いつの間にかたどり着いた先は、千代の勤めるコーヒーサロンだった。
 もう閉店時間は過ぎて、お客さんは誰もいない。奥に小さな明かりが見える。ドアを開ける。まだ施錠はされていなかった。
 ドアの先についた鐘が、心地よい音を鳴らした。

「すみません、もう閉店で――あれ、千代ちゃん?」

 そこにいたのは、店長だった。スーツに蝶ネクタイとサスペンダーをつけた、散切り頭の気のいい男。
 驚いた顔をした店長は、千代を見るなりすぐに笑った。切れ長の目が一直線に細くなる。その笑顔が一瞬茂と重なって、涙が溢れそうになった。

「千代ちゃん、髪の毛切ったんだね、とってもかわいいよ」
「……すみません」
「どうして謝るの?よく似合っているのに」

 店長はカウンターの椅子をひいて、千代に座るように促した。
 小動物のような優しい笑顔に引き寄せられるみたいに、千代は一歩、また一歩と足を進めて椅子に座る。
 ちょっとまってて、と言った店長は、すぐにコーヒーを入れ始めた。

「なにかあったのかな」
「いえ……」
「結婚相手の事?」

 図星だった。千代は答えられなかった。そんな千代の表情を察してか、店長はコーヒーを差し出し、目線を合わせてニッコリと微笑んだ。

「恋をしていたのかと思っていたけれど」

――恋。

「わかりませんわ。恋なんてしたことないもの」
「その人を見て、ドキドキしたり心が温かくなったりするのが、恋だよ」
「そう、それなら、私は――」

 真っ先に思い出したのは、茂との時間だった。初めて連れられたステーションホテル。有色の白粉、金糸雀色のワンピース。美しい、と囁く低い声。美しいまなざしと、笑うと一直線になる目元。
 途端に胸が大きく脈打つ。締め付ける心臓がぎゅうと痛んで、思わず左手を胸に添えた。いけない、と思っていた。ずっと。だからこそ――。

――恋を、していたんだわ。

 言葉に詰まる。こんなとき、どうやって言ったらいいかわからなかった。千代はもう少しで婚約する。茂の父親と。結婚したら、同じ屋根の下、毎日を過ごさなければいけない。耐え難い現実だった。もう会わないでいられるのなら、忘れられることもできたかもしれない。でも、そうじゃない。好きな人と毎日同じ家で暮らして、それでも決して結ばれないということは、どんな生き地獄だろう。

「話してみてもいいんじゃないかな」
「いけませんわ。私には、婚約する方がいらっしゃるのに」

 ふ、と店長が笑いを零した。千代と目を合わせて、いたずらに目配せする。

「僕はね、人を見る目はある方なんだよ。だから大丈夫。茂はそんなに、器の小さな男じゃないさ」
「……どうして、知っていらっしゃるの?」
「茂は、僕の――」

 サロン入り口のドアベルが鳴る。軽快な音に振り向いた先には、茂がいた。

「千代、やっぱりここにいたんだね」
「茂さん……」
「兄さん、ちょっと席を外してくれないか。話があるんだ」
「……兄さん?」

 わかったよ、と返事をしたのは店長だった。

「茂は僕の弟だよ。黙っていてごめんね」

 店長は切れ長の目でウインクしてから、奥の控室へと下がっていった。
 弟……?店長の顔と、茂の顔を交互に思い浮かべる。精悍な顔立ち、笑うと一直線になる目元……。そうか、最初に茂を見た時に、どこか見覚えがあったのは、彼と店長が似ていたからか。情報が完結するや否や、千代、と茂の呼ぶ声がする。一歩踏み出し近付いた。千代は椅子から立ち上がる。茂の顔は、見られなかった。

「黙っていてすまない。騙すつもりじゃなかったんだ。ただ、婚約する前に……どんな人か、知りたくて」

 うつむいた頭の方から、茂の低い声がする。少し震えているような気がした。

「最初から、言ってくれないなんてひどいですわ。私――」
「君となら……千代となら、うまくいくと思ったんだ」

 それは、義母と息子として?声に出そうとしても、喉の奥がキュウ、と収縮して、掠れた息しかでなかった。この人のことを、今更息子だなんて思えない。どうしても好きでいてしまう。それなのに、この人はずっと、義母になるのがどんな人かと見極めていたのだ。腰に手を回し、美しいとその唇でつぶやいたときも。
 涙があふれてきそうだった。令嬢が、泣いてはいけない。下唇をかみしめる。大きく息をついたあと、喉を無理やりこじ開けて絞り出した。

「でも、私はあなたのお父様と結婚するのよ」

 沈黙。恐る恐る顔を上げ、茂の顔を見た。まん丸に開かれた茶色い瞳。少しだけ開いた口。声もでないのだろうか。表情は驚きそのものだった。遠くから、店長の笑い声が聞こえる。

「何を……言っているんだい?」
「そうやって言われましたわ。立花造船の旦那様と婚約すると」

 そう、立花造船の旦那様、と言えば茂の父親だった。父より年上だと言っても、まだ隠居するには若すぎる。社長の座を退くにはまだ数年あるはずだ。それに、長男は行方不明、次男は引きこもりと言っていたじゃないか。長男の噂の謎は解けた。店長はこのコーヒーサロンで寝泊まりしていることがほとんどだからだ。家に寄り付かないから、行方不明と言われていても納得できる。
 でも、次男の茂の方はどうだ。引きこもり……その噂が本当なら、何を、していたのだ。

「立花造船の社長は、僕だよ」
「……え?」

控室に繋がるドアから、店長が文字通りお腹を抱えながら再び現れる。目尻には涙を浮かべ、頬は真っ赤になっていた。

「何を笑っておられるのですか?それに、兄弟って」
「あはは、すまないね、千代ちゃん。いや、でもそうか。君は華族のご令嬢だものね」
「よく……わからないですわ」

千代は、困り果てた茂と笑いが止まらない店長を交互に見た。情報が多すぎて完結しない。社長が、茂……?そして引きこもりはどういうこと?

「華族は、家督を継ぐのに厳しい決まりがあるかもしれないが、成金は華族じゃない。だから、いつ誰が社長になってもいいのさ。立花造船はもうとっくに、茂が社長になっているよ」
「でも、噂では次男は引きこもりって……」
「僕が社長を継いだのはつい最近のことさ。それまでは、留学していたんだよ。姿を見かけないから、そういう噂がたったのかもしれないね」
「そうでしたの……」

 留学は、国の命令でなければ自腹で行かなければいけない。破格のお金がかかるだろうが、確かに、立花造船のような大成金であれば、それも不可能ではないのかもしれない。

「もしかして、千代は父の元に嫁ぐと思っていたのかい?」

 頷く。まだ、納得できない部分は多い。華族は家督を継ぐには厳しい条件がある。基本的に、当主が死亡する場合や戸籍を失った場合でなければ相続はできない。当主が隠居する方法もあるが、隠居するには年齢制限があるのだ。だから、立花家の当主と言えば当然、旦那様であると疑わなかった。それを急に、茂が社長だと言われても……。

「父は母を今でも愛しているからね。後妻をとるなんてことはしない」
「本当に……?」
「本当だとも、僕が保証するよ」笑いながらそう言ったのは店長だ。

「伊角家に弟との婚約を持ちかけたのは僕だからね。確かに、社長との婚約とは言ったけれど……まさか、そんな勘違いをしていたとは」

 店長は指先で目尻を撫でながら答える。

「千代。僕は心配だったんだ。いくら兄さんの勧めだからといって、顔も知らない女性と婚約するなんて怖かった。だから……静子に協力してもらって、君に声をかけたんだ」
「静子さんは、本当に仕事上のパートナーなの?」
「すまない。それも嘘だ。静子は兄さんの婚約者だよ」

 思わず店長の顔を見る。いたずらに、子供のように笑った彼は、随分と楽しそうだ。店長に婚約者がいたなんて……サロンの経営が成り立たないわ。と一瞬よぎった。でも、それならば……

「茂さんも、静子さんも、私が伊角家の長女だと知っていたの?」
「そうさ。最初はサロンで真っ白い顔をしていたから驚いたよ。もうそんな白粉をしている人は深窓の令嬢くらいさ。でも、君は美しかった」

 茂は千代の手を取る。指先が触れ合い、触れたところがしびれてくる。じんじんと霜焼けになった指先のように。痛い。それでも温かかった。
 千代、と茂は言う。目の端が少しうるんでいるようだ。千代は茂の琥珀色の瞳を見つめた。その目にはモダン・ガールが映っている。金糸雀色のワンピース、おかっぱ頭に、真っ赤な唇。

「僕と、結婚してくれるかい」

 じんわりと茂の姿が滲んでいった。とんだ取り越し苦労だったけれど、皆の勘違いだったけれど。幸せになれるんだわ。
 断る理由はないわ、と千代は微笑む。目尻から小さな雫がこぼれた。令嬢は泣いてはいけない。でも、今だけはどうか許して。

――お母さま

 呼びかける。私、幸せになるわ。
 千代は時代を先走る。これからの未来は、必ず明るいものになるはずだ。
 ふわりとスカートの裾が揺れる。令嬢の名を捨てる千代は、新たな時代へと踏み出した。