静子からもらった白粉は、家族を随分と驚かせた。
 綾子は何か言いたげだったが、一度口を開いただけで、何も話そうとはしなかった。
 コーヒーサロンの同僚たちは、皆ひそひそと言葉を濁した。「もう白粉は買えなくなったの?」と直接嫌味を言う人もいた。
 唯一褒めてくれたのは、店長ともう一人。トキだった。いつもは「すぐいなくなるのだから」と邪険に扱うトキだったが、顔を見るなり「綺麗だよ」と満面に笑った。驚いて言葉を返せなかった。千代はそのことを、少しだけ後悔している。

 あれから、一週間が経った。
 有色白粉は、今日でもう空になってしまった。新しいものを買おうにも、どこに売っているのかすらわからない。それに、そもそも自由に使えるお金がなかった。
「また会いに行く」と言ったあの言葉は、嘘だったのか。それとも、期限を定めて嫌気がさしたのか――。
 千代はどうしようもない不安に襲われていた。まだ、白色の白粉は残ってはいる。でも、褒めてくれたトキの笑顔が忘れられなかった。もしかしたら彼女も、千代の付けていた白粉の香りを良しとしていなかったのではないか。料理人として勤める彼女であれば、料理の香りが削がれることは嫌だろう。そう思ったからだ。
 だからと言って、素肌を見せて出歩くことは怖い。令嬢にとっては、裸で歩くのも同義なのだ。もちろん、他の人はそんなこと考えもしないのだろうが。

 しかし、そんな不安はすぐに打ち消された。茂が来店したからだ。今日は静子を連れていなかった。
 茂はこの前とは違い書生服ではなく、スーツに蝶ネクタイをつけた西洋の服装をしていた。平均より随分と高い身長と、凛々しい顔立ち。頭は店長と同じくざんぎり頭ではあるが、浪人のようなだらしなさはない。彼には西洋の服がよく似合った。店内の視線を独り占めするくらいには。

「千代さん」と、彼は真っ先に口にした。ゆっくりと近付く。
「いらっしゃいませ。もういらっしゃらないかと思ったわ」
「すまないね、仕事が立て込んでいて」

 彼は切れ長の目を糸のように細めて微笑んだ。ゆるゆるとまた警戒心がほどけていく。

「うん、やはりそちらの肌の方が美しい。君の本来の美しさが出ているよ。ところで」
 そこまで言って、茂は辺りを見回し、ある一点で視線を止めて右手を上げた。視線の先にいるのは、店長だった。
「今日も千代さんを借りたいんだ。いいね」
「構わないよ」

 ろくに考えもしなかったであろう店長の返事が、すぐに肯定で返ってくる。

「今日は君を、時代の最先端に連れて行くよ。レディ」

 茂は微笑む。千代も釣られて微笑んだ。今日は、どんなことが待っているのかしら。そう思うと心が躍った。
 抗いたい。この時代と、与えられた運命に。