二人に連れられたどり着いたのは、駅近くのステーションホテルだった。
鉄道の発達に伴い出来上がったホテルで、開業して5年も経っていないはずだ。広々としたロビーに入ると、上に続く階段が見え、スーツに身を包んだ男性が恭しく近寄ってくる。
茂はその男性を左手一本で制して、千代をホテルの一室へと連れて行った。
初対面の男性と一緒に、ホテルに行くなどどうかしている。以前の千代であれば絶対にしない軽率な行動であったが、静子も一緒だという安心感と、二人のテンポのいい会話に興奮していたことが相まって、足取りが軽かった。このステーションホテルが千代の憧れであった、というのも理由の1つだ。
一室に入ると、太陽の光を目いっぱいに受け入れた広い窓が目に入る。その前には布張りの一人掛けソファが2つ、向かい合っていた。間には四角くシンプルな木製のテーブルがあり、その上には灰皿が置かれている。
ソファの横には化粧台が。こちらは褐色に染められて、取っ手部分には装飾を施している。一目で高級品と分かるもので、鏡は窓からの光を反射して白く光っていた。
目の前には、背の低い広々としたベッドが一つ。白いシーツがシワなくしっかりとつけられており、沢山の枕が積み重なっている。
茂は奥の一人掛けソファに座り「さあ、こちらにきてくれ」と千代と静子を呼びつけた。
静子に手を引かれ、恐る恐る足を踏み出す。ベッドの向かいには扉がもう一つあり、そちらはお風呂のようだった。水辺の清潔な匂いがする。
静子は化粧台の椅子を引き、千代に座るよう促す。そのまま茂の斜め後ろに立ち、千代と向き合う形になった。
「早速なんだが、白粉を取ってほしいんだ」
突然のことに、千代は動けなかった。先ほどまであった浮くような気持ちがしおしおと萎えていく。
初対面の男性の前で、素顔を晒すなど……令嬢の千代には抵抗心しか抱けない。
「見知らぬ男に素顔を晒せとおっしゃるのですか」
「君はまだ十代だろう、肌はきめ細かいはずだ。本当は白粉なんていらないくらいにね。でも、しているのには理由があるのだろう?」
茂は一瞬、静子の顔を見た。静子は茂と目線を合わせることなく、千代の方を真っ直ぐ見据えている。茂は自嘲的に笑いながら、千代にまた視線を戻した。
「君は令嬢としての教育を受けてきているんだ。お母さまの教えかな」
はい、と肯定した。
白粉を塗るのは、とても難しい。何度も何度も練習しなければいけない。手のひらで溶いた練り白粉は、瞬く間に乾いて、のんびりしていてはムラができてしまう。水で溶いたあと、素早く顔や襟にかけて塗り込んで、大きな刷毛で何度も撫でて落ち着けるのだ。そのあと、上から粉白粉をはたいて均一にする。
母は、千代が物心がついたころに、白粉の付け方を教えるようになった。令嬢は美しくなければいけない。華族としての振る舞いを、千代に教え込もうとしていたのだろう。今思えば、その頃の母はもう随分と体が弱っていたはずだ。自分の死期が近いことを悟っていたのだと思う。
「素敵なお母さまなんだね」
「ええ、とても。でも、もう亡くなってしまったわ」
「それは……失礼した。軽率だったね」
「気になさらないでください、もう随分前です。顔も、写真で見るしか思い出せません」
「写真を撮っていたんだね。それなら、君とよく似て美しかっただろう」
写真に収めるということは、美しい容姿ということと同義だった。美しいものを後世に残したくなる、というのは人間の性らしい。
女の価値は美しさ。肌が白く、髪が黒く、首が細く、長く。
美しくなければいけない。息苦しくあったが、疑問に思うことはなかった。令嬢は皆がそう思っていたし、美しくいることは当たり前で、それを怠ることの方がおかしかった。でも、一般に馴染むと、この容姿は目立つ。
「千代さん」と口を開いたのは静子だ。
「私を、醜いと思いますか?」と、千代を真っ直ぐ見つめたまま言った。色素の薄い茶色い瞳が、窓からの光を反射して光る。
予想外の質問に、息が詰まった。彼女は、確かに肌は白くない。それに髪も短く、結い上げるほどの長さもない。それでも――。千代は、ゆっくりと首を横に振る。
「そんなことないわ。あなたはとても美しい」
ありがとう、と静子は小さく頭を下げた。
「私も白粉を塗っているの。でも、あなたのような真っ白のものとは違う。肉の色を混ぜた、有色の白粉よ」
見て、と静子は、下げていた小さな手提げから丸い缶を取り出し、手のひらに乗せて差し出した。
花が描かれた丸い缶の蓋を開ける。ポン、と空気の抜ける音がした。そこには、薄桃色に色付いた白粉があった。千代が持っている真っ白で雪のようなものとは違う、肌の色に近い桃色だ。
「初めて見るかい?実はね、もう明治の終わりには発売されているんだよ。でも、まだ一般どころか令嬢にも広まっていない」
千代は、口早に話す茂の顔を見た。彼の表情は真剣そのもので、千代の顔を食い入るように見ている。
「時代の先駆者になってほしいんだ」と、茂は口にした。
時代の、先駆者――。
伊角家の洋館を思い出す。今はメンテナンスもできず、ところどころが錆びれて異様な音が鳴る、崩れる寸前の伊角家。あの家も以前は時代を先取りしたものだった。
新しいものは、いずれ古くなり朽ちる。伊角家の洋館もそうだ。古くなったものは見向きもされないどころか、嘲笑の対象になる。
――抗いたい。
千代はそう思った。もう一度、静子の顔を見る。白粉をつけているのかは、正直わからなかった。肌の色に近いからだろう。これは、色を変えるというよりも、肌の色を均一にする意図なのかもしれない。
「つけてみるわ」と、自然と声に出ていた。その声に自分でも驚いた。思わず顔を上げると、同じく驚いた静子と目が合う。ふ、と同時に口元が緩んだ。
よし!と叫んだのは、後ろで様子を見守っていた茂だ。
「ここの浴室を使いたまえ。男性に素肌を見せたくないのであれば、静子ならばよいだろう。僕も君の素肌を見たい気持ちはあるけれどね、これでも紳士だ。遠慮するよ」
あまりにも正直な申し出に、千代は思わず吹き出してしまった。口元を軽く押さえて咳払いで誤魔化すと、静子は大きな口を開けて笑った。白い歯と、真っ赤な舌が良く見える。こんなに大きな口で笑う人を、千代は初めて見た。それにつられて笑いがこみ上げて、涙があふれてきそうになった。なんて、愉快なんだろう。
静子と浴室に連れだって、顔だけ洗い白粉を落とす。
そのまま、化粧台の椅子を持ってきて、静子が千代に有色の白粉をつけた。
「どうかしら」静子の声を皮切りに、千代は鏡に向き直る。
鏡に映る自分を見た。真っ白な白粉とは違う、本来の肌の色に近い自分の姿だ。頬紅を塗らなくても、うっすらと血色の滲む頬。眉も自然に顔を出し、のっぺりとしていた顔に凹凸を感じる。
顔の影が濃くなった、というのが正しいだろうか。
千代はゆっくりと、喉の奥で言葉を丸めてから、丁寧に話し始めた。
「こっちの方が……そうね、ええ、そう。うまく言えるかわからないけれど」
口ごもる。言葉が上手く出てこなかった。この色は、自然色、と言うそうだ。その名の通り、そうだ、とても自然で――。
「私に、会えた気がするわ」
本来の自分のように見えた。元々ある美しさを引き出してくれるような。白色で隠すのではなく、内にある自分を肯定してくれるように感じた。
鏡越しに静子を見ると、彼女は真っ赤な唇を吊り上げ笑う。彼女の笑顔が伝播して、千代の唇も弓なりになる。目元は上限の月のように、口元は下限の月のように。目尻と口角を繋げばハアトの形になるような、色のついた笑顔だった。
「差し上げるわ」と、静子は言った。
「私の使い古しで悪いのだけれど。今度会った時は、新しいものを持ってくるわね」
「でも……」
「もらってくれないか」
浴室ドアから、いつの間にか茂が覗いていた。
「まあ、茂さん。レディの浴室を覗くものではありませんわ」
「君はとても美しい。期待以上だったよ」
茂は静子の忠告を無視して、浴室に足を踏み入れた。そのまま、千代の手を取り、袴を捌いてひざまずいた。ひとつひとつの動作が洗礼されて、コマ送りの映像に見える。
――彼も、とっても美しいわ
千代は顔が火照るのを感じた。
この白粉は、肌の火照りを隠せるのかしら。そう思った頃には、千代の心臓は飛び出しそうなくらいに暴れ出していた。
「うっかりしていると、恋に落ちてしまいそうだ」
茂はそのまま、手の甲に口付けを落とした。一瞬、千代の心臓が脈をとめる。すぐに死んでたまるかと、慌ててまた動きだした。千代は、茂の顔を見られなかった。男の人の手に触れたのは、家族以外では初めてだったからだ。
「……困りますわ」
「そうだね、僕にも婚約者になる人がいるというのに」
沈黙が流れる。このままだと、心臓の音が聞こえてしまいそうだ。少しだけ軽くなった肌と、少しだけ軽くなった心。そしてずっしりと抱えた重たい別の感情に、千代の心はせわしなく浮き沈みしている。
「店まで送ろう」
茂は千代の手を取ったまま立ち上がる。そのまま、エスコートするように部屋の扉まで連れて行った。
静子は、千代の手に有色の白粉を乗せる。
「多分、1週間くらいは持つと思うわ。少なくてごめんなさいね」
「次は、新しいものをプレゼントするよ。その時、また君は変わるんだ。君の美しさを、僕に貸してくれるかい?頼むよ」
「1か月、だけなら。婚約は1か月後なの」
千代は答える。茂は少し眉を下げて小さなため息をついた後、静子にロビーまで送るようにと言いつけた。茂は、期限を定めたことに返事をしなかった。
静子と並んで部屋を出る。重い扉が閉まる瞬間、茂が小さく口を開く。
「また、会いにいくよ」
わずかに耳に届いた後、パタンと小さく扉が鳴いた。
鉄道の発達に伴い出来上がったホテルで、開業して5年も経っていないはずだ。広々としたロビーに入ると、上に続く階段が見え、スーツに身を包んだ男性が恭しく近寄ってくる。
茂はその男性を左手一本で制して、千代をホテルの一室へと連れて行った。
初対面の男性と一緒に、ホテルに行くなどどうかしている。以前の千代であれば絶対にしない軽率な行動であったが、静子も一緒だという安心感と、二人のテンポのいい会話に興奮していたことが相まって、足取りが軽かった。このステーションホテルが千代の憧れであった、というのも理由の1つだ。
一室に入ると、太陽の光を目いっぱいに受け入れた広い窓が目に入る。その前には布張りの一人掛けソファが2つ、向かい合っていた。間には四角くシンプルな木製のテーブルがあり、その上には灰皿が置かれている。
ソファの横には化粧台が。こちらは褐色に染められて、取っ手部分には装飾を施している。一目で高級品と分かるもので、鏡は窓からの光を反射して白く光っていた。
目の前には、背の低い広々としたベッドが一つ。白いシーツがシワなくしっかりとつけられており、沢山の枕が積み重なっている。
茂は奥の一人掛けソファに座り「さあ、こちらにきてくれ」と千代と静子を呼びつけた。
静子に手を引かれ、恐る恐る足を踏み出す。ベッドの向かいには扉がもう一つあり、そちらはお風呂のようだった。水辺の清潔な匂いがする。
静子は化粧台の椅子を引き、千代に座るよう促す。そのまま茂の斜め後ろに立ち、千代と向き合う形になった。
「早速なんだが、白粉を取ってほしいんだ」
突然のことに、千代は動けなかった。先ほどまであった浮くような気持ちがしおしおと萎えていく。
初対面の男性の前で、素顔を晒すなど……令嬢の千代には抵抗心しか抱けない。
「見知らぬ男に素顔を晒せとおっしゃるのですか」
「君はまだ十代だろう、肌はきめ細かいはずだ。本当は白粉なんていらないくらいにね。でも、しているのには理由があるのだろう?」
茂は一瞬、静子の顔を見た。静子は茂と目線を合わせることなく、千代の方を真っ直ぐ見据えている。茂は自嘲的に笑いながら、千代にまた視線を戻した。
「君は令嬢としての教育を受けてきているんだ。お母さまの教えかな」
はい、と肯定した。
白粉を塗るのは、とても難しい。何度も何度も練習しなければいけない。手のひらで溶いた練り白粉は、瞬く間に乾いて、のんびりしていてはムラができてしまう。水で溶いたあと、素早く顔や襟にかけて塗り込んで、大きな刷毛で何度も撫でて落ち着けるのだ。そのあと、上から粉白粉をはたいて均一にする。
母は、千代が物心がついたころに、白粉の付け方を教えるようになった。令嬢は美しくなければいけない。華族としての振る舞いを、千代に教え込もうとしていたのだろう。今思えば、その頃の母はもう随分と体が弱っていたはずだ。自分の死期が近いことを悟っていたのだと思う。
「素敵なお母さまなんだね」
「ええ、とても。でも、もう亡くなってしまったわ」
「それは……失礼した。軽率だったね」
「気になさらないでください、もう随分前です。顔も、写真で見るしか思い出せません」
「写真を撮っていたんだね。それなら、君とよく似て美しかっただろう」
写真に収めるということは、美しい容姿ということと同義だった。美しいものを後世に残したくなる、というのは人間の性らしい。
女の価値は美しさ。肌が白く、髪が黒く、首が細く、長く。
美しくなければいけない。息苦しくあったが、疑問に思うことはなかった。令嬢は皆がそう思っていたし、美しくいることは当たり前で、それを怠ることの方がおかしかった。でも、一般に馴染むと、この容姿は目立つ。
「千代さん」と口を開いたのは静子だ。
「私を、醜いと思いますか?」と、千代を真っ直ぐ見つめたまま言った。色素の薄い茶色い瞳が、窓からの光を反射して光る。
予想外の質問に、息が詰まった。彼女は、確かに肌は白くない。それに髪も短く、結い上げるほどの長さもない。それでも――。千代は、ゆっくりと首を横に振る。
「そんなことないわ。あなたはとても美しい」
ありがとう、と静子は小さく頭を下げた。
「私も白粉を塗っているの。でも、あなたのような真っ白のものとは違う。肉の色を混ぜた、有色の白粉よ」
見て、と静子は、下げていた小さな手提げから丸い缶を取り出し、手のひらに乗せて差し出した。
花が描かれた丸い缶の蓋を開ける。ポン、と空気の抜ける音がした。そこには、薄桃色に色付いた白粉があった。千代が持っている真っ白で雪のようなものとは違う、肌の色に近い桃色だ。
「初めて見るかい?実はね、もう明治の終わりには発売されているんだよ。でも、まだ一般どころか令嬢にも広まっていない」
千代は、口早に話す茂の顔を見た。彼の表情は真剣そのもので、千代の顔を食い入るように見ている。
「時代の先駆者になってほしいんだ」と、茂は口にした。
時代の、先駆者――。
伊角家の洋館を思い出す。今はメンテナンスもできず、ところどころが錆びれて異様な音が鳴る、崩れる寸前の伊角家。あの家も以前は時代を先取りしたものだった。
新しいものは、いずれ古くなり朽ちる。伊角家の洋館もそうだ。古くなったものは見向きもされないどころか、嘲笑の対象になる。
――抗いたい。
千代はそう思った。もう一度、静子の顔を見る。白粉をつけているのかは、正直わからなかった。肌の色に近いからだろう。これは、色を変えるというよりも、肌の色を均一にする意図なのかもしれない。
「つけてみるわ」と、自然と声に出ていた。その声に自分でも驚いた。思わず顔を上げると、同じく驚いた静子と目が合う。ふ、と同時に口元が緩んだ。
よし!と叫んだのは、後ろで様子を見守っていた茂だ。
「ここの浴室を使いたまえ。男性に素肌を見せたくないのであれば、静子ならばよいだろう。僕も君の素肌を見たい気持ちはあるけれどね、これでも紳士だ。遠慮するよ」
あまりにも正直な申し出に、千代は思わず吹き出してしまった。口元を軽く押さえて咳払いで誤魔化すと、静子は大きな口を開けて笑った。白い歯と、真っ赤な舌が良く見える。こんなに大きな口で笑う人を、千代は初めて見た。それにつられて笑いがこみ上げて、涙があふれてきそうになった。なんて、愉快なんだろう。
静子と浴室に連れだって、顔だけ洗い白粉を落とす。
そのまま、化粧台の椅子を持ってきて、静子が千代に有色の白粉をつけた。
「どうかしら」静子の声を皮切りに、千代は鏡に向き直る。
鏡に映る自分を見た。真っ白な白粉とは違う、本来の肌の色に近い自分の姿だ。頬紅を塗らなくても、うっすらと血色の滲む頬。眉も自然に顔を出し、のっぺりとしていた顔に凹凸を感じる。
顔の影が濃くなった、というのが正しいだろうか。
千代はゆっくりと、喉の奥で言葉を丸めてから、丁寧に話し始めた。
「こっちの方が……そうね、ええ、そう。うまく言えるかわからないけれど」
口ごもる。言葉が上手く出てこなかった。この色は、自然色、と言うそうだ。その名の通り、そうだ、とても自然で――。
「私に、会えた気がするわ」
本来の自分のように見えた。元々ある美しさを引き出してくれるような。白色で隠すのではなく、内にある自分を肯定してくれるように感じた。
鏡越しに静子を見ると、彼女は真っ赤な唇を吊り上げ笑う。彼女の笑顔が伝播して、千代の唇も弓なりになる。目元は上限の月のように、口元は下限の月のように。目尻と口角を繋げばハアトの形になるような、色のついた笑顔だった。
「差し上げるわ」と、静子は言った。
「私の使い古しで悪いのだけれど。今度会った時は、新しいものを持ってくるわね」
「でも……」
「もらってくれないか」
浴室ドアから、いつの間にか茂が覗いていた。
「まあ、茂さん。レディの浴室を覗くものではありませんわ」
「君はとても美しい。期待以上だったよ」
茂は静子の忠告を無視して、浴室に足を踏み入れた。そのまま、千代の手を取り、袴を捌いてひざまずいた。ひとつひとつの動作が洗礼されて、コマ送りの映像に見える。
――彼も、とっても美しいわ
千代は顔が火照るのを感じた。
この白粉は、肌の火照りを隠せるのかしら。そう思った頃には、千代の心臓は飛び出しそうなくらいに暴れ出していた。
「うっかりしていると、恋に落ちてしまいそうだ」
茂はそのまま、手の甲に口付けを落とした。一瞬、千代の心臓が脈をとめる。すぐに死んでたまるかと、慌ててまた動きだした。千代は、茂の顔を見られなかった。男の人の手に触れたのは、家族以外では初めてだったからだ。
「……困りますわ」
「そうだね、僕にも婚約者になる人がいるというのに」
沈黙が流れる。このままだと、心臓の音が聞こえてしまいそうだ。少しだけ軽くなった肌と、少しだけ軽くなった心。そしてずっしりと抱えた重たい別の感情に、千代の心はせわしなく浮き沈みしている。
「店まで送ろう」
茂は千代の手を取ったまま立ち上がる。そのまま、エスコートするように部屋の扉まで連れて行った。
静子は、千代の手に有色の白粉を乗せる。
「多分、1週間くらいは持つと思うわ。少なくてごめんなさいね」
「次は、新しいものをプレゼントするよ。その時、また君は変わるんだ。君の美しさを、僕に貸してくれるかい?頼むよ」
「1か月、だけなら。婚約は1か月後なの」
千代は答える。茂は少し眉を下げて小さなため息をついた後、静子にロビーまで送るようにと言いつけた。茂は、期限を定めたことに返事をしなかった。
静子と並んで部屋を出る。重い扉が閉まる瞬間、茂が小さく口を開く。
「また、会いにいくよ」
わずかに耳に届いた後、パタンと小さく扉が鳴いた。