、さらに人通りの少ない住宅地へと差し掛かった、その時――
「ひゃっ!?」
トンッ、と後ろから何かに押されて、よろけたところを先生が咄嗟に支えてくれた。何かの正体を目で追うと、闇に紛れた黒い服装をして帽子を目深に被った怪しげな男が、何事もなかったかのように静かに目の前を通り過ぎていった。
いやいや、一方的にぶつかっておいて一言もなしか、とムッとしたが、自分も大した衝撃じゃないのに少し過剰な反応だったかもしれない。とはいえ、多少悪態をつくくらいは当然の権利だろう。
「も~、何あれ。ねえ、せんせ――――」
ちょっと愚痴って、先生が同意して、はい終わり。
そんな展開を予想していたのだが、先生は遥か斜め上をいく思いもよらない行動に出た。
いきなり走り出して、男の後頭部を全力で殴りつけたのだ。
「がっ――!?」
相手にとっても想定外だったのか、男は短い絶叫を残して受け身も取れずうつ伏せに倒れて、そのまま動かなくなった。
し……死ん……でるわけはない。どうやら、打ち所が悪くて気絶したようだ。
「ええええっ!? ちょ、せ、先生……? い、いくらなんでもそれは……」
やりすぎでしょ……と思ったが、驚きのあまり最後まで声が出てこない。唖然とする私の前で、先生は男が手に持っている何かをはぎ取った。
「あっ!」
それは、私の財布だった。肩に担いだバッグの中に入っていたはず、と反射的に確認すると、いつの間にか財布はなくなっていた。
「え……? え? もしかして、盗られてた? 今の、ぶつかった一瞬で? ええ~……よ、よく気づいたね、先生……」
「ごめん……! 注意しないといけないのに……そう分かっていたのに、事前に防げなかった……」
「い、いやいやいや! 普通分かんないって、あんなの。先生のおかげで取り返せたし、本当ありがとう!」
先生が神妙な面持ちで謝るのを、私は必死に否定する。
だって、どう考えても先生が責任を感じる道理はない。いくら暗くなって人通りも少ないとはいえ、私一人ならともかく、大人の男性もいながらスリに狙われる程この町の治安が世紀末だなんて、誰が知り得ただろうか。いや、誰も知り得ない。
という旨を私なりに懸命に説いたが、先生の表情は一向に晴れない。
「とにかく! 実害はなかったわけだし、早く帰ろ。警察に突き出すのも、誰かに見られるのも面倒だしさ。ね?」
「ああ……そうだね……」
幸い大怪我には至ってないし、救急車を呼んであげる義理もないので、私達は犯罪者を放置してその場を離れた。
その後、先生はまるで銃弾飛び交う紛争地域にいるかの如く警戒していたが、さすがにあんなハプニングがそうそうあるはずもなく、何事もなく無事に家へたどり着くことができた。
「よかった……それじゃあ、おやすみ。のどかさん」
「うん……おやすみ、先生」
安堵の表情を浮かべて帰っていく先生の背中を見送りながら、私は色々あった今日一日を……いや……先生と出会ってから今日までの日々を思い出していた。
「本当に……不思議な人……」
優しそうで、真面目そうで、誠実そうで、でも影が薄そうで、頼りなさそう。
第一印象は、そんな感じだった。言葉を交わして伝わってくる人柄も、イメージ通りだった。
だけど、会う度に意外な一面が見えてきた。
いじめの加害者や学校に対する深く暗い憎悪は、ちょっとだけ怖かった。
初めての釣りでテンパる私をいつもの調子で軽くあしらうマイペースさは、ちょっとだけ意地悪だった。
お祝いと称して公園でおいしそうにスイーツを頬張る無邪気さは、ちょっとだけ子供っぽかった。
そして、さっきスリの後頭部を躊躇なく殴打した時の容赦のなさは……悪いのは相手だと分かってはいるけど、私のためだと分かってはいるけど……それでもやっぱり、ちょっとだけ怖かった。
どれが本当の先生なのだろうか。これから先も交流を重ねることで、それは明らかになるのだろうか。それを知って、私はどう思うのだろうか……。
まあ、いいや。
そんなこと、今考えても仕方のないことだ。
たしかなことは、ただ一つ。本当の先生がどんな人間であろうと、私が先生に抱く感謝や憧れが変わることは、絶対にないということだ。
「……まあ、あの時と比べたら、ね。でも、改めて言われるとなんか恥ずかしいなー」
ぼろぼろと泣きながら樹海で首を吊る一歩手前の情けない状態で先生に声を掛けられた当時の様子が脳内再生され、私は走って逃げ出したい衝動をぐっと堪える。
「全然恥ずかしくないよ。恥ずかしいのは相手だ。理不尽な悪意に耐え続けた君の姿は、痛々しくて心配ではあったけど、それ以上に強くて立派だった。俺は、あの時ののどかさんも、立ち直った今ののどかさんも尊敬するよ」
「……先生……」
この人は、いい大人の癖にこういう歯が浮くようなセリフを真顔でさらっと言ってのける。狡いことに、それが全く気取った風に聞こえず、漫画の主人公みたいに様になっていて、妙に格好良いのだ。
「もう……そういうとこが……」
「ん? 何か言った?」
「別にっ!」
そんなやり取りを続けながら歩き、さらに人通りの少ない住宅地へと差し掛かった、その時――
「ひゃっ!?」
トンッ、と後ろから何かに押されて、よろけたところを先生が咄嗟に支えてくれた。何かの正体を目で追うと、闇に紛れた黒い服装をして帽子を目深に被った怪しげな男が、何事もなかったかのように静かに目の前を通り過ぎていった。
いやいや、一方的にぶつかっておいて一言もなしか、とムッとしたが、自分も大した衝撃じゃないのに少し過剰な反応だったかもしれない。とはいえ、多少悪態をつくくらいは当然の権利だろう。
「も~、何あれ。ねえ、せんせ――――」
ちょっと愚痴って、先生が同意して、はい終わり。
そんな展開を予想していたのだが、先生は遥か斜め上をいく思いもよらない行動に出た。
いきなり走り出して、男の後頭部を全力で殴りつけたのだ。
「がっ――!?」
相手にとっても想定外だったのか、男は短い絶叫を残して受け身も取れずうつ伏せに倒れて、そのまま動かなくなった。
し……死ん……でるわけはない。どうやら、打ち所が悪くて気絶したようだ。
「ええええっ!? ちょ、せ、先生……? い、いくらなんでもそれは……」
やりすぎでしょ……と思ったが、驚きのあまり最後まで声が出てこない。唖然とする私の前で、先生は男が手に持っている何かをはぎ取った。
「あっ!」
それは、私の財布だった。肩に担いだバッグの中に入っていたはず、と反射的に確認すると、いつの間にか財布はなくなっていた。
「え……? え? もしかして、盗られてた? 今の、ぶつかった一瞬で? ええ~……よ、よく気づいたね、先生……」
「ごめん……! 注意しないといけないのに……そう分かっていたのに、事前に防げなかった……」
「い、いやいやいや! 普通分かんないって、あんなの。先生のおかげで取り返せたし、本当ありがとう!」
先生が神妙な面持ちで謝るのを、私は必死に否定する。
だって、どう考えても先生が責任を感じる道理はない。いくら暗くなって人通りも少ないとはいえ、私一人ならともかく、大人の男性もいながらスリに狙われる程この町の治安が世紀末だなんて、誰が知り得ただろうか。いや、誰も知り得ない。
という旨を私なりに懸命に説いたが、先生の表情は一向に晴れない。
「とにかく! 実害はなかったわけだし、早く帰ろ。警察に突き出すのも、誰かに見られるのも面倒だしさ。ね?」
「ああ……そうだね……」
幸い大怪我には至ってないし、救急車を呼んであげる義理もないので、私達は犯罪者を放置してその場を離れた。
その後、先生はまるで銃弾飛び交う紛争地域にいるかの如く警戒していたが、さすがにあんなハプニングがそうそうあるはずもなく、何事もなく無事に家へたどり着くことができた。
「よかった……それじゃあ、おやすみ。のどかさん」
「うん……おやすみ、先生」
安堵の表情を浮かべて帰っていく先生の背中を見送りながら、私は色々あった今日一日を……いや……先生と出会ってから今日までの日々を思い出していた。
「本当に……不思議な人……」
優しそうで、真面目そうで、誠実そうで、でも影が薄そうで、頼りなさそう。
第一印象は、そんな感じだった。言葉を交わして伝わってくる人柄も、イメージ通りだった。
だけど、会う度に意外な一面が見えてきた。
いじめの加害者や学校に対する深く暗い憎悪は、ちょっとだけ怖かった。
初めての釣りでテンパる私をいつもの調子で軽くあしらうマイペースさは、ちょっとだけ意地悪だった。
お祝いと称して公園でおいしそうにスイーツを頬張る無邪気さは、ちょっとだけ子供っぽかった。
そして、さっきスリの後頭部を躊躇なく殴打した時の容赦のなさは……悪いのは相手だと分かってはいるけど、私のためだと分かってはいるけど……それでもやっぱり、ちょっとだけ怖かった。
どれが本当の先生なのだろうか。これから先も交流を重ねることで、それは明らかになるのだろうか。それを知って、私はどう思うのだろうか……。
まあ、いいや。
そんなこと、今考えても仕方のないことだ。
たしかなことは、ただ一つ。本当の先生がどんな人間であろうと、私が先生に抱く感謝や憧れが変わることは、絶対にないということだ。