翌日。その日はサロンでの仕事は休みだった。けれど、千代は家族に仕事へ行くと嘘をついた。
 婚約前に、男性と二人でいるところを見られたら、どんなことを言われるか――この婚約が破談になれば、伊角家はもう終わりなのだ。
 軽率な行動をしているのは分かっている。でも、もうあと数日しかない自由な時間で抗いたいと思っていた。茂への不思議な気持ちを、抑えることはできなかった。

 いつもはゆったりと進める足取りが軽い。跳ねるように足を上げ、両足が地面から離れてしまいそうだった。
 有色の白粉も塗った。髪は上半分だけをまとめ上げ、後ろで三つ編みをして結い上げた。それに、少し大きめの風呂敷に、買ってもらった金糸雀色のワンピースと白いハイヒールをいれている。本当は家から着ていきたかったけれど、両親に知られると後々面倒になるからそこは我慢だ。
 今日待ち合せているのは、昨日会った静子の勤める理容館だった。小走りでたどり着くと、店の前にはもう見慣れた四輪自動車が停まっていた。自動車のボディに体を預け、青空を見上げた茂がいる。

「茂さん」
「千代、おはよう。ワンピースは着てこなかったのかい?もちろん着物も素敵だけれど」
「すみません。両親にとやかく言われるかと思って」

 なるほど、と茂は頷き、微笑んだ。また胸が一拍、大きく鳴る。思わず頬に手を添えて、こちらも頬を綻ばせた。
 さあ行こうか、と茂は昨日と同じく腰に手を添え、千代の足取りを誘導してくれた。添えられた手が、熱い。
 理容館のドアの前では、もう静子が待っていた。茂が手をかけるよりも早く、勢いよく開けられたガラス扉は、少しだけ風の音がした。

「いらっしゃいませ、千代さん」
「静子さん、昨日はごめんなさいね」
「いいのよ。茂さんから聞いたわ。断髪されるって」

 千代は頷いた。静子の顔が途端に明るくなる。頬が桃色に染まり、可愛らしいと思った。
 最初、静子を見た時は、とても美しい人だと思った。でも今は、可憐で少女のようだと思っている。

「でも、千代さんのご両親はいいのかしら」
「いいのよ」

 相談はしていなかった。相談する気もなかった。あの時、父が千代を守るそぶりをしながら、本当はもう決断していたことが腹立たしかった。父を初めて憎いと思った。
 伊角家の為に結婚するのだ。これくらいの最後の反抗は、いいじゃないか。

「さあ、では早速断髪式といこうか」
「相撲取りみたいでいやだわ。もう少しおしゃれに言ってくださる?」

 茂と静子の掛け合いが楽しい。千代も釣られて笑い出す。このまま、この日々が続けばいいのにと思った。静子に促され鏡の前に置かれた椅子に座り、首にケープをかけられる。髪を降ろして、櫛で何度も梳かされる。
 髪を毛先でひとまとめにされ、静子がハサミを取り出した。

「千代さん、いいかしら」
「ええ、でも、私に切らせてくださる?最初の一回だけでいいの」

 静子は驚く様子で千代を見た。まん丸い目がもっと丸くなり、小さめの黒目がはっきりと見えた。そのあと、こっくりと頷く。銀色のハサミが手渡され、千代はゆっくり髪へと腕を伸ばした。
 ハサミの間に髪が挟まる感覚。
――千代、変わるのよ
 母の声が聞こえた気がした。ゆっくりと指を近づける。しゃり、という音とともに、はらりと髪が落ちた。涙が出るかと思ったけれど、せいせいした。うざったかったのだ。この長い髪が。

 そのあとは、静子の手によって整えられる。しゃり、しゃりという髪の千切れる音が、千代の体をもっともっと軽くしてくれるようだった。
 鏡越しに茂を見る。入口付近で壁によしかかり、こちらを見ている彼はなんだか嬉しそうだ。目が合う。微笑む。また、胸が鳴る。
――いけないわ。
 と千代は思う。でも、もうそれでもいいかと思った。どうせあともう少ししたら、茂とも会わなくなる。そうしたら、私は立花家に嫁に行き、父より年上の旦那様の元で、子供を作り子育てをする。それが、私の運命なのだ。

「できたわ」と、静子が声をかけた。鏡を見ると、そこには肩より上に切りそろえたおかっぱヘアーの千代がいた。毛先をカールして女性らしさが上乗せされている。少し、顔が小さくなっただろうか。目の錯覚なのだけれど。

「素晴らしい」と、茂は子供のように駆け寄ってきた。鏡越しに目が合う。切れ長の目が細くなる。静子は一旦席を外して、預けていた風呂敷を持ってきた。

「後ろの控室を使っていいわ。早く着替えて頂戴」

 ええ、と返事をしてから風呂敷を受け取り、案内された通り従業員用の扉へ進む。
――そういえば、今日はお客様がいないのね
 千代は店の異変に気付いた。昨日来た時は、ところかしこにたくさんの女性が座っていて、従業員も大勢いた。でも、今日は一人もいない。
 千代はひとまず着替えることにして、控室へと進んでいった。